東北地方
関東地方
中部地方
九州地方
データベース
記事写真映像参考文献その他
集落データベースとは?遺村プロジェクトマップご利用運営お問い合わせ板谷
板谷(いたや)は、宮崎県児湯郡西米良村の大字。近世においては、板屋谷村(別名:上板屋谷村)・下板屋谷村・西八重谷村をあわせて板谷村と呼ぶこともあった。また西米良村は村内を9地区に区分けしており、大字板谷はその板谷・八重地区から成っている¹。市房山が近くにあり、板谷川が流れる。近代には、西南戦争の戦場となった。青年訓練所や学校が設立され、教育にも力を入れられた。神社仏閣や伝統文化も豊かで、地域の人々は協力し合う文化を持つ。
地図で見る板谷
地理
板谷の北方には一ツ瀬川最上流の市房山(1722m)がそびえ、地内には支流板谷川が流れている。また西方は熊本県球磨郡に接している²。上板屋の那須家は椎葉の平家討伐の那須大八郎の末裔と云われている³。
地名
板谷
当地は、昔から山間が深く至る処で清水が湧き出た豊かな土地で、栂や欅の巨木が聳えていた。こういった大木を板にして産出する土地柄と、谷川の美しい風景が相まって「板谷」と呼ぶようになったと云う³。
アクソ谷(吉村谷)
板谷字吉村の吉村谷の旧名。文化の節で後述する「柴立て」の伝承から、悪党(山賊)が出没する谷「悪党谷」と呼ばれるようになり、後になまって「アクソ谷」と呼ぶようになった。しかし、近代に入り、この地名では縁起が悪いということで、当時の住民の希望により「吉村谷」に改められた³。
鉾基
鉾基(ほこもと)は、吉村谷の海抜1,000m以上の高台に位置する広大な原野。ここは全方位に見晴らしがよく、尾鈴山・市房山・石堂山・天包山が望め、南方には遠く霧島山韓国岳がみえる。古老によると、西南戦争の際、ここで薩軍が陣を構え、霧島神宮を遥拝して鉾を立て、戦勝を祈願したため「鉾基」と称すようになったという。また、昭和初期まで錆びついた鉾が立っていたらしい。ここは官軍との激戦地であったため、台場が2ヶ所僅かに残っている⁴。
せど野
せど野の地名は、上板屋の中武家の娘が失踪した話に由来する。むかし、中武家は家老の家柄だった。ある夜、そこに仕えていた女中が、家老の娘を外の便所に連れて行った時、行灯の火が消えてしまった。そこで、女中は娘を外に置いたまま家に入り、行灯を灯して外に戻ると娘が居なくなっていた。女中は血眼で探し回ったが、近くの松の木に娘が着ていた着物の袖が残るのみで、娘は見つからなかった。挙句の果てに女中は自殺。その墓が今でも残っていると云う。この出来事で袖があった場所が「袖野」と呼ばれるようになり、やがてなまって「せど野」というようになった⁴。
クロドノ巣
クロドノ巣は、旧板谷小学校から300m登ったあたりを指す。昔、黒い鳥が巣を作っていたため「黒鳥の巣」と称され、後になまって「クロドノ巣」となった⁴。
はらめ淵
旧板谷小学校から2km上流の淵のこと。昔、妊娠した娘が、それを原因にここで身投げしたことに由来する。
ぎおんど(祇園堂)
国道265号祇園橋上流側の屋根に祇園様が祀ってあったことから「祇園堂(ぎおんど)」と呼ばれるようになったと推測されている。1971年(昭和46年)、突如としてこのお堂と祇園様が消えた。地区民によると、台風の風により川に落ちて流れたと云う。その後、国道改良がなされたため、お堂の位置はは現在の国道の真上付近にあたる⁴。
人口
板谷の人口は以下の通り⁵’⁶。
年代 | 世帯数(戸数) | 人口 | 補足 |
1789年(寛政元年) | 194 | 板屋谷村・下板屋谷村・西八重谷村の合算 | |
1883年(明治16年) | 63 | 373 | |
1958年(昭和33年) | 186 | 902 | |
1962年(昭和37年) | 107 | 518 | |
1971年(昭和46年) | 65 | 234 | |
2019年(平成31年) | 63 | 117 | 八重を含む |
1940年(昭和15年)から終戦まで製炭生産が興隆し、西米良村の人口が爆発的に増加。明確な部落別の数字はないが、板谷の人口は1883年(明治16年)の2.9倍だったという。これは西米良村で3番目の増加率だった⁷。
歴史
近世
下板谷に位置する愛宕神社の地蔵菩薩座像に「文化八年辛未十一月日 板屋村 勘米良仁左ェ門 開眼 不動院 宿 小川村 伴吉 越後国大円僧千仏作」とある。この銘から、村所新立寺の僧の大円が当地方に辿り着いたのは、彼が38歳の頃だと推測されている⁸。
近代
西南戦争において、板谷は薩軍の防衛拠点だった。1877年(明治10年)5月28日、薩軍佐土原隊一隊が米良を通過し、江代方面の官軍と対戦。6月1日頃には薩軍は湯前で敗れ米良へ退却。米良には、宮崎本営から鮫島元・阿多壮五郎等が送られ、村所に薩軍本営を設置し、板谷・西八重・上米良・木浦の防衛に当たっていた。6月1日、薩軍が米良へ退却した頃、官軍の別働第二旅団が人吉を陥落せしめた。この旅団の中村重遠中佐が約620人の兵を率い、村所を攻撃。そして、7月12日に官軍は村所を占領した。その後、官軍は小川に集結した薩軍の激しい抵抗により多数の死者を出しながらも、7月22日にようやく小川を占領。薩軍は徐々に佐土原方面へ後退し、西米良村で繰り広げられた西南戦争の一端は幕を閉じた⁹。
1925年(大正14年)4月20日に青年訓練所令が公布され、西米良青年訓練所が村所小学校内に開設された。村所本校の学区は板谷・村所・上米良・横野・竹原¹⁰。
1937年(昭和12年)11月24日、宮崎県知事が県公布をもって、市町村長・中等学校長・男女青年団・小学校長に対し、祖国振興隊の結成を通牒。同年12月23日には宮崎神宮にて約5万人の結成報告祭並びに隊旗授与式が催され、前例のない県民運動にまで発展した。同隊では、「祖国振興隊信条」「祖国日向振興ロ朗誦」を斉唱し、日曜・祭日・休暇に勤労作業を実施。板谷小学校では、5・6年児童により祖国振興隊が組織され、人員は53名に上った¹¹。
1936年(昭和11年)に日本民俗研究所の倉田一郎が西米良村を調査。その際の「採集手帳」によると、板谷の古くからある家系として那須家が挙げられている。
現代
1955年(昭和30年)頃から板谷でも好景気の訪れを感じられ、山の林産物や椎茸などの価格が上昇。当地はそれに合わせ椎茸の仕込み増産が図られた。さらに竹材・筍の需要の増加、立木の価格上昇で造林の機運も高まり、板谷地区の至る所で針葉樹の植林が行われた¹²。
1971年(昭和46年)8月5日、当地方を台風が襲い、大雨により山瀬谷が崩壊し、土砂が川に流れ込み氾濫。これにより八重地区の家屋1棟と田畑が流失した。現在は山瀬谷に水防ダムが設置されている¹³。
神社仏閣
御大師堂
御大師堂は、八重地区の横谷付近に位置する堂。村所新立寺の大円が作った大師座像が安置されていた。昭和初期の県道開設に伴い、対岸にある現存の旧堂の場所に移された。現在の大師堂は、1994年(平成6年)に有志により移転されたもの。1950年(昭和25年)頃、バス停留所増設に伴い、周辺の地名を「御大師」とした⁴。
吐合地蔵
吐合地蔵は、1934年(昭和9年)6月に板谷の上米良徳松の発起により建立された地蔵。毎年春の彼岸中日に、吐合部落民で地蔵祭りを行なっている。1955年(昭和30年)頃、竹元谷上流の桃の木谷にあった御大師を吐合部落民が地蔵の横に移転している⁴。
教育
板谷小学校
1881年(明治14年)9月、村所小学校板谷分校として、民家を教室に充てられ開校。翌年5月には大字板谷字大王鶴に新築移転。1888年(明治21年)3月、教育令実施に伴い独立し板谷簡易小学校に、その4年後には小学校令により尋常小学校に改められた。1898年(明治31年)11月に尋常補習科が設置されるが、1901年(明治34年)7月に村所小学校に高等科が設置され尋常補習科は廃止される。また、同時期に字鶴瀬に新築移転している。1941年(昭和16年)4月、小学校令改正に伴い板谷国民学校に改称。しかし、終戦後の1947年(昭和22年)に板谷小学校に改められ、2年後には西米良中学校板谷分校が併設された¹⁴。1979年(昭和54年)4月1日、分校時代から数えて約98年の歴史に幕を閉じた¹⁵。
交通
昔、板谷地内を玖磨往還が通っていた。東で接する村所村境から約11km(2里28町22間3尺)で、西の玖磨郡湯前村境に至った。ただ、所々岩がそり立っている危険な道のため、牛馬の通行は困難だったという¹⁶。
自動車道路が開通するまでは、「駄賃馬引き」が荷物の輸送を行われていた。当時、駄賃馬引きが、生活用品・木炭・椎茸・梶類・筍などの大きい荷物を馬の背に積み運んだという¹⁷。
1931年(昭和6年)以前まで、板谷が東で接する村所から西の県境までの約3里(約11.7km)が未開発だった。これが林産物輸送の障害となっていたため、同年に妻(西都市)ー人吉間工事が着工された。1937年(昭和12年)になると、県は妻-湯前間の省営バス(国鉄バスの前身)の運行を計画。さらに、1942年(昭和17年)6月17日、西米良村長児玉金元は湯前町長に対し、湯前-村所間の省営バス運行の運動を始めた。その後、人吉方面の各町村長の同意を得て、1944年(昭和19年)12月1日、妻-湯前間の省営トラックが運転されるようになった。 戦後、1946年(昭和21年)6月1日に村所-湯前間、同年11月1には妻-湯前間の国鉄バスが開通。1961年(昭和36年)3月25日からは鶴瀬-日向折戸間を走る支線の板谷線運行が始まった。(西米良村史 599-560)村所-湯前間で板谷地内にあったバス停は、東から鶴瀬・板谷堰堤・下相谷・柚谷・相谷・八重・吐合・下屋敷・杉良谷・荒谷・栂木・御大師。また板谷線のバス停は、鶴瀬から板谷校前・下板谷・板谷公民館前・上板谷・大薮谷・行地谷・日向折戸だった¹⁸。
文化
神楽
西米良村では、児原稲荷・米良神社・村所八幡・挟上稲荷で毎年神楽が奉納される。一方、板谷山之神神社・上米良本山神社・横野産土神社・竹原天満宮では2~3年おきに奉納される。板谷山之神神社の奉納日は12月28日¹⁹。
シバトコ
板谷からみて北にある椎葉地方では、人が変死した跡地を死者の名前を冠して「〇〇シバトコ」と地名にする風習がある。また、ここを通る者は柴を折って捧げる。ここからも近い板谷でも、地内の八重で金持ち「かじどん」を殺して柴を被せて逃げた者がいて以来、板谷でも同様な風習があるという²⁰。 また、板谷字吉村の吉村谷の山奥、尾根伝いの中腹に「柴立て」という地名がある。古老によると、むかし球磨郡へ向かっていた僧がここで山賊に襲われ殺される事件があったという。山賊がその死体の上に柴を切って被せて道端に捨てて以来、僧の亡霊がでるようになった。そして、ここを通る時は柴の木を道に立てて僧を供養する習わしができた。「柴立て」は板谷から一里山峠を越え、旧横谷峠に通じる道にある。昔は馬でも通れた道だったが、現在は草木が繁ており道跡の判別が難しくなっている³。
陸軍曹長故桐山茂市氏を讃える歌
八重地区には、1933年(昭和8年)4月10日に満州事変に出征し、満州で戦死した桐山茂市を讃える歌が残っている。歌は以下の通り²¹。
1.山麗しくて水清し わが里見おろす市房の 秀峰雄姿を 眺めつつ 雄々しく育ちし桐山氏 2.学びの道にもいそしみて 兄弟仲良く父母に孝 友だち交わりいやあつく 模範と仰がれ卒えらるる 3.ときしも起るや満州に、 匪賊の横暴静めんと 大命下りて勇ましく 軍隊率いて奮戦す
てごり
てごりは、集落民の相互に協力し労力を交換する相互扶助文化。「結」ともいう²²。
板谷地区
板谷地区では、豪雨災害時・田植え・山の焼畑作り・焼畑の種まき・茅屋根替え時にてごりが求められた。とりわけ、豪雨により河川沿いの田畑の石垣などが決壊した時に活躍した²²’²³。
八重地区
「茅屋根の葺き替え・修理」では、茅の運搬や棟替え作業は各戸男子1名が出され、茅切り・屋根葺きは男女とも出た。「屋根替え」「葬式」は、男女1名ずつ道具持参で出された。昔は、葬式に出る時は白米1升を持ち寄った。また、「火災」の際は炊き出しが随意行われた²³。
瓦屋根替講
昭和30年代に入り、地区内で旧来の茅屋根から瓦屋根に葺き替える気運が高まった。そこで瓦屋根替講が発足し、毎年1戸ずつ本家と馬屋が瓦屋根に替えられた。講金として、講中1戸あたり10坪分のその年の瓦代金が出資された。また、屋根普請に必要な材木の搬出作業など、各戸の人夫の負担も決められた。板谷地区の瓦屋根替講は、15年かけ全戸の屋根替えを完了し解散された²³。
産業
農業
1936年(昭和11年)9月14日、西米良村農業共同組合が設立。創立当時の板谷部落の加入人員は35名で口数は136口だった。当時の購買品はゴム足袋・学生服・石油・石鹸類・肥料・そうめん・傘・家庭薬で、販売品は椎茸やコンニャク、栗。その後、1944年(昭和19年)3月11日、農業団体法第89条により西米良村農業界設立総会を開催。1948年(昭和23年)3月13日には、西米良村農業会の解散総会が催され、同年5月19日、西米良村農業協同組合として再発足。7月14日時点で板谷部落の53名が出資(口数81)し、総出資額は8,100円上った。一時、西米良農協は赤字経営が続き存続が危ぶまれたが、農協再建が西米良村財政に繋がると重要視され、1954年(昭和29年)の村会で村有林を売却し、農協へ助成金300万円・預託金200万円を援助することが決定。これにより、信連の債務の80%を返済することができた。そして、1959年(昭和34年)5月21日、総会にて利益金603,000円を挙げるまでに至った。昭和30年度末の八重を含んだ板谷部落の組合員数は95人に上り、加入口数は1208口だった。当時の組合員数は西米良村の中で2番目に多く、加入口数にいたっては部落別で最も多かった²⁴。
林業
むかし、板谷には「出し山師」という職業があった。出し山師は、仲間と協力し山で伐採した用材をツルと鉤を用いて木馬道まで集める。また作業中は威勢の良く歌うという。しかし、集材機の発展により、出し山師は失くなってしまった¹⁷。
矢田製材所
矢田製材所は、1909年(明治42年)に開業し、大正末期まで操業された水車式製材所。操業期間かそれ以前に、松根を焼いて煤を集める小屋が建てられていた。当時の名残として、「松煙小屋」という地名がある⁴。
漁業
地内を流れる板谷川や本流の一ツ瀬川は、淡水魚に恵まれ鮎やイダ(ウグイ)などが村民により漁獲されていた。そのため、1953年(昭和28年)には西米良村漁業協同組合が設立され、その頃の板谷部落(八重を含む)の組合員数は48名だった。また板谷川の推定漁獲量(昭和33年度)は、鮎398kg・イダ82kg・その他47kg。尚、板谷川で漁獲する組合員数も48人のため、同川で獲っていたのは板谷部落民のみだったと考えられる。このように川で獲れる水産物が板谷の人々にとって重要な資源だった。しかし、1941年(昭和16年)以降続いた発電所の建設や河川の荒廃により、自然遡上と繁殖が激減し、漁獲量は年々減少。そのため、鮎や鰻は放流以外に繁殖・漁獲は望めなく、昭和33年度には鮎や鰻など計400,400尾を放流している²⁶。
人物
浜砂 カネ
浜砂カネは、「大正徳公録」で表彰された人物。1925年(大正14年)、大正天皇・皇后両陛下の御結婚25周年の祝儀にあたり、全国の徳行が卓絶した者を表彰。その善行美徳を後世に伝えるため「大正徳公録」が発行された。全国の309名がこの表彰を受け、その1人がカネであった。カネは、1872年(明治5年)に板谷の上米良儀八の3女として誕生。21歳で板谷の浜砂伝蔵に嫁いだ。しかし、1909年(明治42年)に夫が亡くなり、6男3女の子供と両親を養う必要に迫られた。そういた苦境に立たされたカネであったが、1924年(大正13年)に至るまでに、亡夫の負債を返済するだけでなく3町余りの土地を購入。また、両親の世話をする傍ら、9人の子供を成人させた。1942年(昭和17年)5月28日に亡くなった。享年69歳²⁷。
上米良義夫
上米良義夫は、板谷出身の政治家。西米良村長・宮崎県会議員を歴任した。1915年(大正4年)に宮崎農学校を卒業後、蚕業技術員を経て、1917年(大正6年)、熊本野砲兵第6連隊に入隊し、少尉を任命された。その後、郡是製糸会社(現:グンゼ株式会社)で宮崎工場長などを務め上げ、1947年(昭和22年)4月に西米良村長に当選。さらに同月30日の第1回地方議会議員選挙で児湯郡から出馬し、県会議員に当選した。県会では土木部委員で活躍したものの、翌年4月14日に現職中に病死。享年50歳²⁸。
那須 義熊
那須義熊は、板谷出身の政治家。1925年(大正14年)に湯前小学校高等科を卒業後、1927年(昭和2年)1月、現役志願兵として都城歩兵第23連隊に入隊。終戦により復員し、農業をする傍ら、県民生委員・西米良村農業委員・西米良村農業協同組合長などを歴任。その後も西米良村会議員として、議長・副議長を務め上げた。1960年(昭和35年)2月に日本消防協会長から功労賞、1967年(昭和42年)10月には県知事より顕彰状を授与され、続く1968年(昭和43年)2月、消防永年勤続、藍綬褒章を受けた。そして、1971年(昭和46年)12月20日、西米良村は名誉消防団員第1号の称号を贈呈した²⁹。
伝説
当地方は、むかし、勢力を失った肥後の菊池氏が米良山に入山し、米良氏と名乗り統治された地域だった。近世までは地理的不条件で不自由な暮らしを強いられたが、近代に入ると林業など山仕事が増加。そのため、当地方には山仕事を生業とする多くの人々が暮らしていた。こうした村人達の間で、伝承として多く残るのが「かりこぼう」についての話だ。 「かりごぼう」は「せこ」とも称し、「かりこ」とは「狩子」のことで獲物を駆り出す人にあたる。同様に「せこ」も「勢子」にあたる。よって、「かりこぼう」の語源は、「うみぼうず(海坊主)」のニュアンスに近い。また、米良山のかりこぼうは、昔から春の彼岸から秋の彼岸までは水の中に住み、秋から春にかけては山で住むといわれ、水で生活している時は「がっぱ(河童)」と呼ばれていた。更にそれぞれ違う呼び名を持ち、「かりこぼう」は「やまんたろう(山の太郎)」、「がっぱ」は「がわたろう(河太郎)」と称され、山と川の1番の大将という認識でもあった。よって、当地方において「かりこぼう」「がっぱ」は、山の人々にとって山神・水神様として恐れられる対象である一方、時には親しみのある自然界の人気者であった。 当地方では、この「かりこぼう」「がっぱ」に関する伝説・伝承が残っており、板谷に関するものを1つ挙げる。
おおにんずうじゃった
明治時代、板谷に浜砂長太郎という行者がおり、若い頃に修行を積み、氏祭りや祈祷、葬式を頼まれていました。長太郎が19歳、1892年(明治25年)頃のこと、師匠の使いで御幣紙を買いに行くことになりました。ただ紙屋が遠方だったため、戻る頃には太陽は山の頂上に位置し、徐々に暗くなっていきました。もうすぐで戻り着く処まできたので道端の石に腰を下ろしてゆっくり休んでいると、後ろの上の方で、「ドスン、ドスン、すてすてん、ドドスットン」と聞こえ「あいた。こらぼくじゃ(大変だ)。石がくっど」と、慌てて長太郎は立ち上がり、振り返りましたが何も起こっていません。気色悪くなった長太郎は、「かりごぼう」が自分を試そうといたずらしてるのだ、と案じて急いで帰路につきました。やっとのことで村が見える辺りに着くと、道の先で大勢の喋り声が聞こえてきました。長太郎は耳を澄ませると「がやがやがやがや、がやがやがやがや」と聞こえるのですが、何を話してるのかは分かりませんでした。不審に思った長太郎は、かりこぼうずの仕業だと思い、その場で座り込みました。すると先の下の方から「がさがさがさ。がやがやがや。がさがさがやがや」と聞こえ、そうこうしてるうちに、かりこぼうずが道を横切り尾根を登り始めました。道を通り終わるまでは「がやがや、がやがや」と話し、「がさがさ、がさがさ」と言い登っていったそうです。びっくりした長太郎は、やっとのことでその場を通り抜け、師匠の家に着くと、事の顛末を話しました。すると師匠は「もうすぐ免状が渡されるので、せこどん(かりこぼう)に試されたのだろう」と言いました³⁰。
この他に「先生もう1人いたよ」などが、かりこぼうに関連する伝説として残っている。
脚注
出典
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会.角川日本地名大辞典 45 (宮崎県) .角川書店,1986,p.108.
- 西米良村史編さん委員会.西米良村史.西米良村,1973,p.1-2.
- 西米良村教育委員会.ふるさと探訪.西米良村教育委員会,2001-03,p.7.
- 西米良村教育委員会.ふるさと探訪.西米良村教育委員会,2001-03,p.8.
- 西米良村史編さん委員会.西米良村史.西米良村,1973,p.222,p.562,p.568.
- 西米良村.”住民基本台帳人口(平成31年2月1日時点)”.西米良村公式サイト,2019-02-01,https://www.vill.nishimera.lg.jp/village/wp-content/uploads/2018/12/54d491ab2b5d0d56b5ee710d047fa682.pdf,(参照 2023-12-22).
- 西米良村史編さん委員会.西米良村史.西米良村,1973,p.567.
- 西米良村史編さん委員会.西米良村史.西米良村,1973,p.342.
- 西米良村史編さん委員会.西米良村史.西米良村,1973,p.496-500.
- 西米良村史編さん委員会.西米良村史.西米良村,1973,p.763.
- 西米良村史編さん委員会.西米良村史.西米良村,1973,p.768-772.
- 西米良村教育委員会.ふるさと探訪.西米良村教育委員会,2001-03,p.27.
- 西米良村教育委員会.ふるさと探訪.西米良村教育委員会,2001-03,p.24.
- 西米良村史編さん委員会.西米良村史.西米良村,1973,p.783-784.
- 西米良村“西米良村勢要覧-資料編-”.西米良村公式サイト,2017-05,https://www.vill.nishimera.lg.jp/village/wp-content/uploads/2017/05/9c92708796b8f2e27cf5150f2aee0ef7.pdf,(参照 2023-12-22).
- 平部嶠南.日向地誌.日向地誌刊行会,1929,p.720.
- 西米良村教育委員会.ふるさと探訪.西米良村教育委員会,2001-03,p.29.
- 日本国有鉄道九州地方自動車部.西米良村史 収録 肥後線図.日本国有鉄道九州地方自動車部,1971-07-01.
- 西米良村史編さん委員会.西米良村史.西米良村,1973,p.854.
- 西米良村史編さん委員会.西米良村史.西米良村,1973,p.797.
- 西米良村教育委員会.ふるさと探訪.西米良村教育委員会,2001-03,p.9.
- 西米良村教育委員会.ふるさと探訪.西米良村教育委員会,2001-03,p.38.
- 西米良村教育委員会.ふるさと探訪.西米良村教育委員会,2001-03,p.42.
- 西米良村史編さん委員会.西米良村史.西米良村,1973,p.573-576.
- 西米良村教育委員会.ふるさと探訪.西米良村教育委員会,2001-03,p.29.
- 西米良村史編さん委員会.西米良村史.西米良村,1973,p.593.
- 西米良村史編さん委員会.西米良村史.西米良村,1973,p.732.
- 西米良村史編さん委員会.西米良村史.西米良村,1973,p.736.
- 西米良村史編さん委員会.西米良村史.西米良村,1973,p.738.
- 中武雅周.夜話 かりこぼう.鉱脈社,2017,p.76-82.
参考文献
タイトル | 著者・編集者・編纂者 | 出版社 | 出版年 | ページ数 | 所蔵図書館・利用図書館 | 資料の種別 | URL(国会図書館サーチなど) | 集落記事 | Tags | 注記 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
「角川日本地名大辞典」編纂委員会 | 角川書店 | 1986 | 1130 | 図書 | 中尾小川板谷 | |||||
西米良村史編さん委員会 | 西米良村 | 1973 | 1162 | デジタルコレクション | 小川板谷 | |||||
中武雅周 | 鉱脈社 | 2017 | 177 | 図書 | 板谷 | |||||
西米良村教育委員会 | 西米良村教育委員会 | 2001 | 西米良村役場 | 図書 | 板谷 | |||||
平部嶠南 | 日向地誌刊行会 | 1929 | 1620 | デジタルコレクション | 板谷 |