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その他
地理
子撫川の西側に位置する嘉例谷は、小矢部市の北西部に広がる丘陵性山地にある。この地域は軟弱な砂岩と泥岩で構成されているため、峠や論田、荒間と同様に、馬蹄形の緩斜面を持つ地すべり地形が特徴である。また、そこが水田化され、部落もその周辺に所在し、多くの溜池が見らる(小矢部市史 上巻 5)。
地名
嘉例谷は、水の枯れやすい土地だったことから”かれいだん”という地名になったとされている。また、『小矢部市史 上巻』には400〜500年前まで下山部落にいたのが、のちに現在地に移り住んだという旨が記されている。(小矢部市史 上巻 303)
- 小矢部市史 上巻 17
小字
歴史
(小矢部市風土記 282-)
中世
『小矢部市史 上巻』では、市内にある室町時代以前の石造物として、嘉例谷八幡宮の五輪塔(部品数個)と嘉例谷地内の五輪塔(部品)が挙げられている。(小矢部市史 上巻 232-233)
近世
天明七年(1787年)、近世の農学者である宮永正運は、公用で南谷から宮島・西明寺方面の山村を視察した。その視察の紀行文である『春の山路』には、嘉例谷の産神八幡宮を訪れた際に詠まれた以下の和歌が記されている。(小矢部市史 上巻 695-696)
山ふかくわけ入りうさも恵みあれや あふくに高き神のみしめは
嘉例谷に所在する神社として、『正徳社号帳』には八幡(百姓持)、明治13年に編まれた『神社明細帳』には八幡宮とそれぞれ記されていた。また、小矢部市史発刊当時の八幡宮の奉仕者は埴生知麿だった。(小矢部市史 上巻 791)
(小矢部市史 上巻 438)
(小矢部市史 上巻 545)
(小矢部市史 上巻 578,591)
(小矢部市史 上巻 660)
(小矢部市風土記 59,65)
近代
(小矢部市風土記 84)
嘉例谷の行政区の変遷
(小矢部市史 下巻 22-)
日露戦争後、富山県内の壮丁教育調査によると、6165人のうち465人が無学者であった。これを受けて、明治四十一年(1908年)に富山県から発された訓令に基づき、青年団体の組織が奨励され、農閑期や適当な季節に夜学会を開設して補習教育を施し、青年の修養機関とする方針を打ち出された。この努力の一環として、大正元年(1912年)に嘉例谷村青年会が創立された。(小矢部市史 下巻 362-364)
現代
(小矢部市 市政40周年 121)
(小矢部市 市政40周年 185)
文化
当地方では、土用の三番前後には、各地区で虫送りぼんが行われ、農作物を害虫から守るための祈願が行われる。嘉例谷では、土用の三番の日に虫送りぼんが行われ、晩方に左義長を焼く。(小矢部市史 下巻 517)
神社仏閣・名所
八幡宮
八幡宮は嘉例谷に鎮座する村社。所在地は嘉例谷字大坪1173番地。祭神は誉田別天皇(命)。(小矢部市史 上巻 817)
三国山社
三国山社は、嘉例谷に鎮座する村社。所在地は、嘉例谷字池田893番地。祭神は贈従二位権大納言菅原朝臣利長(小矢部市史 上巻 818)
交通
昭和二十八年(1953年)から、石動駅より南谷を経て石川県河合谷村へ加越能バスが運行していた。その後、河合谷行は中止され、バスは嘉例谷までの運行となった。現在、嘉例谷にはメルバスが運行している。メルバスは、石動駅を中心に市内各地域へ放射状に伸びる5路線を敷設しており、全路線が石動駅に接続している。これにより、駅であいの風とやま鉄道や加越能バス、北陸中央病院の送迎バスなど、他の交通機関に乗り換えが可能である。令和5年(2023年)7月からは、休日のメルバスの運行を休止し、AIを活用した区域運行型のオンデマンド交通「チョイソコおやべ」の段階的な実証運行が実施されている。これにより、AIオンデマンド交通を主体とした運行形態への転換が行われている。(小矢部市史 下巻 274-275)(https://www.city.oyabe.toyama.jp/kurashi/1002393/1002395.html)
地内のバス停は以下の通り。
- 嘉例谷口
- 嘉例谷
(小矢部市 市政40周年 243)
教育
(小矢部市史 下巻 285-)
(小矢部市風土記 110-,142)
(小矢部市 市政40周年 185)
産業
(小矢部市 市政40周年 269)
(小矢部市 市政40周年 285)