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古城
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その他

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古城

古城(ふるじょう)は、熊本県菊池郡大津町の大字。地内には縄文時代早期から後期にかけての中後迫遺跡があり、多くの遺物が発掘されている。1535年(天文4年)に「古城越中守」という武士が記録されており、中世城跡「古城村城」も存在していたとされている。村高は主に畑によるもので、近世には細川忠利の給人制度があった。また、古城には薬師堂や古城神宮などの歴史的な神社仏閣がある。

古城部落の全景
古城部落の全景

地図で見る古城

地理

小字

古城の小字は以下の通り¹。

下後迫
西原
中後迫
上後迫
東迎鶴
一番東原
二番東原
三番東原
四番東原
五番東原
六番東原

歴史

縄文時代

中後迫遺跡

中後迫遺跡は、地内の字中後迫、現九州電力熊本系統開閉所敷地の南部分に位置する縄文時代早期〜後期の遺跡。敷地内の遺跡はA〜D区に分けられており、A区は1978年(昭和53年)3月から5月にかけて発掘調査が行われた。また、B区で遺構面が露出したもの工事に直接関わらないため埋め戻され、C・D区はそのまま保存されている。A区の調査で地山のローム(赤土)層まで8つ層の堆積が確認され、そのうちⅢ層(暗黄褐色土)からⅣ層(黄褐色土)にかけて縄文後期の生活面と一部縄文前期の遺物が確認された。更にⅤ層(暗褐色度)〜Ⅵ層(黒色土)上部で縄文早期の遺構及び遺物が検出された。尚、縄文後期の遺物は調査の及んでいないB区まで広がっていた²。 発掘調査で確認された縄文早期のものは、集石遺構・炉穴・ピット・土壙(どこう)などが確認され、多数の土器・石器などの遺物が出土した。 中でも集石遺構は24基確認されており、この規模は熊本県内で最も多く、九州全域でみても最大規模の遺跡といえる。ここで出土した土器は、縄文早期に日本列島に広く分布していた「押型文土器」を中心とする一方、少量ではあるが南九州独自の円筒土器の1つ「塞ノ神式土器」が19点確認されている³。また、縄文前期の轟式・曾畑式土器が少量確認され、中期のものでは阿高式の小さな破片が一片だけであるが出土している⁴。更に、縄文後期の北久根山式・辛川Ⅰ式・辛川Ⅱ式が発掘調査の際に発見された⁵。ここまでは主にA地区についてであったが、C地区でも上面の観察により後・晩期の包含層が認められている。尚、上述の通り工事に直接関わらなかった場所のため発掘調査は行われていない⁶。縄文時代の晩期後半になると弥生文化の波が押し寄せたのか、縄文遺跡が多く確認された当地方でも遺跡の数が少なくなる。そんな中でも中後迫遺跡では、晩期中頃の黒川式とそれらしき遺物が10点ほどが『中後迫遺跡調査報告』で図示されており、晩期後半の山ノ寺式・夜臼式もわずかに出土している。このように古城の中後迫遺跡では縄文初期から晩期に至るまで多くの遺跡・遺物が確認されており、これがこの時代の人々が長きに渡り暮らしていたことを物語っている⁷。

中世

「天文4年(1535年)乙未写取」と肩書のある『厳照寺文書』に、「古城越中守」と当地名を苗字とする武士が記録されている。これは当地方の小領主が縁のある地名を苗字としていたと推測されている⁸。

古城村城跡

『肥後国誌』と『古城考』に記載された大津町内の中世城跡は4つあり、その1つに「古城村城」が挙げられている。古城集落の南東に位置する比高70〜80mの小山が城跡地と云われている。現在は竹林地で平坦地もなく、遺構は何も残っておらず、山の斜面も自然地形のまま。地元の古老によると、「城の井戸」と呼ばれた湧き水地が山の南斜面にあったが、明治30年頃の地震によりその水源が枯れたという。城跡地の南縁を通る凹道の片側には、空堀のような幅1.5〜2mの土盛りがある。しかし、これは二重峠へ続く山越道の跡で、近郷の真木への抜け道でもあったという。周辺には城跡にまつわる地名が見られる。城跡北東側の山は「立見」と呼ばれ、麓を流れる平川の河床にある大岩は「槍返し」という。また北方の山は、山に立つと周辺の6つの城を眺めることができたという伝承から「六城野(むしろの)」と呼ばれている。他の言い伝えによると、「隣の村の真木とは、いつも戦をしていた」という⁹。

近世

1634年(寛永11年)の『肥後国郷帳』によると、古城村の村高は80石5斗3升2合。近世に入っても水田開発の余地がなかったため、村高の全てが畑によるものだった¹⁰。

細川忠利の肥後入国後、1633年(寛永10年)10月、家臣達へ知行が当てられた。知行地を割り当てられた給人(家臣)は、その知行地を支配し年貢・夫役・雑税を徴収した。尚、給人は城下町に邸宅を与えられそこで職務にあたっているため、常時知行地にいたわけでなく、代官や身内の者を派遣し管理していた。1708年(宝永5年)、当時は牧左学相久が古城村・中窪田・真木の給人だった。また、文化年間(1804年〜1817年)の給人は、牧新吾が同じ3ヵ村を知行地としていた¹¹。

地内の田畑
地内の田畑

近世における地方役人の1つに、郡代の支配下で藩所有の立山・藪などの管理や植林に従事する「御山支配役」があり、これは惣庄屋と同格の役職だった。1756年(宝暦6年)までは山奉行と称していたが、同年から御山支配役と改められた。また御山支配役は惣庄屋との合議により、藩有林の見回りや植林に務める山口(やまのくち)を人選・任命をしていた。1790年(寛政2年)の古城村の山口には惣右衛門が当たっていた¹²。

1812年(文化9年)、古城のタブの木谷を水源とした水道が設けられた。この水道は南西の高尾野を経て大津に達した¹³。

豊後街道

堀ヶ谷参勤道(豊後街道)
堀ヶ谷参勤道(豊後街道)
七里木跡地
七里木跡地

近世の肥後において、主要街道では通行人の目印になるよう1里(約4km)ごとに木札や木が植えられており、古城村を通った「豊後街道」も例外ではなかった。熊本新1丁目札の辻を起点とする豊後街道は、街道沿いは杉並木が形成され、1里ごと道の両側に榎が植えられ「◯里木」と目印になっていた。このうちの「七里木」が地内の古城峠あった¹⁴’¹⁵’¹⁶。また、交通量の多かった豊後街道では、人里離れた場所で旅人に草履やわらじなどを提供する出小屋が設置されていた。大津町域では寛政年間に5カ所設けられいて、その1つが1790年(寛政2年)に古城村の堀ヶ谷に設けられた籠数2軒の出小屋で、もう1つが峠中小屋(籠数5軒)だった。また峠中小屋は、寛政の三奇人の1人高山彦九郎の日記に残る「下夕の小屋」であると推測されている¹⁷。

近代

西南戦争と農民一揆

1877年(明治10年)に起こった西南戦争は、近代日本における最大かつ最後の内戦だった。戦争の舞台は広範囲に渡り、熊本をはじめ大分・宮崎・鹿児島県の民衆が巻き込まれた。2月22日、西郷隆盛等率いる薩軍が熊本城への総攻撃を仕掛けると、敵対する熊本県庁は熊本区を離れ、御船・木山・山鹿・南関と退くように転々と移動した。そのため行政機関が機能しなくなると、これに乗じて各地の農民が戸長などの役人に対し民費・地租改正費の不正追求の交渉を開始。さらに地主や高利貸に対しても小作料・利子の引き下げの集団交渉を行った。こうした運動は1〜3月にかけて熊本県全域に広がり、参加者は3万数千人ほどの規模に拡大した¹⁸。大津地方では、2月下旬から3月上旬にピークを迎えた阿蘇谷の激しい打ち壊しから影響を受け農民運動が始まった。民衆は、戸長への帳簿焼き捨てをかかげ民費軽減・不正追及を要求。また、高利貸へは借金棒引きや利子引き下げの交渉のため集団行動に移った。3月5日には古城などの第3小区の村々から百姓700人余りが平川村字御所原河原に集結し、戸長や高利貸に圧力をかけた。高利貸との交渉の末、百姓の利子引き下げは成功し、3月10日頃には騒ぎが穏やかになった。この運動の参加者は、後日、罰金等の処罰を受けたと思われるが、その史料が確認されてないため詳らかとなっていない。尚、薩軍が大津滞在中にこの一揆が起きたのだが、薩軍に直接影響を受けて起こったものではなかった¹⁹。

明治10年代初めに熊本県によって調査され、内務省地理局に提出された「郡村誌」のうちの「合志郡村誌」から明治前期の古城村の様子がわかる。当時、戸数は58戸(平民のみ)と村社1座(古城神宮)の計59戸で、人口は男142人・女129人の計271人。また民業は農業49戸・旅籠屋6戸だった。牛馬の数は牡牛25頭・馬22頭。物産には、牛子・馬子・野稲米・大豆・裸麦・大麦・小麦・粟・稗・蕎麦・甘薯(さつまいも)・大根・菜種・煙草・薪・鶏卵が挙げられ、質が良くないものもあったが管内や他県に輸送されていた。 地内を流れる古城川は、広い所で7間(約4m)狭い所は4間(約2m)ほどの規模で、普段は水がなく、雨が降り続いたり大雨の際に川が流れたという。そのためか、水利は不便で時には水害や旱に苦しんだとある。また二重峠の西南部分が古城村に属し、嶺上から東が阿蘇郡車帰村に属していた²⁰。

古城川(谷川)
古城川(谷川)

1888年(明治21年)4月25日、政府は「市制町村制」を公布し、翌年4月1日から施行。当時、7割の町村が戸数1000戸以下の小規模町村だったと云われ、こうした背景から自立した地方団体を作る必要があり、全国で大規模町村合併が行われた。これにより、1889年(明治22年)4月1日、古城・真木・平川が合併し平真城村が発足され、1956年(昭和31年)に大津町が誕生するまで古城は平真城村に属した²¹。

共有林払下の石碑
共有林払下の石碑

1899年(明治32年)、政府は国有林野下戻法が発布。同年には大津外十ヵ村山林原野組合が設立され、元合志郡の山林原野の造林事業に当たった。尚、発布の際に入会地などの下戻申請が行われ、1905年(明治38年)2月、下戻しを受けるに至った。1912年(大正元年)8月16日、関係する11町村と地上権が設定され、組合と町村の歩合が2:8と決まった。大津町でも町有林の育成に力が入れられ、1917年(大正6年)から1949年(昭和24年)にかけて6回の植樹事業が行われた。そのうちの第1〜4回が古城で行われた。この植樹に生育した樹木は、第二次大戦後に中学校建築や小学校のプール建設、町営住宅建築などの財源に充てられた。古城での植樹事業の詳細は下記のとおり²²。

事業年月
住所
面積
桧(本)
杉(本)
松(本)
備考
1917年(大正6年)2 月
平真城村大字古城字六番東原
43町歩
153,700
300
300
1924年(大正13年)2月
同上
15町歩
49,370
皇太子殿下の御成婚記念の植林
1926年(大正15年)
平真城村大字古城字六番東原(タブノ木上)
10町歩
32,400
1931年(昭和6年)
平真城村大字古城字三番東原
11町5畝28歩

1915年(大正4年)、熊本県が養蚕組合奨励規定を定められると、水田稲作に適さない土地で農作物も少なかった旧平真城村の東部(古城、真木)と西部で養蚕組合が設立された²³。

古城地区集会所
古城地区集会所

神社仏閣・名所

古城神宮

古城神社
古城神社
古城神社の絵馬
古城神社の絵馬
境内の猿田彦大神
境内の猿田彦大神

古城神宮、通称「大王宮」は景行天皇巡幸の際の行在所の跡地との伝説が残る場所。近世の頃からあり、『肥後国誌』『国郡一統誌』では「山大王社」と称されている。祭日は11月16日で、祭りの受け前は古城と米山の人達が交代で行っている。戦前までは座祭りや節頭渡しが行われていた。当前(座元)と助三人による料理作りが行われ、「力量鉢」と呼ぶ大杯で行われる節頭渡し、また御幣・祭具・餅33個に米を添えて、次の座元の家まで笛や太鼓を奏でて送る行列があった。現在は組の一同で準備から始めている。主に古老たちが神殿の飾り付けを行い、男衆が注連縄の張り替えをし、女衆は拝殿や境内の掃除をして、その他にも神宮持ちの山や道の草刈りなども行われる。さらに、谷川の水神・山神・神木などにも注連縄を張り、御幣を祀って、供え、ようやく神社で神事が催される。幼女による「浦安の舞い」の奉納のあと、直会が行われ、夜には真木の神楽が奉納される²⁴。

千人塚

千人塚(五人墓)
千人塚(五人墓)
塚上にある五輪塔跡
塚上にある五輪塔跡

千人塚は、地内のモチの大木の下にある大きな塚。塚の頂上には5つの五輪塔が埋もれていて、『平真城村誌』では、主たる塔石を鎌倉時代初期の古城の始祖「斉藤尾張守実高」の墓と紹介されている。当地方の地誌『合志川芥』では、「五人墓」と記されている。尚、五輪塔などの石造物の詳細な年号は不明。伝承によると、大きな塚の周辺には小さな塚は、南北朝時代、菊池一族と北朝郡がここで戦った際の死者を弔った墓だと云う²⁵’²⁶。

古城天神

古城天神は、古城神宮の横に位置するタブノキを神木として祀るもの。上述の通り祭りの際には、古城神宮の後に注連縄が張られ、御幣を立てられ、御神酒が備えられる²⁷。他にも神木が3本あり、神宮の下を流れる谷川筋に椎木の「七郎さん」と「モトヤマサン」の2本、さらにその川下の岸にある榎の大木を「山の神」として祀られている²⁸。

山神

古城の山神は、東西の山それぞれある。東の山神は古城神宮の裏山に石碑が祀られ、西の山神は集落下の谷川沿いの木に祀られている。古城天神と同様に、古城神宮の祭りの際に注連縄などが張られる²⁹。

薬師如来

薬師堂
薬師堂
不動明王と薬師如来
不動明王と薬師如来

地内の公民館脇にある薬師堂に祀られている。木造・坐像。左の厨子には不動明王が2躰ある。また古い「古城庵」と書かれた板額もある³⁰。

地蔵菩薩

地蔵菩薩
地蔵菩薩

村の入り口の路傍にある木造のもの。荒削りで虫食いがひどい状態だという³¹。

脚注

出典

  1. 大津町史編纂委員会編纂室.大津町史.大津町史,1988,付録p.5.
  2. 大津町史編纂委員会編纂室.大津町史.大津町史,1988,p.60.
  3. 大津町史編纂委員会編纂室.大津町史.大津町史,1988,p.60-67,p.70.
  4. 大津町史編纂委員会編纂室.大津町史.大津町史,1988,p.74,p.77.
  5. 大津町史編纂委員会編纂室.大津町史.大津町史,1988,p.81.
  6. 大津町史編纂委員会編纂室.大津町史.大津町史,1988,p.89.
  7. 大津町史編纂委員会編纂室.大津町史.大津町史,1988,p.96-97.
  8. 大津町史編纂委員会編纂室.大津町史.大津町史,1988,p.212.
  9. 大津町史編纂委員会編纂室.大津町史.大津町史,1988,p.308,p.312-313.
  10. 大津町史編纂委員会編纂室.大津町史.大津町史,1988,p.377,p.528.
  11. 大津町史編纂委員会編纂室.大津町史.大津町史,1988,p.461-468.
  12. 大津町史編纂委員会編纂室.大津町史.大津町史,1988,p.581.
  13. 大津町史編纂委員会編纂室.大津町史.大津町史,1988,p.1127.
  14. 大津町史編纂委員会編纂室.大津町史.大津町史,1988,p.618.
  15. 大津町.”五里木跡”.大津町ホームページ.2023-01-01,https://www.town.ozu.kumamoto.jp/kiji0036665/index.html,(参照 2023-12-24).
  16. 熊本県博物館ネットワークセンター.“一里木跡”.熊本県総合博物館ネットワーク・ポータルサイト.https://kumamoto-museum.net/blog/archives/chiiki/1178,(参照 2023-12-24).
  17. 大津町史編纂委員会編纂室.大津町史.大津町史,1988,p.571,p.630-631.
  18. 大津町史編纂委員会編纂室.大津町史.大津町史,1988,p.688-689.
  19. 大津町史編纂委員会編纂室.大津町史.大津町史,1988,p.689-690.
  20. 大津町史編纂委員会編纂室.大津町史.大津町史,1988,p.710-711.
  21. 大津町史編纂委員会編纂室.大津町史.大津町史,1988,p.727.
  22. 大津町史編纂委員会編纂室.大津町史.大津町史,1988,p.842-844.
  23. 大津町史編纂委員会編纂室.大津町史.大津町史,1988,p.832.
  24. 大津町史編纂委員会編纂室.大津町史.大津町史,1988,p.643,1107.
  25. 大津町史編纂委員会編纂室.大津町史.大津町史,1988,p.299.
  26. 大津町.”千人塚(五人墓)”.大津町ホームページ.2023-01-01,https://www.town.ozu.kumamoto.jp/kiji0036670/index.html,(参照 2023-12-24).
  27. 大津町史編纂委員会編纂室.大津町史.大津町史,1988,p.1123.
  28. 大津町史編纂委員会.大津町史研究第三集.大津町史編纂委員会,1985,p.98.
  29. 大津町史編纂委員会編纂室.大津町史.大津町史,1988,p.1125.
  30. 大津町史編纂委員会.大津町史研究第三集.大津町史編纂委員会,1985,p.109.
  31. 大津町史編纂委員会.大津町史研究第三集.大津町史編纂委員会,1985,p.110.

参考文献

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ページ数
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大津町史研究 第3集

大津町史編纂委員会

大津町史編纂委員会

1985
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古城

大津町史

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1189
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古城

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