東北地方
関東地方
中部地方
九州地方
データベース
記事写真映像参考文献その他
集落データベースとは?遺村プロジェクトマップご利用運営お問い合わせ古田
古田(ふった)は、岩手県宮古市の大字。
古来より、古田の属した旧川井村域は、凶作の際は田が無毛となることも少なくないことや地理的要因から農民は開田に消極的だった。そうした失敗が古田の地名の由来となったと推測されている。
歴史
近世
近世において南部藩は「通り制」を採用していた。1735年(享保20年)3月には領内を10郡33通に分けた。古田村はこの内の閉伊郡宮古通りに属していた。当時の村高は14石7升2合で、1780年(安永9年)の改戸数には民戸26軒。
宮古通代官所の管轄下にあった古田村は南部藩の重臣楢山氏の知行所だった。後に宮古街道が南部藩の重要道路になり、伝馬街道として海産物輸送のため、通り沿いの村々は夫伝馬にかりだされるようになった。しかし、閉伊川流域(戸川筋)は僅かに狐狸が通れるほどの道だったため、当初は農民達も苦労した。次第に道路が発達し人馬の往来が盛んにり、古田・川井・箱石・川内に宿場ができ、近代に入るまでここで人馬継立が行われた。
当地方には、関東地方における名主や関西地方の庄屋の性質と同じ、村民の推薦で藩が認める肝煎と呼ばれる、現代の村長にあたる役職があった。肝煎には、各村に1人ずつ置かれる「御蔵肝煎」、給所別に1人から複数人置かれる「給所肝煎」の2種類があった。その為、給所であった古田にも給所肝煎が1人居た。また、現代の村長のような役割の肝煎に対し、村会議員に相当する「老名」という役職があった。「老名(おとな)」はアイヌ語のオツテナ(酉長)から転化したと云われ、年寄り(古人)と共に肝煎の補佐として村政に携わっていた。これには、主に村の顔役・豪農・前肝煎・篤農家などが就いていた。近世において古田には老名が3名いたと推測されている。
江戸時代、半生を当地方の道路改修に捧げた大槌通橋野村林宗寺6世牧庵鞭牛という人物がいた。彼は宮古街道も牛馬による交通ができるまで改修を施したという。古田村のさらつぼ及び老木地点の難所を改修しており、1758年(宝暦8年)の道供養碑もそれぞれに建立している。尚、さらつぼにあった碑は1948年(昭和23年)のアイオン台風で流失している。
寛政の一揆
1795年(寛政7年)、南部藩の下で重税に苦しんでいた農民達は、寛政年中最大の凶作にも関わらず年々累加する諸税対し痺れを切らし、遂に一揆を起こした。11月8日に郡山日詰長岡通り支配所21ヵ村の百姓1600人余りが城下中の橋に押し寄せたのをきっかけに、各地の百姓が仙北町・簗川尻・石町(現穀町)などを襲った。同月16日、この広範囲に渡る一揆に刺激された古田を含む宮古通り支配所9ヵ村の百姓400人余りも一揆を起こした。18日に平津戸村に押し立てこれを破ると、翌日の4ツ時には盛岡上小路に至った。そこで徒目付毛馬内庄助・御奉行伊藤新左衛門・岩館ら3人の取り計らいにより願意の取次に成功。結果、年貢の軽減を記した覚書を受け取り、百姓達は引き返すこととなった。しかし農民運動はこれで収まらず、これ以降も続いた。翌1796年(寛政8年)3月25日、楢山帯刀知行所宮古通りの5ヵ村による一揆が発生し、帯刀の計らいによりどうにか鎮静化に至った。しかし、その後の役人の取り扱いは改善されず、むしろ過酷な取り扱いが増え、農民達は更に生活に困窮した。その為、同年4月には宮古通り腹帯村・古田村辺りが一揆を起こし八十田村に押し立てた。それに対し、帯刀は家来を派遣し知行所で引き取らせ願意を聞くに至った。
南部藩の苛政と一揆
1839年(天保10年)、財政に窮乏していた南部藩は全領内に「軒別役」という新税を導入。これは、一軒当たり1貫800文を基準として、代官をはじめとした下役・肝煎・老名等によって、各戸に高割(石高により割り付けること)するもの。また、この軒別役の賦課中は他の新税御用金を徴収しないという条件のもと、5カ年間軒別役が賦課されることとなった。しかし、辺地の多い宮古通り等の代官所支配下の村々にとって、この上納は非常に難しく困窮を極めた。更に他の新税を徴収しないという公約にもかかわらず、2年足らずで年2~4回の新税を導入したり、御用金を徴収する始末だった。その上、上納期限は1日たりとも延長されず、期日を過ぎれば直ぐに同心2~3人、又は御給人に同心が同行する形で派遣され、過酷な徴収が強行されていた。藩の苛政はこれで収まらず、1847年(弘化4年)10月2日には領内に6万両の御用金を命じ、古田の属していた宮古通りには3527両を賦課。また藩はこの取り立てを急ぎ納期に余裕がなかった為、領内は混乱を極めた。 こうした一連の悪政は、藩主甲斐守を江戸に隠居させ、美濃守を家督とし勝手な振る舞いをする家老やその他役人の仕業とし、領内では一揆を結び強訴しなければこの困窮を脱することはできないと農民が立ち上がった。この一揆の首謀者は野田村の万六という60余りの老人で中々の強者だったという。一揆を山中に隠れて計画後、手始めに当時野田村にオオカミが出没していたことを逆手に取り、これを退治するためと代官所から槍鉄砲を借り受け、オオカミを数匹捕らえた後、これを代官へ投げ込み一揆の火蓋が切って落とされた。 農民は各自食糧・鋸・マサカリ等を持参し、10月21日は小本村(現岩泉町)に至り、南下するにつれ参加者を募り、10月24日に宮古に達する頃には、20余りの村々から数千人が参加する規模となっていた。また古田を含む宮古通りの21ヵ村、大槌通りの金沢村を除く全部落、海沿いの7ヵ村もこの一揆に参加。海辺より押し寄せた8000人余りの農民は、大槌向川原で盛岡の役人目付・足軽・同心による総門守衛の者を押し破った。この勢いのまま、一時三手に分かれ、再び遠野早瀬の川原に集合。この時一揆の総人数は1万1000人に上っていた。尚、三閉伊百姓愁訴記には4万人とある。仮に前者の人数が集まったとしても、閉伊郡の人口6万3500人のうちの約2割にあたる領民が集っていたことになるので、規模の程度が窺える。対して藩からは、家老新田小十郎・北監物・徒目付・足軽・同心が遠野に集い、早瀬川を隔て対陣し、続いて城下の町奉行などの役人たちも招集され警護に当たり一揆の動向をうかがった。その後、一揆は願意を書いたものを提出。これに対し、小十郎・監物の両名は注意的にでたものの、このようなことでは一揆は収まるような状態ではなく、一揆の鎮静を図るには願意に応じる他なかった。そのため願意を取り継ぐことを承知し、惣百姓へこの旨を一札を与え、各々村に戻り家業に励むよう諭し、一揆もこれを了承し鎮静の色を見せた。こうして一揆は目的を達成したが、家老横沢円治・石原汀は藩政を改めるどころか、むしろ悪化し根本的な改善に至らなかった為、一揆がこれで留まることはなく、嘉永に至ると再びこれに勝る一揆が起こすこととなった。
南部藩最大の農民運動
前述の一揆の要求により南部藩は、1847年(弘化4年)に賦課された御用金は全廃し、他は3分の2にけいげんされるなどいくつか措置を講じたが、藩の財政は依然として苦しかったため、翌々年から再び重税を課した。このように公約が守られず事態は益々深刻になり、農民は山に入って蕨を掘り、木の実を拾いかろうじて生きながらえるような状態だった。こういった状況のため、生まれ育った土地に永住する望みを捨てる他なく、他領に新たな住居を求め再び一揆を起こし、越訴によってこれを実現しようとした。こうして1853年(嘉永6年)5月、閉伊郡野田通の農民が再び一揆を起こし、仙台領に押し立てる南部藩最大の農民運動に発展。前の騒動同様、古田の農民もこの一揆に推定25名が参加した。仙台藩はこの越訴に対し役人を盛岡に派遣し抗議。南部藩もこれの解決を図ろうとしたが、一揆はそれに応じず、交渉の末、願い箇条貫徹のため各村から代表者を残すことを条件に、同年6月15日に一揆は帰国し始めた。最終的には仙台藩が幕府の老中久世大和守に内報するまでに発展し、南部・仙台藩が願意を認めるなど残留していた代表者の説得に勤め、承諾を得て同年10月27日ようやく終結した。
近代
1894年(明治27年)2月勅令により消防規則が交付。同年に県令をもって施行細則が定められ、これに伴い各地に公設消防組織が結成された。しかし、旧川井村では消防組織発足までには至らず、火災予防組合に頼っていた。しかし、頻繁に火災が発生していたため、公設消防組織結成の機運は高まっていた。そして、1922年(大正11年)4月1日に川井消防組が設立した。古田では第3分団が1926年(大正15年)2月に設立。1955年(昭和30年)7月1日の三ヵ村合併後に消防組織が再編された際は、第一支隊第三分団が大字古田を管轄とした。
凶作と恩賜郷倉の建設
1934年(昭和9年)の春以来、東北地方一帯を襲った冷害による凶作に対し、政府は備荒施設の建設を種々考慮していた。そんな中、天皇・皇后両陛下の郷倉普及の思し召しにより、同年12月に内務大臣へ内帑金が下賜された。政府は東北6県に対し、速やかに慎重計画を立てる旨を伝達。同月25日、当時の石黒県知事は告諭を発し全県民にその旨を徹底させ、29日には市町村長を盛岡に招集し、既存の郷倉の拡充並びに新設郷倉普及について詳細に指示。当時の川井門馬組合村長下総百司・小国村長道又勇太郎は速やかに設置計画を立案。翌年の1935年(昭和10年)10月には恩賜郷倉として完成させた。この郷倉の規模は1箇所の面積を10坪を標準とし、480円の奨励金(御下賜金) が建設着手と施行の際に分けて交付された。「郷倉建設計画」によると、古田の農家戸数22戸全戸が郷倉を利用し、建設費として計412円を賜ったとある。また建設坪数は7.5坪で、川井村の中で最も少ない坪数だった。
1906年(明治39年)に創設された「恩賜記念川井門馬組合村林業」を始めに、学校林の植栽が行われた。翌1907年(明治40年)には「植樹奨励規定」によって下附金22円5銭をもって更に増殖は行われ、1914年(大正3年)までの間、年次計画的に造成され、その後逐次学校建築の際に処分されていった。学区ごとに行われた植栽は、第三次植栽の際に初めて古田地区で行われた。植栽は1907年(明治40年)に行われ、面積3000反に杉1000本が植えられ。その後、1909年(明治42年)の第五次植栽で杉500本が植えられた。
1933年(昭和8年)11月30日、山田線開通に伴い古田地区でも電灯が点灯した。
現代
1948年(昭和23年)9月16日に襲来したアイオン台風により旧川井村は壊滅的な被害を受けた。同日の日中より降り続いた雨は、日が暮れるにつれ勢いを増し、午後7時半頃には猛雨に変わり一帯は停電。気象台から非常警報が発せられると同時に、電信電話の通信は不能となった。古田では民家に流失するなどの被害は受けなかったものの、この災害により地内の県道が著しく決壊した。
1957年(昭和32年)2月、農村青少年クラブとして古田やまびこクラブが設立された。会長は山内市蔵でクラブ会員数は男10名。
教育
1876年(明治9年)12月1日、古田村字1番地の旧民家を借用し古田学校が開設される。教員1名に対し生徒は男児10名。また翌1877年(明治10年)には片巣分校が設けられた。1892年(明治25年)4月、小学校令が改正に伴い古田小学校は古田分教室として川井尋常小学校に属す。1945年(昭和20年)4月、新校舎落成。
神社仏閣・名所
古田風穴
古田部落上野清助宅の裏山の裾に位置する風穴。幅2m・高さ1.5m・奥行き2.5m。季節に問わず常にやや湿り気のある空気が流れていて、上野家が食物を貯蔵したり、養蚕研究家が蚕種の貯蔵所として使用していた。1958年(昭和33年)の岩手日報によると、この風穴の発見者中村善右衛門とあるが出身地は不明。
熊野神社
古田に位置する伊奘冉命・伊弉諾命を祭神とする神社。祭日は旧4月15日。由緒は不明であるが、1811年(文化8年)6月1日古田村連中奉献の鰐口が発見されている。
多賀神社
古田字三ツ石に位置する伊弉諾命を祭神とする神社。祭日は旧4月15日。年月不明であるが川井村無格社熊野神社へ合併している。