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袰月(ほろづき)は、青森県東津軽郡今別町にある大字。中世には「両翼突」と記され、源義経やアイヌ語由来の地名説がある。近世には郷士がいたり、大地震、アイヌ民族の記録が残る。近代では、舎利浜や多くの旅行者に注目され、明治時代に一本木村に組み込まれた。
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歴史
縄文時代
袰月洞窟遺跡
袰月洞窟遺跡は、袰月港海岸左側に位置する突端洞窟で、縄文晩期の土器・石器が確認された遺跡。また勾玉も見つかったと云う。旧袰月中学校では縄文土器・石器が所蔵されていたが、ほとんどが大泊方面で見つかったもので、その所蔵品の一部に袰月洞窟の遺物が含まれていたと推測されている。いずれにせよ、縄文時代中期〜晩期に大泊-袰月間に人々がいたことを示している。袰月洞窟遺跡の他にも、袰月下の川の中で磨製石斧1点が発見されており、下の川周辺にも縄文時代の集落があったのではと考えられている¹。
中世
1536年(天文5年)に書かれた津軽最古の文献といわれる『郡中名字』の北浜の項に、現在の袰月にあたる「両翼突(ねろつき)」が記されている。一説では東に高野崎、西に鋳釜崎が長く突き出している地形を説明するために漢字を当てはめ「両翼突」になったという²。 尚、『群中名字』では「両翼突」とあるものの、1592年(文禄元年)の前田利家等による検地では袰月に関する地名は残されていなかった。検地帳から欠けていたのは、故意的に上磯地方の村落を検地帳から除いたか、単に水田が無かったからではと考えられている³。
諸説ある地名の由来
地名の由来に関しては、命名したのが源義経との伝承もある。1188年(文治4年)、高館の城が落ち、義経が一時所在をくらまし陸奥津刈・合浦外ヶ浜まで落ち延びた。その時、義経は袰月・大泊を経て今別方面へ向かったといい、袰槻(袰月)・鬼泊(大泊)・今淵(今別)と命名したとされている。 他にもアイヌ語が由来との説もある。昔、袰月は蝦夷の居住地で、「母衣(袰)」は北海道・東方の例からみてアイヌ語のポロ(大きい)であるという。ただ「月」に関しては定かでなく、一説では「トゥキ(酒椀)」を意味するという。アイヌの地名では、トゥキ・イタンキ(椀)などの器具に似た地形の場所に名付ける例があり、奥深い半円形の湾を持つ袰月の地形からアイヌの人々が「ポロトゥキ(大きな酒椀)」と呼ぶようになったと推測されている。尚、トゥキ(酒椀)は古い日本語の「杯(つき)」をアイヌが輸入した言葉で、現代の猪口の形の杯や盃とは異なり、直径9cmほどの深い木製の腕を指す⁴。 また、入江出口の西側に位置する、馬車の幌・武者の袰にも似た大岩の「ほろ岩」が由来だという説もある。しかし、北海道から宮城にかけて点在する語頭に「ほろ」と付けられた地名の多くがアイヌ語の「ポロ(大きい)」から来てるため、当地に関してもアイヌ語説が有力とみられている⁵。
近世
1766年(明和3年)、大地震が青森を襲った。当時の上磯方面の被害に関して『平山日記』では、潰家もなく、袰月村にいたっては行燈の灯も動かなかったと記録されていた。一方、今別村の町年寄なども務めた中嶋家の『明和三戊正月大地震留記』では、被害は甚大で村々の家屋が潰れ、死者や怪我人もいたとある。さらに袰月村の七曲坂なども崩れ、田んぼが数段に高低ができたと記されていた⁶。
江戸時代、「郷士」という、藩主から土地や扶持を与えられ、通常は農耕に従事し農村に居住地を持つが、戦時には武士と同じように軍務に務める義務がある武士階級があった。当地方の郷士は治水・献金・植林などの功労により資格を与えられるケースが多かった。また、郷士は読み書きができたため、代官の補佐役にあたる「手代」に就く者も多かった。青木彦兵衛編の『積載箚記』によると、袰月村には2名の郷士がいたことが分かる。1人は小倉重兵衛で、1835年(天保6年)6月5日に御目見郷士に仰せつけられた。尚、重兵衛は十兵衛の誤りだとされている。もう1人は小倉四郎兵衛であるが履歴について何も書かれていなかった⁷。
1810年(文化7年)に完成した『寛政律』によると、袰月村には湊目付が2名置かれていたことが分かる。また、湊目付は御目見以上から加役され、毎年10月に交替していた⁸。
1802年(享和2年)8月14日、袰月名主小倉四郎兵衛宅に伊能忠敬が宿泊した⁹。
袰月村に住むアイヌ民族
今日、本州から姿を消し北海道の一部で保護されているアイヌ民族。歴史を遡ると坂上田村麻呂や藤原利仁などの幾度に渡る蝦夷征伐で北海道へ追いやられた蝦夷民族であるが、王化が及ばなかった津軽半島北端の当地方には近世までアイヌが住んでいた。また、懐柔・同化政策も進めていたため、服従した蝦夷は教育し農耕を教え内地に移住させていた。『津軽一統志巻十』には、1669年(寛文9年)に津軽藩が松前蝦夷蜂起(シャクシャインの戦い)の鎮圧のため兵を送った当時のアイヌに関する詳細な報告ある。これに津軽領アイヌのことも記されてあり、袰月村には「いほかい」という名のアイヌがいたことが分かる。また、津軽藩はアイヌを特別扱いしておらず、和人同様に扱っていた。そのため、1600年代に津軽藩が整備した五人組制度では、袰月村のアイヌの五人組頭を「いほかい」に命じていた。アイヌの五人組頭には和人を置いた方が津軽藩としては取り締まり上便利であっただろうが、藩はアイヌの個人を尊重し、アイヌの仲間同士で連帯責任をもたせていた¹⁰。 また、当地方ではアイヌが宿を営んでおり、彼らは漁師や魚売りにとって重要な役割を担っていた。1691年(元禄4年)の藩への陳情から、当地方におけるアイヌの宿の重要性がうかがえる。1691年(元禄4年)8月29日、後潟組代官黒滝七郎右衛門に宇田から大泊の間のアイヌに宿をさせてはいけないという御達しがあった。当時アイヌの宿は、宇田・大泊の沖に来た漁師や魚を買い付けにきた魚売り等の帰りが遅くなった時に利用されていた。特にアイヌが獲った魚を買いに来た時などによく泊まっていたという。そのため、アイヌの宿が禁止されると、アイヌ・漁師双方の生計が立たなくなること、ま、冬期間の旅行者が放たれ凍死する危険があることが考慮され、藩は陳情を許し、アイヌの宿は続くこととなった。当時、袰月にはこのアイヌ宿が2軒あった¹¹。
数々の旅行者
近世において、蝦夷地へ行く場合は下北郡大畑港・佐井港・三厩港が利用されていた。その中でも、近距離な三厩港は最も利用者が多く、自ずと数々の旅行者が袰月村を通った。そして、旅行者達の目を奪ったのは舎利浜だったようで、これに関して数々の記録が残っている¹²。
橘南谿 橘南谿(たちばな なんけい)は、江戸時代後期の医者。1785年(天明5年)秋から翌年夏まで北陸・奥州を旅行し、その旅の記録を『東遊記』に残している。『東遊記』には、袰月村の舎利浜の様子に関して記述されてあり、南谿は指の頭程の大きさの舎利石を2、3個持って帰ったとある。また海中には巨石「舎利母石」があり、ここから生まれた舎利石が浜に打ち上げられ、舎利浜となっているいう¹³。
古川古松軒 古川古松軒(ふるかわ こしょうけん)は、江戸時代後期の旅行家・地理学者。1788年(天明8年)に東北・蝦夷地を旅行し、『東遊雑記』にその様子を記した。古松軒は、舎利石を伊勢真珠の如く綺麗で、水晶より更に光が透き通ると美しい様を説明している。橘南谿同様、舎利母石にも触れている。また「数年に1度、袰月浜の海上から龍が天に上る」と地元民が物語っていたという¹⁴。
菅江真澄 菅江真澄(すがえ ますみ)は、江戸時代後期の旅行家。1785年(天明5年)5月と1788年(天明8年)7月に青森県域を数日間旅行したのち、1792年(寛政4年)から1801年(享和元年)の間は本県域に留まり各地を周った。当時を綴った『率土ヶ浜つたい』では、袰月村の舎利浜・舎利母石・地蔵の滝・地蔵菩薩について記されている。また、地蔵菩薩は今別の本覚寺5世貞伝和尚が建てたとも残している¹⁵。
高山彦九郎 高山彦九郎(たかやま ひこくろう)は、江戸時代後期の憂国の志士で寛政の三奇人に数えられていた人物。ロシアの南下政策を憂慮し、自ら蝦夷地に赴き海辺を探るため、1790年(寛政2年)北遊を決行し竜飛(三厩)まで行った。しかし、天候に恵まれず帰国を余儀なくされた。その時を記した『北行日記』によると、1790年(寛政2年)9月2日に袰月村を通ったとある。家は14、5軒あり、そこから3、4丁(約400m)先に舎利浜が位置したという。そして、行人(旅人)は舎利石を拾い土産にするとも記している¹⁶。
伊能忠敬 伊能忠敬(いのう ただたか)は、江戸時代後期の地理学者・測量家。1800年(寛政12年)から始められた沿岸測量であるが、北辺情勢差し迫った情勢だったため、蝦夷地から開始した。袰月村に訪れたのは、1800年(寛政12年)5月10日・1801年(享和元年)11月2,3日・1802年(享和2年)8月14,15日。最後に来た年は、14日の7ッ頃に袰月に到着し、小倉屋四郎兵衛の宿に泊まった。その夜は天候が曇りだったため、雲の切れ目で測量が行われた。そして、翌15日6ッ半後に曇り空の下、袰月を発っている。ちなみに、1801年(享和元年)も11月2日夜に袰月村に到着し、翌3日に同村を発っているが、宿に関しては記録されていなかった。また、2日昼頃から大雪風だったため測量は難渋したが、翌日6ッ半頃には中風になったという¹⁷。
松浦武四郎 松浦武四郎(まつうら たけしろう)は、江戸時代末期から明治時代にかけての冒険家・浮世絵師。蝦夷地を3度に渡り旅行し、その度に当地方を通った。武四郎が27歳の時、1844年(弘化元年)の『東奥沿海日記』によると、10月初旬に今別村・大泊村を経て袰月村に至っている。袰月村の人家は40軒ほどで漁者のみだったと記し、この時舎利浜で舎利石を5〜60粒を取っている。また、高野岬(高野崎)に関しても記述してあり、30匁筒1艇・50匁筒1艇が備えられた礮台(砲台)があったという¹⁸。
吉田松陰 吉田松陰(よしだ しょういん)は、江戸時代後期の長州藩士・思想家。1852年(嘉永5年)、当時海防の最前線だった東北地方を巡り名士や学者の意見を聞くため、また蝦夷地への渡航の機会をうかがい、松陰は津軽海峡を目指した。同年3月5日、龍飛崎を目指していた松陰であったが、天候に恵まれず三厩に辿り着いたところで龍飛崎行きを断念。進路を変更し今別から袰月に入った。この道中松陰は、龍飛崎と白神岬(松前町)の間を異国船が往来しているにも関わらず、幕閣の関心が薄いことに危惧していたという。翌6日、松陰は袰月を発ち平館台場の視察に向かっている¹⁹。
近代
1875年(明治8年)以降、県属の伊藤珍英は県内各地を周り陸奥国津軽郡村誌を編纂。同書から近代初期の袰月村の様子が窺える。当時、袰月は一本木村に属しており、人家は40戸。袰月川・舎利浜林・村下原(原野)・鷹ノ崎・釈迦堂滝・稲荷神社が記され、電線が既に袰月を通っていたとある。さらに名勝として舎利浜が挙げられ、1876年(明治9年)7月の巡幸の折、天皇が舎利石を採り叡覧に供したとある²⁰。
藩政時代は独立した1つの村として取り扱われていた袰月村だが、1876年(明治9年)の地租改正時に一本木村に組み込まれ、字袰村元とされた。その後、1884年(明治17年)5月、平館村外5ヵ村戸長役場に属した一本木村は、1888年(明治21年)の市町村制公布並びに翌年2月の青森県管内各町村の分合改称により、平館村から分離。独立した一本木村は当初、役場を字大泊村に設置したが、1908年(明治41年)4月に字袰村元(袰月)91番地に移転。また1928年(昭和3年)にも字袰村元48番地に移転している。そして、終戦後の町村合併により1955年(昭和30年)3月31日に今別町が誕生し、ここに属した袰月には一本木支所が置かれた²¹。
1874年(明治7年)12月16日、袰月郵便局が開設²²。
袰月では、明治時代に入ってからは部落の上の畑に郷倉を設置された。ここに、そば・稗・豆などが蓄えられ、各家の山倉でも穀物や昆布が備蓄していたため、凶作になっても餓死するほどではなかった。しかし、それ以前までは飢饉年に食糧が尽きると山草や海藻を食べていたという。中には「ガジャシバ」の葉を食べ顔を腫らす者や「イケマ」を食べて亡くなった人もいた。また穀の香りがかかっているからと「カギノハナ(自在鉤)」を舐める者までいたというから、当時の人々が凶作にどれほど苦しめられていたか分かる²³。
1886年(明治19年)、コレラが日本全国で発生し、袰月部落では「したみず」に避病院が設けられ治療にあたった。また、1945年(昭和20年)5月から10月にかけて袰月部落で赤痢が流行。隔離舎が鷹野崎に置かれ、医師の中道友吉が治療にあたった。赤痢患者数は17人で、そのうち2名が亡くなっている²⁴。
1936年(昭和11年)10月3日から4日にかけて、大雨風が当地方を襲った。この時の台風・時化により袰月部落の家屋2軒が流失。また家屋の土台下流失・土砂崩れが6軒、小屋の流失・破壊が12軒、漁船10艘が流失・破壊されるなどの甚大な被害に遭った²⁵。
1939年(昭和14年)4月1日、東北配電株式会社袰月散宿所が開設。その後、1951年(昭和26年)5月1日に東北電力青森営業所袰月散宿所になり、1963年(昭和38年)8月1日、袰月出張所に改められた²⁶。
頻発する火災 『今別町史』によれば、近代から戦後にかけて一本木村で起きた火災のうち、半分程が袰月部落で起きたものだった。当時袰月部落で起きた火災とその被害を列挙する。 1876年(明治9年)9月頃、当時袰月部落の中心部に位置した袰月散宿所の前ヤライ付近の小屋から出火し、40戸の内29戸が焼失。1897年(明治30年)5月2日午前7時、米田嘉四吉宅から出火し、数時間後に自然消火。この火災で45~6戸の内29戸が焼失し、袰月小学校や袰月郵便局も焼失した。1916年(大正5年)5月頃、小野周次郎柾工場から出火し3棟が全焼。1925年(大正14年)10月8日午後11時頃、当時袰月漁業組合が借用しスルメ2万把を保管していた小倉十兵衛の小屋から出火。家屋5棟・蔵5棟が全焼し、1棟が潰家となった。今別方面から消防組が応援に駆けつけ、翌朝になりようやく鎮火することができた。1952年(昭和27年)12月3日夜、小倉十兵衛宅から出火し、1棟が類焼した²⁷。
袰月警察官駐在所 1889年(明治22年)4月の警察区画改定まで、三厩分署の管轄区域に袰月が含まれていた。しかし、改定により三厩分署が廃止されると蟹田警察分署の管轄下となった。その後、1894年(明治27年)5月、袰月巡査駐在所が開設さ、袰月部落の米田石造宅2階で事務が執られた。1901年(明治34年)頃になると、袰月字袰村元67番地に袰月巡査駐在所が新築される。ところが、同年袰月部落で大火事が発生し焼失。あえなく敷地移転し、駐在所が再建された。ただ、1926年(大正15年)に元の敷地に移転・改築。さらに1943年(昭和18年)にも駐在所の改築がなされるが、1951年(昭和26年)12月30日の波浪により一部流失破壊され、維持管理不可能となり、袰月部落から一本木村役場(当時)に寄付された。1962年(昭和37年)、袰月警察官駐在所に改称された²⁸。
袰月窃盗事件 1909年(明治42年)11月4日、厳しい寒さが襲い、午後からは雪が降っていた。その晩、深夜12時から翌朝3時の間に袰月村の米田周作・小倉十兵衛・小倉百合の土蔵などに何者かが侵入し、衣類を盗む事件が発生。しかし、部落民が現場に残っていた雪の足跡を辿ると、小国村の神社付近に達し、神社の中から灯りが漏れているのを発見。中を覗くと、犯人が盗品の大風呂敷を傍に置き、腹あぶりをして暖をとっていた。その隙に外周を取り囲み、馬場巡査を先頭に若者が後につづいて神社の中へ突入し、身柄を拘束し袰月に連れ帰った。しかし、6日夜に用を足してるところを「さらば」と縄を解いて犯人は逃走。それでも翌日11時ごろには頃々川付近で再度部落民により捕縛された。犯人は東津軽郡筒井村の小泉という30歳位の男だった²⁹。
現代
1949年(昭和24年)12月26日、一本木診療所が字袰村元48番地(袰月)に開設した。その後、91番地への移転を経て、1955年(昭和30年)6月、袰月字村下に新築移転した。同診療所の初代医師は紺谷登美恵³⁰。
1953年(昭和28年)1月、袰月壮年団(団員数35人)が結成され、観光・郷土開発・郷土民芸研究・社会奉仕などにあたった。また、1954年(昭和29年)1月に袰月婦人会(会員数55人)が設立された³¹。
2022年(令和4年)2月23日朝、袰月で火災が発生。火は4時間半後に消し止められたものの、住宅2棟が全焼、他の住宅2棟も半焼や一部が焼ける被害に遭った。この火事により火元の住宅から2人の遺体が発見された³²。
名所
高野崎
高野崎は、津軽国定公園に指定されている津軽海峡で1番の出崎。別名「鷹野崎」。ここから北海道・竜飛・下北半島を望むことができ、東方の砂ヶ森方面に「ふこま」「立石」、西方の袰月方面には「大石のかげ」がみえる。高野崎にある忠魂碑は、明治年間に設立された在郷軍人会一本木村分会が、1940年(昭和15年)夏に建てたもの。題字は陸軍少将苫米地四楼が揮毫した³³。
鷹野台場 1807年(文化4年)11月26日、幕府の命令で津軽藩が海防のため高野崎に大筒を建設。時折、字舎利浜で大砲の訓練をしていた。海防のため十分な設備が整っており、1811年(文化8年)の『海岸御固所台場御武調帳』によると、高野崎海岸御固所には十文目玉筒1艇・五十目玉抱筒1艇・三百目玉置筒1艇・1貫目玉置筒1艇・木筒9艇などが置かれていた。また、火薬庫は袰月川沿いを約1町(110m)上った地点にあったが、『今別町史』が出版された頃には民家の山蔵として利用されていた。1871年(明治4年)の廃藩置県により台場跡地は陸軍省から字袰月への預かりとなる。その後、1905年(明治38年)3月24日に公売にかけられ、一時は他村の者が落札する事態に陥ったが、同年12月29日に字袰月で買取こととなった。それ以来保存に努めていたが、腐朽により建物はなくなってしまい、現在は原野が広がっている³⁴。
高野崎監視所 1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件から拡大していった日中戦争により、国内では国民精神総動員運動が展開され、翌年ごろから高野崎に監視所が置かれた。敵機の国土来襲をいち早く察知し、本部に通知し防衛するのが当監視所の目的だった。設置当初、監視所は土手の先の置かれたが、2〜3年が経過した後、その周辺に海軍兵舎が建設されることになったため、さらに県道寄りの方に移転された³⁵。
鷹野崎海軍兵舎 1943年(昭和18年)頃、海峡の敵潜水艇の潜入を探知し国土防衛にあたるため、大湊海軍警備府だった当地に兵舎が建てられた。兵舎は無事完成したものの、1945年(昭和20年)に終戦したため兵士が入舎することはなかった³⁶。
「大石のかげ」と「下水」
大石のかげは、高野崎から大石までの海岸を指す。ここには「えぼし岩」「お舎利のおや岩」「たこ岩」などの奇岩が点在している。また、大石から袰月村周辺のまでの海岸を下水(したみず)と称する。高野崎の地質が火成岩である一方、下水の地質は水成岩となっている。この海岸では「みさご岩」「馬の腹」「馬の爪」「ありくい岩」「友白が岩」などを見ることができる³⁷。
鷹野山と魚龍観音菩薩
鷹野山は、高野崎の南側に位置する標高94mの山。また魚龍観音菩薩が安置されている観音堂がある。1953年(昭和28年)夏、戦後間も無く精神的に苦悩が多かった人々が、戦没者等を供養することで、在世の人も救われると聖観音の石像を作った。翌1954年(昭和29年)には台・塔が完成し、1955年(昭和30年)に鳥居が部落から寄進され観音堂が完成した。毎年縁日20日盆になると、戦没者ならびに魚族供養のお参りが行われる³⁸。
舎利浜
舎利浜は、舎利石が産出される釈迦堂滝が注がれる川口付近一帯の浜。1686年(貞享3年)3月15日の『加称々宇田村屋敷帳』によると長さ50間(約90m)・幅20間(約36m)の大きさだったが、大正初期に県道が通ってからは半分ほどの規模になった。
袰岩
袰岩は、袰月集落の西端に位置する高さ約9m・周囲約20mの見た目が母衣のような奇岩。伝説によれば、源義経が袰岩と名付けたという³⁹。
袰月港
袰月港は、高野崎と鋳釜崎に囲まれた自然に形成された港。帆船の時代には、津軽海峡のヤマセ(東風)の避難港として利用されていて、江戸時代には袰月港目付役人が置かれていた。1933年(昭和8年)には船溜港として総工費26,600円で修築されたが、程なくして破損し、1934年(昭和9年)に6,700円を費やし修築。それでも同年冬の波浪により破損した。終戦後の1960年(昭和35年)には、前記の港より湾の内側に近寄った地点に長さ140mの防波堤を設置。続く1961年、1962年にも船揚場の修築が行われた。こうした修築が頻繁に行われるのは、当地方は冬の南西風(しかた)が強く、波が湾内に侵入するためだという⁴⁰。
袰月海雲洞釈迦堂
袰月海雲洞釈迦堂は、釈迦如来と聖観音(滝見の観音)が安置されているお堂。付近には約9mの通称「釈迦堂滝」が流れている。 むかし、漁師の建網に入った釈迦如来を祠を建立し信仰したのが始まりと云う。しかし、その如来像は脆い石像だったため、後に新たな石像の釈迦如来を安置し崇拝するようになった。また、如来像の側には庚申様も祀っている。1724年(享保9年)、本覚寺住職貞伝和尚が、廃寺の危機に面していた当堂の拡張を行い救ったといわれている。釈迦堂の脇には村人の信仰が篤い「お釈迦様の松」と呼ばれる老松がある。大正初期、県道を通すため人夫等がこの松を切ることになった。それに対し、信者の1人小倉千代吉が「県庁に願いに行くのでしばらく待て」と港に向かったが既に定期船が出航してしまっていた。しかしその晩、何人の話し声で騒々しく、時には光ったため、キコリ達が眠ることができなかった。そういった奇怪な出来事が数日続き、誰も松を切ることができず、最終的に県道は下方に作られたと云う⁴¹。
釈迦堂の中に安置されている聖観音、通称「滝見の観音」は、元々別の向かい合った祠にあったのだが、祠が大水に流されたため、1935年(昭和10年)に再建された。しかし、その後また大水で破壊され、現在に至るという。観音像は、正平・貞治年間の頃の作といわれている。近世に定められた津軽三十三観音霊場の第二十一番札掛所「袰月の海雲洞」でも知られる。尚、当地方が凶作で苦しんだ際、海雲洞も荒れてしまったため本尊は本覚寺で保存されるようになった。そのため、現在安置されている像は、貞伝上人が「しきびの木」で作ったもの⁴²。
稲荷神社
稲荷神社は、袰月村のほぼ中央の高所に位置する神社。所在地は大字袰月村元(村下)59番地。祭神は保食神で、例祭日は4月7日・7月4日・9月7日・11月7日。創立年月は不明。ただ、1536年(天文5年)に「両翼突(ほろつき)」の地名が確認され、自然に形成された良港に恵まれた当部落であれば、その頃には既に神社が鎮座していたと考えられている。1704年(宝永元年)の『社堂境内記』によると、当時建立されていた社は1674年(延宝2年)に建立されたいう。西廻航路の時代には、港に寄った船主等が多くの絵馬や石灯篭を寄進した。1912年(大正元年)11月に改築工事が着工し、翌年1月に落城している。境内には、樹齢400年といわれるケヤキの老木がある⁴³’⁴⁴。
産業
林業
近世において、山林は管理保護が徹底されていた。しかし、近代に入ると山林のほとんど国有林となり、数年間放任状態が続き、林野は荒れ果ててしまった。それに対し、1874年(明治7年)、政府は内務省に地理寮を設置し林政に当たり、国有林の保護管理に乗り出した。1878年(明治11年)、青森県でも地理局出張所が開設され、1886年(明治19年)には一本木村全域(袰月含む)を管轄とした大泊派出所が設置された⁴⁵。その後、所在地や管轄区域が何度か変わり、1915年(大正4年)の官制改正により、それまでの大泊保護区官舎と奥平部山林保護官舎が併合。官舎は袰月に移転され、「袰月保護官舎」が設置された。開設当初、旧袰月小学校隣家の2階を借用したが、2年後に小倉百吉宅を借りて移転。尚、袰月保護官舎開設の2年前、1913年(大正2年)に袰月森林保護組合(組合員73人)が結成されている。1924年(大正13年)12月、官制改正により増川営林署と改称。直後に小倉滝蔵の民家を官舎とした。さらに1929年(昭和4年)にも、官制改正で袰月担当区事務所に改称。その後、堀谷兼次郎宅地に官舎が新築されるが、戦後の1957年(昭和32年)に袰月村字村下に新たに官舎が建てられた。また、1950年(昭和50年)、共同林野組合が設立され、袰月の52,04haと64戸がこれに属した⁴⁵。
漁業
1902年(明治35年)7月15日、袰月漁業組合(60人)が設立。さらに1943年(昭和18年)頃、一本木村の各漁業組合が統合し、一本木村漁業会が誕生。事務所が袰月の小倉源七の倉庫2階に置かれた。同会は1949年(昭和24年)に解散。同年6月23日、大泊・袰月を区域とした一本木中央漁業協同組合(176人)が設立され、事務所が袰月に設置された⁴⁷。
農業
1901年(明治34年)4月1日、「一本木村農会」が同村袰村元80(袰月)に設立された。また、1943年(昭和18年)頃に一本木村6部落を区域とした「一本木農業会」が誕生。事務所は袰月の人々の倉庫が利用された。しかし、1948年(昭和23年)末に解散し二つの農業協同組合にに分かれた。翌年2月9日、その内の1つ「一本木中央農業共同組合」が設立。袰月・大泊を区域とし、事務所は袰月に置かれた。そして、1955年(昭和30年)10月21年、同組合は解散⁴⁸。1959年(昭和34年)9月1日の農業基本調査によると、農業人口432人・耕地面積163.4反だった⁴⁹。
教育
寺子屋
近代の学制公布以前、袰月では異なる年代で寺子屋が3カ所(小山内源之進・小倉覚蔵・小倉武次)で開かれていた。寺子屋には、10〜14歳の生徒6〜7人程が在籍し、大泊や砂ヶ森部落から通う者もいた。教科目は読み・書き・そろばん⁵⁰。 1936年(昭和11年)頃の小倉百吉(当時80歳)の話によると、湊目付の小山内源之進が師匠だった寺子屋は御番所と呼ばれていたという。「ズキ止メ」と呼ばれる夜まで残す処罰があり、親族が詫びに行くと許された。他にも鞭でスネを叩いたり、鞭を溜めて打つ通称「スッペ」や師匠のキセルで叩くこともあったという。また、師匠の妻はお菓子屋や餅、果物などがあると生徒にご馳走した。正月と盆には、師匠の家に父兄が御樽代を持っていき、また師匠は生徒にお年玉(マコ)を与えた。 小倉覚蔵の寺子屋では、そろばん・習字・読み方を主に個別指導で教えられていた。1人ずつ生徒が本を持参し師匠の元へ行き通読。3回以上は教えなかったという。習字は1日1時間練習し、1週間目に清書を提出。これを師匠が黒筆(朱筆の聞き間違いかもしれない)で直し、朱筆で上・中・下と評価した。そろばんは晩に1時間ほど教えていた。また、成績優秀者を学頭とし、昼まで師匠の代わりを務めさせた⁵¹。 小倉覚蔵と小倉武次は、村書記で無報酬で寺子屋を開いていた。そのため、父兄が北海道ニシン漁場で、すしにしんなどを買って帰り、贈っていた⁵²。 3月25日には、師匠の家に生徒が集まり「天神講」が催された。天神講では、生徒の母姉が1人ずつ師匠の家に集まり、料理を作って、師匠を中心に生徒も集まりご馳走が振舞われた⁵²。
袰月小学校
1876年(明治9年)7月7日、袰月小学校が開校。一本木村の字袰月・砂ヶ森・大泊を一連区とし、第7大学区第14中学区に属した。開校当初、児童就学に注力し強制的に登校させた。しかし、児童数は3地区合わせても25人程だった。7月に開校した小学校であったが、同年9月、大火により消失。翌年8月に校舎が新たに建てられた。1878年(明治11年)11月に砂ヶ森が分離し、続く1878年(明治12年)9月10日には大泊も分離した。大泊が分離した理由としては、道路不完全・秋冬の通学困難・欠席児童や退学する者が多く成績が上がらないことが挙げられている。1887年(明治20年)4月に袰月簡易小学校、また1892年(明治25年)4月に袰月尋常小学校と改称。1897年(明治30年)5月2日、大火により校舎が類焼し、5日から仮教場とて村社が利用された。同年11月14日、仮校舎が完成し移転。さらに1899年(明治32年)12月11日、校舎が新築された。その後、水産補習学校・青年訓練所が併置され、1935年(昭和10年)4月1日に合わせて袰月青年学校に改められる。1955年(昭和30年)4月1日、町村合併により今別町立袰月小学校となるが、3年後の1958年(昭和33年)に大泊小学校に吸収され廃校。約82年の歴史に幕を閉じた⁵³。 1947年(昭和22年)4月20日、一本木村立一本木中学校(後に袰月中学校と改称)が併置されるが、1952年(昭和27年)1月24日に中学校校舎が落成したため分離している⁵⁴。
袰月中学校
1947年(昭和22年)4月20日、袰月中学校の前身、一本木村立一本木中学校が袰月小学校に併置開校した。4教室あり、袰月小学校・袰月部落作業場・奥平部小学校・第1一本木小学校に点在した。袰月の教室には大泊・砂ヶ森・袰月の生徒が通い、奥平部と一本木の教室には各小学校の学区生徒が通学した。翌年4月、一本木中学校は解体され、それぞれ独立。これに伴い、袰月中学校に改められた。また前述の袰月地内の2教室を用いた、二学編成とされた。ただ、1949年(昭和24年)に堀谷常雄の作業場を借用し仮教室が増設され、三学級編成となった。そして1950年(昭和25年)8月15日、待望の中学校新校舎工事が着工し、1952年(昭和27年)ついに落成。ようやく、袰月小学校から移転することができた⁵⁵。しかし、1954年(昭和29年)9月26日午後9時15分、当時増築工事中だった袰月中学校を台風15号が襲い倒壊。この損害額は73万5千円に及んだ⁵⁶。1955年(昭和30年)4月1日、町村合併により奥平部中学校と統合し、今別町立袰月中学校が誕生。また同年8月17日、体育館が完成し落成式が催された。しかし、1993年(平成5年)4月1日、袰月中学校・今別中学校が対等統合し、新たに今別町立今別中学校が誕生。その後、廃校となった袰月中学校はリノベーションされ、海峡の家「ほろづき」として宿泊施設の役を担うこととなった⁵⁷’⁵⁸。
袰月小学校同窓会
袰月小学校同窓会の設立年は不明だが、同会は1911年(明治44年)10月12日の野呂校長に対する謝恩会を催している。事業として謝恩会の運営・歴代校長の写真額の掲示が行っていた。しかし、1958年(昭和33年)の小学校統廃合に伴い自然解消。尚、その後も謝恩会は平出登世雄校長を中心に時々開かれていた⁵⁹。
交通
今別町巡回バス
袰月地内のバス停は以下の通り⁶⁰。
- 高野崎
- 海峡の家ほろづき
- 袰月郵便局
- 袰月漁港
海運
現代に至り道路が整備されるまで、当地方では陸上交通より海上がよく利用されていた。海上であれば数時間で北海道の福山・函館と繋がるため、青森以北との商取引が盛んだった。そのため、北海道福山周辺の文化が当地方に影響を与えている。また、青森と当地方は近世から小廻船が不定期で運航されていたが、近代に入り青森市に県庁が置かれるようになると、不定期便では間に合わなくなった。そこで、1902年(明治35年)、上磯地方の有志が上磯汽船会社を設立。汽船福島丸を購入し、青森-宇鉄の定期運航を始めた。堀谷八太郎が同社の社長就任。重役には袰月の小倉十兵衛等が就いた。しかし、冬季の厳しい気候で航海が困難であることや積載貨物不足により、2年余りで採算が取れなくなり、同社は北海道-青森の航海に切り替えた。その後、1907年(明治40年)1月28日に青森市浜町の堀谷回漕店が青森-袰月間の運航を開始したが、長くは続かなかた。 1917年(大正6年)、北海道で漁場を経営していた袰月村の小倉十兵衛が、自身の荷物の運搬のため漁場用の発動機船を購入。当初は自家用にのみ使用していたが、地元民の要望もあり、青森-袰月-三厩間の運航を開始。他社との競争が激しかったため、青森に小倉回漕店を開設し、さらに船を建造し貨客運搬の規模拡大を図った。また第一次世界大戦が追い風になり、上磯地方の商業が発展。小倉回漕店の船だけでは賄えきれなくなり、上磯地方の有志が集い、1919年(大正8年)6月に上磯汽船株式会社を設立。75t積みの汽船「無事丸」を購入し上磯航海にあたった。勢いはここで収まらず、1922年(大正11年)にも「南部丸」を購入。青森県の命令航路の指定を受け、2隻で毎日往復することとなった。しかし、第一次世界大戦後の不景気が当地方に大打撃を与え、経営困難に陥り、同社は解散。以降、運航事業は宇鉄漁業組合に移った⁶¹。
伝説
源義経に関する伝説
地名の由来の項でも述べたとおり、1189年(文治5年)4月30日に奥州平泉で敗れた源義経は、当地方を通り三厩から北海道に渡ったと伝わる。その道中の袰月海岸で、義経の馬の腹の形をした岩に「馬の腹」、その馬の爪痕の岩に「馬の爪」と名付けたという。また「袰岩」は、義経の母衣をかけたため、その形になり「袰岩」と名付けられたとされる。そして地名の「袰月」は、袰岩から眺めた月が見事だったからそう名づけられたいう⁶²。
組織
消防団
消防団の前身にあたる消防組結成以前は、消火設備がないため、ひとたび火事が起きると大変な騒ぎとなった。そのため袰月部落では、1925年(大正14年)10月に大火に見舞われた翌年、腕用ポンプ1台が購入され、警鐘台が設置された。そして、1926年(大正15年)3月15日、ついに一本木村消防組が設立され、袰月・大泊は第一部に属した。その後、組み替えが行われ袰月は単独で第三分団に属した。1952年(昭和27年)12月の袰月での火災の後、ガソリンポンプを購入。つづいて警鐘台を鉄製に改築・設置し、貯水地なども設けられた。1955年(昭和30年)の町村合併に伴い組織替えが行われ、袰月は今別消防団第10分団を担当することとなった⁶³。
青年団
明治中期頃になると読み書きできる者が増えてきた為、そうした知識のある人の指導のもと青年組織の条文や規約が作成された。1890年(明治23年)、「袰月共成会」が風俗矯正・生産奨励を目的に、旧一本木村の中で最も早く組織された。その後、1893年(明治26年)11月に袰月励精会に改称。村中の安全和親・風俗改良を掲げ、救済事業は袰月水難救済会と心を同じくした。会員は、16歳以上の袰月壮年者。1914年(大正3年)11月22日に東津軽郡青年団発会式が挙行された後、一本木村青年団が設立。これにより各部落の青年団体が発展的解消をして、青年団に改められた。1917年(大正6年)、東津軽郡青年団が設立し、一本木村青年団がその支団となり、各部落に分団が置かれた。事業の1つとして毎年支団の連合運動会が催され、袰月青年団は1928〜1930年に連続優勝を成し遂げた。また、1930年(昭和5年)と1932年(昭和7年)の2度、東津軽郡青年団長西田源蔵から表彰を受けている⁶⁴。
処女会
1919年(大正8年)10月13日、袰月処女会が設立される。正会員21名・特別会員18名。処女会は、女子に必要な知識・技能の習得を目的とし、講習会・料理・裁縫の実習が行われ、老人慰安会なども催した。1955年(昭和30年)、処女会と男子青年団が合併し、青年団と改められた⁶⁵。
袰月海宝
2012年(平成24年)2月に設立された合同会社。所在地は青森県今別町袰月31。袰月で採れた海産物「袰月天然岩わかめ」「茎わかめ」「岩もずく」などを販売している⁶⁶。
脚注
出典
- 肴倉弥八.今別町史.今別町,1967,p.8.
- 肴倉弥八.今別町史.今別町,1967,p.22,p.25.
- 肴倉弥八.今別町史.今別町,1967,p.78.
- “イクパスイとトゥキ”.北海道博物館,https://www.hm.pref.hokkaido.lg.jp/post/document/theme-02/detail6859/,(参照 2023-12-26).
- 肴倉弥八.今別町史.今別町,1967,p.22,p.25-26.
- 肴倉弥八.今別町史.今別町,1967,p.135-136.
- 肴倉弥八.今別町史.今別町,1967,p.70-71.
- 肴倉弥八.今別町史.今別町,1967,p.57.
- 肴倉弥八.今別町史.今別町,1967,p.556.
- 肴倉弥八.今別町史.今別町,1967,p.163-169,p.173.
- 肴倉弥八.今別町史.今別町,1967,p.224-225.
- 肴倉弥八.今別町史.今別町,1967,p.225.
- 肴倉弥八.今別町史.今別町,1967,p.227-228.
- 肴倉弥八.今別町史.今別町,1967,p.231.
- 肴倉弥八.今別町史.今別町,1967,p.232,p.234.
- 肴倉弥八.今別町史.今別町,1967,p.235,236.
- 肴倉弥八.今別町史.今別町,1967,p.237-239.
- 肴倉弥八.今別町史.今別町,1967,p.239-241.
- 吉田松陰、津軽巡る.陸奥新報.2021-08-09,陸奥新報,https://mutsushimpo.com/a_landscapes/v8xummjt/,(参照 2023-12-26).
- 肴倉弥八.今別町史.今別町,1967,p.245-250.
- 肴倉弥八.今別町史.今別町,1967,p.356-357.
- 肴倉弥八.今別町史.今別町,1967,p.376.
- 肴倉弥八.今別町史.今別町,1967,p.526.
- 肴倉弥八.今別町史.今別町,1967,p.522-523.
- 肴倉弥八.今別町史.今別町,1967,p.519.
- 肴倉弥八.今別町史.今別町,1967,p.382.
- 肴倉弥八.今別町史.今別町,1967,p.516.
- 肴倉弥八.今別町史.今別町,1967,p.362,378-379.
- 肴倉弥八.今別町史.今別町,1967,p.524.
- 肴倉弥八.今別町史.今別町,1967,p.387.
- 肴倉弥八.今別町史.今別町,1967,p.388.
- https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220223/k10013497801000.html.
- 肴倉弥八.今別町史.今別町,1967,p.383,p.558.
- 肴倉弥八.今別町史.今別町,1967,p.552-553.
- 肴倉弥八.今別町史.今別町,1967,p.555-556.
- 肴倉弥八.今別町史.今別町,1967,p.556.
- 肴倉弥八.今別町史.今別町,1967,p.558-559.
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- 肴倉弥八.今別町史.今別町,1967,p.561-562.
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- 今別町.”今別中学校”.今別町,https://www.town.imabetsu.lg.jp/education/shisetsu/chugaku.html,(参照 2023-12-26).
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- 肴倉弥八.今別町史.今別町,1967,p.494.
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- 【みちのく会社訪問】袰月(ほろつき)海宝(青森県今別町).産経新聞.2017-02-17,産経ニュース,https://www.sankei.com/article/20170217-CV2SHRNMMJIPJIZWLRZ2MGQPQE/,(参照 2023-12-26).
参考文献
タイトル | 著者・編集者・編纂者 | 出版社 | 出版年 | ページ数 | 資料の種別 | URL(国会図書館サーチなど) | 所蔵図書館・利用図書館 | 集落記事 | Tags | 注記 |
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青森縣の神社編集委員会 | 青森県神社庁 | 2002 | 316 | 図書 | 沢田袰月 | |||||
肴倉弥八 | 今別町 | 1967 | 709 | 図書 | 袰月 |