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岩屋郷(いわやごう)は、長崎県東彼杵郡川棚町の大字。名前は大きな洞窟「岩屋」に由来する。人口は時間とともに減少しており、1948年(昭和23年)にあった75世帯も、2023年(令和5年)には13世帯43人となっている。歴史的には藤原道隆の子孫が地頭として統治し、近世には僧円順が岩屋神社を再興。近代には炭谷治作宅で児童教育が始まり、山下力蔵が製陶業を開始した。
地図で見る岩屋郷
地理
大字岩屋郷には、小字が64も存在している。岩屋郷の名前は、大きな洞窟である岩屋に由来している。この岩屋は、横幅約20m・深さ約7.3m・高さ約2mとなっている。神殿は、僧の円順によって建立されたもの¹。
坊ノ前
坊ノ前は、岩屋神社の鳥居の前方にある川向うの小字。『川棚郷村記』には、鳥居の前方に位置する約5畝10歩程度の祭田が存在することや、付近に寺跡があったとの記述が見られる。ここでの坊は、僧の社や僧寺を意味しており、小字坊ノ前の名はこの「坊」に由来すると考えられている¹。
百堂
百堂は、坊ノ前の下隣に位置する小字。この「堂」とはは神社や仏閣を意味し、『川棚の地名・人・方言』では、百堂の名から昔、ここに多数の堂宇が存在していたのではと推測されている¹。
フラン
フランは、岩屋郷の小字。近世、この地域で猪狩りが行われていた際に、フランという名の犬が猪を追い詰めてこの地まで来たという。猪は逃げ場を失い、岩の上から飛び降りたのだが、その猪を追って飛び降りたフランはその命を失った。この犬の献身的な行動を悼み、地域の人々はフランの墓をこの地に築いた。そして、その地の小字として犬の名前「フラン」が取られるようになったのである²。
人口
岩屋郷の世帯数(家数)・人口は下記の通り³’⁴’⁵。尚、岩屋・川原部落を合わせて岩屋郷とする。
年代 | 世帯(家数) | 人口 | 注記 |
1914年(大正3年) | 74 | ||
1930年(昭和5年) | 68 | ||
1948年(昭和23年) | 75 | ||
1963年(昭和38年) | 69 | ||
1996年(平成8年) | 63 | 256 | |
2023年(令和5年) | 13 | 43 | 川原と岩屋の合算。岩屋の世帯・人口は0。 |
歴史
中世
藤原道隆を祖とする小代重俊は、鎌倉幕府から武蔵国から肥後国野原庄を賜り、地頭として下向した。小岱山に本城を築き、十三代にわたる340年余りの間、肥後の北域において阿蘇・菊池に次ぐ有力な武将として地方の祭政を統治した。伝承によると、1582年(天正10年)にこの小代氏の先祖が岩屋に移住してきたという⁶。
初音伝説
戦国時代以前の岩屋郷の伝承に、初音という女性の話が残されている。西彼杵郡大瀬戸町の瀬戸地区から、初音という女性が岩屋権現への参拝のため訪れた。しかし、女人禁制のため、境内には足を踏み入れることが許されなかった。初音はその心中を次のような歌に詠んだ。「いわやいわねのいわこけごろも きてみでかえるせとのはつね」と。歌を詠み終えた後、彼女は川原の谷川で身を清め、七日間にわたり神仏に参拝の許しを願った。岩屋権現の別当は、初音の歌とその禊に心を打たれ、彼女の参拝を許可したのである。初音は、心躍らせて百堂の坂を進み、曲がりくねった急な参道を上がり、さらに岩を這い上がって権現様の御前で礼を述べた。彼女は山を下る際、先に詠んだ歌の「きてみで」を「きてみて」と一字変えて詠み直し、心軽やかに瀬戸へ帰って行った⁷。 彼女が身を清めた場所は、祓川という小字として知られる場所で、川原田原の川向こうにある狭い谷間に位置している。また、円順の頌徳碑にも初音の存在が触れられており、「初音作歌の所なり」と記されている⁸。
近世
岩屋神社と円順
円順は豊後(大分県)出身の僧で、1696年(元禄9年)に大村に来て、萱瀬村(現・大村市)の石場の熊野大権現で宮守となった。その後、彼は坊舎を長男の円暦に譲り、複数の村を巡りながら荒れ果てた神社の再興に努めた。1713年(正徳3年)には瀬戸(大瀬戸町)に移住し、3年の滞在を経て川棚の岩屋へと移り住んだ。その時、岩屋では権現様が大きな岩屋の中に祀られていたが、円順は岩の奥を掘り進め新しい岩屋を作成し、権現様をそこへと移し替えた。さらに、参拝者たちが急な坂道を上るのに苦労する様子を目にし、30余段の石段を築いた。その後、岩屋で14年間の生活を経た円順は、再び萱瀬村の石場へ戻った。岩屋神社の鳥居付近には、1716年(享保元年)ごろに円順によって築かれたと伝えられる、30段の石段が存在する⁹。 拝殿(大岩屋)の入口近くの岩壁には、立派な石盤石が掲げられている。この石碑は、大村藩の砲術師範であった黒川逸平が1722年(享保7年)に建立したもので、僧円順の経歴や功績が詳細に記されている。尚、現在は風化して碑文を読むのは難しいが、『郷村記』で詳らかとなっている¹⁰。
江戸時代、川棚山は藩の代表的な御用山として知られていた。この川棚山は、岩屋と木場の山林、そして大崎山を含む地域で、合計で137町5反4畝歩の用山が存在していた。『郷村記』には、この十一ヶ所を「十一か倉」として記録している。当時の藩は、各村の御用山を管理するための役人を配置しており、これらの役人は「山ノ口」と呼ばれていた。また、盗伐を監視する人々は「山留」と称されていた。江戸時代末、川棚山の山ノ口には川口恒蔵(彼杵村)と福田松右エ門(猪乗)の2名が、山留には中尾源三郎(中ノ川内)、小代郡左エ門(岩屋)、岩永儀助(木場)の三名が配置されていた。岩屋郷の最も奥地に位置する小代家の近くには、山留の番所の遺跡が存在している。明治時代に入り、藩の御用山は国有林とり1907年(明治40年)頃には、この国有林のうち74町歩余りが川棚村に払い下げ、学校の基本財産として利用されることとなった¹¹。
大村藩の郷村記によれば、平戸街道の他に主要な道がいくつかあった。その一つとして、庄屋門前(現:川棚町立小・中学校の北東付近)から虚空蔵岳頂上までの道が挙げられていた。この道は、庄屋門前から石木・川原(現:岩屋郷)を通り木場村まで一里半(約5.9km)で、さらに、その先には「虚空蔵岳頂上」までの道が続いており、この区間は二〇町余(約2.2km)であったが、この部分の山坂は険しいものであったと記されている¹²。
近代
1874年(明治7年)5月、岩屋郷の炭谷治作宅が児童教育の場として利用されるようになった。これが後の石木小学校の起源であった。ただ、2年後の1876年(明治9年)、学校は岩屋郷から移転し、石木郷上石木に新たな校舎を建て、繁谷小学校に改められた¹³’¹⁴。
明治初期、岩屋郷の山下力蔵は自宅敷地内に納屋を建設し、茶碗や皿などの製陶業を開始。彼が使用した陶土は、猪乗川内郷の西瀬平が近くの川原に設置した水車小屋で生産されていた。これが川棚における最初の事業だったと云う。1888年(明治21年)、西瀬平は東彼杵郡長に対して、岩屋郷川原1006番地の土地、面積9畝8歩での陶土つきの水車営業を願い出た。この出願には、絵図面と周辺住民の承諾書が添えられていた¹⁵。
原料として使用される粘土は元々陶石を唐臼でついて作成されていた。しかし、この時期から水車の使用が始まった。川棚村の東部地域、特に石木川流域では、豊富な流水の自然エネルギーを利用して、水車が普及し、発達していた。これらの水車は、大きな流水を受けて回転させることで、重い杵を持ち上げ、石臼に入れた陶石を砕くことで粘土に加工したり、さまざまな穀物や切干藷を搗いたり砕いたりしていた。このようにして粉砕された粘土は、波佐見の窯元へと運ばれた。一方、岩屋地区では水車小屋の近くに窯場も設けられ、陶磁器の製造も行われていた¹⁶。
前述の山下力蔵は、岩屋郷において信望の厚い人物で、約40年に渡って岩屋郷の総代を務めた。また、近隣の木場郷や石木郷とも連携し、里道(村道)の改修に努めるとともに、村有林の部落(郷)有化にも尽力したのである。里道改修が始められたのは1892年(明治25年)で、1894年(明治27年)に完工した。旧来の石木から岩屋・木場を結ぶ道は、石木から鶴堂-祓川(はらいごう)-岩屋祓川-川原-狩集を経て木場までの路線だった。しかしこの道では、上石木と祓川の間に橋が存在せず、飛び石を使って川を渡っていた。そのため、石木川が増水すると、飛び石が水面下に隠れて通行が困難になった。このような不便さを解消するため、繁谷(石木郷)を経由する新たな里道に改修するに至った。また、この時に川原橋と中ノ川内橋が新たに架けられた。尚、『続続川棚歴史散歩』では里道改修の完工時期が1890年(明治23年)となっている¹⁵’¹⁷。
1906年(明治39年)頃、北松浦の田中兵助は岩屋郷中川内(鉱区78,000坪)で褐鉄鉱の採掘を開始した。1918年(大正7年)頃には、彼は工夫20人余りを雇用し、年産12,000トン(1トンあたり6円)の褐鉄鉱を採掘し、八幡製鉄所に送られた。毎日約20台の荷馬車が鉄山から川棚駅まで1日に2往復していたいう。尚、褐鉄鉱は鉄の含有が少なかったため、第一次世界大戦後に閉山している。この鉱山開発の時期には、虚空蔵山の国有林が伐採され、その木材は長崎に送られた。これらの木材は長崎県の庁舎新築に使用され、その県庁は1911年(明治44年)4月25日に完成したのである¹⁸’¹⁹。
現代
旧川棚村には、大字として百津・石木・岩屋・木場・猪乗河内・五反田・上組・中組・下組・白石・三越・小市・新谷の合計十三ヵ郷が存在していた。しかし、行政の効率化のために新たに行政部落が導入された。この制度の下で、岩屋郷には岩屋部落の他に、川原(かわはる)部落が新たに設置された²⁰。
悠久の森
1990年(平成2年)6月18日、川棚町悠久の森条例が制定された。川棚町では、ふるさと創生事業の一環として「悠久の森」づくりが推進され、創生資金1億円のうち、3000万円が購入資金として使われた。この資金により、虚空蔵岳周辺の町分収林を立木のままの杉やひのきを町が購入し、"緑を残そう”というコンセプトのもとで事業が進められた。1990年(平成2年)度には、22haの分収林が購入された。1998年(平成10年)度末の時点で、合計42.7haの分収林が「悠久の森」として確保され、そのうちの5haは岩屋郷字フランに位置する²¹。
名所
岩屋神社
岩屋神社は、岩屋郷に位置する神社。『郷村記』によれば、岩屋権現は弘法大師の創建だという。弘法大師は、岩屋で護摩を修した後、虚空蔵山に登上り、虚空蔵菩薩の像を彫刻して安置したと伝えられている。岩屋権現の祭神である昆沙門天は、仏教を守護する多門天を指し、国土の安全や五穀豊穣を守る役割を持つ。岩屋権現には、昆沙門天の左右に、左大臣と右大臣の像も置かれている。これらの像は経年の劣化で損傷が激しかったため、1978年(昭和53年)秋に塗り替えられた。江戸時代には、岩屋権現として称されていたが、1868年(明治元年)の神仏分離令により、権現を称することが禁じられたため改称。また、神社の額の文字を砥石で削り取り、新たに「岩屋神社」と刻むこととなった。その結果、一の鳥居の額だけが新しいものとなった。神社の石段には鬼に関する伝説が伝わる²²。
『郷村記』には岩屋神社の石段の総数が202段と記されており、そのうち、上部の約170段の石段は1793年(寛政5年)に築かれたもの。最上段の石段の左右に立てられている小さな石柱には、その石段の築造年代(寛政5年)や石工の名前、頭人の名前が陰刻で刻まれている。また、拝殿と神殿を結ぶ狭い岩穴があり、この狭い穴は「針の耳」とも称されている。伝承によれば親不孝者はこの穴を通る際、お尻が引っかかり出られないといわれている¹’²³。
岩屋の奥部は黒ずんでおり、これは過去に修験者たちが護摩を度々修することによって、岩屋の壁が黒くなったためである。この護摩の煤により、昆沙門天の神像(木坐像彩色)も汚れてしまった。これに対し、前述の僧円順が岩屋の奥に新たな洞窟を作成し、神像をそこへ移転した。1717年(享保7年)以前のことだという²⁴。
水子観音
水子観音は、高さ46センチの陶製の像で、三河内の稲田国四郎によって制作された。この観音像は、1924年(大正13年)12月に、平戸の五右エ門によって創祀された。祠は規模が小さい。岩屋神社の鳥居から小川沿いに谷を深く進み、橋を渡って旧虚空蔵登山道を100メートル進み、小川を越えると滝の前に到着する。水子観音はその滝の左側に位置している。この地域の字名は焼麻で、この名前に因んで、焼麻観音または水子観音と称されるようになった。現在では、滝に因んで滝の観音として呼ばれるようになった²⁵。
八武岩大明神
八武岩大明神は、岩屋谷の谷口のすぐ道上に位置する墓碑。『郷村記』には、「山の神、弥陀・釈迦・観音の梵字大石に彫付。脇に春海の銘あり」と記録されている。岩屋の住民たちは「やぶ神さま」と称し、落人の墓と伝えられている。この墓碑は高さ約1.5メートルの板碑で、かつては道下に存在していた。しかし、大正時代初めに里道を作る際、碑を二つに割り、梵字が彫られた方を岩屋神社の境内に移動した。その後、墓碑の主が、元の墓地の前に住む川尻氏の夢の中で現れ、元の場所に戻りたいとの願いを訴えたため、碑は再び現在の位置に戻されたと云われている。この板碑の周囲には多数の五輪塔などが存在し、施主道幸の銘も見られる。これらのものは岩屋の各地で見つかったものを、ここに集めたと伝えられている²⁶。
小井手の滝
小井出の滝は、地内にある3段の滝で、その上段は約27メートルの高さに達す。大井手家の屋敷から山へ10分登ったところに位置する。小井手は焼麻の下隣にある。「井手」とは、水田への水供給のための川の堰で、その場所の名称も小字などの地名として使われている²⁶。
虚空蔵山
虚空蔵山は、岩屋郷に位置する山で、頂には虚空蔵菩薩が祀られている。かつては「虚空蔵岳」「甲後岳(コウゴタケ)」「コクンツダケ」とも称されていた。西九州の地域では、「岳」という名前がつく山が多く見られる。特に旧大村領や川棚でもその傾向が認められる。この「岳」は、「タケ」(長)や「タカ」(高)といった言葉と同根で、高さや長さを示す言葉であるとされている。虚空蔵山の名前がつけられた背景には、虚空蔵菩薩を祀ることに起因しているという。木場や岩屋の農家では、長期の日照りにより稲作が危機的な状況となった際、農家たちは山頂に登り、虚空蔵菩薩に味噌を塗りつけて雨乞いを行っていた。味噌を塗ることで菩薩が喉が渇いて水を欲しがり、雲を集めて雨を降らせてくれると信じていたためだという²⁸’²⁹。
タチバナの古木
タチバナの古木は、小代家の屋敷から少し下った位置の道端、前述の滝の観音付近にある大木。この木の幹の直径は約80センチメートルで、高さは五メートルを超える。この種でこのような大きさのものは、県下で見ることは稀であり、その価値を認められて町によって天然記念物に指定されている⁶’³⁰。
文化
茅講
岩屋郷には茅講という習慣があり、地域の住民たちが共同で茅を集め、屋根の葺き替えを行っていた。旧暦の正月を迎える前、雪が降る前に茅を収穫し、家の周りで乾燥させて保存していた。そして夏になると、これらの茅を共有し、各家の屋根を葺き替える作業を行っていた³¹。
消防団
1921年(大正10年)、岩屋地区で消防ポンプを購入された、当時の岩屋地区の消防組の存在は不明。その後、1939年(昭和14年)4月に川棚消防組が解散して川棚町警防団として再編された際、岩屋・木場分団も加わった。警防団は国策として上意下達式で組織され、その活動範囲は従来の消防防災だけでなく、国土防衛にも拡大された。しかし、終戦後の1947年(昭和22年)10月1日に川棚町防団は解散し、川棚町消防団として再び編成された³²。現在、岩屋郷(岩屋・川原)は川棚町消防団第二分団の管轄下にある³³。
産業
農業
水田の管理には水が不可欠であるため、古くから水利の整備に力が入れられていた。特に、山田の多い東部山間部では、谷川を堰き止め、井手を設けることで水利を確保していた。一方、揚田が多い白石以西の丘陵部では、堤や溜池の設置が行われていた。岩屋郷地内を流れる岩屋川には51の井手があり、中川内川には23の井手が存在していた。また、特殊な名称を持つ井手としては、岩屋のうばんつくら・百堂・川祭り・勘蔵屋敷・じゃくめき・阿弥陀寺、中川内の平六淵などが挙げられている³⁴。
伝説
姫君伝説
かつて平戸から逃げてきた美しい姫君が岩屋に身を隠したという。この姫君には許婚がおり、さらには相愛の男もいた。二人の男は逃げた姫を探し、ついに彼女を見つける。しかし、彼らはその場で刀を取り出して争い、その結果、許婚の男の方が強く、相愛の男は深手を負った。しかし、相愛の男は、隙を見て短刀で許嫁を刺し、返す刀で自害し息絶えた³⁵。
鬼の石段
伝説によれば、かつて鬼が人里の近くに住んでいたことが問題視され、岩屋の神様が鬼たちに明朝までに石段を百段築くよう命じた。鬼たちは石段を迅速に築き上げ、最後の一段を残すところまで来たとき、神様が陣八笠を叩き、鶏の鳴き声を模倣して鬼たちを騙した。鬼たちはその鳴き声を聞き、期日の朝だと思い込み、作業をやめて姿を消したという。この伝説は、九州の国東半島(大分県)の熊野磨崖仏の石段など、各地にも存在する。これは、岩屋権現を訪れた山伏が他所からこの伝説を持ち込んだ可能性が考えられている³⁶。
交通
岩屋線
岩屋線は、岩屋権現の近くから岩屋林道に至る道路。全長880m。この道路の整備は1994年(平成6年)度から開始され、赤岩橋の架け替えを含む工事が進められ、1998年(平成10年)度に完成した。このプロジェクトは、一部を県の事業として取り組む形で実施された³⁷。
橋梁
川原橋
1894年(明治27年)、里道木場線の改修の一環として、初代の川原橋が設置された。その後、1917年(大正6年)に石造りアーチ型構造の二代目川原橋へ架け替えられた。この架け替えの記念として、川原公民館玄関の隣の崖上には記念碑が建立されている。設計を担当したのは石木の辻蔵一で、その施工には上組の石工松本修蔵と堀川金之十らが関与し、この橋を完成させた。橋は、長さが9.3m、幅が3.4m、そして水面からの高さが4.2mとなっている。大型のトラックや、木場線の定期バスなど、現在でも多くの車両がこの橋を利用して通行している。また、川原橋の強固な設計と堅牢さに自信を持つ辻蔵一は、『地球の崩れるまでこの橋は崩れない』との言葉を残しているいる³⁸。
勘蔵橋
勘蔵橋は、大正初期に建設された石造りのアーチ型の橋。長さ6m、幅3m。その全面がカズラで覆われていることである³⁹。
赤岩橋
赤岩橋は、1997年(平成9年)3月に竣工した鉄筋コンクリート造の橋。長さは15m、幅は5mで、広域基幹林道虚空蔵線に接続している⁴⁰。
脚注
出典
- 喜々津健寿.川棚の地名・人・方言.喜々津健寿,1974,p.21.
- 喜々津健寿.川棚の地名・人・方言.喜々津健寿,1974,p.22.
- 川棚町教育委員会.川棚町郷土誌.川棚町教育委員会,2002,p.283.
- 喜々津健寿.川棚の今昔.喜々津健寿,1969.p.69.
- 川棚町.”地区別人口及び世帯数”.川棚町.2023-12-7,https://www.kawatana.jp/cat05/c5-01/post_128/,(参照 2023-12-21).
- 喜々津健寿.川棚歴史散歩.芸文堂,1986,p.74.
- 喜々津健寿.川棚歴史散歩.芸文堂,1986,p.69-70.
- 喜々津健寿.川棚歴史散歩.芸文堂,1986,p.70-71.
- 喜々津健寿.川棚歴史散歩.芸文堂,1986,p.66-67.
- 喜々津健寿.川棚歴史散歩.芸文堂,1986,p.67-68.
- 喜々津健寿.川棚歴史散歩.芸文堂,1986,p.72-73.
- 川棚町教育委員会.川棚町郷土誌.川棚町教育委員会,2002,p.388.
- https://www.kyoui.kawatana.jp/ishikisho/
- 喜々津健寿.川棚の今昔.喜々津健寿,1969.p.40.
- 喜々津健寿.続続川棚歴史散歩.芸文堂,1991,p.47.p.49.
- 川棚町教育委員会.川棚町郷土誌.川棚町教育委員会,2002,p.352.p.355.p.356.
- 川棚町教育委員会.川棚町郷土誌.川棚町教育委員会,2002,p.395.
- 喜々津健寿.続続川棚歴史散歩.芸文堂,1991,p.50.
- 川棚町教育委員会.川棚町郷土誌.川棚町教育委員会,2002,p.353.
- 喜々津健寿.川棚の今昔.喜々津健寿,1969.p.70.
- 川棚町教育委員会.川棚町郷土誌.川棚町教育委員会,2002,p.243-245.
- 喜々津健寿.川棚歴史散歩.芸文堂,1986,p.65,69.
- 喜々津健寿.川棚歴史散歩.芸文堂,1986,p.68.
- 喜々津健寿.川棚歴史散歩.芸文堂,1986,p.68-69.
- 喜々津健寿.川棚歴史散歩.芸文堂,1986,p.71-72.
- 喜々津健寿.川棚歴史散歩.芸文堂,1986,p.74-75.
- 喜々津健寿.川棚歴史散歩.芸文堂,1986,p.72.
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- 喜々津健寿.川棚歴史散歩.芸文堂,1986,p.13.
- 川棚町教育委員会.川棚町郷土誌.川棚町教育委員会,2002,p.54.
- 喜々津健寿.川棚歴史散歩.芸文堂,1986,p.52.
- 川棚町教育委員会.川棚町郷土誌.川棚町教育委員会,2002,p.256.
- 川棚町.”川棚消防団入団の手引き”.川棚町,https://www.kawatana.jp/item/13f612286242b268b38541e07a0a6c6a.pdf,(参照 2023-12-21).
- 川棚町教育委員会.川棚町郷土誌.川棚町教育委員会,2002,p.307.
- 喜々津健寿.川棚歴史散歩.芸文堂,1986,p.75.
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- 川棚町教育委員会.川棚町郷土誌.川棚町教育委員会,2002,p.406.
- 川棚町教育委員会.川棚町郷土誌.川棚町教育委員会,2002,p.426.
- 川棚町教育委員会.川棚町郷土誌.川棚町教育委員会,2002,p.426-427.
- 川棚町教育委員会.川棚町郷土誌.川棚町教育委員会,2002,p.427.
参考文献
タイトル | 著者・編集者・編纂者 | 出版社 | 出版年 | ページ数 | 資料の種別 | URL(国会図書館サーチなど) | 所蔵図書館・利用図書館 | 集落記事 | Tags | 注記 |
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喜々津健寿 | 芸文堂 | 1986 | 259 | 図書 | 岩屋郷 | |||||
喜々津健寿 | 芸文堂 | 1991 | 258 | 図書 | 岩屋郷 | |||||
喜々津健寿 | 鳥影社 | 1983 | 196 | デジタルコレクション | 岩屋郷 | |||||
喜々津健寿 | 喜々津健寿 | 1974 | 214 | 図書 | 岩屋郷 | |||||
喜々津健寿 | 川棚町 | 1969 | 184 | 図書 | 岩屋郷 |