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門馬(かどま)は、岩手県宮古市の大字。
地理
『門馬佐々木文書』によると、1598年には当地は「数馬(かずま)」または「数間(かずま)」称されていたという。その後、1655年(承応4年)時は「鹿妻(かづま)」「門妻(かづま)」と記録されている。最終的に1804年(文化元年)3月朔日陸奥国郡村仮名附帳(南部家文書)で「門馬(かずま)」と書き上げられ、現在の「門馬(かどま)」という地名が用いられるようになった。また『産業文化巻蔵定目御領分中本村枝村仮名附帳安政五年』(1858年)でも「門馬」と称されている。
歴史
近世
南部藩と門馬御役屋
豊臣氏滅亡後徳川氏に従うようになった南部氏は、1634年(寛永11年)、幕府から十万石の判物を受け、その領地は広範囲に渡った。寛文年間(1661年~1672年)以降、南部藩では「通り制」を導入。更に1735年(享保20年)3月には領内を10郡33通に分け、各地の便宜を図り25箇所に代官所を設置され、門馬村は岩手郡上田通に属し上田通代官所の支配下に置かれた。更に門馬村には出張所にあたる上田通代官所門馬御役屋が設置された。この門馬御役屋は、閉伊郡との国境を監視するための番所的な役割も担っていて、弘化・嘉永の百姓一揆の際には思いがけずも農民に襲われた。尚、現在も僅かにその遺跡が残っている。
南部領の石高は1634年(寛永11年)に徳川家光から認定された10万石が基本となっており、これは太閤検地による見積高と推測されている。尚、太閤検地の門馬村の田高は7斗1升6合と打ち出されている。当時の門馬村は、村高11,161・田高617・畑高10,445で村高のほとんどを畑高が占めていた。これは稲作が畑作と比べ、凶作等になると無毛となることが少なくないため農民が積極的に開田しなかったためとされている。
近世の当地方における肝煎は、関東における名主や関西における庄屋と同じ性質のもので、村民が推薦した者を藩が認める形をとっていた。また老名と呼ばれる年寄(古人)と共に肝煎を補佐する役割があった。老名(オトナ)はアイヌ語のオツテナ(酉長)から変化したものとされ、多くが村の顔役・豪農・前肝煎・篤農家などが就いていた。当時の農民文書等から推計するに門馬村には3名ほど老名がいたとされている。また「天保十四年2月宗門改帳」によると、当時の行政機関の末端組織である五人組は門馬に2組あったとある。
藩主と早池峰山妙泉寺
門馬には歴代藩主からの信仰が厚かった早池峯山妙泉寺があったため、祭祀料4合5斗8升8合が下付されていた。更に、妙泉寺は早池峯別当のほかに代々早池峯山の御山守を命じられ、「早池峯のひのき」の監視に当たっていた。そのため、安永・享和年間、門馬村の石高5石1斗余りのうち4石5斗8升5合が早池峯山祭会料と記載されている。また門馬村並びに田代村・平津戸村には閉伊街道の宿場が置かれ、明治維新まで人馬継立を務めていた。
滝留め破壊事件
1853年(嘉永6年)7月、宮古通川井村袰岩に漁獲のために滝留めが設置された。しかし、これの設置により上流地域に鮭や鱒などが上らないとして、上田通門馬・田代・平津戸の3ヵ村の農民10名が滝留場に押し寄せ、取り壊すという事件に発展した。その為、同月13日に田代村肝煎名代甚右衛門・平津戸村肝煎善次の両名が川井村肝煎所に出頭し謝罪。それに対し、肝煎所では「地頭まで報告し、その沙汰を待って処置をする」とし、両名を同地の門三郎宅に泊らせ待たせた。しかし、2泊しても何の音沙汰もなかったため、両名は15日未明に夏屋に用事があると帰村した。これは、地頭まで実際に報告したのではなく、肝煎の謝罪に対する応対に過ぎなかったのだと推測されている。
宮古街道における門馬の役割
近世における旧川井村域の宮古街道では古田村から門馬村までの伝馬が課されていた。そのため門馬村・川井村・箱石村・川内村の4ヵ村には馬継所が設置され、宿駅の仕事として人馬の継立が行われていた。しかし、宮古街道はわずかに狐狸が通れるほど悪路で人馬泣かせの難所ばかりだった。時には馬も通れない為、人の背や肩に物資を乗せ運搬していたこともあり、農民の負担は容易ではなかった。近代に入ると政府は、宿駅制度を改めてその運営を民営に移し、新たに陸運会社設立を進めた。門馬駅だった佐々木義光家には、伝馬から陸運会社に関する一切の書類が保存されており、藩政時代に長い間伝馬のために苦汁を舐めた農民にとって、明治政府が推進した陸運会社設立がいかに有難かったかが窺える。こうして1873年(明治6年)3月、宿駅制度は廃止され、陸運会社がその役を替わることとなった。尚、1875年(明治8年)5月に全国的に解散された陸運会社は、新たに内国通運会社連合として発足し業務が引き継がれている。
近代
1869年(明治2年)3月4日、南部利恭が版籍奉還を建言。利恭は盛岡から白石へ転封され白石藩知事に任命された。7月22日に盛岡を出発し白石に赴いたものの、その後に特旨をもって盛岡藩知事に改めて任命された。そのため9月5日に白石を発ち盛岡に帰ると、10月10日には盛岡の城地を戸田藩並びに真田藩から受け取った。そして、この管轄区域は紫波・稗貫・和賀・岩手の4郡のうちの13万石と定められた。そのため、長年南部藩の支配下に置かれていた門馬村は白石転封と同時にその支配から離れることとなった。尚、同年8月に代官所が廃止されるに伴って給所地は全部御蔵地に変わった。門馬村は平津戸・田代と共に上田通に属していたため、御蔵地として松代藩に属すようになった。また、8月18日に江刺県が遠野に設置され、宮古に県出張所が設けられると、門馬村を含む旧川井村はその統轄に属した。江刺県が発足すると大庄屋のもとにあった肝煎・老名は改められ、肝煎は庄屋、老名は廃止され代わりに大組頭が置かれた。尚、史料によると当時の門馬村の庄屋は虎之助、大組頭は卯之助とある。 1871年(明治4年)4月、諸国寺々葬式差止の法度があったため村内は先例により内々で行われるようになり、門馬の妙泉院などの山伏の霞(俗界での縄張りのようなもの)は取り上げられたため帰農した。神道においては神道頭が任命され、門馬では早池峯別当佐々木織太がこれに就いた。 また同年5月21日「三陸村吏規定」が改正されると大庄屋・庄屋大組頭の制度が廃止され、大庄屋は郡長、庄屋は村長、大組頭は百姓代に改められ、村長のもとには新たに副村長が置かれた。これにより門馬村は田代・平津戸と共に上田通郡長所(郡長上田温重)の管轄に属した。これに伴い門馬村では、村長に生方寅之助、副村長に沢口卯五助、百姓代に菊池岩松がそれぞれ就いた。尚、同年11月に江刺県は廃され盛岡県に属すようになった。1873年(明治5年)1月8日、盛岡県が岩手県と改称され、岩手県宮古出張所が宮古村字宮古に設置された。同年4月には宮古出張所が宮古支庁に改め、同時に岩手県管内を二十一区に分け、それぞれ区長所・官選の正副区長が置かれた。この時、門馬は第一区に属した。
1889年(明治22年)、明治の大合併により門馬は平津戸・田代と合併し門馬村(66戸/410人)となった。この町村合併は、訓令により標準戸数300~500戸を基準とされており、近代的自治能力を有する地区は独立村とし、これを欠いている場合は合併して基準に近い自治体を作る必要があった。また財政・地理・交通の面で合併が困難な場合は、近接の有力自治体と組合村を作り援助しあう形式をとることもあり、例に倣い門馬村も川井村と「川井・門馬組合村」を組織するに至った。1892年(明治25年)5月、組合村内の各部落ごとに区長が1名任命され、役場からの事務連絡や部落の自治的運営の役を担った。この区長制度は、1943年(昭和18年)2月の隣組組織にしたがい部落会長制度に移行。尚、1947年(昭和22年)2月以降は連絡員制度に変わっている。
1902年(明治35年)9月8日並びに28日、 当地方を大暴風が襲い稲作や畑作に大きな被害を及ぼした。とりわけ高冷地にあった門馬の被害は甚大で、元々国有林の払い下げに依存しなければいけない生計だったこともあり、農民の困窮は計り知れなかった。そのため、1902年(明治35年)12月23日、凶作の為国有林払い下げ樹木の減価の願いが農民の連署で提出されている。
1933年(昭和8年)、山田線が開通。組合村内には6駅(区界・松草・平津戸・川内・箱石・川井)が設置された。
現代
近代までは地理的要因などから開田には消極的であったが、戦後の食糧難において米不足が最も深刻になると村を主体に開田熱が高まった。また、同時期に農業改良普及事務所の指導で水田耕作にも改良(折衷苗代)が加えられたことで、寒冷地帯の水田耕作も可能となり、門馬でも水田がみられるようになった。
古来から続く水害との戦い
当地方は藩政時代から大風水害により災害に見舞われることが少なくなかった。これに対し南部藩は、防止対策として水源地帯の山林を「御留山」「水ノ目山」と称し、農民がみだりに伐採することを禁じた。しかし、こうした努力も虚しく激しい風水害に見舞われ、耕地が川欠(河川が決壊し田畑が荒らされ当分耕作ができない田畑)となり、たびたび農民が他領に移らざるを得ない事態が発生した。特に当地方では、早池峯山の崩壊や閉伊川流域の風水害が頻繁に起きていた。また1910年(明治43年)8月に大風水害で当地方に多大な被害が及ぶと、治山治水の必要性が強く叫ばれるようになった。これに対し県は、1914~1915年頃から治山治水調査を開始。以降、土砂崩壊防止や護岸工事を継続事業として重点的な施工をするようになった。また、戦時中の乱伐や1947年(昭和22年)・1948年(昭和23年)に襲った台風の大豪雨により早池峯山腹の大決壊が起こり、同山系の渓谷で土砂や倒木が押し流されたことで、民家・耕地は荒らされ県道や線路は寸断される事態も起きた。そこで幾つかの大きな堰堤の建設をすることとなり、昭和25年度(1950年)、門馬地内に川井営林署が御山川の堰堤工事を施工。当工事では、第一号堰堤(練積堰堤)が昭和25年度に着工され、昭和56年度(1951年)に長さ103m・高さ12m・総立積約6,900m3・貯砂量560,000m3の大堰堤が完成された。これは林野庁が始まって以来最大規模のものだった。
1955年(昭和30年)に川井村・小国村と合併し旧川井村に属した。
産業
1821年(文政4年)11月に南部藩により書き上げられた「産物書上帳」には、桧柾(御用柾)と白しめじが門馬村の物産として記録されている。また1878年(明治11年)12月調査の岩手県管轄地誌では、牛・馬・稗・蕎麦・大角豆・大豆・小豆・白芋・蘿蔔(大根の漢名)が物産として挙げられている。
林業
承応年間(1652年~1654年)、南部藩は早池峯山麓にある門馬(数馬)に御山守を置き森林の管理保護にあたらせた。これには藩有桧の保護並びに伐採運搬などの監視責任があった。当地における林業の規模は、1653年(承応2年)から1702年(元禄15年)までの約50年間における95件の御材木証文(佐々木義光文書)が物語っており、門馬別当が南部藩から命じられ門馬山から生産搬出された桧材や桧柾の数量は膨大だった。 まず、桧の材木(鹿料・打割・三成(こば)の総数量は81,157丁、桧の帆柱その他が102丁、桧柾39,671,650枚で合計4,783,54石程(時価200億円)と換算される。当時、柾は一駄につき800枚で、元禄の頃は七駄につき1分の価値だった。運搬方法は明記されていなかったものの、柾だけは駄送(馬での運搬)だった。仮に鹿料も駄送であったら約5万頭が必要であった。また帆柱は60尺(約18m)に及ぶため人の肩にのせて遠い盛岡まで陸送していたとされる。季節によって鹿料は、一部分を流送していたとも考えられているが、いずれにせよ大規模な事業である。桧の行先は、盛岡・江戸・伊達領・花巻・郡山など広域であった。尚、これは現存する文書による数量で約50年間の記録のため藩政時代の一部分に過ぎない。1846年(弘化3年)の「総御山木数書上」によると、門馬村の木数はひのき72,700・桂1,908・雑木468,400・松500・その他1,225と記録されており、いかに豊富な資源であったが分かる。
1875年(明治8年)の土地官私区分の際、農民の中には「自分の所有にするより、お上のものとしておけば有利である」考えるものもいたという。そういった背景もあり、当時の上田通門馬村・平津戸村・田代村では、村役人が先頭となり民有の証拠となるような証文類をすべて回収し焼却してしまい、すべて国有林になってしまった。一旦官有地に編入されると、勝手な山林の出入りが禁止され、飼料や薪炭をとることができなくなるため、農民の中には盗伐を行い処罰される者もいた。 次第に国有林の林区制度が整備されると、民間需要の薪炭材の払い下げや立木の払い下げなどが行われそれを生業の糧とするようになった。そのため門馬地区では桧の立木を払い下げ、柾にして売却していた。それでも、前述の通り全村官有にしてしまった影響は大きく、常に払い下げに頼らなければ生計を立てられない状態だった。1902年(明治35年)の凶作の際は困窮を極め、地区民連印をもって国有林払い下げ願いがだされている。
畜産
かつて門馬や近郷の小国は南部馬の名産地だった。藩政時代には南部藩が領内に馬産を推奨し馬の飼育を盛んにしたため、門馬を含める旧川井村内のほとんどの家で馬を飼育されていた。当初は運搬用に使用されていたが、次第に一般農業経営に利用され、馬産地として発展していった。門馬村では、1718年(享和3年)時点で16戸で馬が飼育されていて、1戸あたり3.6頭飼っていた。尚、1戸あたりの馬数は旧川井村域の13村の中で田代村に次ぐ2番目に高い数字だった。また、1797年(寛政9年)時点の馬数の記録も残っていて、門馬村には58頭飼育されていたとある。
教育
1872年(明治5年)に学制が頒布されるまでの教育に関する資料が少なく、古老の言い伝えなどによってその一部を知るほかない。史料によれば、門馬には「別当家」という私塾があり、早池峰山別当の佐々木某が塾主を務めていたとある。1789年(寛政元年)に開業し筆道・読書が教えられ、1874年(明治7年)に廃業となった。
門馬小学校門馬分校
1872年(明治5年)の学制を頒布に伴い、旧川井村域においても1876年(明治9年)から1877年(明治10年)にかけて小学校が続々と設置された。そのほとんどが、近世からの私塾や寺子屋がそのまま小学校に編入されたもので、その大半が仁恵学校の体制をとっていた。 仁恵学校とは、学区民が校費を拠出することが困難なため、小学委託金などの補助によって設立・経営されたもののこと。学制頒布により全国で学区が編成され、いかなる僻地にも小学校を設ける必要があった。岩手県もこの方針に沿い速急に教育体制を整備するのに努めたが、戊辰戦争において南部藩が朝敵の名を受けたことが影響し、その後の諸般における政治的不利が生じ、学制施行にもかなりの立ち遅れがあった。また民力が低かったこともあり、僻地の学校開設には国庫補助に頼り、仁恵学校として開校するしかなかった。当時の様子が窺える史料として、門馬村の佐羽内政治が提出した文書がある。これによると、政治は門馬学校設立に際して1877年(明治10年)5月から翌年4月まで五円五捨銭を12ヶ月賦で寄付することにしたが、借金が出来て寄付が困難となったという。しかし、身代を持ち直した上で寄付をする為この事を了解して欲しいというものだった。こういった史料から、当地方での学校設立がいかに困難であったが推測できる。
門馬では、1876年(明治9年)2月30日、第18区門馬村字大滝8番地の民家を借用し門馬学校が開設された。当時の児童数は男6名・女7名。1886年(明治19年)4月には新たに小学校令が公布され、門馬簡易小学校に改称。これまでの方針は、児童の就学を強く求めるもので、義務教育についてはあまり厳しくなかった。そこでこの小学校令では義務教育を強調し、初等科中等科を尋常小学校、高等科を高等小学校と二段階にし、修業年限をそれぞれ4年とした。こうして尋常小学校の4学年を義務教育として、ここに一般のための基礎教育が構成された。また簡単な初等教育を行う制度として、小学簡易科の設置も承認。門馬学校を含む旧川井村域のほとんど学校はこれを採用し、簡易小学校への改称に至った。
1892年(明治25年)4月、小学校令の改正により従来の小学校はすべて尋常小学校へ改称されることになった。この改正により、門馬小学校は田代尋常小学校に属され、田代小学校門馬分教場に改められた。その後も田代小学校の分教場・分校として続き、1957年(昭和32年)2月10日に新校舎が門馬第1地割53番地3に完成し移転をした。
すて・こと大学
「すて・こと大学」は生涯学習の場として、地域の高齢者と子供たちが共同で名産の「田代そば」を栽培などを行っている。また「親子かっぱ祭り」では、地内を流れる黒沢川を堰き止め魚の掴み取りなどが行われ、行事を通して世代間交流が行われていた。他にも同地の郷土芸能である「田代さんさ」「しらかば太鼓」「田代念仏剣舞」の保存・伝承活動や、2年に1度「雪どけ演芸会」が催されている。
交通・通信
門馬郵便局
1880年(明治13年)6月13日、盛岡郵電信局所管郵便取扱所として中閉伊郡門馬村大字門馬12番戸に開設。その後大字内で2度移転し、1931年(昭和6年)12月10日に大字田代第四地割28番地ノ18に局舎新築移転。1942年(昭和17年)4月、門馬郵便局に電話開通した。
神社仏閣・名所
早池峯神社(早池峯山開慶寺・妙泉院・門馬別当)
806年(大同元年)3月、佐々木某が門馬御坂(早池峰山門馬口登拝道)を切り開き、山嶺に本宮阿弥陀如来・若宮十一面観音を本尊とする両社を建立したのが始まり。以降、門馬御山御用を仰つけられ、御山守も兼務することとなった。代々、早池峰山新山大権現の別当として奉仕してきた為、一般に「門馬別当」家と呼ばれた。その後、佐々木与惣左衛門勝光を経て、1533年(天文2年)佐々木与次郎義光が本山聖護院若王子より妙楽院号御免となり、早池峰山開慶寺を開山。1535年(天文4年)3月には、両宮・門馬口御坂・新山大権現の修復が行われ、大旦那田鎖義宗によって遷宮式が行われた。また1598年(慶長3年)5月12日にも「新山大権現御宝前及両宮修覆」が行われており、当時の大旦那は南部氏だった。1666年(寛文6年)にも両宮及び新山大権現の修復がなされ遷宮している。1684年(貞享元年)、以前より別当・山守として御山の管理に当たっていたが、初めて白戸与左衛門並びに渡部平右衛門が門馬御山奉行に任命された。しかし、門馬桧雑木は別当職の支配下にあった。1711年(正徳元年)9月8日、新山大権現再興遷宮山伏神楽が奏された。元来、社殿や籠堂の再興・修復は門馬別当により行われていたが、この時は嶽・遠野両妙泉寺からも応援が出されている。 1724年(享保9年)閏4月14日、妙泉院院号御免となる。 1733年(享保18年)、御嶺両宮の再興に際し、嶽・遠野両妙泉寺から早池峰山別当のことにつき異議の申し立てを受けるという門馬別当圧迫の事件が起きた。最終的にこの論争は奉行織笠庄助の尽力により和談となり、遷宮式は延期された。しかし、1744年(延享元年)の頃にも両妙泉寺から様々な難題が投げかけられており、その度に代々別当や社殿籠堂修復など詳細に寿松院宛に報告をしており、その誠意と苦難忍従は並大抵ではなかったと云う。その後も幾度となく再興が行われながら、1869年(明治2年)に神仏習合廃止に伴う社格定めにより村社となった。祭神は瀬織津姫。1887年(明治20年)8月18日、佐々木織太が拝殿の営繕願を県知事に提出。その内容は、明治維新による社格定めで門馬村社となったものの、古来より営繕は旧南部家によって行われており、自力では賄えない為拝殿の再興は寄付を広く募りたいというものだった。また、同時期に山頂に不動尊を祀っている。この不動尊石きざみ地蔵に寄付をしたのは佐々木織太外村内一同だった。そして、1926年(大正15年)2月24日、村社の現在地への移転が許可された。
妙泉院道場(早池峯山開慶寺)
妙泉院は、門馬口御祈祷所とも称され、門馬一地割地内の門馬別当家敷地内にあった。1798年(寛政10年)、以前よりあった岳・遠野両妙泉寺との論争が紛らわしいとして、居宅建替の際に籠堂に安置していた本尊十一面観音を当道場に遷座。山号は早池峰山で寺号は開慶寺と称していた。
民俗・文化
門馬神楽
門馬神楽の流派は「山伏神楽」で早池峰山を中心として修験者によって伝承されてきたもの。もとは山伏たちが集い、受け持ちの祈祷地域を巡って、火伏せや悪魔祓いの祈祷をしつつ、民家の座敷などを舞台に様々な舞や狂言が演じられたものが伝わったと云う。当神楽の記録として最も古いものとして、門馬別当に伝わる「早池峰山御嶺神楽」を1648年(慶安元年)8月に門馬別当妙泉寺によって稗貫郡新堀村福蔵院に相伝したとの記録がある。そのため、これ以前から門馬神楽は存在していたと推測されている。