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片巣(かたす)は、岩手県宮古市の大字。
歴史
近世
近世において南部藩は「通り制」を採用していた。1735年(享保20年)3月には領内を10郡33通に分けた。片巣村はこの内の閉伊郡宮古通りに属していた。 当時の村高は23石8斗5升8合で、1780年(安永9年)の改戸数には民戸13軒(この内12軒が横障子)で、1803年(享和3年)の戸数は14軒だった。また宮古通代官所の管轄下にあった片巣村は南部藩の重臣楢山氏の知行所だった。
当地方には、関東地方における名主や関西地方の庄屋の性質と同じ、村民の推薦で藩が認める肝煎と呼ばれる、現代の村長にあたる役職があった。肝煎には、各村に1人ずつ置かれる「御蔵肝煎」、給所別に1人から複数人置かれる「給所肝煎」の2種類があった。しかし、片巣村のような小さい村では隣接する川井村と合わせて村政を行わせていたため、肝煎も川井村と一緒にされていた。また、現代の村長のような役割の肝煎に対し、村会議員に相当する「老名」という役職があった。「老名(おとな)」はアイヌ語のオツテナ(酉長)から転化したといわれ、年寄り(古人)と共に肝煎の補佐として村政に携わっていた。これには、主に村の顔役・豪農・前肝煎・篤農家などが就いていた。近世において片巣には老名が2名程いたとされている。
当地方は、水利の便が悪く、傾斜地が多いため開田は困難で、更に山間のため稲作に適さなかった。そのため開田には消極的だった。また宝暦・天明の大凶作では、畑作よりも水田耕作に被害が大きかったこともあり、これ以降開田が少なくなった。それでも天明の凶作の前後に開田が数件旧川井村域で行われ、その数少ないうちの1つに片巣村の開田が数えられ、1779年(安永8年)の検地帳に残っている。
寛政7年の一揆
1795年(寛政7年)11月8日、郡山日詰長岡通り支配所21ヵ村の百姓1600人が城下中の橋に押し寄せたのを皮切りに、以前より南部藩の重税に苦しめられていた多くの農民たちが仙北町や簗川尻などに押し寄せた。この原因として、寛政年中最大の凶作にもかかわらず、南部藩は諸税を年々累加し、農民の生活が極度に疲弊していたことが挙げられている。片巣村を含む宮古通り支配所9ヵ村もこれに触発され、百姓400人余りが同月16日に一揆を起こした。18日には平津戸に押し立て、代官や徒目付や同心等を破り、翌19日の四ツ時には盛岡上小路に達した。その後、御目付毛馬内庄助・御奉行伊藤新左衛門・岩館の3人の取り計らいにより、願意の取次に成功。結果的に年貢の軽減の覚書を受け取って引き返すこととなった。この一揆により南部藩は、老中奥瀬要人並びに毛馬三左衛門に対し「知行半地宛取り上げ」、御元〆本堂源右衛門並びに村松権右衛門に対し「御屋敷迄不残御取上」、御勘定頭池田健右衛門に対しては「御役取り上げ」の処罰を下した。
寛政8年の一揆
1796年(寛政8年)3月25日、楢山帯刀知行所宮古通りの片巣村を含む5ヵ村の農民がが集い、盛岡への強訴を企てた。これを知った楢山帯刀は直ちに家臣を派遣。今年命じた新しい取り立ての税金を免じて願意を承認し、さらに責任者を免じて沈静化を謀った。しかし、一揆集団はすでに出発していたため、同日夕刻に田代村で両者が出合い、願書が差し出され、農民は家臣から「申渡」を得て引き返すこととなった。
近代
近代に入ると、それまで南部藩の支配下にあった片巣村は、近郷と同様に御蔵地として松代藩の取締に属した。1869年(明治2年)8月18日に江刺県が遠野(現:遠野市)に設置され、宮古に県出張所が設けられると片巣村はその統括に属した。1871年(明治4年)5月21日、「三陸村吏規定」が改正されるに伴い、郡長・村長・副村長・百姓代が置かれ、片巣は宮古通郡長所の管轄に属す。尚、近世と同様に片巣村には役職者は置かれず、川井村の者がこの役を担った。その後、同年11月に江刺県は廃止され盛岡県に属し、翌年1月8日に盛岡県は岩手県に改称された。1899年(明治22年)4月1日、片巣村は古田・川井・箱石・鈴久名・夏屋・川内と合併し川井村が成立。以降、片巣村は大字となった。
1878年(明治11年)12月に調査された『岩手県管轄地誌』には、片巣村の物産として、馬・雛・大麦・小麦・大豆・小豆・栗・稗・蘿蔔(大根)・茎麦 ・楢子・栃子・生糸・真綿・藍・麻布が挙げられている。
1900年(明治33年)5月、片巣の山名要太郎宅で失火による火災が発生。被害軒数は1戸に留まった。
1913年(大正2年)6月10日、片巣の中里忠右衛門宅でロウソクの消し忘れにより火災が発生。また、1917年(大正6年)4月には山名勝太郎宅で乾燥機を火元とする火災が発生している。どちらも被害戸数は1戸。
近代において、旧川井村から北海道(当時松前)に移住した者が多くみられ、その他に南米への移民もいた。1932年(昭和7年)10月、大字片巣出身の佐々木千蔵が一家で南米へ移住するため故郷を発ち仙台市に集合。翌年の1933年(昭和8年)3月上旬に神戸港から出航しブラジルに渡り、後にサンパウロ市内のソロカーバ居住に至った。1953年(昭和28年)に敗戦を確認後、通信が許可され連絡があった。
現代
1948年(昭和23年)9月16日、アイオン台風の襲来により日中より降り続いた雨は夜にかけて勢いを増し、午後7時30分頃には猛雨により停電。気象台から非常警報が発せられたと同時に、電信電話での通信が不能となった。この時、片巣では付近の県道のほとんどが山際まで流され跡形もない状態となった。また片巣橋も流失してしまった。
1949年(昭和24年)4月、片巣4Hクラブが設立される。クラブ員数は男性5名で会長は佐々木哲彦。川井村農村青少年クラブの中では最も早くに設立された。川井村農村青少年クラブの発端は、戦後の青少年の安定策を狙って始まった川内の農事研究会の自発的活動から。その後、アメリカで実践されていた4Hクラブの方式が採用され、農業改良普及所の熱心な啓発指導が功を奏し、旧川井村全域に活動が広がり、片巣での発足に至った。
産業
畜産業
1942年(昭和17年)、近郷の大字川井の沢田洪が乳牛3頭を導入したのが当地方での乳牛飼育の始まり。戦時下での食糧不足によるタンパク質補給を目的とする自家用酪農経営だった。尚、以前から乳牛ではなく繁殖用としてホルスタイン種を飼育する者はいた。1945年(昭和20年)秋、当時の農業会長であった坂本喜代治は、北海道から乳牛を数頭導入し希望農家に飼育させた。一方で搾乳販路の開拓を図ったものの大部分が自家用牛乳となった。その後、1949年(昭和24年)4月に酪農組合結成。更に搾乳の一括処理を図るため、明治乳業岩泉工場に交渉した末に大字片巣に分工場を設置することに成功した。
製紙
旧川井村における製紙の始まりは室町時代まで遡る。1502年(文亀2年)4月、南部氏の従臣であった武田彦十郎忠直が近郷小国に築城した際、その一族の武田善八が字永田(通称中里)で製紙業を始めたのが最初とされ、その後各地で行われた。その詳細は不明ではあるが、江戸時代末期に片巣村佐々木元右衛門の先祖が、蟇目の小田屋(田鎖左門)から習得し、川井村字下川井の吉部山で製紙業を始めたとの伝承が残っている。
教育
近世におけて、南部藩は教育機関である寺子屋に対して自由放任の方針をとっていたため、誰でも藩制の拘束を受けずに寺子屋の開設が出来た。 片巣には筆道・読書を教科とする教育機関「仲正路」があった。浪人が1830年(天保元年)に開業し1876年(明治9年)に廃業となった。
交通
村道
・片巣線(片巣橋-古館丑太郎宅前)
橋梁
片巣橋
昭和中期時点の片巣橋は、1956年(昭和31年)に架設されたもので長さ40m・有効幅員2.5m。近世において、戸川(閉伊川)街道が片巣村を通っていたため、閉伊川に柴橋(柳などで組み、その上に土をのせたもの)がかけられ通行されていた。しかし、ここは雪代水(春の雪解けによる出水)など一寸程の出水でも流失していて、御伝馬や往来の人々が通れなくなることがあった。そこで南部藩はこの橋を歩行橋(丸木橋のような太い木を削って作られたもの)に切り替えさせ、明治末期までこの一本橋が盛岡・宮古間を結ぶ唯一の交通路だった。しかし、木造の橋であることは変わらない為、洪水などが発生すると数日間交通手段が断絶され、学生の通学が不可能となる事態になるなど、地域住民を悩ませていた。そこで1925年(大正14年)、片巣部落の基本金をもって六尺巾の土橋を架設。以降20年余り、都度破損箇所を補修し維持していたが、1947年(昭和22年)9月15日のカザリン台風で流失してしまった。一時仮橋で凌いだ後、1950年(昭和25年)12月、土地改良事務所並びに川井村農業協同組合の協力を得て、佐々木元右衛門・山名福太郎等を中心に部落民の尽力の末、護岸工事と吊橋(補剛桁が木材のもの)の片巣大橋の完成に至った。
神社仏閣
稲荷神社
稲荷神社は、地内の字ノボシに位置する稲蒼魂命を祭神とする神社。1836年(天保7年)12月12日勧請の棟札がある。祭日は旧9月29日。
新山神社
新山神社は、地内の字ノボシに位置する稲蒼魂命を祭神とする神社。1685年(貞享2年)3月11日勧請の棟札がある。祭日は旧3月17日。
熊野神社
熊野神社は、地内の字ノボシに位置する伊弉冊命を祭神とする神社。祭日は旧4月15日で由緒は不明。
文化・暮らし
片巣鹿踊
鹿踊(ししおどり)は、古来より「鹿踊り」「鹿子踊り」「獅子踊り」と記録されていた。また猪・鹿ともに「しし」と言い、肉もまた「しし」と呼ぶため「鹿踊り」とかいて「ししおどり」と称したとされている。口伝によると、片巣鹿踊は夏屋村の夏屋友昌によって宝暦年間(1751年~1763年)に伝えられたとされている。一方で、天保年間(1830年~1843年)に夏屋村の夏屋伊兵衛が片巣村仲正路家に婿入りし、その後夏屋鹿踊を伝授したとの説もある。前者については考証の資料が確認されていないが、後者に関しては1836年(天保7年)9月29日に同地の森山稲荷に賽銭箱を寄進していることが確認されている。いずれにせよ夏屋鹿踊が元であることは変わらず、踊りの内容も夏屋鹿踊と何ら変わらない。昭和中期時点で片巣部落の全員が踊れるほど保存に力を注いでいた。
人物
飯坂忠兵衛
飯坂忠兵衛は、片巣出身の漆栽培研究家。1811年(文化8年)8月誕生。17歳の時から漆掻きを生業としていて、天保の大飢饉が襲った際も、1日も休業せずにこれで生計の補助にしていたと云う。暇があれば書を読んでいて、国の根源にあるのは農業であるものの、自身等のような無力者且つ僻地村落の場合、どんなに苦労しても並の農家になることは出来ないと考えていた。また耕地の無い者は、山野のいばらを切り拓いて漆の樹を栽培するのであれば、少額の資本で済むとし、43歳の頃、会津や二戸の漆園で学び、それに劣らない漆園を作り、僅かでも国益を挙げることができれば本望であると決心。以来各地を駆け廻り、同志を募り将来の福利を説いた。しかし、人々は目前の損失に迷い、また彼の微力を侮っていたため、1人も応ずることはなかった。中にはこれを批判する者もいた程で、相当な苦境に立たされていた。 しかし、1877年(明治10年)の忠兵衛66歳の時、古田学校並びに同片巣分校の教師に起用され、学校教育と勧農の職に就くこととなった。その後、1882年(明治15年)には県庁から中閉伊郡勧業世話役を任命され、ここで初めて宿志を貫徹する機会を得た。手始めに地方を巡回し、漆栽培の利害を説き収支を知らせた。だが彼を信じる者は極めて少なかった。それでも、忠兵衛は不屈の精神で熱心に漆栽培研究を重ね、時折県の農事諮問会に出席し、研究を通じて得た栽培方法の利を常々論じた。この努力が実を結び、しばらくの間、農事講習所においても忠兵衛の説が採用されることとなった。そのため忠兵衛は、苗を求める者がいれば喜んで応じ、その栽培方法を懇切に教え、出張を望む者がいれば距離を問わず現地へ訪問し方法を教授した。 1892年(明治25年)頃、ようやく漆器が日本の国産品として重要な輸出品となると、忠兵衛の栽培の評価は高まり、各地で彼の苗木が求められ、移植された数は40万余りに達した。その後、1902年(明治35年)9月29日、忠兵衛は91歳で没した。尚、1897年(明治30年)に褒賞下賜の手続きがされたがその後は不明となっている。