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木津志
木津志

木津志

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木津志

木津志(きづし)は、鹿児島県姶良市の大字。地名の起源には複数の説があり、縄文時代の遺物が多数発見されている。中世には蒲生氏の統治下にあり、城野神社では鎮西八郎為朝の奥方「浄之御前」が祭神とされている。近世には四国からの移住者が多く、島津藩の郷士制度の影響も受けていた。

木津志の全景
木津志の全景

地図で見る木津志

地理

地名

地名「木津志」が確認できる1番古いものは、近世の薩藩郷里誌や薩隅日郡村名付などで、地名の起こりに関してはいくつかの説が挙げられている¹。

木津志姫説 木津志に金山を入れていた市来の島津国彦の家の記録に、「昔、木津志に木津志姫がいたため、それが地名につけられた」とあることから起こった説。尚、『木津志百年史』編集時の当主に問い合わせたところ、当該記録は見当たらなかったという²。

切通し説 木津志校から上脇にかけての地域には、「切通し」「新開」「塩」という特有の地名が存在する。これに似た地名が、日置郡の那山に位置する花尾神社の古い記録や絵図にも記載されており、郡山にも「切通し」や「塩俵」という地名があった。この地域の人々は、「切通し」を「キヅシ」と呼んでいた。このように木津志でも「切通し」が訛って「キヅシ」と呼ばれ、村名になったという説がある²。

木地屋説 昔、漆を採取し全国の山を周った木地屋がこの地に移住したという説。腕や鉢などを作る生業であった木地屋であるが、その遺品と思われる椀や盆、金のゆり鉢などが残るという²。

人口

木津志の人口は以下の通り³‘⁴。

年代
戸数(世帯数)
人口
1926年(大正15年)
154戸
731人
1946年(昭和21年)
157戸
776人
1955年(昭和30年)1月
165戸
787人
1965年(昭和40年)
177戸
672人
2011年(平成23年)
89世帯
174人
2023年(令和5年)12月
42世帯
65人

歴史

縄文時代

木津志では縄文時代の遺物が多く確認されており、その多くが低地ではなく山手で発見された。発見された年代順に並べると下記の通りになる。その多くが石斧で、開墾中や田畑から出土している。

発見年代
遺物
場所
1935年(昭和10年)頃
石斧
板元屋敷
1945年(昭和20年)頃
石斧
上脇
1945年(昭和20年)頃
石斧
高峯
1946年(昭和21年)
吉田式土器片(3点)
椨木野
1946年(昭和21年)
石坂式土器片(2点)
椨木野
1949年(昭和24年)頃
石斧
東
1953年(昭和28年)8月
土器片(3点)
板元屋敷
1953年(昭和28年)8月
石鏃
板元屋敷
1961年(昭和36年)12月13日
石斧
椨木野
1963年(昭和38年)9月16日
石斧
上脇
1964年(昭和39年)7月10日
石斧
神入塚

中世

蒲生氏系図によれば、1123年(保安4年)、藤原舜清は宇佐八幡から下大隅垂水に下向。その後、彼は蒲生・吉田の領主となり、蒲生に居を構えることとなった。舜清は、竜が山を城山と定め、蒲生城を築城。さらに宇佐八幡の分霊を勧請し、蒲生八幡を建立した。また彼は自身の姓を蒲生と改称した。木津志は蒲生の一部であったため、蒲生氏の統治下に置かれていたとされている²。

城野神社
城野神社

木津志に位置する城野神社は、鎮西八郎為朝の奥方「浄之御前」を祭神としている。具体的な創建年代は不明であるが、為朝の奥方を祭っていることから、中世に設立されたと考えられる。当初、城野神社は高嶺岡の頂上に存在していた。しかし、この位置からでは、遠方の米丸の道を行き交う白馬が神様の視界に入ることとなり、それが原因で白馬が次々と死んでしまったいう。このため、上提家の先祖が神体を現在地に移転させることとなったと伝わる。

以前、神体が祀られてたといわれる小山
以前、神体が祀られてたといわれる小山

城野神社の祭神が白馬を嫌う背景には、次のような伝説が存在する。浄之御前は勇武に優れた人物で、夫の鎮西八郎為朝とともに居城である山田の王城山を出て、国分の賊を攻めた。その際、浄之御前が騎乗していた白馬が麻畑に足を取られてしまい、これにより彼女は危うく敵にやられそうになった。以後、浄之御前は白馬を見るのも嫌うようになったと伝わる。 上提家は代々、代宮司(デグシ)として城野神社の正式な神宮の代理を務めている。木津志の地域においては、浄之御前の伝説を尊重し、白馬を飼う習慣が存在しない。さらに、地域の伝統である太鼓踊りにおいて使用される被り物の白い馬毛も、実際の馬の毛を使わず、白紙を細かく切り出したものが使用されている。蒲生の大脇家は、同家系図によれば、鎮西八郎為朝の二男、為清から出てきた家系であるという。彼らは城野神社を氏神として深く崇敬していて、むかし大脇家が神社に参拝する際には、「片目を閉じたフナという魚を持参し、そのフナを神社の池に放す」という、しきたりがあった²。

木津志に2軒あった鮫島家の先祖は、鎌倉時代に鎌倉からこの地へ下向したと伝えられている。具体的には、1192年(建久三年)に鮫島四郎宗家が、源頼朝の命令を受けて薩摩国阿多へと下向し、地頭として村原十五丁を領有した。また阿多の宮崎村に日吉神社を建立し、これを鮫島氏の氏神として崇めた⁵。

島津義弘と伊地知氏

伊地知氏は歴史を通じて様々な変遷を経てきた家系。元々は桓武平氏・良文の代に村岡姓を名乗り、武蔵国での勢力を拡大していたが、武基の時代には秩父姓に変更し、重能の時に畠山姓となった。また、当家系は、頼朝の時代に存在した著名な畠山次郎重忠の子孫にあたる。伊地知主税助の条の記録には、「惟新様御代行司役仰せつけられ忠分に山屋舗を五畝、山壱反弐畝、蒲生木津志村下之段にて拝領、御註文焼失す」という内容が記されている。主税助は、島津義弘による人移しにより、蒲生郷木津志村に移住し、その後、木津志で行司役を務めることとなったという。また、下之段地域に屋敷と山を与えられたようで、『木津志百年史』では、これが木津志の草分けとされている⁶。

義弘は、度々木津志へ猪狩りを楽しむために訪れていたと云われている。ある日、いつものように木津志での猪狩り中に、突如として強烈な腹痛に襲われ、その痛みのため狩りを続けることができなくなった。この急激な状況に、行司役を務めていた主税助は、城野神社への熱心な祈りを捧げた。すると、その祈りのおかげか、義弘の腹痛は突如として治まった。この出来事に大変感激した義弘は、感謝の意を示すため、主税助に左文字の脇差を贈与した。この脇差は、長らく伊地知家の家宝として大切に保管されてきたが、太平洋戦争後の刀剣供出により没収されてしまい、現在は収納されていた箱と、由結書きのみがのこっている⁷。

いでんこら
いでんこら

また、別の日には、木津志で非常に大きな猪を捕獲した。その猪を捌くため、伊地知家の近くにある大平石の上で処理が行われた。この大平石は現在「いでんこら」と呼ばれている。義弘は、この様子をじっくりと見物するため、近くの石に腰を下ろし見物していたと伝えられている。伊地知家は、この出来事を後世に伝えるため、義弘が腰を下ろした石の場所に大杉を植え、そのいわれを記した石碑を建立している⁸。現在、この周辺は親水公園(しんすい)として整備されている⁹。

島津義弘が腰を下ろしたという大杉
島津義弘が腰を下ろしたという大杉
大杉の根元にある石碑
大杉の根元にある石碑

近世

嘉永5年の水神の碑
嘉永5年の水神の碑

四国と木津志

木津志には、四国からの移住者の家系が多数存在する。具体的には上脇・福岡・有村・坂元・堂園・下薗・栗下・向江脇(向江)・小川内・小原・宮園・椨木・東村・内村・前村・下堂という16家部が挙げられる。これらの家々が移住した時期は年の暮れで、それを記念して、正月には門松を設置せず、庭に白砂を撒いて白雪のような風情を作るという独特の風習がある。『木津志百年史』では、彼らは長曽我部盛親の家臣であった可能性を示唆している。長曽我部盛親は関ヶ原の合戦後、領地を失い、後に大阪城での戦闘に敗れ、処刑された。この結果、彼の家臣たちは薩摩に逃れ、木津志で隠れ生活を始めたとされる⁸。

この伝承を裏付けるかのように、例えば福岡家や坂元家の墓石は五輪塔や壮大なものが多く、普通の門百姓の墓とは思えない。また、栗下家の墓石には、宝暦11年(1761年)に亡くなった当主が西村甚八という立派な武士であったといわれている⁸。

また、木津志ではこのように姓を変えて、隠れ住む必要があった名残か、人の家を呼ぶ隠語が多い。一般的な名前とは異なり、これらの隠語や呼び名は、木津志の住民だけに通じるものとなっている。例として、「庵の平」「唐干田」「城之口」「堂元」「小坂」「豆打」「宇都」「豆漬」「岩坂」「片ほっ」「木場」など、地域の地形や特徴に基づいて名付けられた名称が今も使用されている⁸。

下薗敏行家の例も、この文化の一部を示している。もともとは「坂元」という姓を名乗っていたが、何らかの理由で「下薗」に姓を変更した。さらに、下薗家には「イラ棒(もじり)」という、ただの百姓の持ち物でない物が伝わっており、これも家の歴史や背景を示唆する要素となっている⁸。

近世において島津藩は、年貢米の徴収や夫役の適切な割り振りのため、百姓に対して門割制度を導入していた。この制度の中で、本家は「名頭」として呼ばれ、一方で分家などは「名子」と称されていた。尚、「名子」には名頭と直接の血縁関係のない者も含まれていた。1つの「門」は、名頭の家と、1~2戸の名子の家で構成されており、それぞれの門には「門高」と呼ばれる十六名から四十名程度の田が割り当てられていた。そして、その田で生産された米は帖佐の小鳥御蔵に納められたり、直接武士の家に納められていた。『木津志百年史』では木津志の門数を計22門と1屋敷と記されていたが、屋敷として「岡屋敷」「外屋敷」の2つが挙げられていた¹⁰。

尚、木津志の門は以下の通り。

地区
門
小長野村
小長野・向江脇・中村・小川内・坂元
上脇村
上脇・福岡・有村
堂園ゴチ
栗下・宮園・堂園・新村
上提ゴチ
下薗・上提・小原・徳村
柊野
東村・内村・下堂園・前村・椨木野・戸村

このうち、東村門・内村門・椨木野門・下堂園門・前村門・外屋敷・中村門の門高の記録が残っており、いずれも16石7斗前後であった。また、下堂園門と中村門は幕末頃には、屋敷として数えられた¹⁰。

島津藩は、他の藩と比べて武士の数が多かっため、藩内各地に屯田兵のような形式で武士を移住させていた。これらの武士は、平常時は農耕を行いながら武技を練習し、非常時には武装して藩主の元へ急行する体制が取られていた。このような地方に駐在する武士は「外城衆」と呼ばれ、後に「郷士」と称されるようになった。また、郷士が多く集まる地域を「麓」といい、百姓が多く居住する村は「在」、町人が多く住む地域は「野町」と呼んだ。武芸の稽古場は、上提ゴチの中尾にあった。木津志の郷士は下記の通り¹¹。

伊地知
吉元
榎田
鮫島
湯地
達野
大山
山下
折田
田中
池田
永岩
鮫島(菅野)
鈴木

藩制時代において、行政の実務は麓に存在する地頭仮屋で行われていた。しかし、地頭は常駐していたわけではなく、主に鹿児島に滞在しており、必要に応じて麓へ訪れる形を取っていた。そのため、彼らは「掛持地頭」と呼ばれていた。その地頭の代理としての役割を担う役人は、各郷から選出され、「曖」または後に「郷土年寄」と称されていた。一方、百姓たちが住む村には、郷士の中から選ばれた庄屋が存在し、米の収納や人夫の割り当てなどの命令が、この庄屋を通して行われていた。さらに、庄屋の下位には、門の名頭から選ばれた「功才」、後の「名主」という役職が存在し、庄屋からの指示を百姓たちへと伝える役割を担っていた。判明している木津志村庄屋は下記の通り¹²。

年代
庄屋
1691年(元禄4年)
村岡幸右衛門
1736年(元文元年)
本野藤助
1739年(元文4年)
市来弥左衛門
1740年(元文5年)
鮫島五左衛門
1761年(宝暦11年)
郡山源五左衛門
1803年(享和3年)
村岡伊右衛門
1830年(文政13年)
宮永次右衛門
1835年(天保6年)
坂口八左衛門
1863年(文久3年)
山口新九郎
1868年(明治元年)
市来弘
1870年(明治3年)
森郷兵衛

1737年(元文2年)3月18日、島津太守継豊の弟、壮之助周防忠紀は、今まで中絶されていた越前島津家の家督を継ぐこととなった。同時に、田禄として1万石と鼓川の宅地を拝領した。続く1738年(元文3年)、帖佐の複数の村を統合し、壮之助の領地としたこの新しい領地の田高は4,479石で、その他の諸郷に5520石余を与えて、合計でちょうど一万石となるよう調整した。翌年、前の年に統合された5村は「重富」という名で呼ばれるようになった。しかし、帖佐から多くの村が取り除かれた結果、帖佐の田高が減少。この不均衡を調整するため、帖佐には山田から寺師と山元を加え、一方、山田には蒲生から木津志を加える形となった。こうして、長年蒲生のうちにあった木津志は、以降山田郷に属すこととなった。しかし、伊地知家は蒲生郷士として近代に入るまで木津志に居住し、1871年(明治4年)8月10日にはじめて山田郷へ郷替りを願い出て、山田郷の住人となった。同様に、城野神社も蒲生郷に属し、1872年(明治5年)に至ってようやく山田郷に移った¹³。

一向宗と木津志

薩摩藩は、島津日新公・義弘など以来、一向宗(現:浄土真宗)を厳しく取り締まっていた。しかし、禁制下でも信者は絶えず、堂之尾の大山家の先祖に関しては、一向宗を信仰していたことが明らかになり、武士の身分から百姓へと格下げされた。尚、後に大山家の家系は、加世田から移住してきた渡辺一郎の子、喜太郎に引き継がれ、再び武士の身分に取り立てられた¹³。

こうした状況でも「たたら」や小川内、大瀬戸の山中で、夜陰に隠れて信仰活動を密かに行っていた。発覚した場合は厳しい拷問が行われた。何人かは逮捕されそうになりながらも、水俣まで逃れ難を免れた者に下薗仁左衛門の父や有村助市などがいた¹⁴。

椨木家では、禁圧を避けるために二重法名の方法を採用し、墓石には禅宗の法号が刻まれていたが、家内で祀られる位牌には一向宗の法名が使用されていた。このようにして、外からの目を欺きながら、家内での信仰を守り続けていた¹⁴。

信者たちは「三会講」と「煙草講」という二つの講を組織。 三会講は、真幸、横川、嘉例川、木津志の信者から成り立っており、これらのグループは上組、中組、下組の三つに分かれ、木津志は下組に所属していた。木津志での講の際、本尊仏を奉侍する役目は、小坂(宮園宅)が担当していた¹⁴。 一方、煙草講は船津、上名、溝辺、木津志の信者から構成されていたが、三会講のメンバーとは異なる家々が参加していた。彼らは共同で煙草を生産し、その一部を「ケンジョフク(献上服)」として京都の本山に献上。残りの煙草は、団体の運営資金として使用されていた。下薗左衛門家は、この講中の一員であったと伝えられている¹⁴。

近代に至り、1876年(明治9年)9月5日に禁圧が解かれると、鹿児島県参事の田畑常秋から、どの宗教を信仰しても良いという許可が出された。その結果、本山からの布教僧が鹿児島に大挙し、木津志でも大洲鉄念が1876年(明治9年)旧12月28日に巡回説教を行った¹⁴。

学校跡地に位置する孝子の碑
学校跡地に位置する孝子の碑

昔から木津志は、親子や兄弟間の関係が深く、その美俗が讃えられた。特に、椨木家は代々の親孝行と慈善活動で知られており、小助、彼の子である六左衛門、そして六左衛門の妻小千代は、家族を大切にし、農業に励み、地域の困っている人々にも援助を惜しまなかった。その彼らの献身性を讃え、1857年(安政4年)6月に島津斉彬から、1861年(文久元年)6月には島津茂久から褒賞を頂いた。椨木家の庭の前には、1957年(昭和32年)に椨木忠志が建立した、表彰百年祭執行の頌徳碑がある。また、中村厳家の曽祖父の次郎助とその妻袈裟千代も、献身的に家族を支え、困窮者に米銭を与えるなど貢献していた。その功績を称え、1870年(明治3年)に知政所(後の県庁)から表彰を受けた。また、1927年(昭和2年)11月に木津志小学校の校庭に椨木・中村家を称える碑が、両家の子孫によって建てらた¹⁴。

近代

1869年(明治2年)に版籍奉還が行われた後、薩摩藩の体制が大きく変わり、従来の郷土年寄や庄屋などの制度が廃止され、新たに常備隊が設立された。しかし、この常備隊制度も短期間で終了し、1872年(明治5年)に郡に郡長と副長、各郷に戸長が置かれる制度へと移行した。木津志村においては、瀬戸山宗太郎が掛戸長、瀬戸山郷左衛門や田代弥九郎が副戸長、宮内市二が村詰副戸長に就いた。その後、戸長は一時2人置かれたが、1884年(明治17年)に官選戸長1名体制となり竹下六郎が任命された。そして、1888年(明治21年)から、民選の村長・助役・収入役が置かれるようになった¹⁵。

県道の開通

県道391号
県道391号

山田村への県道敷設は、村内有志による長年の強い願いに基づくものであった。最初にこの事業を開始したのは北山区で、帖佐山田北山から烏帽子山を経由して横川大口方面への路線を検討していた。しかし、この案は具体的な実現段階に進展せず、その後の有志の死去を経て、明治時代の終わり頃には木津志の有志が主導的な役割を果たすようになった。久永貞利という、かつて薩摩郡大村の戸長を務め、事故で片手を失った後は木津志の民家の仕事の手伝いをして食客をし、その知識と才能で地域の煙草栽培を奨励した人物がいる。彼は、帖佐の村長である中村駒や、山田の県議である戸山良敏、そして木津志の上提八左エ門や弟喜吉などの有志たちとともに道路計画を協議。特に、大村上手の有志である盛山孝之進とその弟の源十は、上提兄弟とは従兄弟の関係にあり、数回の会議で、計画が策定された。この道路開通の直接交渉は瀬戸山良飯が行い、彼が県議であったために実現できた。1913年(大正2年)8月には、漆を経由し首里峠を越えて上手の小学校までの測量が行われた。測量終了後は、山田下名上名高岡方面が着手され、木津志方面でも各所で行われることになり、1917年(大正6年)には山仁田橋の架橋などが年次的に行われた。木津志堂崎での道路開通には、当初敷地提供に反対する所有者がいたが、瀬戸山良敏の提案により現在のルートが選ばれた。1917年(大正6年)には木津志向江橋まで、翌年には向江橋から山仁田橋まで開通した¹⁶。

木津志橋の碑
木津志橋の碑
木津志橋
木津志橋

現代

木津志簡易郵便局

木津志簡易郵便局
木津志簡易郵便局
木津志郵便局に併設する木津志集会センターと木津志出張診療所
木津志郵便局に併設する木津志集会センターと木津志出張診療所

木津志簡易郵便局は、区長の南園軍右衛門・会計の東村実・木津志区出身の村会議員・区役員の各氏の努力により、1950年(昭和25年)9月1日に、字小川内1297番地壱で開局された。その後、1954年(昭和29年)12月25日に字堂崎1859番地に新築され移転。さらに、1957年(昭和32年)1月10日には、公衆電話が設置された¹⁷。

1955年(昭和30年)1月1日、山田村・帖佐町・重富村が合併し始良町が誕生。しかし、木津志の一部であった柊野は、地理的な条件から蒲生町に編入されることとなり、古来より同一地域として生活していたが分断されることとなった¹⁸。

1963年(昭和41年)4月11日、地区民待望の区立幼児学級が発足した¹⁹。

木津志隧道
木津志隧道

神社仏閣・名所

城野神社

城野神社の鳥居
城野神社の鳥居
城野神社境内
城野神社境内

城野神社は、浄之御前を祭神とする神社。神体として円形の青銅製の古鏡がある。祭日は10月14日。由緒は不明²⁰。

1612年(慶長17年)2月、木津志によく狩りに来ていた島津義弘が城野神社の老朽化を憂い、社殿の建て替えた。続いて、1614年(慶長19年)には、城之宮祭田として「元日田」と名付けた2畝24歩の田と、正月元日祭りのための商として2石1升7合3タの知行を寄進した。1532年(天文元年)12月には、蒲生の与頭、瀬之口甚右衛門の提案を受け、木津志の住民たちが木場之河内で新しい田を開発。この新田からは、九石八斗八七合五夕の米が収穫され、伊地知家がこの田の管理を引き受けることとなった。得られた米は城野神社の改築や補修に使われ、この一連の出来事は城野神社内に設置された石碑に刻まれている²¹。

城野神社
城野神社

1863年(文久3年)3月23日、御宝殿は大規模な改築を受けた。この際、宝殿内の神体を安置する場所の下壁に埋め込むための壁画は、江戸の狩野惟信によって描かれた。狩野惟信は、戦国から江戸時代にかけて著名だった狩野派の永徳、元信、正分家に属する画家であった。この壁画には、鮮やかな色彩で唐獅子四頭と美蓉の二枝が描かれており、非常に美しい作品となっている²¹。狩野惟信が描いたとされる壁画2枚は歴史民俗資料館に保管・展示されている²²。

城野神社には、「十一面の古鏡」や「主馬首一平安代の奉納刀」などが保管されている。元は十一面であった神体の銅鏡であるが、盗難に遭うなどして、2009年時点では三面を残すのみとなっている²⁰。奉納刀は、1960年(昭和35年)4月12日に鹿児島県指定重要文化財として認定されている。主馬首は、宮原清右衛門正清と共に江戸時代の浜御思として知られていた人物。1721年(享保6年)に徳川将軍の命で刀を作ったところ、その出来を認められ、徳川家のあおいの紋を刀に切ることが許され、主馬首となのるようになった。1724年(享保9年)8月、「奉寄進城宮大権現御宝前」という銘を中心に刻み、城野神社に刀が奉納された。『木津志百年誌』の編集時点で、この奉納刀は氏子総代の上脇貞志が保管していたと伝えられている²¹。

1940年(昭和15年)、それまでの茅葺が瓦葺に改築され、1964年(昭和39年)には屋根の瓦がトタンに変えられた²⁴。瓦葺きに改修した際、石造の鬼瓦が下ろされ長期間そのままになっていたが、歴史民俗資料館の開館年度に寄贈された²⁰。

城野神社仕明地記念碑

城野神社仕明地記念碑
城野神社仕明地記念碑

城野神社仕明地記念碑は、城野神社の近世における約20年に渡る社殿改修の経緯が四面に刻まれた石碑。1755年(宝暦5年)建立。当時、木津志村は蒲生郷に属しており、社殿改修のため公的補助や寄付を藩に要望。しかし、交渉成立には至らなかった。そこで自分たちで木場川内の原野を開墾(仕明)して田畑にし、その収益を社殿改修の資金に充てた。この開墾地は、木津志村の蒲生衆中の伊地知源之進が、持留として藩から認められた。1749年(寛延2年)11月には社殿の改修工事に着手し、翌年正月に完工。そして、同年2月に遷宮式が行われたいう²³。

城野神社仕明地記念碑には、神社社殿改修に関する詳細な経緯や担当者の職名、氏名が記載されている。碑文には、1737年(元文2年)に越前島津家が再興して重富郷を創設したこと、およびその結果木津志村が蒲生郷から山田郷へ編入されたとの記述も残る。また、碑に刻まれた人々の大部分は、県指定有形文化財である『蒲生御仮屋文書』にも登場する²³。

光泉寺

光泉寺(廃寺)
光泉寺(廃寺)

明治時代に至り宗教の自由が許された後、木津志の住民は主に加治木の性応寺、蒲生の幽栖寺、および住吉の新照寺の門徒として信仰を捧げていた。最も門徒が多かったのは性応寺であった。しかし、加治木までの距離が遠かったため、木津志にも説教所を設けたいという運動が起きた。門徒たちの中から数名が代表として性応寺に相談に赴き、その同意を得て、1880年(明治13年)頃には説教所建立の計画が具体的に評議された。一時、煙草請の関係者から反対意見が出たものの、すぐに解決し、1882年(明治15年)に上脇作右衛門の土地(宇堂崎1877番地)に説教所が建設された²⁴。

第1回番役の上脇作右衛門氏の時代、内藤天随師が福岡県から木津志に来訪し、3年間にわたって説教を行った。その後、高津覚信師も一時期説教を継続したが、その後は山田の説教所(現在の光楽寺)からの巡回説教となった。1902年(明治35年)に、山田説教所が独立し光楽寺として発足すると、木津志の門徒全員が光楽寺に所属し、木津志の説教所も光楽寺木津志説教所として称されるようになった。1905年(明治38年)10月14日、本堂と庫裡が完成。1941年(昭和16年)、小学校の校舎拡張のため、説教所は字堂崎一八七九番地に移転した。さらに、1961年(昭和36年)3月31日には、寺号の公称が認可され、「光泉寺」と命名され、初代住職として岩男静之氏が任命された²⁵。

堂崎の田の神

堂崎の田の神
堂崎の田の神

字堂崎の個人宅の庭にある舞神職型の田の神。市指定有形民俗文化財。頭にシキを被り、腰をかがめて空を仰ぎ見ている。両手には大きなメシゲを持ち、田の神舞いの所作を表現しているという。背面の銘文から1805年(文化2年)に寄進されたものと分かる²²。

木津志の田の神

紀念碑(左)と木津志の田の神(右)
紀念碑(左)と木津志の田の神(右)
木津志の田の神
木津志の田の神

城野神社の南側、眺望の良い位置に位置する。頭には大きなシキを被り、左手にメシゲ、右手に椀を携え、蹲踞している。木津志にある大型の田の神石像3体のうちの1体であり、残りの2体とは異なる造形をしており、石主が別であると推測されている²²。

教育

木津志小学校(城野小学校)

木津志小学校跡地
木津志小学校跡地
小学校跡地の石碑群
小学校跡地の石碑群

1878年(明治11年)4月、木津志地内の城野神社の脇に城野小学校が設立され、木津志に初めて学校が開校した。初期の教育は寺子屋式で、読み・書き・そろばんの個人指導を受けていた。また、当時教材として利用されたという、福沢諭吉の学問のすすめが現存する。学校の発展とともに、校舎の移転や拡張、合併などが行われ、1887年(明治20年)には簡易小学となった。当時の児童数は31人で、女子はいなかった。その後、宮脇小学校と合併して城野分教場となったが、1897年(明治30年)に再度独立し、城野尋常小学校として設立された。1904年(明治37年)から1907年(明治40年)にかけて準訓導に就いていた鮫島源助は、青年会長として夜学の教育にも取り組んだ。1907年(明治40年)には義務教育の年限も4年から6年へと延長され、翌年には敷地が拡張された。1911年(明治44年)5月5日、宮脇小と合併し宮城尋常小学校に改称されたが、同年7月には成美尋常小学校と改称された。さらに同年10月には、高等科が設置され、学校名は成美尋常高等小学校となった。1919年(大正8年)4月15日、成美校から再度独立し、木津志尋常小学校が開設。その後、1923年(大正12年)4月には木津志農業補習学校が併設された。1939年(昭和14年)4月には、高等科が設置され、学校名は木津志尋常高等小学校となった。当時の学級数は5、児童数は203名、職員は6名であった。翌年4月には、木津志国民学校と改称され、1947年(昭和22年)4月には、6・3制が実施され、木津志小学校と再び改称された。1954年(昭和29年)10月、学校は旧校舎から移転し、新校舎が新築された。そして、1955年(昭和30年)1月1日、町村合併に伴い、学校名は始良町立木津志小学校となった。尚、同年4月には、町村合併により柊野部落の児童は蒲生小へ転出することとなった²⁶。

文化

山伏踊り

山伏踊りは、山伏達が村長に頼まれて、村人に悪さをする鬼神を真人間に祈り変えるという野外劇。大江山の酒呑童子の物語と似ているという。『木津志百年史』では、1729年(享保14年)頃に上提ゴチのシボラにいた金田山伏が伝えたものだとしている。一方、『姶良町内の神社』では島津家の参勤交代にお供した兵児(鹿児島地方の青年を指す)が旅の道中、士気を上げるために踊り始めたのが由来としている。この踊りに関する記録が、堂園宅と金田宅に保存されていたが、両方とも火事で焼失してしまった。昔は8年ごとに踊られていたのだが、大正時代からは定期的に踊られなくなり、校舎落成などの特別なイベントの際に披露される程度になった。『木津志百年誌』の編集時点で最近の公演は、1965年(昭和40年)11月4日に姶良町10周年記念行事で、帖佐の西公園で行われたもの。1974年(昭和49年)5月15日、姶良町の無形文化財に指定された¹⁴‘²⁷。

消防団

姶良市消防団北山分団木津志部車庫
姶良市消防団北山分団木津志部車庫

明治時代、大字住民の15歳以上40歳未満の男子が私設消防団を組織。この組織には頭取(当時の世話人)、副頭取(青年団長)、書記・会計などの役員があり、各小組合には幹事が任命されていた。当時使用されていた消火器具は、小学校にあったポンプ竜吐水やハス桶ハシタンゴ、トビロといった基本的なものであった。大正時代初頭には、軽便ポンプが導入され、1925年(大正14年)11月25日、山田村が公設消防組となり、木津志は木津志分団として指定された。当時の団員数は36名。1932年(昭和7年)11月25日、大字からの補助金500円をもとに腕用ポンプ2台を導入。1937年(昭和16年)には、サイレンを購入し、非常時の情報伝達のために利用された。続いて、1938年(昭和17年)には、第二次大戦中警防国という名称に改名され、警察との連携が強くなり、防空訓練の強化がなされた。しかし、1945年(昭和20年)8月の終戦を迎え、再び消防団と改名。1952年(昭和27年)12月には、木津志で初めての小型助力ポンプが導入された。1955年(昭和30年)1月1日、町村合併に伴い、姶良町消防団木津志分団となった。そして、1964年(昭和39年)5月30日には消防車が1台購入された²⁸。

木津志分団車庫
木津志分団車庫

駐在所

木津志には金脈が存在し、早い時期から発掘が行われていた。発掘に伴い、岩石を破壊するための火薬などを使用しての爆発が行われており、これがさまざまな問題を引き起こした。そのため、木津志には明治時代から駐在所が設置されていた。1910年頃(大正10年)には、官舎も建てられ、北山方面の巡回も行われた。しかし、1935年(昭和10年)頃に木津志の金山が不振となる一方、北山方面での金山開発が発展したため、駐在所は北山に移転された²⁹。

産業

農業

田んぼに撒いた砂の堀跡
田んぼに撒いた砂の堀跡

木津志で行われていた主な農業として稲作、煙草、養蚕、製茶、そしてみかんが挙げられる。 1914年(大正3年)、初めて煙草の生産が許可され、1955年(昭和30年)からは交通の利便性が向上し、輸送手段が馬からトラックや三輪車に移行。しかし、昭和20年代前半に133名まで上った煙草生産者の数は、1966年(昭和41年)頃には12名まで減少している³⁰。 養蚕は、1907年(明治40年)代には始まり、1914年(大正3年)の桜島の爆発による灰の影響で一時は生産が減少したが、1951年(昭和26年)以降、地域の奨励により養蚕家が増加し、1966年(昭和41年)頃には40数戸桑園7ヘクタール以上を持つ繁栄を見せていた³¹。

製茶

1902年(明治45年)、有村恵吉は中央産業講習所に入所し、茶業技術員の資格を取得。また練習所教師としての任命を受けた。一方、小川内澄江も1913年(大正2年)に県茶業緑茶製造科を卒業。これに伴い、木津志では製茶への関心が高まり、毎年各所で製茶の講習会が開催されるようになった。これらの講習会には一般住民が参加するのだが、特に木津志青年団では、製茶技能の向上を目的とした講習が団員の必須資格で、技能に応じたランク付けもされていた。また、青年団は茶園を経営し、製茶の収益を基金として使用していた。1928年(昭和3年)の御大典記念を契機に、各家庭での茶園の拡大も奨励され、木津志全体で製茶が広まった。さらに、有村恵吉は静岡県での研究と原種の導入により、緑茶の製造も拡大していった³²。

みかん

戦後、木津志の上脇寿雄は、地域の経済状況を鑑み、米の増産や山林の育成には限界があると感じていた。彼はさまざまな事業、養鶏、畜産、水密桃、養蚕などに手を出してみたが、これらは単なる短期的な試みであり、成功に至らなかった。しかし、1958年(昭和33年)の秋、彼は家族との会話の中でみかん栽培のアイディアを思いついた。かつて、木津志ではみかんの栽培行われていた時期もあった³³。木津志は地理的に柑橘類の栽培に適した地域で、平均気温が16℃と柑橘類の栽培に必要な気温を満たしていた。雨量は多いが、適切な栽培技術で対応可能で、12月下旬から3月下旬の木津志の気温は、みかんの最適な貯蔵気温と一致している³⁴。こうした地理的好条件に加え、みかんの高い換金性から、彼はこれが自身が探していた副業であると確信。東郷町のみかん園を参考に、様々な指導を受け、苗木を80本注文。さらに、蒲生町の改良普及員である長浜氏の存在を知り、彼からの月1回の出張指導を受けることとなった³³。

上脇寿雄と同じ農業の悩みを持つ者が他にいくらかおり、これらの個人たちが集り、長浜氏を中心に定期的な例会を開催するようになった。やがて、この会の会員数は十余名に達した。さらに、この時期になると始良町の行政当局もこの動きに注目し、先進地への実習生の派遣を決定。これにより、地域の農業研修はさらに具体的な形として進展していった。実習生・研修地は以下の通り³³。

年代
研修地
期間
実習生
1961年(昭和36年)
愛媛県八幡市
1ヵ年
達野善章
1962年(昭和37年)
愛媛県八幡浜市
1ヶ年
福岡君春、有村範夫、徳村清矩
1966年(昭和41年)
愛媛県越智郡菊間町
半年
上脇洋

『木津志百年志』発行当時(1966年)の植栽本数(温州みかん)は以下の通り。

栽培者
植栽本数
上脇寿雄
600本
福岡公春
550本
小長野翠
500本
有村範夫
650本
上脇工
400本
有村恵吉
200本
達野穂積
250本
田中恵
150本
福岡勝
200本
福岡登
400本

農業協同組合

木津志農作業受委託組合
木津志農作業受委託組合

1948年(昭和23年)2月2日に、北山と木津志の地域が結束して北山農業協同組合の設立を申請。その結果、同年の3月31日に認可を受け、4月15日に正式に登記が完了し、組合が発足した。しかし、1962年(昭和37年)1月頃から、県の方針に基づき農協の合併の話が進行。同年の4月に北山農協の総会で合併が承認され、7月1日に始良町内の5つの農協が合併して、始良町農業協同組合として新たにスタートし、木津志には支所(出張所)が置かれた³⁵。

林業

1600年(慶長5年)頃の関ヶ原の戦に敗れた島津義弘公は鹿児島に帰還。この時、多くの合戦により財政が困難な状況に陥っていた。そこで義弘は、宮之城の島津久通を家老として登用し、財政の再建を目指した。島津久通は永野金山を開発し、藩の財政を立て直すべく尽力した。彼は宮之城から蒲生を経て鹿児島への道で、後郷川流域の風土が杉の造林に適していることを見抜き、造林を奨励した。近隣の村々もこの動きに触発され、造林の取り組みが進み、木津志もその影響を受けて、近世から積極的に造林に取り組んできた³⁶。

1770年(寛永20年)以降の永代売買の禁制は、1872年(明治5年)の太政官布告により、土地私有が確定される制度に変わった。この布告に伴い、土地所有と譲渡の確認として、地券を利用する新たな制度が導入され、地券渡方規則が公布された。1875年(明治8年)には、地組改正事務局達示及び地券処分規則に基づき、土地所有を決定する手続きが開始。全国的には1876年(明治9年)から1881年(明治14年)頃にかけて実施されたが、鹿児島県では西南の役の影響から、1881年(明治14年)頃からのスタートであった。木津志においては、1890年(明治23年)に柄木蔵左エ門が三年間世話人を務めていた時、部分林の登録申請実測図が提出された記録が存在する³⁶。

1907年(明治40年)、森林法が発令されが、当時森林組合を設立するところがなかったため、政府は組合設立を促進する目的で、1911年(明治44年)に森林組合設立奨励金交付の策を推進。この背景を受け、木津志の世話人であった伊地知市二、上提八佐工門、上提喜吉、上脇源之助らが鹿児島県で先駆けて森林組合の設立を申請。1912年(明治45年)2月に設立の許可を受けた。その後、植林の補助金申請を迅速に行い、1913年(大正2年)6月19日から境界の実測を開始。同年11月には測量を完了し、林相図や境界図を作成した。これに基づいて、1914年(大正3年)3月に植林計画案を作成し、鹿児島県知事へ報告書を提出。その後の20年間で、毎年森林補助の申請を行い、大量の補助金を受け取って林業の発展に努めてきた。伐採された山林や、伐採予定の山林の申請は、全てこの境界図を参照して行われていた。しかし、1939年(昭和14年)の森林法改正に伴い、1940年(昭和16年)に新しい組合政策が採用されると、森林組合は全国の各市町村単位で設定されることとなり、木津志施業森林組合は進展的に解散することとなった³⁷。

1926年(大正15年)12月にしいたけ栽培副業組合、1928年(昭和3年)には竹林期成組合が設立している³⁸。

金山

木津志には特有の鉱脈が存在している。700mの外輪山は輝石安山岩で構成されており、一方350mの中輪山は角閃安山岩である。これら二つの岩はしばしば「姉妹岩」と称され、金銀の鉱脈を形成する母岩であるとされている。小川内伝の口述によれば、木津志区内には鉱山監督局から許可を受けている鉱区が7ヶ所存在しているという³⁹。

金山跡は、城野神社の北東、下木場の高峰山中にあり、そこに「金山様」と呼ばれる山の神の碑がある²³’⁴⁰。

山神の碑(金山様)
山神の碑(金山様)

光和金山 光和金山は、近世後期、藩主である島津家によって採掘が開始された。その事実は、1852年(嘉永5年)に建立された碑や、古代鉱石粉砂の製造に使用された引臼、そしてそれによって作られた鉱砂の存在から確認されている。1916年(大正5年)には、鹿児島市の中村利治がこの金山の開発を試みたが、成功せず、数年で閉山。1936年(昭和11年)11月、福岡県の田中永治郎と椿原乙蔵が東市来の上村達也から鉱業権を譲り受け、木津志金山鉱業所として再度採掘を開始。途中、1943年(昭和18年)には「光和金山」と名称を改めた。しかし、大東亜戦争が勃発し、同年の企業整備令の影響を受け、事業は中止となった。終戦後の1946年(昭和21年)、金山の復興作業が開始。これには内村国義も参加し、天直抗の大富鉱帝を発見。この成功を受けて、昭和36年(1961年)に椿原を社長として宝鉱業株式会社を設立。しかし、1963年(昭和38年)に椿原社長が亡くなったことで、再度事業は中止となった⁴¹。

木津志鉱山 光和鉱山と木津志川を隔てた位置に、木津志鉱山が存在していた。この鉱山の権利は熊本の森喜秀が保有していたが、鉱山の沿革についての詳細は明確ではない。ただし、鉱山の範囲内に「金山谷」と名付けられた地域が存在し、その一帯には採掘の痕跡や引臼、鉱砂が残っている。これらの遺構から、島津藩時代に採掘が行われていたと推測されている。1953年(昭和28年)に鉱山の経営が始められたが、数年後には中止となった⁴¹。

松坂金山 菅野部落と柊野部落の境界に位置する地域には、旧期の安山岩が噴出しており、角閃安山岩を含む集塊岩や青盤化した岩石が存在していた。明治中期に、蒲生町の渡辺某によりこの地域が開発された。その際に利用された水車や、柊野の東村喜右エ門と椨木作左エ門が所持していた許可書、さらに揺鉢が残っている。昭和初期に、この地域の松坂と梅木の二か所で鉱山開発が試みられたが、成功には至らなかった。その原因として、この付近で鉱脈の生成後に噴出した粗面安山岩の影響で鉱脈が中断されていたことが挙げられている⁴¹。

丸山鉱山 丸山鉱山の発見は、1924年(大正13年)の秋に遡る。宮園新一宅の北側、宇都に位置する福岡公春の田を小作としていた栗下喜左エ門が、稲田の水を引く作業中に、偶然にも鉱山の露頭を発見した。喜左エ門は以前、大良鉱山での作業を経験していたため、この露頭が金鉱石であることわかりえた⁴⁰。 丸山鉱山の鉱石が高品位であることが椀掛法によって確認された後、鹿児島市の坂元礼助にその情報が伝えられた。坂元が採鉱を行い、その結果をもとに、鉱石の有望性が確認された。これを受けて、大分県の佐賀ノ関製錬所が鑑定を行った結果、同所を経営していた日本鉱業株式会社が鉱山を買収。1925年(大正14年)8月5日に、大規模な採掘事業が開始された。しかし、昭和3年(1928年)12月20日に鉱山は休業となった⁴⁰。 採掘された鉱石は赤色の石英に覆われており、水晶や方解石の脈石を伴っていた。当鉱山では、7馬力のポンプで排水を行い、10馬力の電気巻揚機で鉱石を採掘。その後、鉱石は選鉱されて塊鉱と粉鉱に分けられ、16貫入り15俵を馬車に積載。最終的には、重富港から日本鉱業会社の運搬船に載せられ、佐賀の関の火力製錬所へと運ばれていた。五ヶ年の稼業期間中、丸山鉱山からは宮園譲の概算によれば、15万円を超える金が産出されたと伝えられている。この金額を『木津志百年誌』編集当時(1966年)の紙幣価格に換算すると、おおよそ1億50万円に相当した⁴⁰。

養鶏

1966年(昭和41年)頃、始良町には協業養鶏が8ヶ所存在し、そのうち3ヶ所は木津志に位置していた。この3ヶ所の養鶏場には合計で29,400羽の鶏が飼育され、一方で木津志の個人養鶏家は13戸存在し、合計で3,100羽いた。協業養鶏が始められた背景には、狭い耕地のみでの米作経営の難しさがあった。また養鶏を副業として考慮する場合、経営を安定させるためには少なくとも1,000羽以上の飼育が必要とされたが、個人経営での多数飼育は、資金や設備、知識などの面で困難が伴うことも協業に至った要因であった。さらに姶良町当局もこの協業養鶏の取り組みを奨励しており、様々な便宜を図っていた⁴²。

交通

明治時代には、農産物や林産物の輸送及び消費物の購入は全て牛馬を用いた運搬方法に依存しており、郵便物の配達も徒歩で行われていた。大正時代に入ると、県道の開通に伴い木津志では荷馬車や客馬車が使用され始め、次第にこれらが重要な交通機関となった。また、大正初期からは自転車の使用も始まり、木橋から落下して大きな騒ぎが起きたことがあるという。1927年(昭和2年)には蒲生から木津志間でタクシーが定期運行を開始し、徐々に自動車の数も増加。1948年(昭和23年)には木津志-鹿児島間で定期バスが運行し始め、1954年(昭和29年)には帖佐を経由する鹿児島-木津志間の定期バスが1日に2往復するようになった⁴³。

脚注

出典

  1. 木津志百年史編纂委員会.木津志百年史.木津志百年史編纂委員会,1966,p.10.
  2. 木津志百年史編纂委員会.木津志百年史.木津志百年史編纂委員会,1966,p.11.
  3. 姶良市.”市の人口”.姶良市公式ホームページ,2023-12-01,https://www.city.aira.lg.jp/madoguchi/gyousei/gaiyo/shinojinko.html,(参照 2023-12-23).
  4. 木津志百年史編纂委員会.木津志百年史.木津志百年史編纂委員会,1966,p.7.
  5. 木津志百年史編纂委員会.木津志百年史.木津志百年史編纂委員会,1966,p.12.
  6. 木津志百年史編纂委員会.木津志百年史.木津志百年史編纂委員会,1966,p.14.
  7. 木津志百年史編纂委員会.木津志百年史.木津志百年史編纂委員会,1966,p.14-15.
  8. 木津志百年史編纂委員会.木津志百年史.木津志百年史編纂委員会,1966,p.15.
  9. 姶良市教育委員会.姶良市文化財ガイドブック 蒲生・木津志・北山・山田地区.姶良市教育委員会,2020-03,p.68.
  10. 木津志百年史編纂委員会.木津志百年史.木津志百年史編纂委員会,1966,p.15-16.
  11. 木津志百年史編纂委員会.木津志百年史.木津志百年史編纂委員会,1966,p.16.
  12. 木津志百年史編纂委員会.木津志百年史.木津志百年史編纂委員会,1966,p.16-17.
  13. 木津志百年史編纂委員会.木津志百年史.木津志百年史編纂委員会,1966,p.17.
  14. 木津志百年史編纂委員会.木津志百年史.木津志百年史編纂委員会,1966,p.18.
  15. 木津志百年史編纂委員会.木津志百年史.木津志百年史編纂委員会,1966,p.18-19.
  16. 木津志百年史編纂委員会.木津志百年史.木津志百年史編纂委員会,1966,p.58.
  17. 木津志百年史編纂委員会.木津志百年史.木津志百年史編纂委員会,1966,p.61.
  18. 木津志百年史編纂委員会.木津志百年史.木津志百年史編纂委員会,1966,p.19.
  19. 木津志百年史編纂委員会.木津志百年史.木津志百年史編纂委員会,1966,p.44.
  20. 姶良町教育委員会.姶良町内の神社.姶良町教育委員会,2009.p.102.
  21. 木津志百年史編纂委員会.木津志百年史.木津志百年史編纂委員会,1966,p.53.
  22. 姶良市教育委員会.姶良市文化財ガイドブック 蒲生・木津志・北山・山田地区.姶良市教育委員会,2020-03,p.68.69.
  23. 姶良市教育委員会.姶良市文化財ガイドブック 蒲生・木津志・北山・山田地区.姶良市教育委員会,2020-03,p.68.71.
  24. 木津志百年史編纂委員会.木津志百年史.木津志百年史編纂委員会,1966,p.54.
  25. 木津志百年史編纂委員会.木津志百年史.木津志百年史編纂委員会,1966,p.55.
  26. 木津志百年史編纂委員会.木津志百年史.木津志百年史編纂委員会,1966,p.40-43.
  27. 姶良町教育委員会.姶良町内の神社.姶良町教育委員会,2009.p.112.
  28. 木津志百年史編纂委員会.木津志百年史.木津志百年史編纂委員会,1966,p.62-63.
  29. 木津志百年史編纂委員会.木津志百年史.木津志百年史編纂委員会,1966,p.63.
  30. 木津志百年史編纂委員会.木津志百年史.木津志百年史編纂委員会,1966,p.25-26.
  31. 木津志百年史編纂委員会.木津志百年史.木津志百年史編纂委員会,1966,p.27.
  32. 木津志百年史編纂委員会.木津志百年史.木津志百年史編纂委員会,1966,p.27-28.
  33. 木津志百年史編纂委員会.木津志百年史.木津志百年史編纂委員会,1966,p.28.
  34. 木津志百年史編纂委員会.木津志百年史.木津志百年史編纂委員会,1966,p.29.
  35. 木津志百年史編纂委員会.木津志百年史.木津志百年史編纂委員会,1966,p.31.
  36. 木津志百年史編纂委員会.木津志百年史.木津志百年史編纂委員会,1966,p.34.
  37. 木津志百年史編纂委員会.木津志百年史.木津志百年史編纂委員会,1966,p.32.
  38. 木津志百年史編纂委員会.木津志百年史.木津志百年史編纂委員会,1966,p.33.
  39. 木津志百年史編纂委員会.木津志百年史.木津志百年史編纂委員会,1966,p.35-36.
  40. 木津志百年史編纂委員会.木津志百年史.木津志百年史編纂委員会,1966,p.37.
  41. 木津志百年史編纂委員会.木津志百年史.木津志百年史編纂委員会,1966,p.36.
  42. 木津志百年史編纂委員会.木津志百年史.木津志百年史編纂委員会,1966,p.37-38.
  43. 木津志百年史編纂委員会.木津志百年史.木津志百年史編纂委員会,1966,p.60.

参考文献

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