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求菩提(くぼて)は、福岡県豊前市の大字。求菩提山は奈良時代に開山され、多くの修行者が訪れ、特徴的な植物が残る。縄文時代の石器が発見され、526年(継体天皇2年)に猛覚魔ト仙が祠を造営し、祭ったことが信仰の始まり。720年(養老4年)、行善が異敵調伏を祈祷し、伽藍建立が勅許されました。南北朝時代から幕府方に属し、如法寺氏との間で度々争いがあった。
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地理
植物
奈良時代の求菩提山開山以来、多くの修行者が全国各地から訪れた。その際、いくつかの植物が持ち込まれ、その名残りが今も残っている。ヒメシャガとボダイジュは県から天然記念物に指定され、その他にアスナロ・オカメザサ・ワサビ・トキノチ・チヤ・ミヤマヨメナ・ミツマタ等が求菩提山を特徴付ける植物として挙げられている¹。
歴史
縄文時代
求菩提山で縄文時代のものとみられる石器が確認されている。採集された石器のうち、石匙は形態や風化度合から縄文時代早期〜前期だという。また、石匙は安山岩製で長さ7.8cm・幅3.1cm・厚さ1.3cm・27g。この他、姫島産黒曜石製の石鏃と思われる調整剥離の見られる破片や姫島産黒曜石製の掻器、伊万里湾産黒曜石の掻器が発見されている²‘³。
古代
『求菩提山雑記』によると、526年(継体天皇2年)、猛覚魔ト仙(もうかくまぼくせん)という人物が金光を訪ねて求菩提山頂に登り、祠を造営し祭ったのが求菩提山信仰の始まりだという。この山頂付近は、溶岩の噴出による巨石が累積しているため、独特な景観をもち、これが古代における自然発生的な山岳崇拝を生んだと推測されている。その後、720年(養老4年)の隼人の乱の際、勅宣により行善が求菩提山で異敵調伏を祈祷。その奉賽として、鎮護国家の道場として伽藍建立を勅許され、求菩提山護国寺の開山に至った⁴。
中世
『求菩提山捜古録』によれば、南北朝時代の1382年(永徳2年)、上毛郡の如法寺に釣鐘が一口奉納されたとの記録が残っている。『豊前市史 上巻』にも触れられており、永徳は北朝の年号であったため、この時期の求菩提山は幕府方に属していたことが伺える。1350年(観応元年)には、如法寺の円康が足利直冬の陣営に属し、挙兵する事件が起こった。この事例から、如法寺氏がこの地域の領主として、相応の武力を持って存在していたことが推察されている。1419年(応永26年)、円康の子孫である如法寺宗能が、求菩提山との間で所領を巡る争いを起こした。このような対立は円康の時代にも既に見られ、求菩提山の榜示に介入しようとする如法寺氏との間で問題が生じていたことがうかがえる⁵。
『豊前市史 上巻』によれば、求菩提山はもともと修験の山として、その山自体が信仰の対象として霊威を備えていたとされる。このため、山には容易に俗人が近づけない独自の特性が存在していたとしている。南北朝の動乱時、1350年(観応元年)に、如法寺円康は足利直冬方として活動し、その領主権の確立のために聖域と考えられていた求菩提山の榜示内への侵入を試みたと主張している。円康が具体的にどのような論争を経て、求菩提山の榜示内から撤退を決定したのかは不明であるが、彼は去り状を提出し、撤退を認めた。しかしその代わり、彼は「地頭の儀」を求菩提山側にも認知させることに成功した。この「地頭の儀」とは、在地の領主としての権限を意味し、地域の紛争を解決するための強権を持つことを意味する。これは、求菩提山麓に住む人々の生活圏が拡大していたことを示すという⁶。
1419年(応永26年)には、加法寺宗能と求菩提山の間で相論が再び発生した。この問題は、守護の大内盛見の元へと持ち込まれ、大内氏は円康の時代と同様の裁定を下した。しかし、大内氏の判断を示す「両方の申すところ、事多きといえども、無文の間」という表現は、新たな裁定を下すだけの十分な材料が存在しなかったことを示している。この「無文」という言葉は、求菩提山の特性を表す。求菩提山は、特別な境界や榜示を設けなくてもその聖域が維持されていたため、証拠文書を用意する必要がなかった⁷。 1431年(永享3年)、求菩提山は山領の田地の記録を整理し、岩番川と佐井川の上流域に広がる28町6反の土地のうち、小野村16町と上畑町4町8反が、如法寺筑前守によって押領されていることを注記した。如法寺筑前守とは、宗能またはその近親者を指し、筑前守側では小野村を大河内村、上畑村を稗畑村と称していたと伝えられている。この田地の記録は、大内盛見の死後、守護大内氏の代替わりを受けて提出されたもの。この注記は、如法寺氏による両村の押領の返還を大内氏に求めるとともに、返還が実現しない場合、その分の段銭や賦課には応じないという意思を暗に示していたと考えられている⁷。
1436年(永享8年)に求菩提山領の一部百姓の名寄帳が作成され、この記録は今日まで残っている。この帳簿は、豪忠と経宗という二人の求菩提山の関係者によって作成されたものである。彼らは、年貢米の徴収を目的として、各百姓ごとに田地の面積を集計し、それに基づいて米の分配量を決定して記録した。帳簿には、立岩左衛門四郎・今富六郎太郎・原五郎太郎・古門左衛門二郎・大久保衛門太郎・向古河彦八・三原二郎太郎・長野・斗部平九郎という有姓の百姓たちの名前が記載されている。特に、立岩と斗部(現在の戸符)は、1431年(永享3年)の求菩提山領の田地坪付において、村の名前として登場している。また、大久保の名は大河内の小字名として、今富の名は下川内の小字名としてそれぞれ記録されていた⁸。
求菩提山と如法寺氏との間で、度々相論が起きてきたことから、求菩提山側では榜示の確定が急がれていた。当時の四至状によれば、東の境界は大日岳から金堂瓦立通りを経て、斗部(戸符)の火ノ浦にある石塔を結ぶ線とされており、西の境界は鞍懸の堅路と定められ、その境界となる鉾立峠には大鳥居が設けられていた。南の境界は大ヶ岳、北は国見山とし、これらの地点に石塔を置いて境界を示した。東の境界に用いられた石塔は現在、戸符火の浦に「宝印塔」として残っている。この大鳥居は東西に設けられ、東から中津平野方面、岩岳川を経由して来る者や、西から寒田方面からの来山者に、この大鳥居をくぐることで、彼らが世俗から離れたことを意識させる役割を果たしていた。また、この四至状には大内氏の家臣、吉田重澄の裏花押が施されており、それは大内氏に提出され、求菩提山の境界確認が公的になされたことを示す重要な証拠である⁹。
大内教弘の治世、1444年(文安元年)に、求菩提山に対して諸軍勢の濫妨狼籍を禁じる命令が大内氏から出されたことが記録されている。これは、この時期に大内氏が当該地方で軍事活動を行っていたことを示しているのだが、具体的な理由は明らかではない。1441年(喜吉元年)に大内持世の死去を受け、大友持直や少弐教頼、大内教幸といった者たちが相次いで挙兵したのは確かである。『鎮西要略』によれば、1444年(文安元年)末から1445年(文安2年)にかけて、大内教弘は筑前国立花で大友軍との戦闘に臨んでいたとされるが、詳しい経緯は不明。1445年(文安2年)に少弐教頼が京都郡の郡代として白幡将監入道を指名したことからも、この時期の九州は不安定な状況にあったことが伺える。1448年(文安5年)に、大内氏の奉行人、杉重国と同頼明は、如法寺氏による違乱があったとされる斗部と鳥居畑を求菩提山に安堵。斗部は畠地5反、鳥居畑は新開発地3反とされており、これまでの相論地と完全に一致するわけではないものの、求菩提山側は新たな坊家を立ててこれらの地の知行を確保しようとした。しかしながら、この地域における如法寺氏の違乱の危険は引き続き存在していた。1468年(応仙2年)には、大内氏から如法寺縫殿允の違乱をとどめる命令が出されたが、その際に如法寺氏はこれらの地を御内知行地(大内氏の直轄地)として主張していたいう。このことから、如法寺氏が大内氏の直轄地を管理する立場でありながら、求菩提山に対して違乱を行っていたと考えられている。尚、御内知行という如法寺氏の主張は、大内氏によって否定されている¹⁰。
1467年(応仁1年)、細川勝元と山名宗全の対立から始まった応仁の乱は、足利将軍家や大名家の家督争いを巻き込み、全国からの援軍を京都に集める大規模な戦いとなった。東軍は勝元方、西軍は宗全方と呼ばれ、周防・長門・豊前・筑前の守護であった大内政弘は西軍に参加し、1473年(文明5年)には大内氏が西軍の主力となった。そんな中、大内政弘の背後をつくべく、東軍では将軍足利義政を擁して、大友親繁や少弐頼忠らに九州での挙兵を呼びかけていた¹¹。
1469年(文明元年)4月、大友方は豊前に侵攻し、5月には豊前国内を完全に制圧したとされている。この時期の大友氏による求菩提山の山領安堵の文書が多く残っている。大友氏は豊前に入ってすぐに豊前国内の支配機構を整備し、上毛郡に郡奉行を設置して、郡内の所領の洗い出しを行った。1471年(文明3年)、求菩提山領30町の安堵が大友氏の老臣たちから上毛郡奉行人の都甲惟理と小田親清に命じられた¹²。
1431年(永享3年)に求菩提山が山領の田地坪付を作成し、大内氏に提出した際、山領田地は28町6反であった。これには如法寺筑前守による押領地も含まれていた。『豊前市史』によると、この後の開発地を加えた公称30町が当時の求菩提山領であるとされ、大友氏によって安堵された30町にも如法寺氏の押領地が含まれていたと考えられている。また、如法寺氏が守護大内氏の支配下に入り、次第に求菩提山領への進出を図っていたことから、大内氏の勢力後退期に求菩提山が新たな支配者である大友氏に対し、求菩提山が如法寺氏の押領地の返還を求めたことは当然であると『豊前市史』は主張している¹³。
1527年(大永7年)、求菩提山の頼尊大徳が普賢岩屋から銅板経を発見。この銅板経が大内義興の上覧に供されたことから、当時の求菩提山に大内氏の影響力が及んでいたことがうかがえる。前年、如法寺依康との間で争われていた斗部五反・山野三反は、大内方の郡奉行能美弘助の命により如法寺先祖の去り状に従い、求菩提山に返却されることになった。能美弘助は、従来の大内氏の上毛郡代とは異なり、在地出身の国人ではなく大内譜代の人物だった。この時期、大内氏による求菩提山への規制が強化され、同年末には求菩提山法度が大内氏によってまとめられた¹⁴。
1536年(天文5年)、大内義隆は大宰大我に任じられ、九州の第一人者としての地位を確立し、豊前はもちろん、筑前も大内領国となっていた。1551年(天文20年)8月、求菩提山の上宮拝殿再興の完了を、寺社奉行の飯田興秀から報告を受けた義隆は、求菩提山の北中坊に労いの書を送った。この書状の日付は8月25日。しかし、その直後の8月27日、義隆は家臣の陶隆房により襲撃され、9月1日に大寧寺で自刃し、命を落とした。大内家臣団内の武断派と文治派の対立が背景にあり、文治派の義隆に対して武断派の隆房が謀反を起こしたとされる。隆房は大内晴英を大内家の後継者として迎え、自らも晴賢と名乗り、領国経営を主導した。大内義隆から労いの書を受けた求菩提山には、後に大内晴英からも、大内氏歴代同様の求菩提山領の安堵状が与えらている¹⁵。
近世
1588年(天正16年)11月5日付の求菩提山寺僧中への寄進状は、黒田氏の豊前在国時代における家臣団の知行関係を知る重要な資料である。これは、修験の山である求菩提山寺僧中に対し、同山の寺領として「井上九郎右衛門尉代官内」の50石分を与えるというもの。代官内は、黒田氏直轄地・蔵入地の中で井上九郎右衛門尉が管理していた土地を指し、通常の知行宛行状とは異なる形式の寄進状となっている。前年の1587年(天正15年)11月晦日には求菩提山の保護を目的とした「制札」も出されており、吉川広家・毛利輝元の重臣福原元俊と黒田孝高が連署している。『豊前市史』では、同時期に毛利勝信領の田川郡に所在する英彦山にも「守護不入」権が認められており、求菩提山に対しても同様の措置が取られたと推測されている。また、求菩提山寺僧中への知行宛行は、「井上九郎右衛門尉代官内」という領主蔵入地内での寄進という形式が採用されていたと考えられている¹⁶。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの功労により、黒田氏は筑前国への加増転封を受けた。同時に、細川忠興が丹後国から入封し、豊前一国と豊後国の国東・速見両郡の内を領有することとなった。これにより、求菩提山が位置する上毛郡は細川氏の領国となった。入国後、忠興は小倉城の改造と城下町繁栄策を進め、領国経営に着手。この一環として、村の改廃を行い、15~20村を手永と称する行政区画にまとめ、各手永には農民から選ばれた惣庄屋を設置して、管下の各村庄屋を管轄させた。この制度は元和期(1615年〜1624年)初めには完成したと見られ、1624年(元和8年)に作成された「上毛郡人畜家数御改帳」には、四人の惣庄屋の名前が記載されており、それによって57村の人畜状況が報告されている。ただし、求菩提山に関しては別帳に記載されていた¹⁷。
1622年(元和8年)、細川忠利は二代藩主として就任し、速見郡由布院・横灘地区(現:別府市)を含む豊後国の幕府預かり地の人畜・家数の調査を行った。小倉城下・彦山・求菩提山・宇佐宮・御許山における調査は実施されたが、全領の集計からは除外されている。これは、郡方とは異なる処理がなされたため。人畜改は村単位で家族構成や職業などの詳細な調査を行い、それを惣庄屋が統轄する手永単位で調整・集計し、郡ごとに集計する形式で統一された。現存する上毛郡の人畜改帳には、郡方集計帳簿と求菩提山の帳簿が含まれている。求菩提山の人畜改帳によると、当時求菩提山には35の坊と1つの庵室が存在し、最も規模の大きかった北中坊には法印1名、出家1名、男性20人、女性15人、馬2匹がいた。庵室には庵主51人、男性119人、女性97人、馬21匹がいた。合計で人口459人、馬56匹が確認されている。さらに、法印、出家、坊主などの宗教人以外に「庄屋」が2人いたことも記録されており、南ノ坊泉長と地蔵院中将は帳簿の作成責任者であった。これらの記録から、求菩提山は「守護不入」の聖域である修験道場でありながら、行政機構としての「庄屋」が配備され、細川氏の領内一円支配の中に組み込まれていったことが窺える¹⁸。
1837年(天保10年)、八屋・賢明寺で実施された宗門改めの記録が、小倉新田(千束)藩筋奉行倉橋源兵衛の「日記」(松崎文書)に残されている。上毛郡では3月9日にこの宗門改めが行われた。その際、1番に求菩提山の使僧が、印形した宗旨証文を宗旨奉行に差し出し、続いて松尾山・上毛郡の社家も同じように宗旨証文を差し出して改めを済ませた。つまり、求菩提山・松尾山・社家の宗門改は、それぞれ独自に改めを行い、宗門改め当日に証文を宗旨奉行に提出し、それによって完了としていた。その後、「上踏み(うわぶみ)」と呼ばれる大庄屋、子供役、格式を持つ上級者による踏み絵が行われ、続いて「下踏み(したぶみ)」と呼ばれる百姓による踏み絵が行われた¹⁹。
近世において江戸幕府は、諸大名に諸国の「郷村高帳」と「国絵図」の提出を命じていた。国絵図提出は1647年(正保四年)、1701年(元禄十四年)、1834年(天保五年)の三度行われており、豊前国の絵図には正保の国絵図と元禄の国絵図の控えが残されている。正保の国絵図において、交通網は小倉から中津へ通じる豊前道が赤い太線で描かれている。また、豊前道が中津郡高瀬村(現行橋市)で分岐し、袋造・赤幡を経由し、小山田から山中を通り求菩提山へ至る求菩提道も、豊前道と同じ赤い太線で描かれている。しかし、正保の絵図には求菩提の東側鳥井畑からの登り道が記されておらず、そのため、求菩提への表参道は寒田口であったとされている²⁰。
尚、正保の国絵図では、主要道として挙げられていた求菩提道が存在していたが、元禄の絵図では、この求菩提道の記載がなかった。さらに、幕末期に作成されたとされる「上毛郡八屋茶屋・御蔵・牢屋・宿々御高札・御境石・壱里塚画図面」という絵図では、交通網として「ウワ道」「クボテ道」「豊後往来」の3つの道が、呼称と共に描かれていた²¹。
求菩提山登山道
求菩提への登り道には幾つかのルートがある。
その1つが西の登山口(小倉口)と呼ばれるルート。この道は、正保の国絵図に描かれた通り、高瀬村(現:行橋市)で分岐し、袋迫-赤幡を通り、小山田から山中を南下して求菩提山に至る。1860年(安政7年)に友枝大庄屋の「御用方日記」に記録された八屋村庄屋塩田吉郎右衛門の報告によれば、求菩提山座主院の出津・帰山の際には、主にこの西の登山口が使用されたという²²。
求菩提への2つ目のルートは、表登山口と呼ばれるルートで、起点が異なる三つの道筋がある。いずれも合河(ごうがわ)四つ口で合流し、合原-大河内-岩屋-中畑-篠瀬-鳥井畑を経由して求菩提に至る。その1つ目の道筋は八屋-荒堀-下大西-上大西-才尾-山内を通り、合河四つ口に至るもの。2つ目の道筋は中の道ともいわれ、宇島-千束-中大西-薬師寺を通り、合河四つ口に至る。起点は現在の豊前市大字宇島西神明(経済川の東沿い)。3つ目の道筋は中津口ともいわれ、上毛郡広津-中村-大ノ瀬を通り、佐井川を渡って広瀬-鬼木-挟間を経て、大木で中の道に合流し、合河四つ口に至る。起点は山国川左岸の広津渡し口。合河四つ口は、求菩提への三つの道筋が合流する点で、人の往来が多かったため、ここには高札場が設置されていた。西の登山口(小倉口)と表登山口の他にも、彦山から一ノ岳の尾根を峰づたいに求菩提に至るルートもあった²³。
求菩提山修験道遺構
求菩提山中の遺跡は数えきれない程存在し、「縁起」にもみられるように大きく六つの谷「上谷、移谷、西谷、北谷、下谷、南谷」からなっていて、これを六坊中と呼んでいる。各谷には寺社や宿坊、窟等が存在し、修験者は山を行場とし、宿坊は最盛期には五〇〇坊を超える数と云われ、各谷ごとに共同体組織を構成し、家族的生活を営んでいた。
一方、窟の存在も大きく求菩提山には大小十数あり、国宝銅板経が納められていた普賢窟、大日窟、多聞窟、吉祥窟、阿弥陀窟の五つは通称「五窟」といわれ中心的存在になっている。
求菩提山やその末寺などの歴史については古くから調査研究がなされてきたが、昭和50〜52年に初めて山頂における盗窟をきっかけに遺跡遺物の保護を目的とした発掘調査が計画され実施された。
その結果、上宮地区において三基、中宮地区において一基、護摩場地区において一基の経塚が発見された。上宮地区の一基の経塚 は五基一群の経塚で、しかも保延六年の造営であった。上宮社殿周辺では多数の陶製経簡片や青白磁の合子片が発見された。
昭和六三年、県道甘木~豊前線の道路建設が求菩提山中の北谷地区を通過するために、事業に伴う事前調査として、福岡県教育委員会、豊前市教育委員会によって道路線内に所在する埋蔵文化財についての調査を実施。
この調査は、それまでの調査が経塚に集中し、それらを残した修験者の生活を知る坊跡の初めての考古学的査となったが、路線内という制約のためそれぞれの坊跡の全体を明らかにはできなかったものの、北谷地区での修験者の宗教活動を支えた生活の場の一端を知ることができた。
近代
求菩提の行政区の変遷は以下の通り³⁰‘³¹。
年代 | 上位行政区 | 補足 |
1882年(明治15年) | 上毛郡 | 鳥井畑村から分村独立 |
1889年(明治22年) | 岩屋村 | |
1955年(昭和30年) | 豊前市 |
神仏分離と廃仏毀釈
1868年(慶応4年)閏4月、神祇官が復活し、祭政一致の制に戻る旨が布告された。また、神仏判然令によって、従来の神仏混淆が禁止され、神仏分離の政策が採られた。この政策により、排仏毀釈の動きが生じ、神社にある仏堂、仏像、仏具が破壊されたり除去されたりする事態に至った。さらに、これは仏教への排斥や抑圧の運動へと発展した。豊前市では、この排仏毀釈の運動の影響を受け、求菩提山構内の石仏を含む、各地の仏像などが損壊を受けた。これらの仏像は現在も痛々しい姿をとどめている³²。
豊前市内で最も大きな影響を受けたのは求菩提山であったとされ、その当時の状況は史料によって窺い知ることができる。『豊前求菩提山史』によると、1868年(明治元年)の神仏分離令によって求菩提山は神社として位置づけられた。これにより、長い歴史を誇り、数多く存在した仏像、仏具、堂塔は破壊されたり、放置されたりした。1867年(慶応3年)には約300あった坊中であったが、肥後など他所への移住により数年間で3分の2を失うに至った³³。
また『新編 明治維新神仏分離史料』によれば、神仏分離政策が実施された際、石仏や石碑類は谷に投げ落とされたが、木製の仏像は岩窟内に隠されたという。しかし、仏像の中には他の場所へ移されたものも存在し、例として十一面観音像のような像は隣の京都郡に移されていたとされる³⁴。
さらに1872年(明治5年)に修験道が禁止されると、民俗信仰まで抑圧されるようになり、求菩提山はまるで火の消えたような状態になってしまった。そのため、維新後から『豊前求菩提山史』が刊行されるまでの約70年間、求菩提山では特筆すべき事柄がほとんどなく、記録されるのは坊中の移動や堂塔の転倒程度だったという。修験道廃止後の求菩提山は、神道黒住教に移行している。黒住教は修験道と似通った側面があるとされる。1899年(明治32年)の大風で、かろうじて残っていた求菩提山の多宝塔が倒壊し、現在はその礎石のみが残る状態。多宝塔の余材は中宮拝殿に保管されていたが、1901年(明治34年)の中宮焼失の際に焼失した。さらに、求菩提山麓に位置する宝寿寺には、暴徒が乱入したという記録も残っている³⁵。
1871年(明治4年)の太政官布告により、すべての神社は国家の宗祀として位置づけられ、社格が定められ、神官職制が設けられた。また、大小神社氏子取調規則も制定された。この変革の一環として、豊前市内にある求菩提の国玉神社は、1871年からの社格決定において、郷社に列せられた³⁶。
現代
1939年(昭和14年)に施行された宗教団体法は、宗教団体を戦争遂行のための国策に順応させるものであった。しかし、戦後の日本国憲法に基づく信教の自由と政教分離の精神を踏まえ、「宗教法人法」が1951年(昭和26年)に施行された。これに基づき、豊前市内の各寺院は宗教法人としての「〇〇寺」規則を制定し、登記された。特に、求菩提谷にある真宗や禅宗などの仏教各寺院は、この機会に僧伽教団の精神に立ち返り、共に聞法、研修、親睦を深めることで平和を願い、二度と戦争の悲劇を繰り返さないことを目指した。この思いのもと、1952年(昭和27年)には、僧俗一体となる求菩提仏教会が誕生した³⁷。
求菩提山山鳥獣保護区
求菩提山から経読山にかけての広さ2942haが保護区として指定されている。この地域の第1回目の指定は、1975年(昭和50年)11月15日から1985年(昭和60年)11月14日までとされていた。『豊前市史 下巻』の発刊時点では、第二回目の指定期間が1985年(昭和60年)11月15日から1995年(昭和70年)11月14日までと決定していた³⁸。
1986年(昭和61年)、福岡県は森林浴の素晴らしい地を「森林浴百選」と指定。これに求菩提山(史蹟と森コース)と犬ヶ岳(植物観察コース)が選ばれた³⁹。
1957年の発掘調査
求菩提山には数え切れないほどの遺跡が存在し、「縁起」に記されている通り、大きく六つの谷「上谷、移谷、西谷、北谷、下谷、南谷」から構成され、これらは六坊中と呼ばれているた。各谷には寺社や宿坊、窟などが存在し、修験者たちは山を行場とし、宿坊は最盛期には500坊を超えるた。各谷は共同体組織を形成し、家族的な生活を営んでいた。また、窟の存在も重要で、求菩提山には大小十数の窟があり、その中の普賢窟、大日窟、多聞窟、吉祥窟、阿弥陀窟の五つは「五窟」として知られ、中心的な存在だった。
求菩提山やその末寺の歴史に関する研究は古くから行われていたが、山頂での盗掘をきっかけに、1975年~1977年(昭和50年〜昭和52年)に遺跡遺物の保護を目的とした発掘調査が計画され、実施された。その結果、上宮地区に三基、中宮地区に一基、護摩場地区に一基の経塚が発見され、上宮地区の一基の経塚は五基一群で、1130年(保延6年)の造営であったことが判明した。また、上宮社殿周辺では多数の陶製経簡片や青白磁の合子片が発見された。
1988年(昭和63年)、県道甘木~豊前線の建設に伴い、福岡県教育委員会と豊前市教育委員会による事前調査が行われた。この調査は、主に経塚に集中していた以前の調査と異なり、修験者の生活を知る坊跡の初めての考古学的調査となった。調査は路線内の制約があったため、各坊跡の全体を明らかにすることはできなかったが、北谷地区での修験者の宗教活動を支えた生活の場の一端を知ることができた²⁴。
A調査区
A地区は求菩提山上宮から乳飲峠を経て国見山に至る通称「尾根道」の直下に位置し、北谷坊中で最も北部にある。この地区は尾根道と比較して約8メートルの高低差があり、6つの調査区の中で調査面積が最も広い。この地区の東側約半分は地山を削平して整地されており、東西の幅は約24メートルに及ぶ。検出された主な遺構には、礎石建物、堀立柱建物、溝、土壙、石組列などが含まれている。特に、溝三の北側では、内面が赤変した土城が集中して検出された。一方で、南半部分は後世の攪乱によって遺構の検出はされていない²⁵。
B調査区
A地区とC地区に挟まれた斜面部分の調査範囲は狭く、検出された遺構は土壙や柱穴などである。この区域から出土した遺物は他の地区と異なり、時代が古い土器片などが見られ、その時期は10〜11世紀頃にあたる²⁶。
C調査区
B・D調査区の間に位置するこの区域では、掘立柱建物、階段状遺構、土壙、石組列などが検出された²⁷。
D調査区
C地区とD地区の検出面の比高差が4m程ある。ここでは主に井戸一基が検出され、詳細な調査が行われた。井戸の西側は調査区外であるが、石垣や礎石建物が残存している²⁸。
E調査区
礎石建物、石組溝、立石遺構、石組遺構等の遺構が検出されている²⁸。
F調査区
今回の調査で検出された宿坊の中で最も東に位置する場所。この場所では、谷側に土留めとして石垣が積まれており、立石遺構や石組列などが検出された²⁹。
名所
求菩提山
奈良時代に開山した求菩提山は、修験道場として知られており、巨大なすり鉢を逆さにしたようなビュート状の山となっている。これは卓状台地がさらに侵食作用を受けて円錐状に尖った地形となったもの。中宮に至るまでの曲がりくねった道路沿いには石仏が点在している。中宮手前の座主跡地周辺や山頂を取り巻く岩のくぼみを利用した祠には、かつての面影が残っている。これらの重要な自然遺産と文化遺産の保護のため、この地域は1950年(昭和25年)7月29日に国定公園の第二種特別地域に指定されている⁴⁰。
求菩山修験道遺跡
求菩山修験道遺跡は、1971年(昭和46年)11月16日に福岡県の有形文化財として指定された史跡。円状の美しい山容と山頂の巨石群を磐座とする自然信仰が起源とされるこの場所は、古代祭祀の地として長く親しまれ、明治時代前までは修験道の山として継承されてきた。
山頂近くには国玉神社が鎮座しており、これはかつての山伏の拠点であった旧護国寺の後継である。この周辺には講堂や多宝塔など、神仏習合の時代を物語る遺跡が残されている。また、禊場や窟などの修験の行場もあり、中でも1142年(康治元年)に銘が刻まれた国宝指定の銅板法華経が埋蔵されていた普賢窟は特筆すべき存在である。
山の中腹部や谷には、かつて山伏行者やその家族が生活していた住居(坊)や菜畑などが点在し、求菩提山が豊かな山村の生活圏を形成していたことが伺える。英彦山を中心とする豊前修験道の重要な一翼として、周辺の山々を含む求菩提六峰は、明治初期まで独立した宗教集団として活動していた。多くの関係者が下山した後も、これらの遺跡は破壊されずに保存されてきた⁴¹。
ボダイジュ
ボダイジュは、国玉神社中宮に位置する天然記念物。『豊前市史』では、信仰の対象として移植されたのではないかと推測されている。樹高19m・地際周囲3.44m・胸高周囲1.8m、地上2mの所で二股となっている。1968年(昭和43年)2月3日に福岡県の天然記念物に指定された⁴²’⁴³。
ヒメシャガ
ヒメシャガは、アヤメ科に属する多年草であり、通常のシャガよりも小型で、高さは約20cm程度である。この植物の葉は膜質で剣状を呈し、4月から5月ごろには淡紫紅色の美しい花を咲かせる。求菩提山は海抜782mの急な山であり、ヒメシャガは約600mの高度にある琴平羅宮から国見山までの稜線や道路の両側に自生している。寒地を好むこの植物は北海道から九州にかけて分布しているが、九州においては求菩提山のように大群を成すことは稀で、その類例は他に知られていない。一時、乱獲により、絶滅に近い状態にあったため、求菩提資料館の庭で、これらの植物を保護し、育てる取り組みが行われた。前述のボダイジュ同様、1968年(昭和43年)2月3日に福岡県の天然記念物に指定された⁴⁴’⁴⁵。
国玉神社
求菩提字岩岳山に位置する国玉神社は、顕国霊神、伊弉諾命、伊弉冉命を祭神として祀っている。この神社は、もともと修験道の「求菩提山護国寺」として知られていたが、1868年(慶応4年)3月の神仏分離令により、国玉神社として再編された⁴⁶。
護国寺
護国寺は、行善和尚によって設立された寺院。『求菩提山雑記』によると、720年(養老4年)、行善和尚は白山大権現からの啓示を受け、鬼ヶ洲(おにがしま)にある神剣を発見。その後、求菩提山で十一面観音の霊像を感得し、地主大国玉神と共に、両所大権現として祀るようになったという。彼は求菩提山が霊地であると朝廷に報告し、勅許を得て寺院の建立を進めました。寺は「護国寺」と命名され、山の東側に約60町歩の土地が寄進された。『求菩提山縁起』では、行善が、異族の侵入や隼人の乱などの危機に際して、両所大権現に祈願し、乱の平定に貢献したとしている。その功績を称え、朝廷は藤原朝臣武智を派遣し、護国寺を鎮護国家の道場として認定⁴⁷。
護国寺の山門は二間四面であり、途中焼失した後、宝暦年間に再建された。また四天王と二王の像が安置されていた³⁴。
1868年(慶応4年)3月に発布された神仏分離令により、護国寺は国玉神社として再編。近代に入り神仏分離政策が実施された際には、求菩提の石仏や石碑類は谷に投げ落とされましたが、十一面観音像のような像は保護のため隣の京都郡に移されていたという⁴⁸。
根本修験道場求菩提山龍王院
大字求菩提134番地の4に位置する⁴⁹。
求菩提城跡
求菩提城跡は、求菩提山杉谷西の尾根道に位置する、北中坊墓所の東側の台地上にある。この地は岩屋と城井の両谷を見渡せる戦略的な地点で、堀の跡も残っている。求菩提城は、城井宇都宮の家臣である塩田内記の居城であったと伝えられている。塩田内記は、山岳戦に長けた勇猛な武将だったという⁵⁰。
人物
行善
行善和尚は求菩提山護国寺の開山として伝わる人物。彼の伝承は、仏教の求菩提入山の始まりに関して重要な示唆を与えている。行善和尚についての記録は『求書提山縁起』、『豊鐘善鳴録』、『求菩提山雑記』などの文献に残されている。
『求菩提山雑記』によると、行善和尚は720年(養老4年)、白山大権現から霊石に降臨するよう託されたと伝えられている。その背景には、求菩提山の西北約3里余りの地点に位置する「鬼ヶ洲(おにがしま)」と呼ばれる場所が関わっている。行善和尚がこの地に到着した際、彼は一振りの神剣を発見した。この不思議な出来事に思いを巡らせながら、数日間滞在し、白山権現の本地である十一面観音の呪文を唱え続けた。その結果、権現が天女の姿となって空中に出現し、行善和尚に対して自身を求菩提山の岳上に祭るよう告げたとされている。行善和尚が求菩提山へ帰る途中、小原の里にある石窟にて神剣を奉納。彼が山頂に到達した際、十一面観音の霊像を感得し、地主大国玉神と共に、両所大権現として祀るようになった。さらに、行善和尚は求菩提山が霊地であるとの報告を上奏し、その結果、勅許を得て、大講堂をはじめとする多数の堂社が建立した。また、勅命により、山は「求菩提山」、寺は「護国寺」と名付けられ、寺領として山の東に約60町歩(約60ヘクタール)の土地が寄進されたとされる。これらの出来事は、求菩提山及び護国寺が古代から重要な宗教的地位を持つことを示している⁵¹。
『求菩提山縁起』に記された行善和尚のエピソードには、『求菩提山雑記』と共通する内容があるが、いくつかの差異も見受けられる。特に、720年(養老4年)に関する記述では、異族が四国や西国に侵入し、その討伐が困難であった状況が記されている。恐らく大隈地方での隼人の乱を指しているという。
この危機的状況に対処するため、朝廷は宇佐八幡宮や近隣の高僧、験者に調伏を依頼。行善和尚も、勅命を受け、両所大権現に祈願し、乱の平定に全力を尽くしたとされている。その結果、乱が平定されると、朝廷は天皇の意を受けて藤原朝臣武智を遣わし、行善和尚の功績に報いるための参詣を行わせた。そして、伽藍の造営を勅許し、護国寺を鎮護国家の道場として認定したと記されている。そこで彼は、神殿仏閣の建立を行い、山に求菩提山という名を与え、寺には護国寺という名を冠した。これらの行動は、求菩提山における仏教文化の基礎を築いたと評価されており、その時代の仏教文化の草創期を偲ばせる貴重な資料となっている。
しかし、行善和尚自身についての具体的な詳細は不明。彼の出身地、生年、没年については記録が残っておらず、その生涯に関しては謎に包まれている。いずれにせよ、彼の功績は現代に至るまで求菩提山と護国寺の歴史の一部として重要視されています⁴⁷。
頼厳
頼厳上人は、平安時代後期に活躍した求菩提山の中興の祖。その生涯と功績は、『求菩提山縁起』、『求菩提山雑記』、『豊鐘善鳴録』、『辛島氏史』などの文献に記録されている。
『求菩提山縁起』によれば、頼厳上人は一千日回峰行の元祖であり、天台宗の開祖最澄の正統な流れを汲む大導師であり、天台宗の教えを広める役割を果たしていた。ただし、頼厳の俗姓については文献によって異なる記述が見られる。『求菩提山縁起』では藤原氏とされている一方で、『辛島氏家系図』では漆島氏と記されている。
頼厳上人は宇佐辛島郷の出身で、若い頃に仏門に入りました。壮年期には比叡山の僧正行尊のもとで学び、修験道の奥義を深く研究。また、良忍や皇円といった大徳の講席にも出席していた。
保延年間(1135年〜1141年)、頼厳上人は求菩提山に入り、法灯を輝かせ、講堂伽藍の復興を行い、中興開山と讃えられた。崇徳天皇の御代には、法を用いて雨乞いを行い、さらに祟徳上皇の時代には宮中に参内し、法を講じて宝耐祚延長を祈願した。1137年(保延3年)には、勅願により宝塔を建立し、釈迦の尊像を安置。この際、山王権現を勧請し、神殿拝殿を新たに建立したと伝えられてる。
1141年(康治元年)には、国家鎮護のために初めて一千日の大行を企て、これを成就させた。家徒は求菩提山に多く集まり、僧房は500にも及んだと記録が残る。これらの功績により、頼厳上人は後世においても高く評価され、中興の祖と称えられている⁵²。
広沢應知
広沢應知は、求菩提山に古くから続く成円坊(じょうえんぼう)の子孫。彼は教職を経て、同山の国玉神社の社司となった。約40年間教職に従事し、そのうち30年は村の山小学校(およびその前身)で勤務。彼の教えを受けた地区の人々は、彼の生前に登山口に大きな顕彰碑を建立した。
大字求菩提で生まれた應知は、小学校卒業後、恒遠精斎に師事して漢学を修め、詩作にも励んだ。1882年(明治15年)8月、岩屋村大字篠瀬の篠瀬小学校で初めて教鞭を執った。1917年(大正6年)3月に他校に転出した。1925年(大正14年)、篠瀬小学校と求菩提分数場が合併し、秋霧尋常小学校が鳥井畑に開設。翌1926年(大正15年)1月には、同校に転任した。1911年(明治44年)3月、同校は郷山尋常小学校と改称され、1921年(大正10年)4月に願い出て退職した。
退職した年の11月には、国玉神社の社司に任命された。彼は求菩提山の開発に協力を惜しまず、修験道関連の古文書などの保存と収集に尽力。極寒の時期であっても、昇殿する前に必ず沐浴を行い、自身の白衣には他人の手を触れさせなかった。また、常に提灯を持って下山し、外泊することは決してなかった。その理由は、自宅があるということと、朝の勤めがあるためであった。1931年(昭和6年)には、官幣大社日枝神社山王講員に任命された。
同氏は元来温厚で、人との接し方は謙譲であった。しかし、職務に対しては厳格かつ忠実で、何事にも全力を傾け、成し遂げるまでやめなかった。また、詩歌や文芸の道にも通じており、特に漢詩に長けていた。彼は毎日詩を作り、その創作活動で温厚な徳を示し、周囲に影響を与えた。
建碑の際に銘文の作成を依頼された鬼木柳録は、懇篤な彰功文を作成し、その末尾に翁自身の自祝の詩を加えた。この詩の中で、翁は里人の厚い人情を称えつつ、「虚名を保つを愧ず」と自身の心境を述べている⁵³。
教育
1873年(明治6年)、従来の寺子屋学校が改められ岩岳小学校ができる。当初、区域は求菩提だけだった。同年、大字篠瀬字古屋敷に校区を篠瀬・鳥井畑・産家とする篠瀬小学校が設置された。1892年(明治25年)、岩岳小学校ならびに篠瀬小学校を廃して、鳥井畑字古山ノ神に秋霧小学校を開設。求菩提・鳥井畑と篠瀬の一部を校区とした。その後、1912年(明治45年)に大字篠瀬字古屋敷に移転し、郷山小学校に改められた⁵⁴。
伝説
鬼の石段
求菩提山(782m)の中宮から上宮にかけての区間には、850段の石段が存在する。この石段は、昔、犬ヶ岳に住んでいた鬼が築いたものであるという伝承が残っている。鬼たちは時々里に下りてきて農作物を荒らしたり、牛馬を盗んだり、女性や子どもをさらうなどして村人たちを困らせていた。困った村人たちは、鬼たちを退治してもらうために求菩提の権現様に頼んだ。権現様は、鬼たちに住みなれた山を立ち去るよう命じるが、鬼たちが簡単に聞き入れることはないと考え、彼らに難題を出した。求菩提山頂に権現様の社を建てるために、一夜のうちに1000段の石段を築くことを要求した。夜明けまでにまだ時間があるにも関わらず、鬼たちは900段を超える石段を築いてしまった。これに驚いた権現様は、持っていたタコロンバチ(竹の皮の笠)を叩いて、鶏の鳴き真似をして夜明けを装った。それにつられて里の鶏も鳴き始め、鬼たちは驚いて山を駆け下りた。それ以来、里は平和になったと伝えられている⁵⁵。
お秋伝説
大字求菩提の登山口近くには「秋霧台」と呼ばれる地域がある。春先になると深い霧でこの台地は覆われる。登山口を少し登った道路わきには、1メートル足らずの小さな墓がある。この墓には「妙空禅定尼霊位、慶安三年四月二九日死去、廿七才」と刻まれている。約340年以上前のこと、お秋と名乗る美しい女性が、求菩提山で修行する若い修行僧を尋ねて来た。彼女は村人に教えられた道をたどって山路を進んでいったが、翌日、山仕事に出かけた村人たちが道路わきで彼女の無惨な死体を発見した。身寄りのない旅の果てに非業の最期を遂げたお秋のために、村人たちは小さな墓標を立てて彼女の霊を慰めた。地元の人々は、この台地が霧に覆われる日が多いのはお秋の怨霊のせいだと言い、今でもお秋の悲劇に寄せる同情話が語り伝えられている。その話が「秋斬り」が「秋霧」と転じて、「秋霧台」と呼ばれるようになったとされる⁵⁶。
蝮の毒消し薬
昔、求菩提山の山ふところに千蔵という律義な農民が住んでいた。千蔵の炊事場には大きな水ガメがあり、その横には蝮(マムシ)が巣を作り、三匹の子供を育てていた。千蔵は蝮の巣に気づいていたが、気の毒に思い放っておいた。ある夜、村の寄り合いから帰った千蔵が、夜中に水を飲もうとして誤って蝮の巣を踏んでしまった。驚いた蝮の親が千蔵の足を噛み、千蔵は毒にあたって苦しんだ。翌朝、親蝮は自分が千蔵を噛んだことを悔やみ、その夜、千蔵の枕元に現れ、治療法としてナメクジと飯粒を混ぜた薬を患部に塗ることを伝え、数匹のナメクジを置いて去った。翌朝、千蔵が水ガメの横を見ると、親蝮は三匹の子を抱くようにして死んでいた。千蔵は蝮から教わった通りに薬を作り、患部に塗ったところ、次第に快方に向かい、完全に回復した。その後、千蔵はこの「腹の毒治し」を家伝薬として作り、多くの人々を蝮の被害から救ったと言われている⁵⁷。
文化
お田植え祭
求菩提山は、中世以来の宗教的文化を残している豊前修験道の重要な一角である。その中でも特に注目されるのが「松会」の行事であり、この中で求菩提山で残っているのが、稲作を模したお田植祭。これは、1971年(昭和46年)11月16日および1976年(昭和51年)4月24日に福岡県の無形民俗文化財に指定されている。
かつては旧暦の二月十九日に実施されていたが、現在は毎年三月二十九日に、護国寺の後継である国玉神社の旅殿の前庭で行われている。お田植祭の所作には、草刈り、畦塗り、田鋤(子牛に引かせる)、田打ち、大田主(神官が田を見回る)、種子蒔き、田植え(杉の小枝を折り紙に植える)、うなり(妊婦姿の女性が田を回る)、田褒め(参加者全員で田を褒める)などが含まれる。
求菩提山で行われるお田植祭は、他の山のものと比較しても、その所作の丁寧さと美しさが際立つという。特に、身持女(孕み女)と初花乙女が稲の生育を徴したり、「ホウ」「ホウ」と田褒めをしながら回る様子は、農作業に対する農民の祈りを的確に表現しており、農耕予祝行事としての古い信仰を色濃く残している。
また、松会の中心である神幸は、現代では簡素化されているが、使用される諸祭具には古い時代のものが含まれており、かつての盛大な祭りの様子を偲ばせる要素を持っている。これらの特徴は、求菩提山のお田植祭が地域における農耕文化と深い関わりを持ち、長い歴史の中で継承されてきたことを示している⁵⁸。
脚注
出典
- 豊前市史編纂委員会.豊前市史 上巻.豊前市,1991,p.36-38.
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