東北地方
関東地方
中部地方
九州地方
データベース
記事写真映像参考文献その他
集落データベースとは?遺村プロジェクトマップご利用運営お問い合わせ柊野
柊野(くきの)は、鹿児島県薩摩郡さつま町の大字。川内盆地の一部で、周囲は小高い山に囲まれ、川内川の支流夜星川の上流地に位置する。中世から江戸時代にかけて薩摩国祁答院に属し、北郷氏の支配下にあった。明治時代には西南戦争に関わり、神社の社格制定や神道の分離が行われた。
地図で見る柊野
地理
柊野は、川内盆地の一部で、周囲は200m~300mの小高い山に囲まれている。この地域は川内川の支流である夜星川(やせいがわ)の上流地で、北西側には紫尾連山の中でも標高600mの石堂山が聳える。江戸時代初期からこの地域は水田が発展し、今もなお水田地帯としての特徴を持つ。北側には紫尾連山を越えて出水市大川内地区と接す。柊野内各地の標高は、下地区の古園(松尾橋)近くで83m、小学校の正門下で96m、上地区の採石場入口付近で112m。その他、紫尾小学校入口付近で74m、紫尾神社付近で80m、鶴田中央公民館付近で91mとなっている¹。
地名
室町時代の古文書に「久木野」、江戸時代の元禄年間には、「柊野野」「柊野」と当地が記されていた。地名の由来は詳らかでないものの、『わが心のふるさと くきの』では、地域に多くの柊(ひいらぎ)が繁茂していたことに関連していると考えられている²。
柊野の人口は以下の通り³‘⁴。
年代 | 戸数(世帯数) | 人口 |
1690年(元禄3年) | 137 | |
1890年(明治22年) | 129 | 506 |
1902年(明治35年) | 113 | |
1954年(昭和29年) | 120 | |
1960年(昭和35年) | 118 | 640 |
1970年(昭和45年) | 121 | 509 |
1980年(昭和55年) | 112 | 447 |
2005年(平成17年) | 112 | 282 |
2009年(平成21年) | 113 | 257 |
歴史
中世
御秘文雑集及び元禄郷帳から室町時代の古文書に「久木野」として記されていることから、この時代には薩摩国祁答院に属していた考えられている。さらに、室町時代の1464年(寛正5年)の記録によれば、祁答院渋谷氏の第9代、祁答院(平)徳重の覚書(山崎氏文書・旧記雑録)に「久木野」という地名が見られ、この地で検田が実施されていたとされている。しかし、島津歳久が祁答院の領主となった1577年(天正5年)には、その領地の村としては祈答院、宮之城、鶴田、求名、佐志、時吉、紫尾、柏原、湯田、船木、中津川、虎居、平川、久富木が記されていたが、この時点では「久木野」という地名は記録になかった²。
1595年(文禄4年)6月、太閤検地の知行割仕置により、豊臣秀吉は石田三成と協議を行い、家臣たちの所領変更を決定した。この際、秀吉からの信頼が厚く、石田三成とも親しい伊集院忠棟は、8万石という大きな所領を持つ大名として、鹿屋から都城庄内に封じられた。それに伴い、それまで都城を支配していた北郷左衛門尉時久は、祁答院(けどういん)の3万7000石に移された。この結果、柊野村は北郷氏の支配下に入った。その際の所領の中に「久木野」という名称があり、その坪付は238石3斗4升5合1勺だった²。また柊野には北郷氏に関連する遺物として、山神社が建立されていることが知られている⁵。
近世
「郡村高辻帳」(島津国史)によると、近世において祁答院の領地は八つの郷に分けられていた。その内の1つの宮之城郷に、時吉・虎居・湯田・宮之城・平川・船木・求名・平木場とともに久木野々(柊野)が列せられていた²。
1600年(慶長5年)12月、北郷氏の後を継ぐ形で、東郷を支配していた島津忠長が宮之城の地頭に任命された。その後、忠長の子である久元の時代に、所領の高は1614年(慶長十九年)の「有領地之目録目」(『旧記雑録後編四』より)に記載されている通り、1万3660石8斗2升だった。この家系を「宮之城領主尚久一流島津家」と称し、久治の第十五代まで、1869年(明治二年)8月の版籍奉還が行われるまでの間、約269年間にわたって宮之城郷を統治していた。『宮之城記』によると、1690年(元禄3年)の柊野村の石高は229石7斗3升7合3勺で人口137名だった。尚、石高は宮之城郷八ヵ村の中で最も低かった⁶。
宮之城郷の庄屋所に関する情報は、1823年(文政6年)の内山軍兵衛の絵図に記載されている。柊野村の庄屋所は向江の前野宅付近に位置しており、現在でも「庄屋どんの屋敷」として地元の人々に呼ばれているという。この庄屋は宮之城から来たとの伝承がある。以前は「庄屋高」として一町五反の田があったものの、後に柊野区がその所有となった⁷。
近世において島津藩は、年貢米の徴収や夫役の適切な割り振りのため、百姓に対して門割制度を導入していた。この制度の中で、本家は「名頭」として呼ばれ、一方で分家などは「名子」と称されていた。尚、「名子」には名頭と直接の血縁関係のない者も含まれていた。1つの「門」は、名頭の家と、1~2戸の名子の家で構成されており、それぞれの門には「門高」と呼ばれる十六名から四十名程度の田が割り当てられていた。そして、その田で生産された米は帖佐の小鳥御蔵に納められたり、直接武士の家に納められていた。1823年(文政6年)の絵図などによると柊野村の門は以下の通り⁸。
原ノ園 | 大迫 | 前ノ | 有村 | 永吉 |
別府 | 下ノ屋敷 | 福園 | 上ノ屋敷 | 宮ノ脇 |
木場 | 小屋敷 | 今村 | 大多 |
近代
明治時代、薩摩藩の西郷隆盛が中心となり、政府に対する士族の不満や政策への反発を背景に西南戦争が勃発。西郷軍は、鹿児島を中心に熊本や宮崎で政府軍との激戦を繰り広げたが、9月24日に鹿児島の城山で政府軍に敗れ、この戦争は終結を迎えた。柊野地区からも西郷軍として7名の従軍者がおり、そのうち3名が戦争で命を落とした。その中には、柊野の仏飯講の創始者玉利源之助の子、玉利源太郎も含まれており、彼は熊本県山鹿での戦闘で戦死した⁹’¹⁰。
社格の制定と神社の変遷
1871年(明治4年)5月、政府は神社の統一的な管理を目的として社格を制定。この方針の下で、神社の基盤を固める措置が取られた。この結果、柊野村に存在していた南方神社は村社として位置付けられた。その他の神社も、一律の名称に統一された。山の神や鎮守(ちゅしどん)の祭神は大山祇命とされ、それぞれ大山祇神社や鎮守神社として再編。また、大明神という格付けは廃止され、祇園天王は八坂神社、諏訪上下大明神は南方神社、天神や天神宮は菅原神社、若宮八幡は八幡神社という名称に統一された。これにより、多様であった神社の名称や位置付けが国家の公的施設としての基準に沿った形で再編された¹¹。 しかし、各地の土着の小社祠や私祭の社祠が公的神社として認められるようになった結果、神社の数が年々増加。これに対し、政府は神社の統廃合が必要であると判断し、1906年(明治39年)から合祀の取り組みを開始。柊野においても、1924年(大正13年)に無格社であった伊勢神社・鎮守神社・保食神社・山神社・鎮守神社が、村社であった南方神社と合祀されることとなった¹²。
1945年(昭和20年)12月、連合軍最高総司令部はポツダム宣言に基づき、神道指令を発表。これにより、神道を含む宗教は国家から完全に分離された。1946年(昭和21年)に、既存の神社関連法令が廃止され、神社本庁が設立された。また、宮之城の神社は鹿児島県神社庁の薩摩支部に所属し、旧社格の代わりに新たな級が設定され、柊野の南方神社は6級と定められた¹³。
現代
全国的に著名な児童文学者の椋鳩十の童話集には、柊野に関する民話が収録されている。彼は昭和20年代に鹿児島県を訪れて取材を行い、その成果としてその民話を著したという。柊野に関する童話が収録されているのは、『椋鳩十動物童話集 第3巻』で、柊野は、狩人と猟犬の物語の舞台となっている。民話に登場する「清どん」という柊野の狩りの名人が登場するが、明治時代の終わりに「今村」という狩猟の名人が実際に存在していた¹⁴。
昭和30年代初め、電話加入希望者が増加し、施設の整備が追いつかない状態となった。これを解決するため、1965年(昭和40年)2月1日に地域集団電話制度が導入された。この制度では、1本の回線を4戸~7戸前後のグループが共有する方式を採用。この制度は費用が割安であったため、多くの人々が加入を希望し、逐次工事が進められた。柊野の電話開通は1970年(昭和45年)10月で、宮之城の中でも比較的早い第1次分開通(740台)に、泊野・平川等とともに組み込まれていた¹⁵。
1965年(昭和40年)頃までは3畝や5畝といった小規模な田圃が中心であった。しかし、1968年(昭和43年)3月に土地基盤整備事業の協議が持たれ、1976年(昭和51年)に小規模農村基盤整備事業が古園地区を皮切りに始まった。1987年(昭和62年)3月には、10年間にわたる当事業が完了し、約25町歩の土地が整備された。当事業には総額約1億円が投じられた¹⁶。
神社仏閣・名所
南方神社
南方神社は、健御名方神と八坂刀売命を祭神とする神社。創建の由来は不明。近代に入ると村社に列せられた。1924年(大正13年)には、伊勢神社、鎮守神社、保食神社、山神社、鎮守神社といった無格社が、村社である南方神社と合祀した。また、柊野上地区にあった阿弥陀堂も南方神社に移転されている¹⁷。
南方神社では、毎年11月20日に氏子代表が集まり、甘酒・赤飯・しとぎを作り、この1年間の豊作に感謝し、柊野内の氏子の安全の祈願がされる。過去には太鼓踊りの奉納や子供たちの相撲大会などが開催されていた。翌日の11月21日には、各家庭の氏子が集まり、一年の家内安全と五穀豊穣を祝うお祝いが行われる¹⁸。
田の神さあ
田の神さあは、薩摩藩特有の石造物で、農業の指導者や神職、僧侶への感謝、さらには自分たちの祈り(増産・満腹・旅行・楽しみなど)を具現化したもの。この石像は立像、腰掛像、座像、自然石などさまざまな形態を持つ。柊野地区には、田の神さあが3つあり、上地区には2つの「田の神さあ」があり、あと1つは柊野下地区の公民館敷地内に存在する。この公民館敷地内の田の神さあは、丸髷を結う珍しい形となっている。また、田の神さあを集落内で持ち回す「持廻」という文化もあるが、柊野の3体はいずれも野外に立つ「野立」に分類される。1985年(昭和60年)に行われた調査によれば、旧宮之城町には合計で108体の田の神さあが存在していた¹⁹。
金吾さあの碑
金吾さあの碑は、南方神社の尾根の奥地、約70m地点に位置している。この碑は、江戸時代の後期に農民たちによって建立されたと伝えられている。金吾さあは、島津歳久の別称で、金吾とは朝廷から与えられた武家の官位で、衛門府を指している。碑文の中には「文政二乙卯(1819年)八月十八日」と記されているが、島津歳久が祁答院領主であった時代、柊野を統治していたわけではないため、この供養塔がなぜ建立されたのかの経緯は明らかではない。歳久の伝説として、彼が自害する際に、「難産のおそれのある妊婦がいるなら、自分がその苦痛を代わりに受ける」と言い残し、割腹して自らの腸を掴み出したという話が伝えられている。この伝説により、歳久は武神としてのみならず、安産の神としても崇められており、その影響を受けた可能性も『わが心のふるさと くきの』で示唆されている。また、柊野小学校の教頭住宅の近くには「金吾さあの足跡」はある。尚、由来は不明²⁰。
イチガシの木
イチガシの木は、柊野小学校の校長住宅の近隣、氏神の山手に存在する。この木の高さは約25m、幹の周囲は9mであり、その樹齢は約800年とされている。「イチガシの木」というのは柊野地内での呼び名で、正式名称はイチイガシ(一位樫)²¹。
切開どん
切開どんは、柊野小学校の東側上部に位置する供養碑。口伝によれば、この碑は柊野の草創時代の人々を供養する目的で建てられたという。碑には「正徳四甲午暦 即秀営栄心大居士不二位 八月十⬜︎日」という文字が刻まれている。過去には、この碑は旧庄屋の屋敷付近に存在していたが、後に別府屋敷の上部の山中に移転された。その後、現在の位置に移されたと伝わる²²。
向江の石塔
向江にある1666年(寛文6年)の石塔²²。
石堂山の石塔
石堂山の石塔は、犬ケ八重国有林内に位置し、出水市との境界付近に存在する石庫。正面及び左右の側面に碑文が刻まれているが、経年の影響で石塔の劣化が進み、多くの部分が剥落しており、そのため碑文の全文の判読は難しい状態となっている。しかし、なお読み取ることができる碑文の中から、「文明19年(西暦1487年)」という年号が見受けられる。1487年(文明19年)頃に柊野に居住していた人々の存在については不明であるが、紫尾山は霊峰としての信仰を集めていて、石堂山は当時の出水街道への通り道であったと推測されている²²’²³。
中山屋敷の碑
柊野下地区の松尾橋付近にある碑。1688年(元禄元年)の建立で、碑文に「柊之野」と記されている²。
阿弥陀堂
柊野の「阿弥陀堂」は、江戸時代の記録に「阿弥陀観音」として記されている。かつてこの堂は、柊野上地区の採石場跡の入口近くに存在していた。現在は南方神社内に奉納されている。この堂の中には、阿弥陀如来像2体と観音菩薩が祀られている²⁴。
石塔群
島子石塔群は、柊野地区の字川地区に位置し、島子宅から約200m奥に入った山手部分に存在する古い石塔群。石塔が作成された時期は定かでないが、その様式や特徴から室町時代後期に作られたと推測されている。また、この石塔群の型は、柏原地区の大願寺跡近くの石塔と同様の型を持っている。過去にこの地域には寺院が存在していたとの伝承もあり、それが石塔の建立の背景となったと考えられる²⁵。
梅の木
字川地区は、江戸時代に宮之城島津家の重要な狩猟地であった。そのため、宮之城島津家の殿様が島子家で御宿としての休息を取っていたと云われている。また、邸宅内には梅の木がある。これは殿様から島子家が梅の木を拝領し、当初は鉢植えしていた鉢が割れ、後に自生したもの。島子家の邸宅の川側の石垣は、武者返しという特徴的な石積み方法で作られている²⁵。
本陣跡
本陣跡は、下地区にある前野治司宅を指す。柊野は、江戸時代に宮之城島津家の御狩り場として利用されており、殿様が訪れる際の宿泊や休息のための本陣がここに設けられていた。また、同家には「御本陣」という文字が記された高さ約50m・横約20cmの板が残っている。さらに、この邸宅の近く、大迫宅の後ろには殿様が訪れた際に飲用したと伝わる湧き水がある²⁶。
教育
柊野小学校
1878年(明治11年)、柊野小学校が創立。その後、1881年(明治14年)に校舎が改築。工費は50円。1887年(明治20年)4月に、柊野小学校は柊野簡易学校に改称された。1890年(明治23年)には、改正小学校令により、尋常小学校の修業年限が3年または4年とされ、就学が義務付けられた。簡易学校は認められず、少なくとも3年間の義務教育が必要とされた。これを受けて、1892年(明治25年)に柊野簡易小学校は柊野尋常小学校に改められた。更に、1907年(明治40年)には教育制度が改正され、宮之城内では盈進・山崎・佐志・求名の4つの学校は尋常科6年と高等科2年の尋常高等小学校となった。一方、柊野小学校などは6年制の尋常小学校となった。尚、その後、全ての小学校が高等科を併設されており、柊野小学校には1938年(昭和13年)4月に高等科が併置された。1941年(昭和16年)柊野国民学校に改称され、終戦後の1947年(昭和22年)4月に柊野小学校改められた。1979年(昭和54年)1月、創立百周年記念式典が催されている²⁷。
文化
仏飯講
室町時代中期の1450年(応永27年)頃、浄土真宗(一向宗)の本山である本願寺は、全国に布教を広げるために「講」と称する組織を創立した。この講には、身分の差を超えて、門徒(信者)が参加可能であった。しかしながら、薩摩国や大隅国を統治していた島津氏は、キリスト教の禁止と同じく、藩内での浄土真宗の布教も禁止していた。そのため、信者たちは阿弥陀如来像を本尊とし、信仰を保持できるように、洞窟や大木の中で秘密に集まり、「かくれ念仏」としての行事を執り行う「〇〇講」という秘密組織を設立した。「細布講」「相続講」「十七日講」「廿日講」「三日講」など様々な講が存在し、柊野には「仏飯講」があった²⁸。
柊野仏飯講の創始者である玉利源之助は、1814年(文化11年)に柊野下地区で、下級武士の家系の玉利源八の二男として生まれた。1878年(明治11年)5月11日、享年65歳で逝去。玉利家は加治木からの移住者で、源之助の祖父である善右衛門や父の源八は、下級武士の立場でありながら鍛冶屋も営んでいた。源之助が京都の本願寺でいつ修行をしたのかは定かではないが、彼が31歳の時に「柊野仏飯講」は本願寺直属の講として公認された。柊野に記録は残っていないものの、認可されたのは1846年(弘化3年)4月8日と伝わる²⁸。
1942年(昭和17年)の本願寺の講社名簿によれば、当時、鹿児島県内に26の講が存在していたが、時とともに多くの講が衰退。2010年(平成22年)頃には、薩摩地方では柊野の仏飯講だけが継続しており、他に残る講は大隅地方にあるものだった²⁸。
狩猟
柊野は、古くから宮之城島津家の狩猟地として知られていた。このため、上、向江、中間、下の各組(集落)には、猟犬が二頭ずつ飼わされていた。各組の住民は、一ヶ月ごとに猟犬の飼育を各家で交代して行っており、これは犬を組全員に慣らすための策であったと考えられている。狩りを行う際、島津家の主要な家臣たちは、それぞれ指定された場所での狩りを行っていた。例えば、仁田道は平田どんのマブシ(獲物を待ち伏せる場所)で、マダラは日高どんのマブシ、そしてコブシは相良どんのマブシで狩りを行っていた。また、同時に複数の場所で狩りを行うことはなかったという。狩猟時、獲物をマブシに追い込むための勢子は追立で、各組から交代で男性が出動していた。ただ、犬は全8頭が出動していた。さらに、食事の当番になった者は、何十人分もの昼食を遠くの狩猟地まで運び、帰りには獲得した獲物を担いで戻るという、非常に大変な役目を担っていた²⁹。
狩りの集合場所は、柊野小学校の北に約300メートル離れた場所の山之口と定められていた。この場所は現在も「集まい段」と称されその名残がある。狩猟が開始する前に、参加者全員で多くの獲物が穫れることを祈願するために山神を祀っていた。行司(東條忠愛家)がホラ貝を吹く合図とともに、各参加者は指定された部署について狩りを開始。獲物が獲れた際にも、再び山神を祀る儀式を行っていたが、その際の祈りの文句は狩場の位置、すなわち里山・中山・奥山によって異なっていた。例えば、山の入り口で祀るときは、里山の神を最初に呼び、次に中山の神、そして最後に奥山の神という順序であった。この祈りの文句は狩猟の頭だけが知っており、他の参加者には知られたくないとの意向から、小声で唱えられていたという³⁰。
猪の料理と分け前には伝統的な習慣があり、特定の場所で獲れた猪をどのように神々や参加者に捧げるかが厳格に定められていた。山の入り口で獲れた猪は、里山の神を正客として最初に招き、その後、猪を四方に広げて山の神々に捧げた。しかし、殿様や旦那衆が参加する狩猟では、獲物をすべて持ち帰られてしまうため、獲れないように意図的に柴を立てて祀ることもあったという³¹。
一般の狩猟者の猪の分け前は詳細に定められていた。鉄砲で撃った者は猪の頭と腹の部分を、犬の飼主は「犬骨」と呼ばれる腰骨を、解体を担当した者は「ソウシシ」と呼ばれる部位を受け取った。山から村まで猪を運んだ者にはアバラ骨が与えられ、マブシでは「セキ」と呼ばれる肉や脂の固まりが分られた。また、犬には「犬ダム」と称される腰の肉が与えられた。猪の四本の足の肉は、狩猟に参加した者たちで平等に分けられ、この部分は「タマス」と呼ばれていた。このタマスを切り分ける役割を持つ者を「タマス作り」と呼んでいた。また、猪の心臓はその場で焼かれて食されたが、猪を撃った経験のない者には食べさせない伝統があった³¹。
棒踊りと疱瘡踊り
柊野地区には、伝統的な踊りが数多く存在しており、それぞれに独特の歴史と特色がある。戦前には、様々な踊りが地域で踊られていた。4月10日には馬頭観音祭りで棒踊りが行われ、6月18日には金山踊り、7月頃にはじゅんがら踊り(最後に踊られたのは1940年頃)、10月13日には切開け様の太鼓踊り、さらには昭和に入ってから復活した疱瘡踊りなど、様々な時期に踊りが披露されていた。2010年(平成22年)の時点で、柊野地区に伝承されている踊りは「棒踊り」と「疱瘡踊り」の2つ³³。
棒踊り 柊野地区の棒踊りは、明治時代に南さつま市金峰町阿多出身の中野という人が養蚕の入れ物を作る目的で訪れた際に、2種類の踊りを地域の人々に伝授したとされている。この中で、「バラ棒踊り」は6名1組で、6尺の棒を持ち、歌に合わせて異なる動作をしながら、右、左、前、後と互いに棒で打ち合いながら跳ねる踊りである。もう一つの「うちまぜ」は、平成15年頃まで小学校の運動会で児童が披露していた踊りで、4名1組で6尺と3尺の棒で打ち合いをするものである。うちまぜは主に若い人々が踊り、バラ棒踊りとは異なる独自の魅力があったという³³。
疱瘡踊り 疱瘡踊り、鹿児島県内で特有のものとして数えられ、台詞を用いて劇風に仕立てられる馬方踊(うまかたおどり)と、小歌踊(こうたおどり)の双方の総称を指す。柊野では「ほそおどい」と呼ばれている。この踊りは、かつて世界的に流行した疱瘡(天然痘)を、疱神(ほうそうしん)の仕業とする疱瘡信仰を背景とした舞踊。日本では、鹿児島県における疱瘡踊りがその代表例とされている。疱瘡踊りの起源は江戸時代まで遡り、鹿児島県内の各地で異なる伝承や説が存在している。日置市日吉町や南さつま市大浦町では、島津義弘が江戸からこの踊りを習得し、疱瘡除けのために地域の人々に教えて踊らせたという説がある一方、三島村硫黄島の伝承によれば、島内での疱瘡流行を経て、お伊勢様に祈りを捧げた後に疱瘡が治まったことを記念し、大坂で学び覚えた踊りを島の人々に伝えたとされる³⁴。
踊り手は、主婦を中心とした女性たちで、不定期に各地で、運動会や敬老会などの地域の祝い事で踊りが披露される。柊野の疱瘡踊りでは、衣装として、目や口を露出する紫色の「御高祖頭中(おこそずきん)」という頭巾と、胴部には黒紋付を身に纏う。柊野地区の疱瘡踊りについては、伝承の起源は明確ではないものの、内容的には旧鶴田町と同様のもの³⁴。
みそびら
みそびらは、柊野地区に伝わる独特の精進料理で伝統的な葬式料理。この料理は鹿児島県特有の「染め物」、他の地域で一般的に「煮しめ」と呼ばれる料理と同じもの。鹿児島の独特の言葉で「染め物」とは「煮しめ」のことを指す。元々、士族の家庭では醤油を用いてこの料理を作っていたが、平民の間では醤油が手に入らなかったため、代わりに味噌を使用して料理する慣習から生まれたという。ここでの「びら」とは「にしめ」を意味する。近年、この「みそびら」は葬式の際だけでなく、毎年9月23日に行われる「ひがん花祭り」でも、地域住民が一丸となって作ったものが販売されている³⁵。
産業
柊野の産業の歴史を辿ると、1890年(明治22年)の「県地誌」によると、主要な畜産として牛51頭、馬165頭が飼育されていた。物産としては、米、糖米(もちごめ)、小麦、裸麦、栗、甘藷(からいも)、実綿、麻、楮皮(こうぞがわ:日本紙の原料)製茶などが挙げられるている。
地域内では玉利酒店が明治時代から酒造業を行っており、昭和時代に入ると玉利寿見が酒類販売の許可を受け、平成13年(2001年)頃まで焼酎の販売を続けていた。加えて、大正9年(1920年)頃まで、下屋敷正宅も酒造業を営んでおり、その時代の大きな「かめつぼ」が今も残っている。
1903年(明治36年)には宮之城村に染物屋が12戸存在しており、その中に柊野の玉利清九郎の名も見受けられる。1926年(大正15年)には、玉利清九郎を含む3人の染物屋が営業していたが、その活動は1941-42年(昭和16-17年)頃まで続いたと記録されている³⁶。
農業
歴史を遡ると、室町時代から稲作が行われており、古文書によれば、石高は238石余りと記録されている。さらに、葉たばこの生産も行われていた。黄色種のたばこは、原民男や大久保久、下屋敷孝、木場正義など複数の農家が土壁の乾燥場で生産。しかし、労力の不足や生産調整などの問題から、下屋敷孝が昭和63年(1988年)産を最後に生産を終えた。また、丸葉と称される在来種(出水種)のたばこを生産していた農家も存在したという³⁶。
養蚕
昭和30年代には、ほとんどの家庭が農業とともに炭焼きや養蚕を兼業。1957年(昭和32年)頃、桑畑の面積は11町7反に達し、地域の120数戸中、約90戸が蚕の飼育を行っていた。しかし、国内の生糸需要の低下と中国産の競合の影響を受け、飼育農家は減少。最後の飼育を行っていた玉利五月は、2003年(平成15年)まで活動していた³⁶。
畜産
昭和60年代までのほとんどの家庭で牛1〜2頭が飼われていた。しかし、高齢化と少子化の影響により、2010年(平成22年)頃になると、わずか9世帯だけが牛を飼育していた。前野浩司家では、1947年(昭和22年)から1979年(昭和54年)まで、褐毛和牛の種牛を飼育し、1967年(昭和42年)1月には、柊野地区褐毛和牛同好会が設立し、約12年間活動を続けた。その後は黒毛和牛に代わっている³⁷。
林業
林業において、炭焼きは明治時代から始まり、昭和20年代から昭和30年代にかけて盛んであった。戦前の時期には、汽車や自動車の燃料として需要が高く、柊野地区の人々の半数が木炭製造に従事していた。しかし、石油が主流になると、炭焼きの需要は減少。1965年(昭和40年)後半には、多くの人々が他の仕事を求めて出稼ぎを始めた。柊野地区の国有林の奥深くには、炭焼きが行われていた当時の釜跡が残されている場所が存在する。また、明治時代から大正時代初めにかけて、人々は樋之谷の山越えをして、出水まで木炭を運んでいたという³⁸。
茶業
明治時代は、主に手揉み茶が製造されていた。大正時代になると、前野勇が機械製茶の技術を習得し、1936年(昭和11年)に前野雄太郎・別府伴左衛門・吉永畩市の3名で共同製茶工場を設立。その後、別府吉徳、前野勇、吉永喜市はそれぞれの製茶工場を開設した。しかし、規模拡大のための大型機械導入を目的として、1967年(昭和42年)に吉永誠也、前野孝光、別府吉徳の3氏が柊野小学校正門下に新たな工場の設立に至った。その後、茶業の機械化が進み乗用型茶摘み機の導入され、1985年(昭和60年)には茶防霜ファンの設置され始めた。1999年(平成11年)には別府秀吉が「有国会社宮之城誠秀製茶」を3名で立ち上げ、2001年(平成13年)に前野孝之がJA鶴田茶工場を購入して設立。尚、吉永誠也は1998年(平成10年)に廃業している。
手揉み茶については、1898年(明治31年)頃に中山源左衛門と玉利東が菱刈の西太良の茶工場で講習を受けたことから始まり、1906年(明治39年)頃から茶の栽培を開始。手揉み茶の製造は昭和20年代後半まで続けられていた。
品種には、「やぶきた」「おくみどり」「かなやみどり」「ふうしゅん」「りょうふう」「べにふうき」「さえみどり」「あさつゆ」「あさのか」などがある。
また、「おーい!お茶」や「伊右衛門」の原料の一部としても使われている²。
農協柊野支所
1949年(昭和24年)に、宮之城農協柊野支所が開設された。しかし、1972年(昭和47年)には、旧祁答院町、旧薩摩町、旧鶴田町、および旧宮之城町の4つの町の農協が広域合併を行い、「さつま農協」として一つの組織となった。その後、2003年(平成15年)8月にさつま農協柊野支所は廃止され、2007年(平成19年)3月にはさつま農協柊野支所の業務が廃止された³⁹。
人物
今村兼廣
今村兼廣(いまむら かねひろ)は、宮之城町の功労者で、1989年(平成元年)に消防庁長官表彰、1995年(平成7年)に宮之城町民表彰を授賞している。1918年(大正7年)3月18日に柊野で生まれ、彼は柊野小学校を卒業後、盈進小学校高等科に進学。その後、町立青年学校の研究科に入学した。日中戦争が始まると、1937年(昭和12年)12月に彼は自主的に中退し、1938年(昭和13年)1月に陸軍第26師団に入隊。1944年(昭和19年)8月には准尉となり、フィリピンの激戦地、リエンガン湾での守備に従事した。彼は後に「1945年(昭和20年)1月9日、米軍の上陸時には、約500人の日本兵が米軍の攻撃を受け、激戦の末、生き残ったのはわずか5人だった」と回想した。戦後、1947年(昭和22年)1月に帰郷し、亡くなった戦友を弔うための活動に身を捧げた。彼は1949年(昭和24年)から教寺の総代として、また責任役員として25年間の活動を続け、その間、本願寺派全国講社連絡会副会長を4年間務めた。1948年(昭和23年)からは宮之城町消防団に入団し、柊野分団部長、同分団長、宮之城町消防団副団長、及び団長を歴任。1993年(平成5年)に退団するまでの45年間、団員の資質の向上や消防施設の整備に尽力し、住民からの信頼を得る消防団の確立に貢献。また、紫尾山の国有林保護のために紫尾森林消防隊長も務めた彼は、その功績から前述の表彰を受けた。そして、2007年(平成19年)4月、89歳で亡くなった⁴⁰’⁴¹。
交通
バス
1941年(昭和16年)、南国交通株式会社が宮之城町屋地に営業所を開設。1999年(平成11年)時点では、南国交通の宮之城-柊野線があった。便数は2本で、そのうちの1便は紫尾温泉経由⁴²。2023年(令和5年)時点では同線は廃止されており、市野から屋地本町に通ずるコミュニティバス(柊野・紫尾線)が交通している。同バスの柊野地内の停留所は、市野・柊野・柊野下⁴³’⁴⁴。
橋
地内の橋は以下の通り³²。
名称 | 橋長 | 幅員 | 竣工年月 |
松尾橋 | 12.8m | 2.63m | 1919年(大正8年) |
新改橋 | 10m | 3m | 1916年(大正5年)5月 |
小八重橋 | 11m | 3.1m |
脚注
出典
- 薩摩郡さつま町柊野区.わが心のふるさと くきの : 柊野の歴史と文化.薩摩郡さつま町柊野区,2010,p.5.
- 薩摩郡さつま町柊野区.わが心のふるさと くきの : 柊野の歴史と文化.薩摩郡さつま町柊野区,2010,p.9.
- 宮之城町史編纂委員会.宮之城町史.宮之城町,2000,p.170.
- 薩摩郡さつま町柊野区.わが心のふるさと くきの : 柊野の歴史と文化.薩摩郡さつま町柊野区,2010,p.12.
- 宮之城町史編纂委員会.宮之城町史.宮之城町,2000,p.137.
- 宮之城町史編纂委員会.宮之城町史.宮之城町,2000,p.170-171.
- 宮之城町史編纂委員会.宮之城町史.宮之城町,2000,p.191.
- 宮之城町史編纂委員会.宮之城町史.宮之城町,2000,p.192.
- 薩摩郡さつま町柊野区.わが心のふるさと くきの : 柊野の歴史と文化.薩摩郡さつま町柊野区,2010,p.72-73.
- 宮之城町史編纂委員会.宮之城町史.宮之城町,2000,p.277.
- 宮之城町史編纂委員会.宮之城町史.宮之城町,2000,p.888.
- 宮之城町史編纂委員会.宮之城町史.宮之城町,2000,p.888-889.
- 宮之城町史編纂委員会.宮之城町史.宮之城町,2000,p.891.
- 薩摩郡さつま町柊野区.わが心のふるさと くきの : 柊野の歴史と文化.薩摩郡さつま町柊野区,2010,p.11.
- 宮之城町史編纂委員会.宮之城町史.宮之城町,2000,p.871.
- 薩摩郡さつま町柊野区.わが心のふるさと くきの : 柊野の歴史と文化.薩摩郡さつま町柊野区,2010,p.15.
- 薩摩郡さつま町柊野区.わが心のふるさと くきの : 柊野の歴史と文化.薩摩郡さつま町柊野区,2010,p.49.
- 薩摩郡さつま町柊野区.わが心のふるさと くきの : 柊野の歴史と文化.薩摩郡さつま町柊野区,2010,p.50.
- 薩摩郡さつま町柊野区.わが心のふるさと くきの : 柊野の歴史と文化.薩摩郡さつま町柊野区,2010,p.55-56.
- 薩摩郡さつま町柊野区.わが心のふるさと くきの : 柊野の歴史と文化.薩摩郡さつま町柊野区,2010,p.68.
- 薩摩郡さつま町柊野区.わが心のふるさと くきの : 柊野の歴史と文化.薩摩郡さつま町柊野区,2010,p.58.
- 宮之城町史編纂委員会.宮之城町史.宮之城町,2000,p.969.
- 薩摩郡さつま町柊野区.わが心のふるさと くきの : 柊野の歴史と文化.薩摩郡さつま町柊野区,2010,p.70.
- 薩摩郡さつま町柊野区.わが心のふるさと くきの : 柊野の歴史と文化.薩摩郡さつま町柊野区,2010,p.53.
- 薩摩郡さつま町柊野区.わが心のふるさと くきの : 柊野の歴史と文化.薩摩郡さつま町柊野区,2010,p.73.
- 薩摩郡さつま町柊野区.わが心のふるさと くきの : 柊野の歴史と文化.薩摩郡さつま町柊野区,2010,p.74.
- 宮之城町史編纂委員会.宮之城町史.宮之城町,2000,p.762-763,p.778.
- 薩摩郡さつま町柊野区.わが心のふるさと くきの : 柊野の歴史と文化.薩摩郡さつま町柊野区,2010,p.37,39.
- 宮之城町史編纂委員会.宮之城町史.宮之城町,2000,p.937.
- 宮之城町史編纂委員会.宮之城町史.宮之城町,2000,p.937-938.
- 宮之城町史編纂委員会.宮之城町史.宮之城町,2000,p.938.
- 宮之城町史編纂委員会.宮之城町史.宮之城町,2000,p.857.
- 薩摩郡さつま町柊野区.わが心のふるさと くきの : 柊野の歴史と文化.薩摩郡さつま町柊野区,2010,p.61.
- 薩摩郡さつま町柊野区.わが心のふるさと くきの : 柊野の歴史と文化.薩摩郡さつま町柊野区,2010,p.62-63.
- 薩摩郡さつま町柊野区.わが心のふるさと くきの : 柊野の歴史と文化.薩摩郡さつま町柊野区,2010,p.81.
- 薩摩郡さつま町柊野区.わが心のふるさと くきの : 柊野の歴史と文化.薩摩郡さつま町柊野区,2010,p.13-14.
- 薩摩郡さつま町柊野区.わが心のふるさと くきの : 柊野の歴史と文化.薩摩郡さつま町柊野区,2010,p.14.
- 薩摩郡さつま町柊野区.わが心のふるさと くきの : 柊野の歴史と文化.薩摩郡さつま町柊野区,2010,p.14-15.
- 薩摩郡さつま町柊野区.わが心のふるさと くきの : 柊野の歴史と文化.薩摩郡さつま町柊野区,2010,p.20.
- 宮之城町史編纂委員会.宮之城町史.宮之城町,2000,p.471.
- さつま町.人物探訪45.広報さつま.2020,189,p.13.
- 宮之城町史編纂委員会.宮之城町史.宮之城町,2000,p.861.
- さつま町.”コミュニティバス時刻表【 柊野・紫尾線 】”.さつま町公式ホームページ,https://www.satsuma-net.jp/material/files/group/4/kukinoshibi.pdf,(参照 2023-12-23).
- さつま町.”コミュニティバス”.さつま町公式ホームページ,2023-07-05,https://www.satsuma-net.jp/soshiki/yakuba/1003/3/kotsu_access/1433.html,(参照 2023-12-23).
参考文献
タイトル | 著者・編集者・編纂者 | 出版社 | 出版年 | ページ数 | 資料の種別 | URL(国会図書館サーチなど) | 所蔵図書館・利用図書館 | 集落記事 | Tags | 注記 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
さつま町 | さつま町 | 2020 | 19 | 雑誌 | 柊野 | |||||
宮之城町史編纂委員会 | 宮之城町 | 2000 | 1065 | 図書 | 柊野 | |||||
薩摩郡さつま町柊野区 | 薩摩郡さつま町柊野区 | 2010 | 133 | 図書 | 柊野 |