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皆越(みなごえ)は、 熊本県球磨郡あさぎり町の大字。縄文時代の土器や石器、弥生時代の完成壺が確認されている。1198年(建久9年)に相良長頼が遠州から人吉に下向した際、阿部家が関東から一族で越してきて「皆越」と名乗り始めたと云う。戦国時代後期には犬童頼安が地頭となり、朴河内城などの防衛に関わった。明治時代には村長・副村長制度が導入され、経済的な変化や教育面での発展が見られた。
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歴史
縄文弥生時代
地内の字中村で縄文時代の土器・石器が確認されている。また、字金山坂付近では弥生時代の完成壺が出土している¹。
中世
草分け伝説
伝説によると、1198年(建久9年)に相良長頼が遠州(静岡)から人吉に下向した際、皆越氏の先祖にあたる阿部家が長頼の後を追って関東から一族”皆で越してきた”ため、姓を「皆越」とし、その土地も「皆越」と称するようになったという。尚、地名は「みなごえ」と呼ぶが、姓の場合は「みなごし」と呼ぶ。相良家の史料で初めて皆越家が確認されたのは、1526年(大永6年)5月のこと。相良長唯が相良瑞堅が籠城する永里城を攻め、人吉に引き上げた直後、真幸院(現:えびの市・小林市・高原市)の北原氏の軍が人吉城を囲んだのに対し、皆越安芸守貞当が援軍100名を率いて撃退したという。この武功により今井の土地を賜り、皆越家の一部が分家し今井部落に入った²’³。
戦国時代後期、上村氏滅亡後は犬童頼安が上村地頭となり当地を治めていた。1579年(天正7年)9月、薩摩の新納忠元と肥地島宮内少輔が3,000人の兵を率いて朴河内城を攻撃。当時、水俣城は犬童頼安が治め、朴河内城は東頼兼が治めていた。朴河内の城兵の守りきれず、一時は城主東頼兼と子頼一は湯浦に逃れた。しかし、島津義弘の兵が朴河内城を攻めて来たとの報せを受け、相良義陽の援軍が応援に駆けつけて薩軍を打ち破ることに成功。こうして頼兼は再び朴河内城に戻ることができた。ところが薩軍による侵攻はこれで収まらず翌年も続いた。1580年(天正8年)3月3日、 またも薩摩の兵が水俣に攻めてきたが、頼安の兵がこれを撃退し事なきを得た。しかし、同年5月12日にも忠元の兵が朴河内城を来攻し放火。不意を打たれた城兵は苦戦の末に敗走。
1570年(元亀元年)12月1日、皆越の地頭阿部貞当(以下皆越氏と称す)が山上八幡社を建立。はじめは当地の小城という場所に置かれたが、数年もしないうちに、同じく皆越の立野というところに移された。その後、1577年(天正5年)、相良家第18代義陽の夢想により狩所の久木原に遷すよう命じられた²。 当社建立の経緯に関する伝説の残っている。1557年(弘治3年)、当地方を統べていた上村一族の義孝が反旗を翻し、御家の乗っ取りを企てた。この時、義孝は皆越氏を味方につけて、薩摩の北原勢(現えびの市)の援軍500人を抱き込み謀反を企てた。それに対し、上村氏の菩提寺東円時(現谷水薬師)の僧勢鑁(せいばん)が皆越氏に忠告したものの、承諾を得ることはできなかった。尚、この謀反は発覚し、北原軍も大敗したため成功には至らず、義孝は飯野に逃れた後に相良義陽に暗殺された。この時の皆越氏の反抗に対する勢鑁の怨みが深く、死後、彼の祟りが皆越氏一族を悩ませた。そのため、天正年間(1573年-1591年)に霊社を建て、勢鑁の像を作り仏壇に安置し祀ったといわれている。これが山上八幡社建立に至った経緯と云う⁴’⁵。
近世
近世の一武村(現錦町大字一武)の寺村に、臨済宗瑞祥寺末の円鏡庵という庵寺があり、ここに安心という住職がいた。安心は、当初は真宗を修めたものの後に臨済に改めた人物で、弟子の禅休と郡内各地に石碑を建立した。この石碑は昭和中期までに26基ほどが確認されており、皆越でも字中村で1基発見されている。石碑の銘文には「萬人講結衆供養 元禄二天六月廿七日 念仏 安心七十歳」と刻まれている。この「萬人講」に関して『上村史』では詳らかでないとしている。ただ、京都府の臨済宗圓福寺でも「萬人講」が行われており、ここでは下記のように説明している⁶。修行中の雲水が毎月決まった家々(日供講)をまわり お米やご志納などのお布施を頂く形式の托鉢を伝統的に「日供合米」といい、日供講の方をお寺に招待して法要を営み、お斎(精進料理)を召し上がって頂く仏事を「講中斎」と申します。円福寺ではこの「講中斎」の日に日供講以外の方々にも広く門戸を開くことで、この伝統的な仏事が より地域に根ざした民間行事になるよう目指してまいりました。それが現在の「萬人講」というお祭りの原点になります⁷。 また銘文に「念仏」と刻まれているが、建立当時の安心は臨済宗で、臨済では六字の名号は唱えないのが一般であり、この「念仏」が何をさしたのかは定かとなっていない⁸。
江戸時代末期、1856年(安政3年)から1861年(文久元年)まで6年間の廻文控帳が代々上村の横役目を勤めた中村家に残っており、その中に1856年(安政3年)2月7日付の「皆越の御用茸山へ不法に侵入しないよう」との旨を記したものがある。この時代は、不作の年が続いて農民の生活は困窮を極め、藩も財政難に苦しみ、1841年(天保12年)には椎茸の栽培導入や茸山入山禁止に不満を抱いた百姓による一揆「茸山騒動」が人吉で起きた動乱の時代だった。廻文から当時の皆越に茸山があったことは明らかで、一歩間違えれば皆越も茸山騒動に巻き込まれたかもしれないと云う⁹。
近代
明治時代、皆越村は人吉県・八代県・白川県を経て熊本県に属すこととなった。1871年(明治4年)1月17日、庄屋・横目に代わり村長・副村長が置かれ、上村・皆越村の村長には高田貞治、副村長には豊永兵一が任命された。尚、それまでは黒木直左衛門が皆越村の庄屋を務めていた¹⁰。しかし、同年7月14日に人吉藩が人吉県に改められ、村長・副村長が替えられた。これにより村長には豊永兵一、副村長に土肥善蔵が命じられた。また部落には与長・副与長が置かれるようになり、皆越では黒木直在が与長肝煎に任命され、与長には溝口喜六・溝口庄六・岩奥八蔵の3名が就いた。当時、士族の間で改名が流行しており、前述の黒木直左衛門も直在に改めている¹¹。行政区の変動はこれで終わることなく、同年11月14日、人吉県は八代県に合併され人吉に八代県出張所が設置される。また球磨郡は第18区に設定され、上村・皆越村は小六区に属すこととなる。それまでの村長・副村長は戸長・副戸長に改められ、上村・皆越村の戸長には元副村長の土肥善蔵が任命された。さらに1873年(明治6年)1月15日に八代県が白川県に吸収され、新たに上村・皆越村戸長に今村衛一が就いた¹²。1874年(明治7年)8月、行政区画の再大改正により、それまで第48大区10小区に属していた皆越村は第14大区9小区に属すようになる¹³。 明治初期において、皆越村と上村は組合村制を採用しており、戸長・役場は共同で、村別に選出された議員により村別の議会が設けられた。また、各村で村会が行われる際は、 上村は戸長役場、皆越村は皆福寺で開会するのが定例だった¹⁴。 1889年(明治22年)4月、町村制施行に伴い戸長役場は村役場に、戸長は村長に、副戸長は助役に変わった。また同月20日には村会議員選挙が行われ、皆越村の議員8名が決まった¹⁵。
山林売却
1889年(明治22年)12月15日、皆越村村会議員の皆越紋次郎・溝口彦吉・那須弥三郎3名の連署のうえ村会開会の請求書が議長に提出された。理由は「字竹ノ谷の山林21町歩を売却し、売却益の一部を今度行われる八代人吉間の電信架設に寄付し、残りを基本財産として積み立てるため」だという。早速、24日に村会が開催され、村議会の承認を得て、村民52名の承諾書を集め、郡長に許可を求めた。しかし共有山林法規約書にあるように、土地までの売却は保護上細心の注意を要することから、理由をさらに詳しく記し、また立木の状態も詳細に報告するよう達せられた。それに対し、立木調査書をもって返答したものの、最終的に許可されるに至らなかった。この調査書によると立木は、松300本・樫300本・タブ200本で、全部2尺周り以下のものばかりだという¹⁶。翌年3月7日にも皆越紋次郎・湯山久平・那須弥三郎3名から山林売却に関する村会開会の請求書が出され、滞りなく村会が催された。今度の理由は、前回とは違い「地内のいくつかの山林を、村民全員から承諾を得たから、5名の民有地と交換し20円の追金を受領することを許可してもらいたい」というものだった。もちろん村会で決議されたため、またも郡長に許可を求めて願書が提出されたが認可はされなかった。興味深いことに、今回も「字竹ノ谷の山林21町歩」の立木調査書が作成されたのだが、その内容が「松500本・モミ7本・雑木2000本(但し2尺周り以上)」とわずか1年で大幅に変わっている¹⁷。
八ヶ峰(八峰)と三上親子
八ヶ峰は皆越地内にある地名で、集落の南方、白髪岳を越えた宮崎県境あたりに位置する。現在は「はちがみね」と呼ばれているが、古くは「はちのむね」と呼ばれていた。享保年間(1716年-1735年)の『探源記』に記録されており、この頃には幕府から認知された地名であったと推測されている。また、『上村明細帳』から皆越村の地内に位置していたことも明らかで、1895年(明治28年)の合併後は大字皆越の上区(後の中村区)の一部として取り扱われていた。しかし、皆越の集落とも白髪岳を隔て離れたへんぴな処で民家も少なかったため、1892年(明治25年)8月には義務教育免除地に認定されていた。しかし、1911年(明治41年)、夏休みを利用し皆越小学校校長の荒川覚次郎が八ヶ峰で10日間の季節教授を開き、9名の児童を集めて授業を行い、村も予算(手当7円)を計上した。これを皮切りに毎年10日間の季節教授が行われるようになった。そして、1916年(大正5年)12月15日の村会で「就学免除地とされている皆越字八ヶ峰の学齢児童が年々増加している現状、こららの児童を教育するため、大正6年度から皆越尋常小学校に月棒6円以内の職員を増員し八ヶ峰に派遣すべき」という諮問があり、満場一致で賛同を得て、翌年度から1名の教師が八ヶ峰に常駐することになった。こうして、1917年(大正6年)6月に川村の筑柴嘉一郎が八ヶ峰に赴任し、田中浜次の家を借りて家庭教場が開設した。前述の通り、初めの季節教授時は児童数9名だったが、家庭教場開設時には児童数は25名まで増加していた。翌年12月、水間繁の新築した教場に教室は移転。尚、11月に筑柴嘉一郎が職を辞している。後任として龍田秀吉が赴任。その頃には児童数が37人となっていた。こうした児童数の急激な増加の背景には、1917年(大正7年)に国有林の払い下げを受けた上村が、その山の立木を水間繁に売却し、山子達が八ヶ峰に移り住んできたことが要因にあげられる¹⁸。 1945年(昭和20年)4月、一度は東京に戻った三上秀吉(旧姓:瀧田)が娘慶子と疎開し、再び八ヶ峰で娘と共に教鞭をとることとなった。当時、八ヶ峰までの道程は、宮崎県の国鉄飯野駅で下車した後、森林軌道「飯野森林鉄道」の機関車に乗って八ヶ峰に至ったという。 1946年(昭和21年)12月、義務教育地という特別措置が取り消され、遂に正式な上村小学校の分校と認められ、校名を上村国民学校八ヶ峰分教場とした。翌年には上村立上村小学校八ヶ峰分校に改められ、1950年(昭和25年)に村立の校舎が新築された。この間も三上親子は僻地教育に尽力し、秀吉は雑誌『山脈』を発行し、また『山の子供』を出版。親子の活動が世間に知られ、1950年(昭和25年)10月23日には皇太子殿下の家庭教師を務めたエリザベス・グレイ・ヴァイニング夫人が来訪。夫人は三上親子や生徒等と交歓し、来訪の記念に校庭にケヤキの植樹を行った。1951年(昭和26年)4月、教育活動に対し三上親子揃って西日本新聞社文化賞が授与される。また、その2ヶ月後に東京の目黒出版から「月明学校」が発刊された。民俗学者の宮本常一は当書に関して「何回読んでも心のあたたまる本だ」と述べている。 1953年(昭和28年)、三上親子が八ヶ峰を去るのだが、同年9月には分校が上村中学校の分校としても正式に認められ、上村小学校中学校八ヶ峰分校と改名。しかし人口減少により、1969年(昭和44年)3月19日に廃校した。当時、林業は依然盛んであったものの、道路が開通したことで生活に不便な僻地からえびの市に移り住み、そこから山仕事に通うのが主流となった。その後、1961年(昭和36年)に飯野森林鉄道が廃線し、昭和40年代前半には鉄道沿線の渓谷の民家はほぼ消滅。こうして児童が激減し廃校に至った¹⁹’²⁰’²¹。
現代
2020年(令和2年)7月の熊本豪雨に伴う二次災害の危険性が解消されないことから、熊本県は同年12月25日付で皆越の1世帯(3人)と湯前町1世帯を被災者生活再建支援法に基づく「長期避難世帯」に認定。認定世帯は全壊世帯と同様の支援が行われた。皆越の認定世帯は、自宅は無事だったものの、敷地内の斜面が10mに渡り住居際まで崩壊し、住居自体も危険な状態となっていた²²。
2021年(令和3年)8月中旬、九州付近に停滞する前線の影響で、熊本県内で大雨が降り続き、各地で地滑りなどの土砂災害発生した。17日夕方、皆越の町道でも幅約3.5m・長さ約10mに渡り崩落し、会社員の乗用車が巻き込まれた。尚、怪我はなかったという²³。
神社仏閣・名所
皆越鬼子母神
地内にある像で、病気平癒・安産・子育てにご利益があるとされている。また髪は、千人の女性の髪が用いられたと云う²⁴。
皆福寺
皆福寺(かいふくじ)は、地内にある曹洞宗の寺。所在地は熊本県球磨郡あさぎり町皆越366。明治初期にはここで村会が行われた²⁵。
皆越白髪神社
球磨郡には「尾方」という姓が非常に多く、中でも神職で多くみられ、ほとんどが何らかの神社と関係のある家系であることが多い。これは、他地方でよくみられる「大神(おおが)氏」から「尾方(おがた)」が生まれたのでないかと推測されている。『球磨郡神社社記』によると、旧上村のほとんどの神社の社人が尾方で、皆越白髪神社においても尾方八右衛門が社人を務めていたとある²⁶。 古来より白髪神社は安産と慈雨の神様として信仰が深く、雨乞いの儀の際は、皆越の白髪岳で御池参りが行われる。そのため白髪神社(現:上村白髪神社)の雨乞いの際は、皆越の村人が山の案内をしていた。鬼塚彦左衛門の日記によると、1768年(明和5年)6月15日頃の雨乞いでは、皆越の溝口茂右衛門・惣右衛門が案内を行ったという。また1807年(文化4年)の『上村明細帳』には「皆越から道案内人を先例から雇った」との旨が記録されており、担当が村の中で決まっていたと推測できる²⁷。 1883年(明治16年)2月6日付で郷社に昇格した上村白髪神社。1889年(明治22年)8月3日の村会議録によると、同社の村社祭典費を「同年6月から翌年3月までで、大祭費4円50銭、小祭費11度分を5円50銭」と議決している。それに対し、1890年(明治23年)3月11日の皆越村の村会議録では、皆越白髪神社の祭典費を「大祭費5円、小祭費4度分を4円、この他に祠掌給として年額3円60銭」計上しており、郷社の上村白髪神社と同格かそれ以上の予算が割り当てられていた²⁸‘²⁹。
皆越口
白髪岳の北麓、免田川上流の皆越谷に位置する西南戦争の古戦場¹。
清願寺ダム
清願寺ダム(せいがんじ)は、球磨川水系免田川に建設されたダム。アースダムとしては日本一の高さ(堤高60.5m)を誇る。1969年に着手され、1978年に竣工した³¹。
白髪岳
白髪岳(しらがたけ)は、集落南方に位置する標高1417mの山。頂上近くまで林道が整備されており、途中には千望展望所がある³²。
教育
皆越小学校
1884年(明治17年)10月28日、脇小学校(現あさぎり町立上小学校)が皆越分校を開設。当初は上村・皆越村の連合で教育予算を組んでおり、分校開設年の予算は578円60銭だった。しかし、1890年(明治23年)3月から皆越分校から皆越簡易教場と呼び替えられると、皆越村の予算から教員1人分の月給50銭が拠出されるようになった。1892年(明治25年)5月20日、脇尋常小学校から上村尋常小学校に改められると同時に、皆越簡易教場も皆越尋常小学校に改められた³³。1895年(明治28年)に皆越村が上村と合併した後も皆越尋常小学校として独立していたものの、1899年(明治32年)4月4日の村会をもって、上村尋常小学校の分教室となることが可決された。その後、再び独立し皆越尋常小学校になるのだが、いつ戻ったのかは明らかとなっていない。ただ、1902年(明治35年)1月16日の村会で「皆越尋常小学校を改築する」ことが決定しており、この頃には分教室から独立していたと推測されている³⁴。1928年(昭和3年)11月7日、校舎の増改築の落成式を挙行³⁵。
1939年(昭和14年)頃、当時の宮原敏雄校長の提案で学校の用水の小溝を用いた小型発電所を設置。発電機には漁船用のもの(出力24w)の使用した。これは、校長や職員等が夜間に宿直室で読書をする際、暗いランプでは不自由であったことがことの発端だった。実際に各教室に電灯が点灯した際は歓声が上がったという。この発電機は水力を用いてることから水の多い夏場は順調に運転するのだが、冬の渇水時は水路の途中を落ち葉が塞ぐため、職員が熊手を持って水流を確保していたらしい³⁶。
脚注
出典
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会.角川日本地名大辞典 熊本県.角川書店,1987.p.1029.
- あさぎり町教育委員会.山上八幡神社本殿解体修理工事報告書 : 町指定有形文化財.あさぎり町教育委員会,2012,p.2.
- 高田素次.上村史.上村,1966.p.178-179.
- あさぎり町教育委員会.山上八幡神社本殿解体修理工事報告書 : 町指定有形文化財.あさぎり町教育委員会,2012,p.2-3.
- 高田素次.上村史.上村,1966.p.304.
- 高田素次.上村史.上村,1966.p.210-213.
- 圓福寺.”萬人講”.京都八幡 達磨圓福寺.http://empukuji.org/manninkou/,(参照 2023-12-24).
- 高田素次.上村史.上村,1966.p.213.
- 高田素次.上村史.上村,1966.p.653-660.
- 高田素次.上村史.上村,1966.p.707-708.
- 高田素次.上村史.上村,1966.p.708.
- 高田素次.上村史.上村,1966.p.708-709.
- 高田素次.上村史.上村,1966.p.711-712.
- 高田素次.上村史.上村,1966.p.789.
- 高田素次.上村史.上村,1966.p.854.
- 高田素次.上村史.上村,1966.p.856-858.
- 高田素次.上村史.上村,1966.p.858-859.
- 高田素次.上村史.上村,1966.p.924-934.
- 高田素次.上村史.上村,1966.p.924-934.
- 図書出版 弦書房.”コラム“晴耕雨読” 第376回 三上親子と月明学校”.弦書房.2020-11-26,https://genshobo.com/archives/10110,(参照 2023-12-24).
- 公益財団法人西日本新聞文化財団.”西日本文化賞”.公益財団法人西日本新聞文化財団.https://nishinippon-zaidan.or.jp/summary/,(参照 2023-12-24).
- 熊本豪雨で初の長期避難認定へ あさぎり町の1世帯、年内にも.西日本新聞,2020-12-02,西日本新聞me,https://www.nishinippon.co.jp/item/n/669484/,(参照 2023-12-24).
- 熊本県内で地滑りや護岸の崩壊、天草市では緊急安全確保.朝日新聞,2021-08-19,朝日新聞デジタル,https://www.asahi.com/articles/ASP8L6VR0P8LTLVB001.html,(参照2023-12-24).
- あさぎり町.”皆越鬼子母神”.あさぎり町公式ウェブサイト,2018-08-03,https://www.town.asagiri.lg.jp/q/aview/37/756.html,(参照 2023-12-24).
- 熊本県仏教会.”曹洞宗 皆福寺”.熊本県仏教会,https://kumabutu.gich.net/shopdatail/170018,(参照 2023-12-24).
- 高田素次.上村史.上村,1966.p.105.
- 高田素次.上村史.上村,1966.p.118-120.
- 高田素次.上村史.上村,1966.p.126.
- 高田素次.上村史.上村,1966.p.789.
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会.角川日本地名大辞典 熊本県.角川書店,1987.p.1029.
- 一般財団法人日本ダム協会.“清願寺ダム [熊本県](せいがんじ)”.ダム便覧.http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=2674,(参照 2023-12-24).
- 熊本県・(公社)熊本県観光連盟.”白髪岳”.熊本県公式観光サイト もっと、もーっと!くまもっと.https://kumamoto.guide/spots/detail/11569,(参照 2023-12-24).
- 高田素次.上村史.上村,1966.p.798.
- 高田素次.上村史.上村,1966.p.885-888.
- 高田素次.上村史.上村,1966.p.964.
- 高田素次.上村史 続一巻 .上村,1989,p.506-507.
参考文献
タイトル | 著者・編集者・編纂者 | 出版社 | 出版年 | ページ数 | 資料の種別 | URL(国会図書館サーチなど) | 所蔵図書館・利用図書館 | 集落記事 | Tags | 注記 |
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「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編纂 | 角川書店 | 1987 | 1689 | デジタルコレクション | 皆越 | |||||
あさぎり町教育委員会 | あさぎり町教育委員会 | 2012 | 69 | 図書 | 皆越 | |||||
高田素次 | 上村 | 1966 | 1052 | 図書 | 皆越 | |||||
高田素次 | 上村 | 1989 | 942 | 図書 | 皆越 |