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南沢
南沢

南沢

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南沢

南沢(みなみざわ)は、秋田県北秋田郡上小阿仁村の大字。小阿仁川本流沿いの段丘上に位置する。縄文時代の遺跡が発見されており、近世初期には佐竹義宣による総検地が行われ、新田開発が進められた。この地域では、山林資源の伐採が盛んで、特に杉の伐採が重要な経済活動であった。

上空から望む南沢部落
上空から望む南沢部落

地図で見る南沢

地理

南沢集落は、小阿仁川本流沿いの段丘上に位置する¹。

小字

南沢の小字は以下の通り²。

南沢
塚ノ岱
村ノ上
小朦ノ岱
餌刺岱
箱渕岱
春様沢
抜石
尻高沢
不動羅
不動羅沢
堀内岱
風吹
砂子渕
高落
大錠
小深沢
赤沢岱

歴史

縄文時代

不動羅遺跡入り口
不動羅遺跡入り口
不動羅遺跡
不動羅遺跡

小阿仁川流域では22ヶ所の縄文時代の遺跡が確認されており、南沢でも字餌刺岱の舌状の台地上で縄文中期の餌刺岱遺跡が見つかっている³。

中世

南沢館

室町時代後期頃から、軍事的機能を持つ城以外に、軍事的機能と「やかた」「たち」の機能を持った「館(たて)」が建てられるようになった。上小阿仁村で確認された6つの館跡の1つに南沢館があり、当館は他の5つの館から南方に距離が離れた場所に位置している。南沢館は南沢集落の西方、比高80mの高所にある。小規模ではあるが複郭式の平坦面を残しており、その中心は南北60~70m・東西100~120mの長方形を成している。また南方には東西に伸びた腰郭が所在する。南沢館は、嘉成三十七領の南の出口に位置する重要な館で、現在も「館の上」という小字名が残っている。尚、名称は中世の頃のものではなく、地名を冠したもの⁴。

江戸時代後期の史料『秋田風土記』によると、南沢は風土記が書かれた時点では秋田郡に属していたが、以前は山本郡に含まれていたとある。また、享保年間(1716年~1735年)の『六郡郡邑記』の文中にある「南沢村」の文字の右側に「山本郡入」と添え書きがされている。更に、1673年(延宝元年)に成立した南沢村の枝郷「不動良村」が小阿仁川右岸に位置していることから、当時の南沢村の範囲は上小阿仁の中央部西域で、小阿仁川上流一帯だったと云う。上述の2つの史料は中世以来の伝承をもとに記録されたものと考えられている為、中世において南沢村は山本郡に属していた推測されている⁵。

近世

常陸から来た秋田の新領主佐竹義宣は、領内の総検地を実施。小阿仁川流域の15ヵ村を行政上の村として認めた。「正保四年出羽一国絵図」には、後の南沢村にあたる塚新田村が記載されている。新田開発により自立した村が新田村であるが、小阿仁15ヵ村のうち6ヵ村が新田村で、更にその内の5ヵ村が上小阿仁村域の村だった。具体的には、1647年(正保4年)の南沢村の総生産高は米にして12石だったのに対し、1705年(宝永2年)には46石余りと約4倍にまで増加している。また、この石高のうち約70%にあたる32石が新田高だった。このように、近世初期に上小阿仁村域では大規模な開発が行われていたことがわかる⁶。

また小阿仁川流域の15ヵ村は村単位で政治が行われ自立する一方、広域的な支配と協力の組織の中にあった。まず、小阿仁川流域の15ヵ村は一括して「小阿仁材木郷」として、北比内・南比内・大阿仁・小阿仁・桧山郷で構成される「五カ所御材木郷」の1つに数えられ、能代藩から材木役を賦課されていた。更に小阿仁十五ヵ村は、綴子村組合・鷹巣村組合・七日市村組合・大阿仁上村組合・大阿仁下村組合と協力して「六カ所組合」を組織し、駅の伝馬夫役や河・道路の普請を負担することもあった。はたまた小阿仁組合十五ヵ村の中にも上下関係があり、芹沢村・三木田村・鎌野沢村・小沢田村・沖田面村で構成される「小阿仁五カ所村」でそれぞれ他の村々を支配していた。そのため南沢村(元:塚新田村)は、本郷である沖田面村に属す支配郷でだった。こういった上下関係から、肝煎は本郷である沖田面村からだされ、その下位に位置する支配郷の南沢村には長百姓だけが置かれ、本郷の肝煎と連携・協力する仕組みが採用されていた。尚、南沢村の下位には支郷として不動良村・上南沢村があり、ここは人家・耕地はあるものの、行政上自立した村としては取り扱われず本村(南沢村)に従属していた。近世において当地方では、「小阿仁五カ所」の本郷の肝煎が年番に小阿仁15ヵ村全体の広域行政を担当する「年行事」制度を採用しており、他の地域で一般的な「親郷制度」という広域制度が無いことが特徴だった。よって沖田面村の肝煎がその支配下にある南沢村及び大林村の肝煎を兼ねており、その代わりに地主・長百姓が選出され肝煎とともに村の政治を行っていた⁷。

上述の通り、近世初期、常陸50万石から秋田20万石に左遷された佐竹氏は、失地回復を目指し家臣や有力農民に対し積極的に新田開発するよう持ちかけた。そのため、当時上小阿仁村域の9ヵ村のうち過半数の村に、初期は新田の名前が付けられており、南沢村の前身も塚新田村と称されていた。その塚新田村(南沢村)のなかでも新田開発は行われ、1673年(延宝元年)に不動郎村(不動良村)、1678年(延宝6年)に上南沢村(中茂村)が支郷として独立している。この時、上南沢に初めて開拓に入ったのは山本郡田代村の八左衛門だった云う。各村の規模は、1723年(享保8年)時点で家数が南沢村11軒・不動郎村4軒・上南沢村7軒。尚、南沢村は、元々「塚新田村」だったが途中「朦村」になった後、1683年(天和3年)の検地打ち直しの際に現在の南沢村に改名している⁸。尚、1647年(正保4年)に秋田藩が幕府に提出した「出羽一国絵図」には「塚田新田村・十二石」と記され、「元禄絵図」には「南沢」とあることから、どの時点で「朦村」と称されていたのかは詳らかとなっていない⁹。「切利支丹改め帳」から1727年(享保12年)時点の中茂村(上南沢村)の家族構成が確認できる。規模自体は農家8軒・総人口49人と小さな村であるが、五人組と三人組が設定されていた。両組の筆頭に記された治左衛門と八郎兵衛は組頭と推測され、両家のみが三夫婦を含んだ複合家族とある。一方、残りの6軒は3~5人の単婚小家族だった。この単婚家族が、近世初期に活発に行われた新田開発により自立を果たした、「新田百姓」だったと考えられている。尚、当時の中茂村(上南沢村)の単婚家族は甚五郎・長左衛門・惣介・吉助・喜兵衛・藤九郎¹⁰。

中茂入り口
中茂入り口
上空から望む中茂
上空から望む中茂

このように、旧来の1ヵ村における農業経営は、少数の有力農民が地域に点在し家長が傍系を含んだ大家族を率いて農業を営んでいたが、新田開発が進むと一夫婦だけの単婚小家族が農家の多数を占める村へ形態を変えていった¹¹。

幕府の命令に従い秋田藩は、毎年5月に全村の農民がキリスト教でないかの調査が行われ「切利支丹宗旨御調帳」に記録していた。中茂村(上南沢村)の1727年(享保12年)の御調書が残っている。御調書には、前述したような家族構成・人口の他に、各家の筆頭者・女房・子供の名前が記され、村全体の人口の総計を出し、前年より2人増えた旨が報告されている。さらに、鎌沢村正法寺と杉ヶ花村常光寺の寺印が一軒ごとに捺され、各筆頭者も捺印。最後に中茂村の肝煎・長百姓が次のような旨を報告し署名捺印している。その旨は「この度 、切利支丹宗旨御調につき調査を行ったが男女ともに怪しい者はおらず、諸事情により村にいる乞食は肝煎と五人組が見守り、他村から来た者については寺からキリシタンではない証拠を得て五人組に入れるようにしている。また、田畑も耕さず家業を持たない”只居の者”は1人もいない。仮に怪しい者を隠し置いている場合は、本人・肝煎・長百姓に罰を与えられても構わない」というもの。その上、正法寺・常光寺も自身等の旦那(信徒)に対し判を捺印し、もし御法度の宗旨が村から出たときは、愚僧も罰せられても構わないとの旨が記されていた。このように、江戸時代の農民が藩並びに幕府の御法度を守っているかどうかは、五人組・肝煎・長百姓・村の寺の監視と連帯責任のもとで取り締られていた¹²。

近世中期、秋田藩では長期に渡る山林資源の大量伐採により、山所のほとんどの杉が伐り尽くされていた。これが木材の不足を招き木材製品の市場価格を高め、高値で取引するため藩から隠れての徒伐(盗伐)が横行した。南沢村の中茂村(上南沢村)は、生計の半分を徒伐で立てていたと云う¹³。

近世において山林・原野は、あらゆる生活資源の源で、山々に囲まれた上小阿仁村の村民の生活とは一体のものだった。1820年(文政3年)の木山方吟味役の記録から、1803年(享和3年)からの18年間の小阿仁の山々からの出材料が分かり、1年間平均で阿仁銅山用の「片板二万間」、屋根葺用の「小羽五捨万枚」が産出されていた。片板は長さ4尺6寸~5尺・厚さ5分ほどの柾割板のことで、小羽は主に屋根を葺くためのものを指し、どちらも杉の良材が用いられた。ここから伐採された杉の本数を計算すると、年間で7~8000本位の杉が伐られていたと推測されている。当時の様子について沖田面村の御山守の日記から窺え「南沢・沖田面村のボタラ沢で五十目村(現五城目町)の寄郷・湯ノ又村が2年間に渡り、炭窯20箇所を設置することを双方の史談の上で許可した」との記録が残っている¹⁴。

1702年(元禄15年)、大雨・大風により不作に陥り困窮した小阿仁の南沢村を含む8ヵ村が肝煎の連名で減免を訴訟。秋田藩ではあらかじめ村に交付した「黒印御定書」をもって、「毛引き(年貢は水害・旱害の年に検分し改める制度)」を定めていたが、藩はこれによる減免を嫌い、「毛見」を少なく済ませた農村担当役人には加増(領地などを加え増やすこと)したり、賞金を与えていた。それでも年貢減免を訴訟した農民達の行動から、困窮の程度と決意の固さがうかがえる¹⁵。

1820年(文政3年)、文人の菅江真澄が五十目街道を中津又から阿仁へ山越えする道中、中茂村(上南沢村)を通り、風景をスケッチした。また真澄は中茂村の様子として「大きな母(も)の懐のような沢の中にあるので中茂と言うのであろう。沢の辺りに、山神、馬頭観世音、十王堂などのお堂がある。塩吹山の麓に並びたつ5・6戸の家は薪取り炭焼きを仕事にしている」との説明文を載せた¹⁶。

1868年(慶応4年)、戊辰戦争で大館方面から侵入してくる南部藩に備え、秋田藩が村に農兵隊の設置を命令。これにより南沢・堂川・小沢田・福館・沖田面・大林の6ヵ村625人の農兵隊が組織され、田中吉五郎・伊藤俊蔵等が指揮を執った¹⁷。

近代

1873年(明治6年)7月28日、政府は地租改正法を公布し実施方針を示した。この地租改正では、まず耕地・宅地の正確な面積を測定して所有者を確認。その後、土地の生産高・等級・地価を定め、最後に地価を基準に地租額を決めるという手順が定められた。しかし、地租改正法公布の約1ヶ月後の8月24日、秋田県庁が焼失し準備していた関係文書の多くも焼けてしまった。そのため地租改正作業が著しく遅れ、実際に着手されたのは1875年(明治8年)になってから¹⁸。地積調査は村の責任で行われたが、指導・監督のため官員(県庁職員)や担当戸長らの巡回が時々行われ、厳しい監視下のもとで地租改正作業が行われていた。地積調査が終了すると、二大区(当時上小阿仁村は二大区三小区の中に含まれていた)の等級会議が1877年(明治10年)1月4日から10日間開かれ、ここで各村々から報告された調査資料に基づき、田畑・宅地の等級が一応決定。田方に関しては上小阿仁村域のほとんどの村々が、二大区内では中等程度に当たる、反当たり5~6斗の生産高を見込まれたが、山間に位置する南沢村だけは反当たり2斗4升8合と見込まれ、二大区内で最下位に位置した。更に畑方・宅地に関しても南沢村は最下位に当たる20等級と評価された。その後、地域の米価や金利などを参考に地価の算定されこれが決定し、地価の3%を地租とすることが決まった。南沢村の地価は1,754.237円と定められ、1876年(明治9年)時点の地租は52.628円だった¹⁹。

1878年(明治11年)、田畑や宅地の地租改正作業が終わると、続いて山林・原野の地租改正が実施された。 前者に比べ後者の地租改正には2つの難点があった。1つ目は、田畑・宅地のような平坦地でなく、広大かつ起伏のある所での実地測量が極めて難しいこと。2つ目は、所有権の所在が不明確な為、測量以前に土地が官有なのか民有なのかを判別する必要であること。尚、この区別のことを官民有区分という。さらに追い打ちをかけるように前述の秋田県庁の火災により、旧藩から引き継いだ古文書・古記録に基づき作成された官有林野の原簿などの関係資料の多くが焼失していた。そこで秋田県は、1876年(明治9年)8月、内務省地理寮から官員の応援を受け、その指導のもと残存の旧記を参考に官林帳を作成し、これに基づき官民有区分を実施するに至った。近郷の大林村の「鈴木一男家文書」によると、上小阿仁村域での官民有区分は、1878年(明治11年)・1879年(明治12年)の2回に渡り実施されたことが分かる。また、1回目に関しては記録が簡易的のものだったため詳細は確認できないが、秋田県庁職員が調査を実施し、民有とする確かな証拠がない限り、官林帳を基に片っ端から官有地に編入していたことが分かる。この杜撰な調査への村民の不満が大きかったのか、2回目からは秋田県地理科出張員と内務省山林局出張員による合同調査で、官地・民地の境界調査が行われ、境界には標木がたてられた。また、民有の証拠となる文書が村方に保存されている場合、その訴えを聞く機会も設けられた。1879年(明治12年)8月24日、官員一行が大林村から南沢へ移っている²⁰。

1889年(明治22年)の政府による町村制の施行により、南沢村・杉花村・仏社村・堂川村・小沢田村・福館村・五反沢村・沖田面村・大林村が統合し上小阿仁村が成立²¹。

1919年(大正8年)8月、秋田水力電気株式会社が水量の多い小阿仁川に着目し、南沢に水力発電所の設置を計画。同社は1920年(大正9年)2月に認可を受け着工し、1922年(大正11年)4月には使用できる状態にした。発電量は1800ワットで、当時の県内水力発電の中では最大規模だった。尚、同時期に上小阿仁村内で電灯への電力供給が開始されたが、この電力は南沢の発電所のものでなく、北海道電灯株式会社系統の電力が利用されていた²²。

不動羅橋
不動羅橋

1924年(大正13年)、南沢-不動羅間に木橋が架設された。1926年(大正15年)8月には大洪水により南沢橋が流失し、その架け替えも行われた²³。

南沢橋
南沢橋

現代

1951年(昭和26年)4月、上小阿仁農協婦人部が設立。1957年(昭和32年)の秋田県の農協婦人部が掲げた活動重点目標の1つに「生活指導の計画化」があり、この内容が取り入れられ、1959年(昭和34年)に公民館主催で冬期裁縫学級が開設された。ここでは裁縫だけでなく、衣食住・衛生・お茶・生花・礼法などの女性の一般教養といえる内容が含まれており、北林カナ子を講師として迎え南沢分校でも行われてた²⁴。

1964年(昭和39年)8月12日から翌朝にかけて秋田市以北の町村に豪雨が襲った。この豪雨により、小阿仁川とその支流の各河川が13日午前7時頃から急に氾濫。これにより南沢部落の朦沢沿いに位置した家屋が全壊した²⁵。

1972年(昭和47年)7月6日から9日にかけて当地方を集中豪雨が襲った。 これに関する「異常出水被害報告書」によると、南沢部落では1世帯4名が床下浸水の被害に見舞われた²⁶。

1976年(昭和51年)に秋田県知事が上小阿仁村を訪問し要望を聞いた際、道路問題について4つの重点的要望。そのうちの1つに、県道琴丘-荻形線の南沢-荻形間の災害防除工事と拡幅、急カーブの改良工事があった²⁷。

神社仏閣

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大山祇神社

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山神社
山神社

大山祇神社は、地内の字南沢67に位置する大山祇大神を祭神とする神社。例祭日は5月8日。愛宕神社と合祀している。1774年(安永3年)に山神堂として創立した²⁸。

山神社

山神社は、地内字不動羅88に位置する大山祇大神を祭神とする神社。例祭日は5月12日。不動神社(通称おふどうさま)と合祀している²⁸。

交通

県道129号
県道129号
南沢トンネル
南沢トンネル

近世、地内を通った五十目街道を通じて、炭・薪・楢材・桶材・山菜などを五十目市に売り出すほか、五十目方面からも人・物が入ってきていたため、南沢村は小阿仁の南の玄関口の役割を担っていた²⁹。

日露戦争前後の頃、国家財政の都合で国有林収入に対する期待が高まり、従来の民間業者による立木販売より、収益の多い官行斫伐方式が採用されるようになり、運搬を便利にする為に林道建設に力が入れられた。官行斫伐(かんこうしゃくばつ)とは、森林で立木を伐倒した後、枝木を伐り払い、林道端に集め造材すること。上小阿仁村でも上小阿仁林道が、1903年(明治36年)に着工し、翌1904年(明治37年)に完工。当林道は南沢-荻形間を結ぶ19kmの車道となっており、幅員1.9m~2.7mと馬車も通れるような立派な道路だった³⁰。林道開発の勢いは大正期にも継承され、1922年(大正11年)に南沢-八木沢間で軌道が布設された³¹。

昭和30年代までこの森林軌道は、上小阿仁営林署管内の木材を運搬路であると同時に、村人の重要な交通手段でもあった。1960年(昭和35年)1月に開かれた社会学級による模擬村会でも「軌道だけに頼らずモーターカーを役所が買って使用する意向がないのか」との質問があり、この頃から森林軌道に替えてトラック道路を整備する機運が高まっていた。また荻形ダム建設が決まったことで、この工事関係の車両の通れる道路をどう設置するかが話題となった。そのため、上小阿仁村の関係者はいち早く軌道を取り外し、その跡地を拡幅して道路を設けるよう陳述を繰り返した。その努力もあってか、1962年(昭和37年)にダム工事用道路に着工し、翌年に完成。同年10月からは南沢-八木沢間の定期バスが運行された³²。

文化

ナルカナラネカ

上小阿仁村の南沢などでは、旧1月16日朝、家の主人が鉈などを振り上げ「ナルカナラネカ、ナラネバキルゾ」「ナルカナラネカ、ナラナキャブッタギルゾ」と言い、それに対しもう1人が「ナリスカラカンベンシテクダサイ」「ナルカラゴメンシテクレ」と答える行事が行われた³³。

カスタデ

1月1日、南沢では「カスタデ」と称しモグサを入れた皿を頭にのせて燃やした³⁴。

産業

南沢森林事務所
南沢森林事務所

畜産業

上小阿仁村における畜産業の大部分は馬の飼養だった。1932年(昭和7年)時点で、南沢部落(12戸)は飼養戸数14・頭数19と上小阿仁村の中ではトップクラスの飼養率だった。南沢は山間で水田の少ない地域だったため、米の生産量の少なさを馬の飼養に補うためだったいう。尚、部落の戸数は1929年(昭和4年)時点のもののため飼養戸数の方が上回っている。主に飼育された馬は二歳駒として米内沢などの市場で売り捌かれていた³⁵。

教育

南沢分校

南沢分校跡
南沢分校跡

上小阿仁村は南沢のような奥地集落を持つことから、明治時代から僻地教育に深い関心を払っていた。1918年(大正7年)、南沢に特別教育所が設置される。特別教育所は、沖田面・小沢田・仏社の3小学校に通学困難な地域の児童を集め、1人の雇い教師により指導が行われ、基本的に複式授業で行われた。尚、1922年(大正11年)に南沢分校となっている³⁶。一時期、戦後開拓された小深沢部落の児童も南沢分校に通学し、冬季には冬期分校を設置していた³⁷。 1952年(昭和27年)頃、全国的に辺地教育振興の声が高まり、辺地を多く抱えていた秋田県でも力を入れ始めた。1958年(昭和33年)4月、南沢分校が秋田県教育委員会から「へき地学校における教育経営の研究」の指定を受けた。翌1959年(昭和34年)から2ヵ年の継続研究が実施され、2年目の10月21日に行われた公開研究会には数百名が参加する盛況ぶりだった。これには北出張所の指導主事・上小阿仁村内や近隣の教育関係者が集い、全校生徒による器楽合奏と合同体操を参観した³⁸。その後、奥地の集落に定期バスが運行されるようになり、1968年(昭和43年)に南沢分校は本校沖田面小学校へ吸収された。一時期、戦後開拓された小深沢部落の児童も南沢分校に通学し、冬季には冬期分校を設置していた³⁹。

南沢分校跡にある南沢公民館
南沢分校跡にある南沢公民館

南沢青年学級

戦後、1949年(昭和24年)に社会教育法が制定されると、社会教育が公民館の活動を軸に進められた。1954年(昭和34年)、上小阿仁村も秋田県から公民館活動の研究委嘱を受け、公民館組織・運営・事業内容などについて研究された。当時の公民館事業計画では、経営の重要事項が掲げられておりその1つに青年学級と婦人学級の振興があった。南沢でもこの青年学級が組織されていた⁴⁰。

伝説・伝承

神隠し

神隠しは、南沢の伊藤永一郎の世間話。ここでいう世間話とは、世間の見聞に地名や人名を付けて事実や経験のように話されるもので、伝説などとは異なり過去でなく最近の出来事としている。永一郎によると、ある日、2歳の子供が突然夕方4時頃からいなくなり、一晩探して午後22時頃に山奥のコモウ沢という場所で発見された。ただ、そこへ入って行った男たちは、みんな鳥肌が立ち髪毛が逆立ったっていたと云う⁴¹。

脚注

出典

  1. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.11.
  2. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.833-834.
  3. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.52-53.
  4. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.128,p.130-131.
  5. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.86-87.
  6. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.187-190,286.
  7. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.187-190,279.
  8. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.191-194,287.
  9. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.286.
  10. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.195.
  11. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.196.
  12. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.199-200.
  13. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.251.
  14. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.216.
  15. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.235-237.
  16. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.287-289.
  17. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.274.
  18. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.328.
  19. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.330-334.
  20. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.336-339.
  21. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.830.
  22. 上小阿仁村百年誌編纂委員会.上小阿仁村百年誌.上小阿仁村,1989,p.202-203.
  23. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.451.
  24. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.666-667.
  25. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.721-722.
  26. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.722-723.
  27. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.655-656.
  28. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.916.
  29. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.288.
  30. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.388.
  31. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.444.
  32. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.653-654.
  33. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.900.
  34. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.898.
  35. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.478-479.
  36. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.452-453.
  37. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.579.
  38. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.696.
  39. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.697.
  40. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.698-699.
  41. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.966-968.

参考文献

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上小阿仁村百年誌

上小阿仁村百年誌編纂委員会

上小阿仁村

1989
586
図書
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南沢杉花

上小阿仁村史 通史編

上小阿仁村史編纂委員会

上小阿仁村

1994
1024
図書
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南沢杉花

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