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中尾(なかお)は、宮崎県西都市の大字。 九州山地中央部の山間地に位置する。北部には竜房山がそびえ、南部は一ツ瀬ダムに接している。同ダム建設により、民家並びに中尾小学校及び銀鏡中学校中尾分校などが湖底に没した¹。
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人口
中尾の人口は以下の通り²‘³。
年代 | 戸数(世帯数) | 人口 |
1888年(明治21年) | 57 | 256 |
1984年(昭和59年) | 42 | 118 |
2015(平成27年) | 18 | 46 |
歴史
中世
文化の節で後述する棒踊の伝承によると、1577年(天正5年)に都於郡城主伊東三位入道義祐一行は薩摩に追われ豊後に落ち延びた際、中尾に残された人々が棒踊を始めたいう。伝承によるため確かな記録ではないが、この頃に落後者が土着し始めたか、元々生活していた村人たちがいたと考えられている⁴’⁵。
近世
近世、九州山地中央部の一ツ瀬川の上流域は「米良山」と称され、現在の西米良村全域・木城町西部域・旧東米良村域(現:西都市北西部)がここに含まれていた。また、米良山は江戸時代を通じ肥後国球磨郡(熊本県)に属していた。この米良山に中尾は属しており、天保郷帳によると、村高は16.608石で鳥巣谷という小村があった⁶。
近郷村所にある八幡神社を中尾村の鎮守としていた。中尾の他に、八重や上揚もここを鎮守としていたため、八幡神社は約200戸から崇められていた⁷。
近代
中尾の行政区の変遷は以下の通り⁸。
年代 | 上位行政区 |
1871年(明治4年) | 人吉県・八代県 |
1872年(明治5年) | 美々津県 |
1873年(明治6年) | 宮崎県 |
1876年(明治9年) | 鹿児島県 |
1883年(明治16年) | 宮崎県 |
1889年(明治22年) | 東米良村 |
1962年(昭和37年) | 西都市 |
明治時代中頃、町村合併を進めるにあたり宮崎県は、各町村の資力調査と並行し町村沿革調査を行った。この調査で、中尾が属した銀鏡村外三村戸長の長友宗一郎は、銀鏡村の由緒は古書による調査内容を報告した一方、中尾・上揚・八重村については不明とした⁹。
1884年(明治17年)、中尾・尾八重・銀鏡・上揚・八重・中之又村共同で、尾八重村から東臼杵郡上渡川村(現:美郷町)に通じる新道が開削された²。
森林資源と交通路の発展
東西米良地方は豊富な原木資源に恵まれていたものの、交通路が整備されず運輸が困難であったため、大正時代まで木炭の生産は盛んに行われていなかった。それまで東西米良地方における木炭の生産は、熊本県との境に位置する西米良村横谷で行われれる程度だった。しかも、運輸先は隣県の湯前(現:熊本県球磨郡湯前町)で年間700〜800俵が人馬によって運ばれていた。というのも、当時の木炭価格1俵10銭で、それに対し運賃が1里で約2銭と遠方への輸送は割りに合わなかったためだった。しかし、1904年(明治37年)の杉安-村所間の道路開削、1910年(明治43年)の熊本県から西米良村の荒谷までの県道改修により輸送路が整備されたため、当地方における木炭生産が注目を浴びはじめた。資本進出は西米良村から進められ、1912年(明治45年)に後口林業が人吉に本店を置き米良に炭山を入れて備長焼きを経営し、1917年(大正6年)には西米良村で年間10000俵の備長炭生産を達成。更に、1922年(大正11年)に国鉄妻線が杉安まで延長したことに伴い本店を杉安へ移転し、東米良山の炭山経営に着手。しかし、中尾と岩井谷に入り銀鏡川流域に進出したものの、銀鏡川流域ではまとまった山が確保できなかった。ただ、銀鏡から東に入った中尾には1つの山で30窯ほど焼ける山があちこちにあったため、そこに拠点を置き年間40000俵の製炭を行った¹⁰。 前述の通り、道路の整備が進み輸送可能となったが、当時生産された木炭は人の背に乗せて木馬道まで搬出し、そこから木馬で馬車道まで運んでいた。そこで進められたのが軌道の設置であった。まず1920年(大正9年)に木村工業が上揚-銀鏡間3里の軌道を敷設。続いて、大正10年代に入ると、杉安の実業家後口楠松と八重出身の実業家濱砂正治が銀鏡軌道株式会社を創設し、中尾の部落の1つ二軒橋¹¹と銀鏡間に軌道を設置することを計画。1923年(大正12年)に工事が着工し、1925年(大正14年)までに二軒橋-槙の花間が完成し営業を開始。そして翌年夏、銀鏡轟元までの延長を終えた。当時、木村工業は、自社の木材運搬のため、上揚の三塚から轟元までの軌道を敷設していた。よって、轟元囲の区間を木村工業から買収することで、二軒橋-銀鏡間の軌道敷設の実現に至った¹²。
前述の後口楠松は日向軌道株式会社を設立し、1927年(昭和2年)7月16日から、既に杉安-二軒橋に敷設してあった軌道を用いて一般貨物の運搬を開始。こうして杉安-上揚間が鉄道で結ばれた。ただ、先に行われた軌道法の改正により、杉安-二軒橋間と二軒橋-上揚間の軌道の幅がそれぞれ異なったため積み替えを要した。それでも、悪路の米良街道に頼ることなく輸送ができる軌道は貴重な輸送手段であったという。当初、人や馬の力を動力としていた軌道であったが、その後ディーゼルエンジンを搭載した簡易機関が導入されたことで、林産物のみならず人や日用品の輸送が行われるようになった¹³。
1929年(昭和4年)、国が木炭の取引の改善を図るため「日本標準木炭規格」を交付。県としても統一した指導を要したため、1933年(昭和8年)に「県検査規則」を制定。県庁内に木炭検査所、主要産地・主要移出地55箇所に駐在所が設置され、二軒橋にも駐在所が置かれた¹⁴。
中尾製茶組合
明治初期から宮崎県では茶業が輸出産業として奨励されていた。しかし、輸出量が増えるにつれ粗悪品が目立つようになった。それに対し、1887年(明治20年)、政府は産業組合規則を交付し組合設立を強制。また県も改良と集荷統制のため、各生産区域ごとに組合を設立するよう指導した。これに伴い、1889年(明治22年)に近郷の尾八重共同製茶組合が設立。西都市域では、尾八重に続き中尾で製茶組合が設立された。その後、1903年(明治36年)10月、産業組合法による再編で中尾製茶生産販売組合が設立。組合員数は10名。当生産組合は無限責任組織で、製茶機器の購入・海外輸出のための品質改良を目的とした¹⁵。
現代
1963年(昭和38年)6月8日、一ツ瀬ダムが着工。これに伴い、中尾を含む旧東米良村3地区と西米良村4地区が水没することとなった。また、中尾小学校を含む5つの小学校なども水没している¹⁶‘¹⁷。
2005年(平成17年)3月、東米良地区の医療・保健・福祉の中核的施設として、東米良診療所が建設された。所在地は大字中尾字小崎171-9。病床数は一般病床4床・療養病床15床。病室は全て個室でリハビリ室も備えられ、医師・看護師住宅が併設されている¹⁸’¹⁹。
2022年(令和4年)5月15日、中尾地内の国道219号沿いで法面が崩落しているのが発見された。これに伴い、県西都土木事務所が付近を全面通行止めにした。宮崎県の見解では、連日の雨が蓄積し岩盤が緩んだことで発生したとみられた²⁰。翌16日、県西都土木事務所が復旧に着手。同日中に路上の土砂の撤去を終えた。その後、17日に法面の調査が行われ、新たに崩壊する恐れがある箇所が複数あることを発表し、同日から24時間体制で復旧工事が開始された。同月20日、県は一定の安全が確保されたとし、全面通行の規制を解除。しかし、完全復旧には数週間かかる見込みとした²¹’²²。
神社仏閣
一蓮寺
一蓮寺は、旧東米良村中ノ尾椴木にあった浄土真宗の寺。1871年(明治4年)に廃寺となったが、1948年(昭和23年)に復活した²³。
文化
棒踊
棒踊は、霧島社の大祭日に五穀豊穣・悪疫退散を祈願し奉納する踊り。西都市指定無形民俗文化。旧暦9月9日に行われていたが、現在は10月の第3日曜日に開催されている。尚、2013年(平成25年)は11月22日に催された。また、棒踊は地元のみならず、秋の西都原古墳祭でも毎年披露されている。
奉納が行われる霧島社は、中尾部落北方の龍房山中腹に位置する。当社の棟木には、1847年(弘化4年)9月29日付けで「奉再興霧社大社」と残っており、当時から霧島信仰がされいたことが分かる。また、霧島社の踊り奉納がされる場所は「オドリニワ」と称されている。
棒踊の起源に関する伝承がある。1577年(天正5年)に都於郡城主伊東三位入道義祐一行は薩摩に追われ豊後に落ち延びた。一行は、現在の西都市穂北-中尾-尾八重の山道を行くことになったものの、冬の米良山中は厳しい寒さで、落後する者が大勢でた。棒踊は、この時中尾に残された人々が、後に武芸修験のため始めた踊りだと伝わる。
棒踊では、地面を棒で撃つことで地霊を呼び起こし五穀豊穣を願い、生殖的な呪力を込められた六尺棒を用いた踊りは、踊り本来の意味と形式を伝えているいう。 構成は、踊り手12人・歌い手2人(御幣持ち)・鉦打ち2人・旗持ち2人・道具持ち2人の計20人で編成。また踊りは、たて棒・きりまぜ・太刀・かま・六人組・そら棒の6形式。 踊り手の装束は、黒頭巾に五尺の白鉢巻を締め、白襦袢に黒袴・手甲脚絆で背に十字の襷掛け。また、交差した所からサガリという赤布をさらす。足元は白足袋に草履。そして、踊りごとに六尺棒・鎌・太刀を持ち替える。旗持ちと道具持ちは踊り手と同じ装束で、歌い手は羽織袴・中折帽子²⁴’⁵。
カクラマツリ
カクラマツリは銀鏡の近郷にある各鹿倉社で神楽が踊られる神事。また、各集落で神官に頼みお祓いをしてもらい、山の神を祀り、神様への感謝と祈願として猟師が鉄砲を撃つ。2012年(平成24年)時点で銀鏡地区の鹿倉社は、上揚(4箇所)・銀鏡(6箇所)・八重(2箇所)と中尾には最多の7箇所(堤野・中野・奥畑・椴木・戸崎など)あり、そのうちの15箇所でカクラマツリが10〜12月にかけて行われた²⁶。
教育
1876年(明治9年)10月の「第四第五大学区巡功程」によると、文部大書記官の野村素介は、宮崎県の教育普及状況を高く評価した一方で、中尾村のあった児湯郡などの山間部は教育が遅れていると報告していた。隔絶された山岳地帯は、頑固で知恵に乏しく、読み書きができなくても良いとする風潮があることを要因として挙げている²⁷。
中尾小・中学校(一ッ瀬小学校)
1876年(明治9年)、小川小学校の枝校として中尾村校が開設。その後、西南戦争により一時閉鎖。『日向地誌』によると、1878年(明治11年)5月26〜31日に平部嶠南によって調査が行われた際、中尾村字奥畑に人民共立小学校が置かれていて、男子児童が18人いたことがわかる。人民共立小学校は、公的補助がなく村民の寄付・徴収により運営された学校。1880年(明治13年)、中尾小学校に改められ、翌年には地内の字椴木に移転改築した。1891年(明治24年)、中尾尋常小学校に改称し、1921年(大正10年)に字湯(猪)原に新たに校舎が建設され移転。当時は2学級で、児童数は87人だった。
その後、1941年(昭和16年)4月に中尾国民学校に改められたが、終戦後は中尾小学校に改称。さらに、1946年(昭和21年)4月には猪之原分校を設置。しかし、1962年(昭和37年)4月、本校・分校と八重小学校が合併して一ッ瀬小学校となり、1982年(昭和57年)に岩井谷小学校に統合。枝校時代から続いた105年の歴史に幕を閉じた¹‘²⁸。
また、1947年(昭和22年)5月、東米良村銀鏡中学校が開かれると同時に、同校中尾分校が設けられた。しかし、20年後の1967年(昭和42年)3月に中尾分校は本校と共に東陵中学校に統合され、廃校となった²⁹。
中尾実業補習学校
中尾実業補習学校は、1918年(大正7年)11月に創立した学校。実業補習学校は、1893年(明治26年)11月に実業補習学校規定により制定された教育機関で、尋常小学校を卒業した勤労青少年を対象に、小学校教育と低度の職業訓練を施すことを目的としていた。授業が日曜日または夜間に行われるなど、他の学校に比べ時間や内容に自由裁量が認められたのが特徴であったが、明治30年代半ばまでは全国的に広がりをみせなかった。それに対し、1902年(明治35年)1月に文部省が規定を改正し、設置基準を緩和したことで、実業学校は全国的に増加。一方で児湯郡の実業補習学校は不振で、1905年(明治38年)2月15日から4日間に渡り開催された郡視学会では「実業教育を務めて奨励してるものの、未だ学校設置に至っていない」との旨が報告されている。また、明治41年度の『宮崎県学事年報』によると、県下に実業補習学校が97校置かれているが、児湯郡には5校しかなかったことがわかる。それでも、1925年(大正14年)時点では、児湯郡の西都市域だけでも13校に増加している。尚、そのうち三財実業補習学校以外の学校は大正年間に創立している。1925年(大正14年)当時の中尾実業補習学校は、教員1名・生徒38名(男18/女20)、2学級で構成されていた²⁵。
脚注
出典
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会.角川日本地名大辞典 45 (宮崎県) .角川書店,1986,p.544-545.
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会.角川日本地名大辞典 45 (宮崎県) .角川書店,1986,p.545.
- 西都市.”数字でみる西都”.宮崎県西都市,2018-11,https://www.city.saito.lg.jp/6d04fa48ca313b4fb5ac3d5473c4664c.pdf,(参照 2023-12-22).
- 西都市史編さん委員会,・西都市史編集委員会.西都市史 通史編 下巻.西都市,2016,p.637-638.
- 一般社団法人 西都市観光協会.”中尾棒踊”.西都市観光協会,https://www.saito-kanko.jp/tourisms/中尾棒踊/,(参照 2023-12-22).
- 西都市史編さん委員会・西都市史編集委員会.西都市史 通史編 上巻.西都市,2016,p.479-480.
- 西都市史編さん委員会・西都市史編集委員会.西都市史 通史編 上巻.西都市,2016,p.545.
- 西都市史編さん委員会・西都市史編集委員会.西都市史 通史編 下巻.西都市,2016,p.3.
- 西都市史編さん委員会・西都市史編集委員会.西都市史 通史編 下巻.西都市,2016,p.56.
- 西都市史編さん委員会・西都市史編集委員会.西都市史 通史編 下巻.西都市,2016,p.201.
- 中武雅周.ふるさとの記米良の荘.中武雅周,1983,p.189.
- 西都市史編さん委員会・西都市史編集委員会.西都市史 通史編 下巻.西都市,2016,p.204.
- 西都市史編さん委員会・西都市史編集委員会.西都市史 通史編 下巻.西都市,2016,p.205.
- 西都市史編さん委員会・西都市史編集委員会.西都市史 通史編 下巻.西都市,2016,p.202-203.
- 西都市史編さん委員会・西都市史編集委員会.西都市史 通史編 下巻.西都市,2016,p.81-83.
- 西都市史編さん委員会・西都市史編集委員会.西都市史 通史編 下巻.西都市,2016,p.428-429.
- 一般財団法人日本ダム協会.“一ツ瀬ダム [宮崎県](ひとつせ)”.ダム便覧.http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=2829,(参照 2023-12-22)
- 株式会社岩切設計.”WORKS 施工事例 東米良診療所”.株式会社 岩切設計,https://www.iwakiri-sekkei.com/results/942.html/,(参照 2023-12-22).
- 社会医療法人 善仁会 善仁会グループ.”•東米良診療所 (西都市委託診療)”.宮﨑善仁会病院,https://www.m-zenjin.or.jp/satellite/higashimera,(参照 2023-12-22).
- 西都ー西米良 往来困難 国道219号のり面崩壊.宮崎日日新聞.2022-05-16,宮崎日日新聞 - Miyanichi e-press,https://www.the-miyanichi.co.jp/kennai/category_2/_62772.html?utm_source=ise&utm_medium=ise,(参照 2023-12-22).
- 国道219号西都―西米良 規制解除 復旧工事は継続.宮崎日日新聞.2022-05-21,宮崎日日新聞 - Miyanichi e-press,https://www.the-miyanichi.co.jp/kennai/category_2/_62900.html?utm_source=ise&utm_medium=ise,(参照 2023-12-22).
- 西都―西米良 国道219号不通 再開きょうにも見通し.宮崎日日新聞.2022-05-21,宮崎日日新聞 - Miyanichi e-press,https://www.the-miyanichi.co.jp/kennai/category_2/_62800.html?utm_source=ise&utm_medium=ise,(参照 2023-12-22).
- 西都市史編さん委員会・西都市史編集委員会.西都市史 通史編 下巻.西都市,2016,p.655.
- 西都市史編さん委員会・西都市史編集委員会.西都市史 通史編 下巻.西都市,2016,p.637-638.
- 西都市史編さん委員会・西都市史編集委員会.西都市史 通史編 下巻.西都市,2016,p.366-369.
- 西都市史編さん委員会・西都市史編集委員会.西都市史 通史編 下巻.西都市,2016,p.672-673.
- 西都市史編さん委員会・西都市史編集委員会.西都市史 通史編 下巻.西都市,2016,p.303-304.
- 西都市史編さん委員会・西都市史編集委員会.西都市史 通史編 下巻.西都市,2016,p.306,364.
- 西都市史編さん委員会・西都市史編集委員会.西都市史 通史編 下巻.西都市,2016,p.360,p.365.
参考文献
タイトル | 著者・編集者・編纂者 | 出版社 | 出版年 | ページ数 | 資料の種別 | URL(国会図書館サーチなど) | 所蔵図書館・利用図書館 | 集落記事 | Tags | 注記 |
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「角川日本地名大辞典」編纂委員会 | 角川書店 | 1986 | 1130 | 図書 | 中尾小川板谷 | |||||
西都市史編さん委員会, 西都市史編集委員会 | 西都市 | 2016 | 648 | 図書 | 中尾 | |||||
西都市史編さん委員会, 西都市史編集委員会 | 西都市 | 2016 | 705 | 図書 | 中尾小川 | |||||
中武雅周 | 中武雅周 | 1983 | 324 | 図書 | 中尾小川 |