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小川(おがわ)は、宮崎県児湯郡西米良村の大字¹。山間地に位置し、小川川が流れる。米良の名の起源とされる「磐長命伝説」があり、小川はその伝説の舞台となっている。また、米良神社本殿がある小山は古墳で、1934年(昭和9年)に県史跡に指定された。
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地理
小川は、一ツ瀬川支流小川川の中流域から上流域にかけての山間地に位置する。北に石堂山、東に鳥帽子岳があり、小川川流域に蛇渕・虹の滝・布水の滝が点在する¹。
小川川
小川川(おがわかわ)は、標高1547mの石堂山を源流とし小川地内を南下する一ツ瀬川の一次支流。全長16.1km・流域面積45k㎡。流域の木浦地区には、柳田國男が取材した民話「うるし兄弟」ゆかりの蛇渕がある¹。
人口
小川の人口は以下の通り¹’²。
年代 | 戸数(世帯数) | 人口 |
1891年(明治24年) | 80 | 408 |
1960年(昭和35年) | 171 | 713 |
1975年(昭和50年) | 117 | 302 |
歴史
米良の起こり
米良の名前の起源といわれる伝説「磐長命伝説」が残り、小川もこの伝説の舞台となった。 ある日、ニニギノ命(天照の孫にあたる神)が海辺を歩いていたところ、絶世の美女に出会い、一目惚れをした。その美女は、オオヤマズミノ神の娘、コノハナサクヤ姫だった。ニニギノ命は彼女を妻に迎えようとオオヤマズミノ神に尋ねに行ったところ、オオヤマズミノ神は快諾し、さらに姉娘のイワナガ姫もニニギノ命に差し上げる事にした。2人の娘は綺麗な着物を身に纏い、様々な贈り物を家来に持たせ、ニニギノ命の御殿に着いた。しかし、イワナガ姫の顔を見たニニギノ命は、顔が醜いという理由で、コノハナサクヤ姫だけ引き取り、イワナガ姫を追い返した。これに悲しんだイワナガ姫は逃げるようにオオヤマズミノ神のもとへ帰った。その後、イワナガ姫は一ツ瀬川を上り、米良山中へ向かって竜房山を経て、小川に辿り着いた。そして、小川で田んぼを作り、実り豊かな収穫を見て「ヨネヨシ(米良し)」と喜び、これが「米良」の名の起こりだという。 ただ、その後イワナガ姫は小川の深淵に身を投げたという¹’³。
古代
米良神社本殿が建っている小山全体は、径100m・高さ20mの古墳といわれている。1934年(昭和9年)には、当古墳と近郷の村所の古墳2基と合わせて「西米良古墳」として県史跡に指定された¹。
中世
1560年(永禄3年)、第3代領主重治公が沢水に西福寺を建立。以来、集落の規模が徐々に拡大していった⁴。
近世
1694年(元禄7年)6月19日、雄八重地頭の米良権大夫並びに銀鏡の士数名が、逃散及び小川攻めの陰謀を企てた罪で、小川城下入口で処刑された。この処刑が、後の領民の逃散や宝暦の米良騒動に影響を及ぼすことになった。尚、この処刑場がその後の米良領内の処刑場として利用されることになったという⁵。
1706年(宝永3年)、米良則家が小川村の西福寺に碑を建立。碑文には家康への御目見に関することが記述してあるが、いつ御目見したのかは明記されていない。尚、『米良系譜』には、第6代重隆が初めて徳川家康に御目見したのは1615年(元和元年)とあるが、『菊池武臣系図』では1602年(慶長7年)としている⁶。
寛政年間、高山彦九郎が当地方を旅してその様子を「筑紫日記」に記録した。1792年(寛政4年)2月8日に小川八十吉の所に泊まった高山彦九郎は、彼から小川にちなんだ珍しい話を聞き、興味ある史実を筑紫日記に書き残した。小川八十吉は、現在の小川又は小河家の遠祖にあたり、家紋は丸に三揃鷲であった⁷。
近世において当地は小川村のほか、小河谷村(おがわだに)とも呼ばれていた。肥後国人吉藩に属していたものの、旗本交代寄合衆として参勤交代を勤めた米良氏が、幕府鷹巣山として支配していた。こうして当地方を支配していた米良氏であるが、『日向地誌』や『日向国史』によると、8代重隆に至り小川に居住地を移したとある。しかし、重隆は米良氏中興の祖ともいうべく居住は村所にあったとされ、12代則重以降に小川に定住したという説が有力視されている。則重が小川に館を移してからは近代に至るまでの約200年間、小川が当地方の中心地となった。尚、1846年(弘化3年)に米良栄叙(よしのぶ)が実筆した『米良系譜』では、重次が初代とされているため則重は10代目で、一方『日向国史』では重為が初代となっているため則重は12代目となっている⁸‘⁹。 小川城が米良藩の中心であった間、肥後の相良との親交が深く、5年に1度の参府も相良の世話のもと難なく続けることができたという¹⁰。 小川城は小川地区中央の高台に南面で位置し、本邸に御尋間・控の間・小書院・大書院・御学問所等、裏には穀物蔵・馬屋・御金蔵・火焼の間などがあった。また、本邸から西に数里離れた所に御隠居所があり、ここの見事な石垣は米良山中の石工が集って築いたものだという。御隠居所の周辺には築山や調練場と呼ばれる乗馬の稽古などが行われた広場があった。城下は囲村となっていていた⁸。
新田
米良地方は山間地にあるため田んぼが少なく、1788年(寛政元年)年の小物成では、漆・茶・綿221石、雑穀57石(焼畑)、椎茸1石3斗、紙60束もあった一方、1746年(延享3年)に田んぼの石高は12石ほどしかなかった。さらに同年の書上によると、先年は田で29石あったが、洪水により徐々に縮小し12石程になってしまったという。そんな米良領でも、天保年間になると新田開発が行われるようになった。以前は小川村に水田が1町歩ほどある程度だったが、新田開発により1834年(天保5年)から1881年(明治14年)で、小川・越野尾・横野・寒川の4ヵ村で計17町7反3畝23歩にまで増加した¹¹。
立林
江戸時代、米良領内には立林が谷山立林・橋掛谷立林・青笹山立林の3箇所あり、いずれも小川に位置した。立林は、万治・寛文年間(1658-1682)の頃から、幕府や諸藩の自家用木材の確保や林木の保護、山林の植栽のため設けられた制度で、当山中での伐木や狩猟などが禁じられた。立山や留林とも呼ばれる¹²。
1753年(宝暦3年)2月27日夜、第13代米良領主主膳則純の頃、40歳になっても跡取りがいない則純を憂い佐土原藩領都於郡黒貫寺(真言宗)の僧を小川村の館に招き祈祷がなされた。しかし、持仏堂の護摩火からの出火により館が全焼。その他に祖先伝来の古文書・甲冑・刀剣・錦御旗などの家宝も燃え尽きた。このような惨劇に発展した祈祷であったが、この甲斐あってか奥方が懐妊。同年12月に第一子の小太郎(のちの第14代則敦)が誕生した¹³。
1814年(嘉永元年)12月6日、老女の失火により小川の館内で火災が発生。当時の領主の第16代栄叙(よしのぶ)の指揮の元、宿番の士 河野権右衛門・近侍女中によって諸道具の運搬並びに鎮火がおこなわれたが、努力虚しく館は火の海となった。そんな中、栄叙は唐突に「今ひとつ貴重品を忘れた」と大火に物怖じすることなく廊下に飛び上がり梯子を駆け上がった。これに対し河野権右衛門は、領主への忠誠を示し栄叙に追うように館に突入し追従。しかし火の勢いは増すばかりで、窓から飛び降りるほか助かる道は無いと、2人は手を取り合い窓から飛び降りようとしたその時、屋根が焼け落ち屋根の下敷きとなった。他の家来が駆けつけた時には全身の火傷で重体であったという。翌7日、栄叙は45歳をもって死没。河野五右衛門も殉死した。五右衛門は死に伏すまで「殿は如何、殿は如何」と繰り返し、主人栄叙の容態を案じていたという¹⁴。
1861年(文久元年)、領主則忠は米良学問所正名場(せいめいじょう)を創設。名和桂之助を先生として招聘した。当初は同学問所を文武両道としていたが、更なる教育の充実のため学問所は不動院に移し、これを弘文館(教育の章で後述)と称した。正名場には、領内各地から多くの若者が武の修行を求めて集まった。元々、米良は武を重んじる文化があり、山や畑仕事をする傍ら、有事には武器を手に取り領主の御前に急行することができた。そのため、米良千軒総武士(すざむらい)と称されていた¹⁵。
幕末、尊王攘夷の機運が高まり領内の一体感が増し、米良領あげての討幕活動に繋がった。当時の領主則忠は、軍資金並びに鹿児島留学及び出京費用のため、どうにか資金を工面。1863年(文久3年)4月、軍資金の準備が整った則忠は、家来の甲斐右膳を出京させ、真木和泉・山田信道・土方久元等の紹介のもと、学習院参政所に願書を提出。当願書の三條卿の納受・上奏を経て、御内勅書を賜るに至った。尚、この御内勅書をめぐり相良藩による則忠への詰問がされ、最終的に則忠は人吉に幽閉された。また甲斐右膳父子に関しては幽閉されたのちに獄死した¹⁶‘¹⁷。紆余曲折しながらも、1868年(慶応4年)7月17日、勅許により米良から旧号の菊池に戻し、祖先の系図・先代の手書きを提出するよう指示を受けた。そして、1869年(明治2年)正月8日に次郎と改名し、菊池二郎藤原則忠と称し、辯事局に米良菊池の由緒書を提出した。尚、1870年(明治3年)に領地を奉還し、東京士族に列せられたものの邸宅なく、長年に渡る奔走により財産を使い果たしていたため、東京移住は叶わず上米良へ帰ることとなった¹⁸’¹⁹。
近代
廃藩置県が行われた1871年(明治4年)、小河谷村から小川村へ改称。『日向地誌』によると、小川字木浦は元々独立した1村だったが、同年に小河谷村と木浦村が合併し小川村になったとある。しかし、江戸時代の郷帳類で木浦が1村として独立していたようには見えないため、近世の頃から小河谷村に含まれていたとされている⁹。
年代 | 上位行政区 | 補足 |
1871年(明治4年) | 人吉県・八代県 | |
1872年(明治5年) | 美々津県 | |
1873年(明治6年) | 宮崎県 | 県は区画改正を行い、小川村は第3大区8小区に属す。(西米良村史 442-443) |
1876年(明治9年) | 鹿児島県 | |
1883年(明治16年) | 宮崎県 |
1883年(明治18年)11月、宮崎県は従来の諸駅を廃止し、小川並びに宮崎・田野・折生迫・広瀬・飫肥・都城・小林・高岡・高鍋・都農・美々津・延岡・細島・三田井・桑弓野の16駅を定めた。また、同月26日の駅伝営業取締規則が制定され、翌年3月1日に同規則が施行され各駅伝業者は組合を組織した²⁰。
1881年(明治14年)、郡役所より米良山中14ヵ村を合併し、それまでの戸長役場を撤廃し、中央に位置する小川村に総合庁舎を建設するよう達した。ただ、これは強制ではなかったためか、実現することはなかったという。この14ヵ村は藩政時代の米良領域にあたる小川・村所・銀鏡・八重・板谷・中尾・越野尾・上米良・尾八重・寒川・竹原・中之又・横野・上揚村であった。(西米良村史 484)尚、その2年後の1883年(明治16年)時点では、現在の西米良村にあたる小川・上米良・横野・村所・板谷・竹原・越野尾の各村が連合した小川村外六ヵ村戸長役場が小川地内に設けられていた。尚、同年に役場が焼失している⁹’²¹。 1889年(明治22年)の町村制施行に際し、村民からの反発があった。結果的に旧米良領は、西米良村(小川・村所・板谷・越野尾・上米良・竹原・横野村)・ 東米良村(銀鏡・上揚・八重・中尾・尾八重・中之又村)に分かれ、寒川村は三財村に属すようになった²²。
西南戦争による小川村全焼
1877年(明治10年)2月15日、西郷隆盛が鹿児島城下を出発し熊本へ向かい西南戦争の火蓋が切られた。また、米良家も西南戦争が勃発するや否や、米良隊を組織して参戦。米良1番隊は、熊本に進み伊集院隊に編入。そして西郷率いる薩軍は、同月21日には熊本城下に入り熊本鎮台を包囲した。しかし、思うように攻略することができず、4月14日には熊本城から兵を引き揚げることとなった。その後、薩軍は人吉に入り抵抗し続けたものの、6月1日に陣を置いていた人吉城が陥落し、宮崎へ退却するに至った。薩軍はいくつかに分かれて退却し、その一部が江代から米良山中の八ノ重村に退いて、上米良・板谷・木浦(小川村)に防塁を築き、防衛にあたった。その後、官軍が大軍を送り込み西ノ八重・板谷を襲撃し、薩軍は後退を迫られ、小川・横野・銀鏡を拠点にした。7月12日に村所を占領した官軍は、小川に集結した薩軍を陥すため、天包山に10余の塁を築き2中隊を配備。こうして、熊本城・田原坂攻防戦に次ぐ激戦「天包山の戦い」の幕が切って落とされた。薩軍の小牧秀発の日誌によると、13日午前9時に小川に達した際、村民は戦を避けて山中に息を潜め薩軍の侵入を見守っていたという。薩軍もただ防戦に徹した訳でなく、7月22日に官軍の防衛ラインを突破する反撃を見せ、この戦いで両軍いくらかの死傷者を出した。しかし、薩軍は弾薬が続かず小川に退却。追撃する官軍の猛攻に対し、薩軍は夜まで防戦したが守りきれず、煙で巻くため小川に火を放ち越野尾に退いた。同日夜に小川を占領した官軍もまた、薩軍の帰陣を防ぐため小川村全村を焼失させた²³’²⁴’²⁵。地元民の話によると、横野の伝長小屋で解散した米良隊は尾又へ逃げ隠れたという。その途中、官軍に咎められたものの、薩軍の腕章を取っていたため難を逃れたとも伝わる²⁶。
1886年(明治19年)12月2日、登記所の位置・管轄区域が定められ、東米良村銀鏡に登記事務所が開設され、小川はここの管内に属した。さらに、1888年(明治21年)10月19日、治安裁判所位置・管轄区位置が定められると、小川出張所に改称された。しかし、1890年(明治23年)8月21日、小川出張所が廃止されて妻町出張所が設置された²⁷。
明治初期から宮崎県では茶業が輸出産業として奨励されていた。しかし、輸出量が増えるにつれ粗悪品が目立つようになった。それに対し、1887年(明治20年)、政府は産業組合規則を交付し組合設立を強制。また県も改良と集荷統制のため、各生産区域ごとに組合を設立するよう指導²⁸。1895年(明治28年)には、小川・村所村の2箇所で組合製茶所が開設された。小川製造所の担当者は砂浜吾田彦で、7名余りの伝習生と共に、4月28日頃から5月17日までの製造過程で400斤を得た²⁹。
小川郵便局
1873年(明治6年)3月、宮崎郵便局の開局を皮切りに米良地方では、佐土原・高鍋・美々津・延岡・都城・飫肥と次々に郵便局が設置された。そして、1874年(明治7年)12月16日、日向国小川郵便局(3等局)として大字小川字囲863番地に開設された。さらに1874年(明治7年)12月28日、県内支道郵便線路が設けられている。『宮崎県政八十年史』によると、1874年(明治7年)12月28日に広瀬-米良小川に月9回、2・5・8の日遁送が開始されたという。また、1880年(明治13年)1月5日の鹿児島県による改正で、毎月偶数の日に宮崎-人吉間の遁送が始まったという³⁰。 当時、郵便道路は穂北の尾泊局から銀鏡・小川・村所を通り熊本県の湯之前局に通ずる道路であった。小川局に至るには棚倉峠を越す必要であった。尚、小川局以前の銀鏡局に至るまでの道のりも容易ではなく、尾泊局から坂道を下って米良川の黒瀬でイカダで川を渡り、的場-二軒橋-八重を経てようやく銀鏡局に着く。小川郵便局の配達区域は、小川(木浦まで)・越野尾(児原、サレ、下相見)・横野(川ノ口まで)であった。銀鏡-小川間同様に、小川局から村所局に至るまでに天包山を越す必要があった³¹。 1907年(明治40年)10月に大字小川字沢水206番地に移転し、1911年(明治44年)12月1日には米良小川郵便局に改められた。しかし、1920年(大正9年)4月1日、大字越野尾に移転して越野尾郵便局となり、事実上、小川郵便局は廃止された³²。これは、県道(国道)ができたことにより、同道を郵便道路としたためだという。1882年(明治15年)から大正9年頃までは、上穂北-尾泊-尾八重-小川-村所の山通りを人夫で遁送であったが、越野尾局が開設された1920年(大正9年)からは自転車での運送に変わっていることからも、道路の整備が進んでいたことが窺える。尚、自動車での運送が始まったのは1928年(昭和3年)9月8日から³³。
現代
1960年(昭和35年)、一ツ瀬ダム建設工事が着手され、1963年(昭和38年)に着工。1963年(昭和38年)3月9日九州電力管財課調べの水没世帯部落別明細によると、当ダム建設に伴い、小川の5軒・60坪が水没した³⁴’³⁵。
1967年(昭和42年)、小川小学校・地区民の共同で小川城跡に小川民俗資料館を開設。ここで、西南戦争で使用された火縄銃・菊池家の手鏡・江戸期の各種史料・用具などが展示されるようになった。また1974年(昭和49年)、小川小学校に小川城跡・米良文教発祥の地の顕彰碑が建立された⁹。
1936年(昭和11年)9月14日、西米良村農業共同組合が設立。創立当時の小川部落の加入人員は8名で口数は11口だった。当時の購買品はゴム足袋・学生服・石油・石鹸類・肥料・そうめん・傘・家庭薬で、販売品は椎茸やコンニャク、栗。その後、1944年(昭和19年)3月11日、農業団体法第89条により西米良村農業界設立総会を開催。1948年(昭和23年)3月13日には、西米良村農業会の解散総会が催され、同年5月19日、西米良村農業協同組合として再発足。7月14日時点で小川部落の95名が出資(口数148)し、総出資額は14,800円に上った。一時、西米良農協は赤字経営が続き存続が危ぶまれたが、農協再建が西米良村財政に繋がると重要視され、1954年(昭和29年)の村会で村有林を売却し、農協へ助成金300万円・預託金200万円を援助することが決定。これにより、信連の債務の80%を返済することができた。そして、1959年(昭和34年)5月21日、総会にて利益金603,000円を挙げるまでに至った。昭和30年度末の小川部落の組合員数は94人に上り、加入口数は463口だった³⁶。
地内を流れる小川川や本流の一ツ瀬川は、淡水魚に恵まれ鮎やイダ(ウグイ)などが村民により漁獲されていた。そのため、1953年(昭和28年)には西米良村漁業協同組合が設立され、その頃の小川部落の組合員数は26名だった。また小川川の推定漁獲量(昭和33年度)は、鮎1081kg・イダ216kg・その他179kg。尚、小川川で漁獲する組合員数も26人のため、同川で獲っていたのは小川部落民のみだったと考えられる。このように川で獲れる水産物が小川の人々にとって重要な資源だった。しかし、1941年(昭和16年)以降続いた発電所の建設や河川の荒廃により、自然遡上と繁殖が激減し、漁獲量は年々減少。そのため、鮎や鰻は放流以外に繁殖・漁獲は望めなく、昭和33年度には鮎や鰻など計400,400尾を放流している³⁷。
1967年(昭和42年)3月10日に西米良村立病院の小川出張診療所が竣工し、同年8月より診療を開始した³⁸。
1969年(昭和44年)、小川生活改善センターが完成。
神社仏閣・名所
米良神社(市之宮磐永姫命)
米良神社は、明治時代に入り米良神社と改めら、郷社に列せられた神社。米良の起こりの節で前述した、大山祇命及び御長女磐永姫命を祀る。由緒は詳らかでないが、『ふるさとの記米良の荘』では、1703年(元禄16年)5月7日に当地方を大洪水が襲った頃、社殿が水に浮き川上に漂った後、現在の位置に鎮座するようになったと云う。また、この時に社殿に保管してあった御神体の姫の遺髪が流失したともいう。1705年(宝永2年)、破損した社殿が建立された。現代に至っても、小川村民は藩政時代からの例祭(12月9日)を催し、神楽も奉納していたという。米良神社の左右に眞那井田があり、さらに西方に数町行った処に石神田があり、それぞれ「姫の神田」だと伝わっている³⁹。
西福寺
西福寺は、1560年(永禄3年)、領主米良重治によって小川西方の沢水(そうず)に建立された菩提寺。ここには領主の墓碑をはじめ、関ヶ原の戦いで西軍に加わり流浪した後の一頓坊横瀬藤兵衛尉こと神門の城主米良四郎右衛門重倍、近世の節で前述した大火の中に身を投じ殉死した甲斐右衛門など重臣の墓も立ち並んだ。西福寺は、後述の不動院とともに、明治初年の廃仏毀釈の影響を受け廃寺⁴⁰。
不動院
不動院は、第8代米良領主重隆の二男秀精の開山で、小川城内東端に建立された菩提寺。米良一族並びに家臣の墓地として管理供養されていた¹⁸。
修験
むかし、当地方の市房権現・天包権現・龍房権現などの著名な山は修験者の修行の霊山として使用されていたという。その名残として、小川烏帽子岳(標高1125.7m)の一角には、修験者が利用したと推測される霊場が残るという⁴²。
教育
弘文館
明治政府による学制頒布以前、米良領主菊池忠は1869年(明治2年)に小川村の不動院跡に藩校弘文館を創立。しかし、1871年(明治4年)の廃藩置県に伴い、忠は鹿児島へ転住することになってしまった。それでも、近代化により人民の教育の重要性が増すことを見込んだ忠は、鹿児島藩士大河平隆綱を米良に派遣し旧領民の教育を継続し。学校には領内の生徒約100人が入学したという⁴³。 尚、『ふるさとの記米良の荘』によると、1861年(文久元年)創設の学問所正名場が後に文武を分け、弘文館を不動院に設けたとしている。さらに、1866年(慶応2年)に鹿児島から坂本六郎を招き、典医の林武揚に教育を依託し、菊池助右衛門も招聘。1869年(明治2年)には鹿児島から大河平勝を聘したという⁴⁴。
小川小学校
1872年(明治5年)の学制令公布により、弘文館は米良小学に改称⁴³。1876年(明治9年)には、下等小学(4年)・上等小学(4年)の計8年制となる米良小学校が開設され、尾八重に支校を置かれた。当時、米良小学校は第25中学区に属し、准四等訓導米良重任・砂浜重厚が務めていた。また同時期には小学校教員の養成を兼ねた中等教育機関「県立宮崎学校」が開設され、ここに小川の甲斐盛雄・銀鏡義久・菊池重道が入学したという⁴⁵。
1877年(明治10年)7月23日、西南戦争により校舎が全焼したため、同年10月に元陣屋の倉庫で授業が行われた。1880年(明治13年)、旧米良戸長役場跡に小川小学を設けたが、1883年(明治16年)に校舎が焼失。1884年(明治17年)、民家を借用し再び開校。1888年(明治21年)に校舎が新築され、1890年(明治23年)10月、小川尋常小学校に改められた⁴⁶。
この頃になると、西米良村内でも各部落で小学校が開設され、生徒数も村所小学の方が多くなっていった。1885年(明治18年)5月27日時点で小川小学の生徒数176名・教員2名に対し、村所小学は生徒数269名・教員数4名と大きな差が開いていた。また、1898年(明治31年)時点では西米良村で6つの尋常小学校が開設されており、生徒が分散したため、小川尋常小学校は生徒数46名・教員数1名となっている。これは村所校(生徒数78)に次ぐ2番目の規模であるが、上米良校(生徒数40)・板谷校(生徒数39名)も小川校と同程度に成長していた⁴⁷。
1912年(大正元年)、前述の弘文館を開いた旧領主菊池忠の孫、当時陸軍少佐(最終階級:陸軍中将)の菊池武夫が小川小学校で演説をした。
明治時代前半の小川小学校(小学)の教員は以下の通り⁴⁸。
年代 | 教員氏名 |
1873年(明治6年)12月 | 秋丸節、海老原武 |
1875年(明治8年) | 菊池武揚、菊池重任、那須精忠、黒木新三郎、田爪耕一、佐藤秀之 |
1877年(明治10年) | 砂浜重厚、那須宗可、米良武揚、米良重任、中武正太郎、富山武三郎、
那須宗信、米良宗斉 |
1885年(明治18年) | 那須可宗、菊池重道(上記の米良武揚の息子) |
近代の様子
小川尋常小学校の卒業生で、1913年(大正2年)から1917年(大正6年)まで当校の校長を務めた菊池宗雄の手記から当時の様子がうかがえる。 宗雄が小川尋常小学校に入学したのは1898年(明治31年)。この頃は毎年、明治天皇誕生日の11月3日に西米良村6校による連合運動会が村所で盛大に催されていた。小川校に通っていた宗雄にとって運動会は、天包山を越えて村所に向かうため、外国に行くような気分で楽しみだったという。ただ、彼は運動会自体は嫌いだった。さらに宗雄が高等2年生の時は、東米良学校合同の大運動会が銀鏡で行われた。 西米良村東部の3村(小川・横野・越野尾)の先生は、度々生徒を連れ他校へ赴いたという。そして、先生同士は必ず炊事室で焼酎呑みをい始め、生徒はそれを尻目に他校の生徒と遊んだ。生徒をほったらかし酒飲みを始めるのは、当時は当たり前だったため親も生徒も問題視せず、むしろ他所の先生や生徒でも、自分の先生・同級生という感覚だったという。
1926年(大正15年)4月20日に青年訓練所令が公布されると、村所小学校内に西米良青年訓練所が置かれた。横野・村所・竹原・上米良・板谷部落が村所本校でに集う一方、小川と越野尾は両校で交互に開設された⁴⁹。1941年(昭和16年)4月、小川国民学校に改称するが、戦後の1947年(昭和22年)5月に小川小学校に改められ、同時に西米良中学校小川分校が併設された。また、1970年(昭和45年)には同中学校小川分校が本校となり、小川中学校誕生。1972年(昭和47年)5月1日時点の小川小学校の生徒数は46名で同中学校生徒数は28名⁵⁰。1989年(平成元年)4月1日、小川小中学校が閉校。藩校弘文館の時代から数えて120年の歴史に幕を閉じた⁹’⁵¹。
運動場の一角には、幕末から明治にかけて米良の教育に貢献した林武揚こと菊池武揚の碑「菊池竹雲先生碑」が建立されている¹⁸。
小川小学校の生徒数推移
年月 | 生徒数 |
1885年(明治18年) | 176人 |
1898年(明治31年) | 46人 |
1909年(明治42年) | 55人 |
1972年(昭和47年) | 46人 |
交通
1931年(昭和6年)以前まで、板谷が東で接する村所から西の県境までの約3里(約11.7km)が未開発だった。これが林産物輸送の障害となっていたため、同年に妻(西都市)ー人吉間工事が着工された。1937年(昭和12年)になると、県は妻-湯前間の省営バス(国鉄バスの前身)の運行を計画。さらに、1942年(昭和17年)6月17日、西米良村長児玉金元は湯前町長に対し、湯前-村所間の省営バス運行の運動を始めた。その後、人吉方面の各町村長の同意を得て、1944年(昭和19年)12月1日、妻-湯前間の省営トラックが運転されるようになった。戦後、1946年(昭和21年)6月1日に村所-湯前間、同年11月1には妻-湯前間の国鉄バスが開通。1957年(昭和32年)1月25日から越野尾-小川橋間、1960年(昭和35年)6月1日からは小川橋-仲入間を走る支線小川線が開通⁵²。
1971年(昭和46年)7月1日に作成された肥後線図によると、越野尾-小川橋間のバス停は、越野尾-仁久保-久保-永江-出穴-鈴原-流合-米良下原-小川公民館前-小川橋。また、小川橋-仲入間は小川橋-沢永-坊主荘-松原-網掛-麻薮谷-鳥居ノ元-古屋敷-折立-入閣屋-提原-吐ノ谷-仲入だった⁵³。
西米良村の幹線路線として、国道291号線・国道265線・県道小川-越野尾線が挙げられている⁵⁴。
人物
砂浜 重雄
砂浜重雄(すなはま しげお)は、小川出身の江戸時代末期から近代にかけての米良の要人。「八月十八日の政変」時に領主則忠・甲斐重教・秀一郎など米良の要人が上京中、砂浜重雄・重倫が領内の枢機を預かった。また1873年(明治6年)に米良副戸長に就いた後、西南戦争の頃は米良戸長を務めた。1896年(明治29年)4月7日、76歳で没す。尚、重雄の嫡男砂浜重厚は、1889年(明治22年)8月に西米良村初代村長に就任している⁵⁵。
土持 耕一郎
土持耕一郎(つちもち こういちろう)は、小川出身の元村会議員。1910年(明治43年)に区長代理に就いた後、1917年(大正6年)から1942年(昭和17年)まで連続で村会議員を務めた。議員として村の発展に寄与する傍ら、植林にも尽力し30万本の杉を植林。また小川地区へのトラック道路建設のため、菊池宗雄とともに寝る間も惜しんで宮崎県・日発会社と交渉し道路開発を実現した。その他、小川部落への点灯や農地改革にも寄与。1953年(昭和28年)12月27日死没。享年71歳。1960年(昭和35年)、こうした耕一郎の功績が讃えられ、部落で顕彰碑が建立された⁵⁶。
菊池 宗雄
菊池宗雄(きくち むねお)は、小川出身の教諭・研究者。那須重信の子として誕生した宗雄であったが、後に菊池勲の養子となり、旧尾八重領主米良重央の跡を継いだ。1910年(明治43年)3月に宮崎師範を卒業後は、1913年(大正2年)から1917年(大正6年)まで地元小川小学校に勤務。28歳に上京し、幡代小学校(現:東京都渋谷区)で務める傍ら、夜間は日本大学高等師範部で倫理・法制・経済を学んだ。1920年(大正9年)を同大学を卒業後、品川工業学校・府立第八高等女学校(現:都立八潮高校)を歴任。56歳で退職し帰郷後、1941年(昭和16年)から1943年(昭和18年)まで宮崎県教育会主事を務めた。前記の土持耕一郎とともに小川のトラック道路建設に尽力する一方、1943年(昭和18年)から1945年(昭和20年)まで宮崎実践女子商業(現:宮崎学園)の教鞭を執った。終戦後は地元小川部落に身を捧げ、米良神社本殿の造営・電灯架設・土地の買い戻しなど、土持耕一郎と奔走した。さらに没するまでの約30年間、米良の研究に尽力し多くの成果を随時発表。西米良村史編さん委員も務め、小学校の思い出・方言などの収録に貢献した。1973年(昭和48年)1月9年、83の齢で天寿を全うした⁵⁶。
脚注
出典
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会.角川日本地名大辞典 45 (宮崎県) .角川書店,1986,p.193.
- 西米良村史編さん委員会.西米良村史.西米良村,1973,p.562.
- 西米良村史編さん委員会.西米良村史.西米良村,1973,p.21-24.
- 中武雅周.ふるさとの記米良の荘.中武雅周,1983,p.189.
- 中武雅周.ふるさとの記米良の荘.中武雅周,1983,p.217.
- 西米良村史編さん委員会.西米良村史.西米良村,1973,p.西米良村史 179.
- 中武雅周.ふるさとの記米良の荘.中武雅周,1983,p.195-199.
- 西米良村史編さん委員会.西米良村史.西米良村,1973,p.164-165.
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会.角川日本地名大辞典 45 (宮崎県) .角川書店,1986,p.194.
- 中武雅周.ふるさとの記米良の荘.中武雅周,1983,p.190.
- 西米良村史編さん委員会.西米良村史.西米良村,1973,p.286-287.
- 西米良村史編さん委員会.西米良村史.西米良村,1973,p.277.
- 西米良村史編さん委員会.西米良村史.西米良村,1973,p.206-207.
- 西米良村史編さん委員会.西米良村史.西米良村,1973,p.230.
- 中武雅周.ふるさとの記米良の荘.中武雅周,1983,p.192-193.
- 宮崎県教育委員会文化財課.”甲斐右膳父子墓 “.宮崎県教育庁文化財課,https://www.miyazaki-archive.jp/d-museum/mch/details/view/1974,(参照 2023-12-22).
- 中武雅周.ふるさとの記米良の荘.中武雅周,1983,p.191-192.
- 中武雅周.ふるさとの記米良の荘.中武雅周,1983,p.203.
- 西米良村史編さん委員会.西米良村史.西米良村,1973,p.139-143.
- 西米良村史編さん委員会.西米良村史.西米良村,1973,p.598.
- 西米良村史編さん委員会.西米良村史.西米良村,1973,p.602.
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- 西米良村史編さん委員会.西米良村史.西米良村,1973,p.646.
- 西都市史編さん委員会・西都市史編集委員会.西都市史 通史編 下巻.西都市,2016,p.81-83.
- 西米良村史編さん委員会.西米良村史.西米良村,1973,p.529.
- 西米良村史編さん委員会.西米良村史.西米良村,1973,p.624-625,p.631.
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- 西米良村史編さん委員会.西米良村史.西米良村,1973,p.631.
- 西米良村史編さん委員会.西米良村史.西米良村,1973,p.625,p.632.
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- 一般財団法人日本ダム協会.“一ツ瀬ダム [宮崎県](ひとつせ)”.ダム便覧.http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=2829,(参照 2023-12-22)
- 西米良村史編さん委員会.西米良村史.西米良村,1973,p.573-576.
- 西米良村史編さん委員会.西米良村史.西米良村,1973,p.593.
- 西米良村史編さん委員会.西米良村史.西米良村,1973,p.639.
- 中武雅周.ふるさとの記米良の荘.中武雅周,1983,p.215-216.
- 中武雅周.ふるさとの記米良の荘.中武雅周,1983,p.204-205.
- 中武雅周.ふるさとの記米良の荘.中武雅周,1983,p.203.
- 中武雅周.ふるさとの記米良の荘.中武雅周,1983,p.218.
- 西米良村史編さん委員会.西米良村史.西米良村,1973,p.739.
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- 西米良村史編さん委員会.西米良村史.西米良村,1973,p.742,p.778.
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- 西米良村史編さん委員会.西米良村史.西米良村,1973,p.599-560.
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- 西米良村史編さん委員会.西米良村史.西米良村,1973,p.615.
- 西米良村史編さん委員会.西米良村史.西米良村,1973,p.729.
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参考文献
タイトル | 著者・編集者・編纂者 | 出版社 | 出版年 | ページ数 | 資料の種別 | URL(国会図書館サーチなど) | 所蔵図書館・利用図書館 | 集落記事 | Tags | 注記 |
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「角川日本地名大辞典」編纂委員会 | 角川書店 | 1986 | 1130 | 図書 | 中尾小川板谷 | |||||
西都市史編さん委員会, 西都市史編集委員会 | 西都市 | 2016 | 705 | 図書 | 中尾小川 | |||||
中武雅周 | 中武雅周 | 1983 | 324 | 図書 | 中尾小川 | |||||
西米良村史編さん委員会 | 西米良村 | 1973 | 1162 | デジタルコレクション | 小川板谷 |