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沖浦(おきうら)は、青森県黒石市の大字。地内には浅瀬石川支流青荷川が流れる。中世には厚目内館が存在し、近世には黒石町との関連が深く、幕藩時代には山形通の支配下にあった。1705年(宝永2年)の越訴事件や炭焼き産業もこの地域の特徴といえる。沖浦はまた、黒石街道・山形街道を通る重要な交通の要所であった。明治時代には青森県第2大区5小区に分類され、1954年には黒石市の一部となった。
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地理
沖浦は、浅瀬石川及び虹の湖の東方に位置し、浅瀬石川支流青荷川が地内を通っている。青荷を含む浅瀬川沿いの温泉地は、山形温泉郷(現:黒石温泉郷)と称されていた¹。
歴史
中世
黒石市域の中世の城館の1つに沖浦の厚目内館が挙げられており、黒石城や浅瀬石城など他の中世城館とを結ぶ道があったと考えられている²。
近世
幕藩時代、武士の次位に置かれていた農民。彼らが暮らす農民地帯を「在方」、城下や港などを「町方」と呼んでいた。また当地方では、黒石町に近い地域を「近在」「黒石在」と称していた。1739年(元文4年)、「黒石在」にあった村々は「上通」と「山形通」に割り振られ、沖浦村は山形通の支配下に置かれた³。
1684年(貞享4年)6月16日、大雨・大風により大洪水が発生し、沖浦村の川原地にあった湯小屋が流失した⁴。
1689年(元禄2年)の『黒石平内巳年郷帳』によると沖浦村の石高は屋敷の2.1石のみだった。しかし、1694年(元禄7年)の『黒石平内戊年郷帳』では72.8石に増加している⁵。
越訴事件
1705年(宝永2年)11月、黒石陣屋支配下にあった黒石・山形領分20ヵ村が、陣屋の取り扱いに不満があるとし、宗藩(大元・上位の藩を指す)の弘前藩に代表を送る「越訴」を断行。同月11日に黒石・株梗ノ木・飛内・下目内沢・石名坂・温湯村の庄屋が弘前に赴き、既述の6ヶ村と沖浦などの14ヵ村を合わせた20ヵ村の総意とし、各村の肝煎(庄屋)の連判がある願書を、大目付牧野伴右衛門・足立源右衛門に提出。これに対し弘前藩は、用人大湯五左衛門が対応を担当し、翌日12日に黒石の大目付等役人14人を大湯宅に呼び寄せ、願書を基に百姓代表から事情を聴取。また、越訴の代表者たちは江戸幕府への直訴もほのめかしたと云う。越訴を行った庄屋達は、尋問を終えた後は黒石の役人に黒石陣屋に連行され、禁止されていた越訴と徒党の首謀者として、後に入牢または村預かりとなったと推測されている。同月20日には弘前藩の大湯五左衛門と黒石藩の大目付松村助右衛門などの役人と話し合いが行われ、黒石藩側が行っていた厳しい取り締まりの宗藩の同意が得れることを願い、弘前側も用人がこれに寄り合い了承し、家老に伝えた。現存の史料ではここまでの記録しか確認されていないため、最終的な越訴の結果や越訴の代表者の処分は詳らかとなっていない⁶。
1798年(寛政10年)3月から9月にかけて、菅江真澄は当地方を訪れ沖浦で下記の句読んでいる⁷。
山なみの たちもへたてて 沖浦に ふな木こるらん もみち落り来は
『千葉文書』の『公私用書類綴』1862年(文久2年)の「炭窯願」によると、当時沖浦村でも炭焼きが行われ、炭窯が2つあった⁸。
黒石・山形街道と沖浦村道
黒石街道・山形街道は、弘前から尾上・黒石を経て葛川に至る街道で、途中沖浦村を通過していた。また、黒石-蛾虫坂から先を「奥山形」と呼んでいた。元禄年間(1688-1703)の『黒石絵図』によると、黒石から沖浦を経て葛川新田に至る道筋は「黒石-牡丹平-小喰野-下山形-上山形-温湯-がむし(蛾虫)-板留-尻高-下二庄内-沖浦-一野渡-葛川新田」の順。尚、がむしから先は板留と不動館に分かれている⁹。 1684年(貞享元年)、下和徳村(現:弘前市)が東に移転され、弘前から黒石方面への道の付け替えが行われた。その後、1694年(元禄7年)の『道程之図』では、和徳追分を起点とする道を「沖浦村道」と記してある。浅瀬石川右岸を通る黒石街道に対し、左岸を通る沖浦村道は弘前領内にあった。1812年(文化9年)には、弘前藩郡奉行から各村へ沖浦村道を通る参詣者の火縄禁止の立て札を出すことが命じられている¹⁰。
近代
1873年(明治6年)3月、青森県は県下を10大区72小区に分画。沖浦は第2大区(黒石)5小区に属した¹¹。1889年(明治22年)4月1日の市制町村制施行により、沖浦村などの13ヵ村が合併し山形村が誕生。さらに、1954年(昭和29年)、黒石町・山形村・六郷村・中郷村・浅瀬石村が合併し黒石市が成立。以降、沖浦は黒石市に属すこととなった¹²。
近代に入り明治政府が郵便事業を開始。青森県では1872年(明治5年)から始まり、黒石では1874年(明治7年)に上町角の鈴木食堂に郵便取扱所が置かれ、翌年郵便局に改められた。そして月日がだいぶ経過した1938年(昭和13年)、沖浦郵便局が開設。しかしダム建設に伴い水没するため、1977(昭和52年)に浜町郵便局となっている¹³。
現代
1945年(昭和20年)、治水・灌漑・発電を目的とした沖浦ダムが完成。着工は1934年(昭和9年)で、日本で最も早く着工された多目的ダムだった。尚、完成は山口県周南市の向道ダムのほうが早かった¹⁴。
1958年(昭和33年)、虹の湖を含む浅瀬石渓流と温泉郷一帯が、黒石温泉郷県立公園(現:県立自然公園)に指定された¹⁵。
太平洋戦争前後に建設された沖浦ダムであったが、高度経済成長に伴う道路開発や山林の伐採により、治水機能が不足するようになった。そのため、1988年(昭和63年)10月、約3km下流に新たに浅瀬石川ダムが建設された。これに伴い、新たに虹の湖が誕生したため現在の虹の湖は2代目にあたる。ダム建設により沖浦ダム及び沖浦集落は水没し、集落近くには「古里の碑」が建立された。水没したダムと集落であるが、渇水期には国道102号や旧青荷橋とともに姿をみせるという¹⁵。
名所・神社仏閣
沖浦ダム
沖浦ダムは、日本一早く着工された多目的ダム。1916年(大正5年)10月1日の河川法施行により、浅瀬石川が合流する岩木川の直轄工事が1918年(大正7年)から実施されるようになり、治水事業として河川の整理や堤防の増改築が行われていた。その後、1932年(昭和7年)の大洪水において浅瀬石川の増水量が著しかったことから、内務省土木局前川技術課長に上流に沖浦ダムを建設することを勧められ、翌年には実測や買収などの調査が始まった。1934年(昭和9年)に着工。これは日本の多目的ダムの中で最も早いことだった。しかし、太平洋戦争により工事が長引き、1945年(昭和20年)6月にようやく竣工に至ったため、完成した年月は日本一ではなかった。また、上流に位置した一ノ渡集落の説得に失敗したため、当初の計画より約1m低く建設された¹⁶。
虹の湖
虹の湖(にじのこ)は、戦前後の沖浦ダム建設に伴い造られたダム湖。名前の由来は、付近にあった「藤の湖(大穴貯水池)」を超す規模、十和田道沿いにあったためとさおり、一説では作家・秋田雨雀の命名ともいう。また、京都府の由良川にある大野ダムにも同じ字の「虹の湖(にじのみずうみ)」がある。沖浦ダム建設当時は観光事業の一角として期待されていたが、誘客施設の整備が進んでいなかったため、あまり利用されなかった。そして、1988年(昭和63年)に完成した浅瀬石川ダムに吸収され、2代目にあたる現在の「虹の湖」にいたる¹⁷。
青荷渓谷
青荷渓谷は地内を通る青荷川の沿いの渓谷で、青砥の流れ・御影の流れ・天峡の流れ・青荷大滝・八荒の流れなどがある。昭和初期に青荷温泉とともに世間に認知されるようになった³。
十方堂
十方堂は、地内の字青荷沢滝の上1-7に位置する日蓮上人像を本尊とした堂。1931年(昭和6年)、日蓮を夢見た歌人丹波洋岳が遠光寺21世日東の教示を受けて、白戸藤次郎らの援助を受けて建立した。そのため9月10日に行われる十方堂祭などの宗教行事は遠光寺が行っている。また青荷温泉株式会社がここを管理している¹⁹。
鬼子母神堂
鬼子母神堂は、字青荷沢32(厚目内)に位置する鬼子母神を本尊とする堂。1948年(昭和23年)、富谷甚助・ツエにより開創された。6月18日に鬼子母尊神祭が催され、十方堂同様、宗教行事は遠光寺が取り仕切っている。管理者は厚目内の富谷鉄郎²⁰。
教育
沖浦小・中学校
1879年(明治12年)3月10日、沖浦小学が旧山形村大字沖浦村下31の佐藤亀之助宅の小屋を教場とし開校。1888年(明治21年)4月の戸長集会で決定した各小学校生徒の運動会挙行手続に「沖浦小学校」の名前が挙がっていることから、この頃には運動会が催されていたと推測されている。1910年(明治43年)3月9日、校舎が新築された。大正末の県全体の出席率は、男子97.2%・女子95.1%だった。一方、昭和3〜7年度の沖浦分教場の男子出席率は約98%と県平均を上回っていた。ただ、女子の出席率は昭和3〜6年度で94%から98%の間を彷徨い、昭和7年度に至っては78.29%に急落した。このような出席率の低下は、他の山形村の小学校分教場のなかでも沖浦分教場女子のみに限られ、おそらく凶作が影響したとみられている。また、同期間中の児童数の増加率が約150%と沖浦分教場はとりわけ高かった。
年度(昭和) | 児童数 | 男子出席率(%) | 女子出席率(%) |
3 | 70 | 97.70 | 98.03 |
4 | 85 | 99.29 | 96.29 |
5 | 86 | 99.14 | 94.91 |
6 | 87 | 98.53 | 95.11 |
7 | 106 | 97.12 | 78.29 |
1949年(昭和24年)4月1日、それまでの山形村立東英小学校の沖浦分教場が沖浦小学校に改められた。また生徒が増えたため、工費110万円で校舎の増改築を行うことが同年8月25日の村会で可決している。1951年(昭和26年)4月1日、字沖浦村上12番地1号に山形第一中学校沖浦分校が設置された。さらに、1954年(昭和29年)には独立した沖浦中学校となった。また同年には、東英小学校の支校だった厚目内分教場が、沖浦小中学校の厚目内分校と改められた。尚、翌年には独立して厚目内分小中学校となっている。1977年(昭和52年)3月31日、浅瀬石川ダム建設で学区が水没することになり、近代初期の沖浦小学から続いた約98年の歴史に幕を閉じた²¹。
厚目内小・中学校
1947年(昭和22年)4月1日、厚目内集会所に山形村立東英小学校厚目内分教場が設置され、寺子屋式授業が行われた。 また翌年11月5日には新校舎へ移った。尚、新校舎は厚目内開拓農業協同組合が建設している。さらに同年4月に大字沖浦字青荷沢1番地ノ1に山形第一中学校厚目分校が小学校分教室に併置された。学区だった厚目内は、戦時中食糧増産対策として旧山形村が開墾に着手した場所だった。しかし、終戦により当初の計画は中止となり、国の緊急開拓奨励策で海外引揚者が入植することとなった。1951年(昭和26年)11月5日、中学校も新校舎が建てられ移転。その後、一時沖浦小中学校の分校になったが、黒石市が誕生した翌年の1955年(昭和30年)4月1日には黒石市立厚目内小・中学校として独立した²²。
農業補修学校沖浦分校
1917年(大正6年)8月30日の村会で、山形村立農業補習学校の付設が教員手当20円を計上したことで決定。また東英校の支校として沖浦分校が置かれ、大正9年度の沖浦の在籍数は21名だった²³。
文化
温泉
沖浦村が属していた旧山形村域は古くから温泉郷として知られていた。1691年(元禄4年)の『黒石御絵図』には「沖浦 出湯あり」と記されており、この頃既に温泉があったことが推測できる。沖浦部落は高地に位置する一方、湯坪は河岸の下あったため出水のたびに流失したという²⁴。
1927年(昭和2年)、沖浦に浴場が2ヵ所新しく建てられた。当時は宿屋などはなく、1932年(昭和7年)に沖浦ダムが着工し、ようやく旅館が開業した²⁵。
地内の青荷には古くから露天風呂があったといわれる。大正末期、歌人・丹羽岳が住み着くと浴場や客室が建てられた。それ以降、仙境の温泉・ランプの湯宿として名が知られるようになった²⁵。整備される前はヘビ類が泳ぐぬるま湯だったという²⁷。
脚注
出典
- 中園裕.青森県昭和の町と村.デーリー東北新聞社,2020,p.140.
- 黒石市史編集委員会・黒石市史編さん委員会.黒石市史 通史編 1.黒石市,1987,p.183.
- 黒石市史編集委員会・黒石市史編さん委員会.黒石市史 通史編 1.黒石市,1987,p.446.
- 黒石市史編集委員会・黒石市史編さん委員会.黒石市史 通史編 1.黒石市,1987,p.544.
- 黒石市史編集委員会・黒石市史編さん委員会.黒石市史 通史編 1.黒石市,1987,p.66-68.
- 黒石市史編集委員会・黒石市史編さん委員会.黒石市史 通史編 1.黒石市,1987,p.565-568.
- 黒石市史編集委員会・黒石市史編さん委員会.黒石市史 通史編 2.黒石市,1988,p.33-35.
- 黒石市史編集委員会・黒石市史編さん委員会.黒石市史 通史編 1.黒石市,1987,p.100.
- 黒石市史編集委員会・黒石市史編さん委員会.黒石市史 通史編 1.黒石市,1987,p.191-192.
- 黒石市史編集委員会・黒石市史編さん委員会.黒石市史 通史編 1.黒石市,1987,p.192-193.
- 黒石市史編集委員会・黒石市史編さん委員会.黒石市史 通史編 2.黒石市,1988,p.26.
- 中園裕.青森県昭和の町と村.デーリー東北新聞社,2020,p.141.
- 黒石市史編集委員会・黒石市史編さん委員会.黒石市史 通史編 2.黒石市,1988,p.467.
- 中園裕.青森県昭和の町と村.デーリー東北新聞社,2020,p.140.
- 中園裕.青森県昭和の町と村.デーリー東北新聞社,2020,p.141.
- 黒石市史編集委員会・黒石市史編さん委員会.黒石市史 通史編 2.黒石市,1988,p.290-291,p.446.
- 国土交通省 東北地方整備局 岩木川ダム統合管理事務所.“虹の湖について”.国土交通省 東北地方整備局,https://www.thr.mlit.go.jp/iwakito/lake_use/nijinoko_use.html,(参照 2023-12-26).
- 黒石市史編集委員会・黒石市史編さん委員会.黒石市史 通史編 2.黒石市,1988,p.446.
- 黒石市史編集委員会・黒石市史編さん委員会.黒石市史 資料編 1.黒石市,1985,p.12.
- 黒石市史編集委員会・黒石市史編さん委員会.黒石市史 資料編 1.黒石市,1985,p.12-13.
- 黒石市史編集委員会・黒石市史編さん委員会.黒石市史 通史編 2.黒石市,1988,p.645,p.650,p.652,p.710,p.730,p.827,p.890-892,p.912-913.
- 黒石市史編集委員会・黒石市史編さん委員会.黒石市史 通史編 2.黒石市,1988,p.890-892,p.912-913.
- 黒石市史編集委員会・黒石市史編さん委員会.黒石市史 通史編 2.黒石市,1988,p.804-805.
- 黒石市史編集委員会・黒石市史編さん委員会.黒石市史 通史編 1.黒石市,1987,p.144.
- 黒石市史編集委員会・黒石市史編さん委員会.黒石市史 通史編 2.黒石市,1988,p.448.
- 佐藤雨山・工藤親作.浅瀬石川郷土志.陸奥郷土会,1931,p.272.
参考文献
タイトル | 著者・編集者・編纂者 | 出版社 | 出版年 | ページ数 | 資料の種別 | URL(国会図書館サーチなど) | 所蔵図書館・利用図書館 | 集落記事 | Tags | 注記 |
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佐藤雨山, 工藤親作 | 陸奥郷土会 | 1931 | 383 | 図書 | 沖浦 | |||||
黒石市史編集委員会・黒石市史編さん委員会 | 黒石市 | 1986 | 749 | デジタルコレクション | 沖浦 | |||||
黒石市史編集委員会・黒石市史編さん委員会 | 黒石市 | 1985 | 693 | デジタルコレクション | 沖浦 | |||||
黒石市史編集委員会・黒石市史編さん委員会 | 黒石市 | 1988 | 997 | デジタルコレクション | 沖浦 | |||||
黒石市史編集委員会・黒石市史編さん委員会 | 黒石市 | 1987 | 695 | デジタルコレクション | 沖浦 | |||||
中園裕 | デーリー東北新聞社 | 2020 | 256 | 図書 | 沖浦 |