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沢田(さわだ)は、青森県弘前市の大字。地内で縄文時代の遺跡が確認されている。中世における平家の落人が隠れ住んだ地と伝えられ、近世には津軽藩の管理下にあった。江戸時代には菅江真澄が訪れ、近代では神明宮神社が重要な役割を果たしていた。
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人口
沢田の人口は下記の通り¹。
年月 | 世帯数 | 人口 |
平成16年4月 | 13 | 40 |
歴史
縄文時代
1961年(昭和36年)から2年に渡り、成田末五郎が相馬村の遺跡を青森県に報告し、その中に沢田で確認された遺跡が2箇所ある。1つは「沢田遺跡」と呼ばれ、沢田から西目屋田代に続く旧道沿いで縄文中〜後期の円筒が発見された。もう1つは、作沢川と平行に走る尾根の北部突端にて縄文後期の石皿が確認された「針呑沢遺跡」で、梶原尾根とも称されている²。
中世
伝承によると、沢田地区は約800年前に戦に敗れた平家の落人が隠れ住んだ土地だという¹。
近世
近世において、津軽藩は各村に「位」をつけて上村・中村・下村と3段階に分け、更に田んぼも上々田・上田・中田・下田・下々田の5段階に区分していた。また上作(豊作)・中作(普通作)・下作(不作)という3通りの石高の計算法「三作」も採用しており、これらを組み合わせて、村々の石高が決まっていた。したがって、上村×上々田×上作の石高が最も高く、下村×下々田×下作が最も低い計算となる。相馬庄屋所に残る『津軽村日記』によると、駒越組に属していた沢田村は中村とされていた³’⁴。
江戸時代の旅行家・菅江真澄の日記「つがろのおち」によると、真澄は1797年(寛政9年)旧5月16日に沢田村を訪れたという。前日、村市(西目屋村)に到着し一泊した真澄は、高森村-天狗森を経て沢田村に入り、「いわやのみ社(沢田神明宮)」を参詣。村周辺の産業として、竹箕・かご作り・田畑を挙げている。ちなみに、『外浜奇勝』(そとがはまきしょう)によると、真澄は翌年にも再度沢田を訪れている⁵。
近代
明治時代初期、当地にあった神明宮神社の氏子が少なかった為、藤沢村の藤沢神社(現:野田神社)と合祀された。しかし、部落民からの敬神の念が篤かったため、終戦後の神社制度の改正を好機と捉え、1947年(昭和22年)4月17日、宗教法人法令に基づき宗教法人神明宮として復活させた。そして、合祀していた野田神社から御神体を迎え奉祀し、現在の神明宮に至った⁶。
現代
戦後、引き揚げで人口が増加し、世帯数も約33戸と賑わいを見せた。しかし、旧相馬村の中でもとりわけ耕作農地が少なかったため、年々人口は減少。さらに1978年頃(昭和53年)から相馬ダム建設工事が着工されたことで、屏風岩から上流の田んぼが水没し、住民のほとんどが弘前方面に散っていったという¹。
1973年(昭和48年)2月、相馬村・弘前市共同で弘前西部地域開発促進協議会を発足。りんご園や水田の水不足解消やゲリラ豪雨による水害など防止を目的とし、作沢川の沢田部落より1km上流地点のダム建設を目指した。会長には弘前市長が就き、国・県に対し断固たる陳情を繰り返した。そして、1976年(昭和51年)、ようやく認可採択となり、県営事業として事業が始まった。しかし、この時代はオイルショックにより経済が悪化していたため中々着工されず、昭和55年度にようやく本工着工に至り、2003年(平成15年)に竣工した⁷’⁸。
沢田部落は旧相馬役場から約8kmの山間地に位置する小部落で、一時は集団移転を打ち出したものの希望者不足で実現には至らなかった。そういった背景から、1978年(昭和53年)、部落民の文化活動・生産性向上・生活改善を目的とした生活改善センターが旧沢田分校跡地に建設された⁹。
2023年(令和5年)2月5日夜、まつり運営側の人数不足や新型コロナウイルスの影響で3年連続で中止されていた「ろうそく祭り」が行われた。まつりでは出店が立ち並び、多くの人で賑わった¹⁰。
寺社仏閣・名所
神明宮神社
神明宮神社は、地内にある高さ約90mの岩山の洞窟に神明宮が祀られた神社。祭神は天照皇大御神。由緒には、1534年(天文3年)大日堂勧請とある。近世の項で前述した通り、旅行家・菅江真澄も2度訪れた神社で、紀行には文だけでなく絵も残している。祭日は4月16日・7月16日で旧小正月にはろうそく祭りが催される。旧藩時代、この地は小倉村と呼ばれていて、この神社は通称「小倉の神明さま」で通ってた。そのため、菅江真澄の日記にも「小倉」と記されている⁶’¹¹’¹²。
ろうそく祭り
ろうそく祭りは、神明宮神社のお祭りの前夜祭として旧小正月(現在の2月4日前後)の晩に催される行事。沢田部落の各家が、売っている中で最も大きいろうそくに名前を書いて準備し、夕方から社殿の洞穴の岩肌に置いき、ろうそくを灯し、家内安全・五穀豊穣を願う。また、翌朝まで火が消えないように太いろうそくを準備したり、立てる岩の窪みを平にするという。部落のみならず近郷や弘前からも参詣者があり、登山ばやしや民謡が奉納される。元々沢田だけの行事だったが、2006年(平成18年)の市町村合併を機に、市内外から人を呼び込ようになったという。翌日の祭日には神事が行われ、岩屋内の氷柱と溶けた蝋の形で吉凶・豊作を占う。『相馬村誌』によると起源は明らかとなってないという。しかし、ろうそくまつり実行委員会事務局員によると、壇ノ浦で滅んだ平家の霊を供養したのが起源で、伝統行事として450年以上続くという¹²’¹³‘¹⁴。
殉職の碑
殉職の碑は、1915年(大正4年)1月17日、西目屋村砂子瀬保護区官舎詰の森林主事・斉藤勝之(41歳)が、相馬村沢田の藤倉沢入口で吹雪と厳寒で凍死した事件の殉職碑記念碑。沢田部落から萱萢方面へ進む道中の藤倉沢中腹に建立されてあり、碑面には「故斎藤勝之君殉職記念碑」と刻まれている。尚、当初建立された位置はダム建設に伴い湖底に沈むため、山の中腹に移転された¹⁵。 亡くなった当時、この地区から舟打方面・西目屋地区にかけての大規模な植林計画が進められていた。冬期に雑木を伐採し、それを炭焼き用入山者に供給し、出来た木炭を小林区署が買い上げたり、炭焼き者が独自に販売していた。そして雪が溶けるとともに植林する手筈で、この一連の処理状況を弘前小林区署の高官が現地視察に来ることにり、付近一帯の担当区も急いで舟打の大助保護区萱萢哨舎へ赴くこととなった。そのため砂子瀬保護区の斎藤勝之も極寒の中、深雪の山を越え舟打へ向かった。
しかし出発後、天気が急変。勝之は猛吹雪に襲われ所定のコースを見失い、道に迷った末、どうにか舟打まで約1.5km地点の藤倉沢の入り口に着いたがそこで死に果てた。この遭難は誰1人気付くことなく1日が過ぎた。吹雪が落ち着いた頃、沢田部落のマタギ・福沢金作が猟に出かけると、道中、足に固い何かが当たった。そして金作が足元の雪を掘ってみると、そこにあったのは斎藤勝之の遺体だった。遺体はカチカチに凍っていたという。尚、遺体のそばには空になった酒瓶が転がっていたことから、疲労困憊か寒さ凌ぎのために飲んだ酒に酔って眠り、そのまま亡くなったと推測されている。金作の報せで大勢の沢田部落民が、遺体を布やむしろで包み、ソリに縄で結びつけ山を越えて砂子瀬の官舎に運び、急いで部屋の天井に届くほどの火を焚いた。遺族は、その時の凍った衣類を遺体から剥がす「ガバァ」という音を忘れられないという¹⁶。
相馬ダム
相馬ダムは、地内にあるロックフィル式の県営ダム。事業着手は1974年(昭和49年)であるが、竣工は2003年(平成15年)。不況の煽りを食い本工着工まで時間を要し、昭和55年にようやく実現した。本体施行者は飛島建設¹⁷‘¹⁸。
屏風岩
屏風岩は、地内を流れる作沢川上流に位置する高さ100m・幅600mに渡り連なる奇岩。屏風のような形をしていることが名前の由来。カエデ・ブナ・モミジなどが10月上旬に色づき、10月中旬から下旬にかけて紅葉の見頃となる¹⁹。
教育
沢田分校
近代初期の学制頒布により、旧相馬村にも1875年(明治8年)の湯口の石堂小学開校を皮切りに、相馬・紙漉沢に続々と小学が開設された。それからだいぶ月日が経った1910年(明治43年)、沢田部落の児童のため、冬期間の季節分教場が民家の1室を借用し開設された。1920年(大正9年)になると、沢田分教場は教習所に改められ、平屋の校舎が建てられた。尚、校舎建設費用は全て沢田部落民が拠出したという。1936年(昭和11年)、人口増加にともない以前建設された校舎では窮屈となったため、旧来の校舎は解体され、現在の公民館の位置に校舎が建て直された。1943年(昭和18年)4月、沢田分教場は沢田分校に昇格し通年制となった。しかし喜びも束の間、沢田部落の大火事により多くの民家とともに沢田分校舎が焼失。そのため、新校舎が建つまでの約2年半の間、火元だった菖蒲川は自身の家を校舎の代わりに提供した。戦後の1959年(昭和34年)、相馬小学校沢田分校は児童増加により、それまでの平屋建校舎に2階を増築して教室を増やし、教師も2人体制となる。農村が過疎化が社会現象となり、1968年(昭和43年)に児童数減少と経費削減のため近郷にある藍内分校が閉校する中、1973年(昭和48年)に創立30周年を迎えた沢田分校は記念式典を挙行。しかし、昭和40年代に五所・相馬小学校とともに沢田分校が危険校舎に指定され、学校の統廃合が推進される。そして、1977年(昭和52年)に五所・相馬小学校は統合され校舎は新築され、両校は閉校。同年3月28日、沢田分校も閉校式をもって、分教場時代から続いた67年の歴史に幕を閉じた。ちなみに校舎は生活改善センター建設のためすぐに解体された²⁰。
脚注
出典
- 相馬村総務財政課.相馬村閉村記念誌 : 永遠の星に見守られて、新たな旅立ちへ.相馬村,2005,p.61.
- 相馬村誌編集委員会.相馬村誌.相馬村,1982,p.23-24.
- 相馬村誌編集委員会.相馬村誌.相馬村,1982,p.87-88.
- 蓬田村.”第四章 津軽藩政時代”.青森県蓬田村,https://www.vill.yomogita.lg.jp/sonsei/sonshi/chapter_04.html,(参照 2023-12-26).
- 相馬村誌編集委員会.相馬村誌.相馬村,1982,p.106-107,403.
- 青森縣の神社編集委員会.青森縣の神社.青森県神社庁,2002,p.104-105.
- 相馬村誌編集委員会.相馬村誌.相馬村,1982,p.366-368.
- 一般財団法人日本ダム協会.“相馬ダム [青森県](そうま)”.ダム便覧.http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=0214.(参照 2023-12-26).
- 相馬村誌編集委員会.相馬村誌.相馬村,1982,p.289.
- ろうそくの炎に願いを 青森・弘前市沢田地区、450年以上続く伝統行事.東奥日報.2023-02-05,Nordot,https://nordot.app/994943708027060224?c=113147194022725109,(参照 2023-12-26).
- 相馬村誌編集委員会.相馬村誌.相馬村,1982,p.162-163.
- 船水清.津軽の祭りと行事.北方新社,1990,p.17-18.
- 相馬村誌編集委員会.相馬村誌.相馬村,1982,p.163-164.
- ろうそくの炎に願いを 青森・弘前市沢田地区、450年以上続く伝統行事.東奥日報.2023-02-05,Nordot,https://nordot.app/994943708027060224?c=113147194022725109,(参照 2023-12-26).
- 相馬村誌編集委員会.相馬村誌.相馬村,1982,p.356.
- 相馬村誌編集委員会.相馬村誌.相馬村,1982,p.356-359.
- 一般財団法人日本ダム協会.“相馬ダム [青森県](そうま)”.ダム便覧.http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranA/All.cgi?db4=0214.(参照 2023-12-26).
- 相馬村誌編集委員会.相馬村誌.相馬村,1982,p.366-368.
- “紅葉の屏風岩(青森県)の紅葉情報”.ウォーカープラス,https://koyo.walkerplus.com/detail/ar0202e154392/,(参照 2023-12-26).
- 相馬村誌編集委員会.相馬村誌.相馬村,1982,p.182,p.184,p.192,p.196,p.198.
参考文献
タイトル | 著者・編集者・編纂者 | 出版社 | 出版年 | ページ数 | 資料の種別 | URL(国会図書館サーチなど) | 所蔵図書館・利用図書館 | 集落記事 | Tags | 注記 |
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船水清 | 北方新社 | 1990 | 222 | 図書 | 沢田 | |||||
青森縣の神社編集委員会 | 青森県神社庁 | 2002 | 316 | 図書 | 沢田袰月 | |||||
相馬村誌編集委員会 | 相馬村 | 1982 | 431 | 図書 | 沢田 | |||||
相馬村総務財政課 | 相馬村 | 2005 | 68 | 図書 | 沢田 |