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勢至堂(せいしどう)は、福島県須賀川市の大字。1955年(昭和30年)時点で41世帯、237人が居住していた。奈良時代の遺跡があり、1594年(文禄3年)には石高が18石5斗5升だった。戦国時代には会津領主蘆名盛氏が進出のため集落を形成し、天文年間に関所を設置。豊臣秀吉の会津下向時、勢至堂は宿駅として機能した。近世には耕作地が少なく、出作高を持ち、宿駅として発展。1675年(延宝3年)の大火後、集落を移転し再建され、戊辰戦争では勢至堂峠で砦が築かれた。
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歴史
中世
勢至堂には奈良時代の遺跡として馬尾滝遺跡がある。所在地は大字勢至堂字大岩。出土したのは土師器破片。
戦国末期の長沼の様子が分かる史料として1594年(文禄3年)の「蒲生領高目録帳」があり、それによると当時勢至堂の石高は18石5斗5升。これは旧長沼町に属した村々の中でも取り分け少なく、次に多かったのは滝村の218石3斗6升。また一番の石高を誇っていたのは横田で1443石7斗8升と約8倍もの差があった。 また当地の戦国時代の交通路は長沼城を中心とした東西南北に通る交通路が利用されていたとされ、勢至堂は東西道の西端に位置。1591年(天正19年)頃楽吉左衛門常慶が会津に下向した際の文書から、勢至堂を抜けて西の会津黒川を目指したとされている。
勢至堂村の起源
勢至堂は戦国時代の会津領主蘆名盛氏の長沼並びに仙道(中通り)への進出侵攻の戦略が関係し成立した。1704年(元禄16年)の「勢至堂村古来よりの由来書」によると、元々勢至堂村は現在の湖南町三代村と長沼町の間に位置していたのだが、山中に位置するため往来するのに困難を極めていた。そのため会津領主蘆名盛氏が天文年間(1532〜1554年)に南山西方村の赤目越中とその息子四郎兵衛に山を切り開かせ集落を作り関所を設置したとされる。そして開拓後の1545年(天文14年)8月、耶麻郡各地から引越百姓が移住し村が成立。その後、白河領主結城義親の家来柏木隼人が天文年間に息子の源六を連れて長沼に越してきた際、赤目越中に誘われ勢至堂に住むこととなった。地名の由来は盛氏が後世まで栄えるようにと河沼郡柳津から弘法大師作の勢至菩薩像を移し、堂を建立し安置したことから「勢至堂」と名付けられた。
豊臣秀吉と柏木隼人 1590年(天正18年)8月、天正の仕置きのため豊臣秀吉が会津へ下った際、長沼の新国上聡介の館に一泊。翌日、秀吉は勢至堂を通行したのだが、百姓は畏れて奥山へ隠れ逃げてしまった。秀吉のお供衆が前述した柏木隼人に飯を蒸させ、差し出した。隼人が子源六と平伏していた際、秀吉に三代村への道を尋ねられ返答の礼として褒美を頂戴。蒲生氏郷が会津に入封されて勢至堂が宿駅になった際は、隼人は検断役を命じられ役料として十五人扶持を下された。以降、柏木家が検断・本陣・問屋を代々兼任世襲した。
近世
近世の勢至堂は、村が峠の山頂付近にあることから耕作には不向きで村高は44石余。そのため上江花村に149石余の出作高を持っていた。また1857年(安政4年)時点で戸数27・村人口160(男85人・女75人)・馬数51で1戸当たり2頭飼育していた。宿駅ということもあり問屋・本陣・脇本陣の他、屋号を有する20軒余りの旅籠屋が街道を挟み並んでいた。
1627年(寛永4年)に加藤嘉明が伊予松山(現愛媛県松山)から会津に封じらた時代、白河街道上に勢至堂峠(勢至堂口)があり口留番所が設置されていた。「加藤家分限帳」によると佃彦助が関所番を勤めていたという。加藤家が封じられた時と同時期に白河藩が成立したため、勢至堂峠(勢至堂口)は会津領南東方面の関所として重要性が高かった。通行の際は若松城下大町検断簗田家が発行する鑑札・判書が必要で、簗田家は手形発行を一任される代償として、通貨荷物から一定の手数料を徴収することが許可されていた。
吉田松陰の日記「東北遊日記抄」によると、1628年(嘉永5年)1月28日に白河から勢至堂に着いて宿屋に宿泊。翌日会津に向け出発した。この旅は1628年(嘉永4年)10月江戸を発ち、翌年4月に江戸に戻った際のことで、宮部鼎蔵が同行していた。
1643年(寛永20年)、宮城越前守・町野長門守・伊丹順斎が会津藩領の分割のため下向。3名の江戸への帰り道に勢至堂村で昼休みをした際、前述した柏木隼人が召し出され勢至堂村は会津藩領から白河藩領になることを告げられた。これは、同年会津加藤氏が改易となり新しく保科氏が会津に入封し、加藤氏の支配領だった岩瀬郡が榊原白河藩領に組み入れられるため。それに対し隼人は、勢至堂村が白河藩領になると宿駅として人馬継立ができなくなり、交通政策に支障をきたすことを申し上げた。これにより、勢至堂村は会津藩預かり地となることを告げられた。その後、1688年(元禄元年)に幕府領となるまでの45年間南山御蔵入領として存続。 1700年(元禄13年)からは長沼藩領となりこれが明治維新まで続いた。
1675年(延宝3年)4月に出火により集落が全焼。これに対し、南山御蔵入郡奉行飯田兵左衛門の指示により旧地(古屋敷)から2町(約220m)会津寄りの山上を切り拓き関所・問屋・百姓家42軒・水呑百姓7軒を普請し、新畑も約20町を開墾。大火から3年後の1677年(延宝5年)には集落を移転することができた。これには南山領から職人・人足が6万3000人が動員され、必要経費650両は御救金(幕府負担金)とされた。
近代
戊辰戦争 戊辰戦争の際、勢至堂峠は主力攻撃を予想して五郎山の沢に砦を築いた。そこには沢山の武士が駐屯し防衛線を張っていた。しかし戦になると西から来る新政府軍は奇襲攻撃を図り、石莚口を攻めたため勢至堂に築いた砦は不要となった。
明治時代に入り、新政府が従来の貨物輸送の役割を果たしていた官設の伝馬所を廃止し、私設の運輸会社を設立させることとした。これに際し1872年(明治5年)8月7日、福島県は各駅に伝馬所廃止の通達を出し、新しく創立された運輸会社は陸運会社と名付けられた。勢至堂では柏木新八郎が請負者となった。
1896年(明治29年)の梅雨入り後、大雨が続き彼方此方で沢から水が流れ出て山崩れが起きた。これにより、光風堂の裏山が崩れ御堂が濁流に飲まれた。そんな中、扉だけが破壊されずに残ったため、御堂が再建された際にそのまま使われた。また、この大雨による山崩れで数名の部落民が命を落としたと云う。
国有林下戻し 明治時代を通して、国有林下戻しに関して勢至堂の住民が存立のため国と対立した事件。 古来より勢至堂周辺に広がる広大な山林は共有林として利用されていた。しかし1868年(明治元年)の官民有区分の際、官地とされ国有林に編入されることになり、勢至堂は再三に渡り部落周辺の山林の有無は住民の生死に関わることを県当局に訴えた。それに対し1874年(明治7年)、福島県令安場保和代理の福島県七等出仕木村矩至が「国有林になるものの従来通り出入りして良い」という旨を伝え部落民を説得。さらに1882年(明治15年)、国有林化が明確になったが福島県が同様に住民を言い包め安心させた。 程なくして国有林化が現実となり、今まで山林に依存して生活していた勢至堂の住民は事の重大さに気づき、1890年(明治23年)に勢至堂願人惣代として柏木子之次郎・渡部準蔵・柏木新八郎・柏木茂利登が連名で福島県知事山田信道宛てで下戻しの嘆願書を提出。嘆願書には、近世以来周辺の山林が住民の生活を支えていたことや明治以降県官の言葉に言い包められ翻弄されていたことが述べられていた。これに対し県の返答は、山林に関しては一切触れることなく、勢至堂部落民に対する諸税金を免除することや江花村へ出作する際の賃金を高くする処置等のことで、根本的な問題解決には至らなかった。 しかし1899年(明治32年)に国有林地下戻運動が全国に拡がり、政府が「国有森林原野下戻法」を公布。これにより長沼村村議会は勢至堂の国有林野下戻申請提出を議決。明治36年度の「福島県郡別国有森林原野及下戻申請面積調」によると岩瀬郡の国有林野面積の約92%の面積に対して下戻申請が提出されていて、この時点で申請が許可になることはほとんど無かった。しかし、下戻申請から約5年経過した1904年(明治37年)に約1237町歩の森林の下戻しが許可。これは申請が許可されず止むなく行政訴訟に踏切り、それでも却下されることが多かった当時の実情を鑑みると、下戻申請の段階で許可された勢至堂の例は稀な事だった。 また1923年(大正12年)、同部落と長沼町との協議の末、両者同意の元で「大正十三年長沼町町有林施工要領」が作成され、1237町歩4反4畝の森林が分割管理されることとなった。
現代
勢至堂トンネル
勢至堂峠は県南地方と会津地方を結ぶ重要な場所であったが、標高750mの険しい山間部に位置し、冬期間は豪雪に見舞われるため通行者が苦労していた。この問題解決のため、トンネル建設計画が進んだ。建設に際し適切なルート選定のため、概略設計や地質調査が重ねられた。当初は峠東側の谷沿いルートが最も効率的であるとされていたが、付近の地層の劣化が激しいことなどから断念。再度地質調査を重ね、1974年(昭和49年)により施工に適した地盤を持つ峠西側のルートに決定した。1988年(昭和63年)、トンネル工事が開始。工事名は「国道294号国道改良工事」で全体工事費が42億9300万円。着工が1988年(昭和63年)11月で竣工が1994年(平成6年)11月で6年の月日を要した。勢至堂トンネルは全長1,147m。当事業により旧道に比べバイパスは1,268m短くなり同じ区間内の所要時間が15分短縮された。
教育
1871年(明治4年)、文部省が発足し翌年に学制が施行。大中小学区が定められ、各区に学区取締が置かれた。長沼では1873年(明治6年)、学区取締下政恒と区長阿川光裕の協議の上、本念寺に長沼村の小学校として石背小学校を開校。長沼付近は他に江花、勢至堂、滝、志茂の5村で1学区を構成していたため、各村に支校・分校が造られた。尚、勢至堂は支校は1875年(明治8年)に勢至堂村字平四郎10番の寺院跡に開設。児童数は12人。 1879年(明治12年)に教育法令が発布され従来の学制が廃止され、翌年には改正教育令が出来た。これに伴い、石背小学校江花分校が独立し同地の字久保に江花小学校を新築独立。同時に石背小学校勢至堂支校は江花小学校勢至堂支校となった。その後も、1887年(明治20年)に勢至堂簡易小学校、1888年(明治21年)に長沼尋常小学校勢至堂分教室と名前を変え、1901年(明治34年)長沼村立尋常小学校として独立(児童数15人)。以来、長沼町立国民学校・小学校として続く。その間児童数は増え、明治時代は児童数が10人台だったものの、昭和初期から中期にかけては40〜60人の児童数を維持した。そのため1953年(昭和28年)には増改築・簡易水道布設が行われ、地域の中心的役割を担っていた。しかし、昭和40年代に入り部落の個数が減少し、1968年(昭和43年)には35戸、児童数17人となった。3年後の1971年(昭和46年)には、児童数が10人を下回り長沼小学校勢至堂分校となった。その後も時代の人口減少・少子高齢化により児童数は減り続け、2001年(平成13年)に児童数が2人となり、翌年からは分校は休校。2005年(平成17年)3月、130年の歴史の幕を閉じた。
文化・暮らし
宿駅ということもあり物や情報が通過するためか、当地方では勢至堂には「洒落者が多い」「町風な者が多い」といわれていて、農耕を中心として生活していた他の山村とは異なる生活を持っていたとされる。
殿様清水
明治時代に町営水道が敷設されるまで長沼町も他地域と同様に井戸水や湧水する清水に頼る生活をしていて、町内では清純な飲用水不足に悩まされていた。しかし勢至堂には殿様清水を部落内に有していたため、樋で部落内まで各戸まで水を引き飲用水としてい利用されていた。
オイノ祭り
勢至堂では夏に馬を山に放牧しており、この馬を狼から守るためにオイノに供物をして供養する、オイノ祭りが行われていた。オイノとは狼や山犬のこと。放牧地は大きな沢に囲まれていて、2箇所を閉じるとどこにも逃げられないため放牧には適した地だった。2箇所には馬柵を設けており、時期は不詳であるが年に1回馬柵でオイノ祭りは行われていた。この祭りは隣の天栄村の会津地区でも行われており、会津山間集落の特徴的催事だった。
食生活
勢至堂は峠の山頂近くに位置することから耕地が少ないため、他の農業地区に比べて市販品に頼ることが多かった。炭の出荷時期に運送業者に依頼し生産した木炭を運ばせ、その序でに炭問屋の取り継ぎで米や麦、醤油、食塩、砂糖を通帳を用いて買い求めていた。元々、畑作もほとんどが桑畑だったため自家消費の野菜の種類は乏しかったが、他地域から嫁いできた人達によって耕作する野菜の種類が増えていった。また、ワサビの塩漬けやふう菜(どっぽ菜)の塩漬け、畑わさびが好んで食べていて、畑わさびは季節になると必ず食卓にのぼるほどだった。1ヶ月に1回の頻度で干物などの保存が効く魚を行商人からまとめ買いしていて、生鮮品は正月や祭りなど特別な時に購入されていた。
名所・寺社
馬尾の滝と銚子ケ滝
馬尾の滝と銚子ケ滝は、1788年(天明8年)に古川古松軒が幕府巡見使に随行した際の「東遊雑記」に記述された滝。そこには「勢至堂の南に滝2つあ、一つは水口が細く次第に広く流れ落ちる滝で、馬の尾の滝と呼ばれていて、遠目で見ると白馬の尾のよう。また、水口岩が銚子のような滝がありこれは銚子の滝と呼ばれている」との旨が記されていた。
光風堂
勢至菩薩を祀った堂。1715年(正徳5年)に堂宇を建立したものの、山津波によって流され再建された。そのため尊像も後世に作られたものとされている。山津波の際流れた扉は破壊されなかったため、昔の面影が残る。
勢至堂地蔵尊
光風堂の階段の途中にある金銅半跏座像。
馬頭観音像
光風堂東下側の堂守に祀られていて、旧長沼町の指定文化財に選定された。鎌倉時代の名作とされている。
眞勝寺
眞勝寺は、以前勢至堂にあった寺。眞言宗新義派に属していて、桙衝荒鹿山長楽寺の末寺。本尊は阿弥陀仏如来で正式名称は勢至山蓮華院眞勝寺だった。1852年(嘉永5年)1月28日には吉田松陰が会津に向かう道中泊まったと云う。その後、明治時代の廃仏毀釈により無柱となってしまった。1875年(明治8年)にはこの寺院跡が石背小学校勢至堂支校として利用され、昭和時代に勢至堂小学校が当跡地に新築された。
伝説・伝承
花魁の墓
花魁の墓は、勢至堂屋敷から南に200m先の花見山の突端にある墓地。近世から近代にかけて、勢至堂は宿場として賑わっており、十数軒の宿屋に花魁(女郎)がいたと云う。宿場の繁栄とともに宿場から宿場に渡り住んでいたと思われる彼女達は、一旦病に襲われると看取る人もいなく、死亡した場合は身元引受人もいないため無縁仏として葬られ、墓地には墓石もない。
交通
旧茨城街道
会津地方から中通り地方に抜けるには近代以降は中山峠を越える現在の国道49号線が主な幹線道路であるが、それに並び近世から明治時代にかけては勢至堂峠を通過する旧茨城街道(現在の国道294号線)が会津と中通りを結ぶ公道だった。旧茨城街道は「会津風土記」によると白河街道と呼ばれ、若松城下から滝沢峠、勢至堂峠を経由し白河城下にでる街道で、会津・越後新発田・越後村上各藩主の参勤交代路や江戸幕府が佐渡金山を往復する公道でもあった。勢至堂はこの街道上の三代村と長沼の間に位置していた。勢至堂の宿場を出て北に向かうと勢至堂の一里塚があり、さらに進んだ先にある峠の手前に殿様清水がある。旧茨城街道はこの清水のすぐ後ろの雑木林の中を北に抜ける道だったのだが、1884年(明治17年)に三代側からの勢至堂峠の新道開削以来、旧道を利用する人が減った。