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杉花
杉花

杉花

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杉花

杉花(すぎはな)は、秋田県北秋田郡上小阿仁村の大字。地内で縄文時代の遺跡が確認されている。江戸時代には佐竹氏による新田開発が盛んで、林業が重要な産業であった。近代には馬の生産が行われ、戊辰戦争では農兵隊が組織された。また、1955年(昭和30年)と1964年(昭和39年)には大規模な水害が発生した。

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地図で見る杉花

地理

小字

杉花の小字は以下の通り¹。

槻ノ下(つきのした)
川端(かわばた)
寺下(てらのした)
杉花(すぎはな)
谷地(やち)
馬路端(うまみちばた)
中山(なかやま)
大久保(おおくぼ)

人口

杉花の人口は以下の通り²。

年代
戸数(家数)
人口
1723年
家数19軒
1800年
家数22件
人口118人

歴史

縄文時代

上小阿仁村を流れる小阿仁川流域では縄文遺跡が21箇所(上小阿仁村史発刊時点)で確認されており、そのうちの1つに杉花遺跡がある。杉花遺跡は、字谷地82外に位置する縄文時代晩期の遺跡。上小阿仁村では縄文遺跡が7箇所確認されているが、発掘調査が行われたのは不動羅遺跡のみのため、杉花遺跡の全容は解明されていない³。

近世

地侍と阿仁一揆

関ヶ原の戦いの頃、秋田は大小の戦国大名が支配しており、上小阿仁地方を統べていたのは加成氏(加成三七)だった。加成氏は、比内・大阿仁・小阿仁地方に勢力を張り村々の有力農民達(地侍)を従えていたものの、秀吉や家康に認められるほどの大きな勢力ではなかった。そのため、秋田の最有力大名・安東氏に仕え、代官として当地方を支配していた。そんな加成氏に従っていたのが地侍・杉花弾兵衛で、村の名を冠していることなどから、当時彼が杉ヶ花村を支配していたとされている。また、当時の多くの武士(地侍)はもともと地主などの村の農民で、力をつけて小領主(小名)となり、大名に仕え武士となっていた。そんな折、天下の分け目となった関ヶ原の戦いにおいて、常陸国(現:茨城県北部)の大名・佐竹氏は、徳川家康を積極的に支援しなかったため、戦の後に左遷され秋田へ国替となった。一方、家康側について戦った安東氏などの秋田の諸大名は、佐竹氏に代わり常陸国に入国とすることになり、常陸と秋田の大名は総入れ替えとなった。 しかし、前述の通り地侍は元々村の農民で居住地は自身の村だった為、主君が去った後の新領主・佐竹氏が自身の軍を率いて入国した後の処遇が不透明であった。そんな不安が残る中、1602年(慶長7年)、佐竹軍が秋田へ進駐。既に安東(秋田)氏をはじめとした諸大名は秋田を去っていたため、当然佐竹軍本隊は安東氏の本拠地であった土崎湊に入り、佐竹氏の家臣達も各地の城館に入っていった。新領国で支配を確立したい佐竹氏としては、旧領主の残存勢力の存続を許しがたく、安東氏に追従せず当地方に残った加成三七に対しても、おそらく友倉や七倉に構えていた館城から追い出したと推測されている。 こうした経緯の中、秋田の旧大名に従った家臣とそれに従う地侍が進駐する佐竹軍へ抵抗し、各地で一揆が勃発。史料には「阿仁一揆」「比内一揆」「六郷」の「百姓一揆合戦」と当時の様子が記されている。各地の一揆勢力は、はじめは地の利を生かし優勢に戦い、赤坂朝光が率いた佐竹軍を苦しめた。しかし、統一指揮者を欠いていた一揆軍は徐々に瓦解し、分裂した「比内」「阿仁」地方の一揆軍は佐竹軍に討伐された。各地で勃発した一揆であったが、小阿仁地域の蜂起は大規模でなかったため速やかに鎮圧され、大事にはならなかった。このとき、沖田面村で討死した一揆の侍の1人に杉花弾兵衛の名が挙げられている。こうして、旧来村の有力農民として支配していた武士(地侍)は村から消え、佐竹氏の武士(家臣)は定まった町に住むようになり、村には農民だけが住む新しい形態へと変化していった⁴’⁵。

小阿仁川流域の上小阿仁地方には江戸時代を通じ、杉ヶ花村を含む九ヵ村が本村としてあり、その枝村に大阿瀬や上仏社などの村々があった⁶。佐竹氏の奨励により新田開発が盛んに行われた頃、1647年(正保4年)に藩から幕府へ提出された『正保四年出羽一国絵図』に「杉ヶ花新田二百八石」 とある。当時の村名「杉ヶ花新田村」から当地でも開墾が積極的に行われていたと推測されている⁷。その後、元禄以降は「新田」の字が除かれ、1729年(享保14年)には「杉ヶ花」から「杉花」に改められた²。近世において小阿仁地方では、芦沢村・三木田村・鎌野沢村・小沢田村・沖田面村の5ヵ村から成る「小阿仁五カ所村」が本郷として他の村々を支配し、他の村々は「支配郷」として属していた。そして杉ヶ花村は小沢田村の支配郷であった⁸。

1702年(元禄15年)、長く荒れた天候により田畑が不作となったため年貢減免の訴状が提出された。訴状には南沢・大林・沖田面村の肝煎庄右衛門と五反沢・福館・仏社・杉花・小沢田村の肝煎八郎右衛門が連名していることから、杉花村にも被害が及んでいたと推測される⁹。

正徳年間(1711年〜1715年)の頃、杉花村の別当は重光院(のちの宝蔵院)で、村の代表者としては「地主・清兵衛「長百姓・福右衛門」が確認されている。尚、この七倉山宝蔵院は、近世における上小阿仁地内の4家の修験のうちの1つに数えられている¹⁰。修験道は、日本古来の山岳信仰が密教・道教・儒教などの影響を受け平安時代に成立した宗教の一派。鎌倉時代から室町時代にかけての中世で修験道は体裁を整え、中世においてほとんどの神社が修験道の影響を受けたと言われている。これは近代に入るまで衰えをみせなかったものの、1872年(明治5年)の修験宗禁止令発布により、修験の多くが神官に代わった。そのため、後述する「壬申戸籍」の杉花村人口の項には「旧神官1名」と記録されている。また、杉花村以外の上小阿仁地内に修験がいた沖田面村・小沢田村・福館村でも同様に「旧神官」が人口に数えられていた¹¹’¹²。

近世において寺院は、村々の人口や家族構成を調べてキリスト教信者を取り締まる重要機関だった。時には、自寺院の信徒である証明書を発行し、地方へ旅に出かける村人の身元を保証する役割も担っていた。1727年(享保12年)の中茂村の「切利支丹宗旨御調帳」では、村人達が自寺院の信徒であることや村人からキリシタンが出た場合は責任を取る旨が書き記され、末尾には鎌沢村正法院と常光寺がこれを認める押判をしている¹³。

杉ヶ花村は山林が豊富だったため林業が盛んだった。1729年(享保14年)頃は五反沢村とともに「長滝沢の内の平山(麓の村民が自由に伐採できる山地)」から大量の薪を伐り出していた。しかし、1741年(元文6年)、藩がこの山を銅山専用の「御直山(留山)」とし取り上げたため、伐採することができなくなった。さらに杉ヶ村は、この御直山を見回ることが義務付けられた。それまでの山地を没収された杉ヶ花村には、藩から近くの「仏社沢」で薪を採取するようにと決められたが、そこは仏社村民の入会地でもあった¹⁴。

江戸時代末期の頃に長百姓を務めた八之允は、12代に渡って杉花村の地主を勤めた名家の子孫で、当家の人々は杉花村の新田開発に寄与した。八之允の祖父・仁兵衛と親・仁兵衛は、寛政と天保の頃の2度に渡って開墾を行い、16石(2町歩余り)の耕地を切り開いた。また八之允も、1850年(嘉永3年)と1865年(慶応元年)の開発で6石(約1町歩)を拓いている。その他にも、村に53石もの備蓄米を置き、空き地には漆・桑・楮など数万本を植え、馬の生産にも尽力し、村の発展に寄与したという。1868年(明治元年)の戊辰戦争の際には「小荷駄方」を務めて、とりわけ「船場の手配り」で手柄を立て、後に藩から賞され「苗字帯刀御免」となった¹⁵。

近代

戊辰戦争

1868年(明治元年)閏4月11日、仙台・米沢両藩主の呼びかけにより、東北諸藩の藩主が白石に集い、会津・庄内両藩を救うため嘆願書を新政府軍に提出することが決められた。しかし、嘆願書は奥州鎮撫軍参謀世良修蔵により拒否された。以前から世良の独善的態度に不満を募らせていた藩士らはこれに怒り、同20日に世良を暗殺。これを機に東北諸藩のあいだで奥州列藩同盟が結ばれた。そんな中、東北諸藩は藩内で勤王(新政府派)と佐幕(幕府派)で二分しており、秋田藩でもこうした対立がみられた。しかし、1868年(明治元年)7月1日に奥州鎮撫総督九条道孝が手兵を率いて秋田入りしたのを機に、藩主佐竹義堯を動かし、7月3日には新政府支持の態度を決めさせた。これにより、秋田藩は奥州列藩同盟から脱退し敵対することとなった。同年8月9日、南部藩が宣戦布告し秋田北部に攻め入ったことで、小阿仁地方にも緊張が走った。同日、藩からの達により、大舘方面から侵入してくる南部藩の軍に備え村で農兵隊を組織される。この計画によると、近藤岩松・小林兵左衛門・武石寛三郎が杉花・仏社・五反沢村からなる354人の農兵隊を指揮し、鶴田-長野-根小屋の防衛に当たったと云う。尚、この計画がどの程度遂行されたかの史料が確認されておらず、実際に行われたかなど定かとなっていない¹⁶。

地租改正

1873年(明治6年)7月28日、政府は地租改正法を公布し実施方針を示した。この地租改正では、まず耕地・宅地の正確な面積を測定して所有者を確認。その後、土地の生産高・等級・地価を定め、最後に地価を基準に地租額を決めるという手順が定められた。しかし、地租改正法公布の約1ヶ月後の8月24日、秋田県庁が焼失し準備していた関係文書の多くも焼けてしまった。そのため地租改正作業が著しく遅れ、実際に着手されたのは1875年(明治8年)になってからであった¹⁷。地積調査は村の責任で行われたが、指導・監督のため官員(県庁職員)や担当戸長らの巡回が時々行われ、厳しい監視下のもとで地租改正作業が行われていた。地積調査が終了すると、二大区(当時上小阿仁村は二大区三小区の中に含まれていた)の等級会議が1877年(明治10年)1月4日から10日間開かれ、ここで各村々から報告された調査資料に基づき、田畑・宅地の等級が一応決定。田方に関しては上小阿仁村域のほとんどの村々が中等程度に当たる、反当たり5〜6斗の生産高を見込まれ、杉花は小沢田・福館に並び6.15斗(7等級)と最も高い生産高が見込まれた。また畑方は5.41斗(10等級)、宅地は4.54斗(13等級)と評価された。その後、地域の米価や金利などを参考に地価の算定されこれが決定し、地価の3%を地租とすることが決まった¹⁸。

上小阿仁村の成立

近世において村々の人口や戸数は寺院による宗門改帳に記録されていたが、元々キリシタンの取り締まりのための帳簿であった性質上、戸籍簿としては欠陥が多いものだった。そこで、1871年(明治4年)4月4日、明治政府は戸籍法を定め、正確な人口・戸数の把握のため戸籍調査に乗り出した。こうして、同年中に作られた戸籍が「辛未戸籍」であったが、早急に作られたため依然として不備の多い戸籍簿だった。翌年には更に整理された「壬申戸籍」が作成され、この戸籍簿は1886年(明治19年)の戸籍法大改正まで戸長役場の基本帳簿として重宝された。この壬申戸籍によると、1872年(明治5年)1月31日時点の杉花は、戸数17(旧神官1・平民16)、人口93人(男50・女43)で職業人口63人のうち59人は農業を生業とし、残る3人は雑業と記録されている。尚、旧神官は上小阿仁村域では杉花を含めて4名ほどだった¹²。また1871年(明治4年)の戸籍調査にあたり、旧来の郡・町・村の行政区画は大区小区制度に改められ、その後何度か再編成が行われた。明治時代初期の杉花村の行政区の変遷は下記の通り¹⁹。

年月
杉花の上位行政区
1871年(明治4年)4月
5大区8小区
1872年(明治5年)2月
5大区1小区
1873年(明治6年)7月
2大区3小区

1878年(明治11年)の郡区町村編制法の施行により、原則として1村1戸長1役場の形式となったが、財政的負担が大きくなることから、秋田県ではいくつかの小規模村を組み合わせて1戸長1役場を置く方針をとり、1883年(明治16年)4月からこれを実施。杉花村は仏社村と共に組合村を編成した。さらに翌年7月1日には組合村の範囲を広げ、これまでの民選戸長から官選戸長に改められた。これにより杉花村は、仏社村に加え鎌沢村・三木田村・三里村・根田村・芹沢村と組み合わせられた。また、ここで決まった組合村の編成は、後述の上小阿仁村の成立まで続いた²⁰。 1888年(明治21年)4月25日、政府は市制・町村制に関する法律を公布。これに伴い秋田県では、同年5月県庁内で合併第一次案をまとめ、6月から7月にかけて、「町村制実施手続取調委員会」を組織し、各郡長・郡吏の意見を反映した第二次案を作成。さらに8月から10月にかけて各戸長・住民代表の意見も聞き入れたうえで最終案がまとめられた。上小阿仁村は当初から9ヵ村合併が考慮されていた。一時は地理的要因を加味して沖田面などの4村合併並びに杉花などの5村合併で、2つの村にする案もあったが、 財政力が弱いことから9ヵ村合併に落ち着いたという。こうして、1889年(明治22年)4月1日に上小阿仁村が成立し、以降杉花は上小阿仁村に属すこととなった²¹。

近代において、農業や林業以外の産業として重要だったのは馬産だった。杉花でも馬の生産がおこなわれており、部落の31戸(昭和4年時点)のうち飼養戸数は21戸(昭和7年時点)で21頭が飼われていた²²。

現代

杉花交流センター
杉花交流センター

水害

1955年(昭和30年)6月24〜25日、豪雨により水害が発生。小阿仁川沿いにあった杉花は、人の歩行が困難な状態になり、杉花橋も架け替えが必要な状態となった。さらに1964年(昭和39年)8月、12日から翌朝にかけての豪雨により水害が発生。またも杉花橋に損害を与えた。1966年(昭和41年)に荻形ダム完成後は近隣町村に比べ水害による被害が少なくなった。しかし、1972年(昭和47年)、7月6日から9日にかけての集中豪雨の最中、8日までは毎秒数十tの放水を続けていた荻形ダムが、9日午前3時に毎秒308tの放水を開始。これにより小阿仁川の流水が増し氾濫。幸い杉花部落では人家に被害は及ばなかったが、地内の28hが冠水した²³。

杉花橋
杉花橋

神社仏閣・名所

常光寺

常光寺
常光寺
常光寺
常光寺

常光寺は、近郷の沖田面村の禅宗福昌寺の末寺。所在地は、秋田県北秋田郡上小阿仁村杉花杉花42。宗派は曹洞宗で、釈迦牟尼仏を本尊としている。1660年(万治3年)に亡くなった福昌寺3世「益室恩秀大和尚」が開山したと伝えられている。寺に1624年(寛永元年)以降の過去帳があることから、開山はその頃であると推測されており、この過去帳には小沢田村をはじめとした数百年に渡る村の葬者達の名前が記されている。明治維新頃から1892年(明治25年)までの間は廃寺同様な状態となっていたが同年に中興され、1907年(明治40年)に建物が建立された。境内の左側に5体の地蔵が祀られている²⁴’²⁵。

常光寺涅槃像

常光寺で保管されている掛け軸。掛け軸は全長204cm・幅110cm。図の裏書によると、1828年(文政11年)の津方大梁大和尚時代、羽立村の相馬彦右衛門が先祖の供養を目的とし寄進したという。寺では釈迦の入滅日(2月15日)の涅槃会にて御開帳している²⁶。

八幡神社

八幡神社鳥居
八幡神社鳥居
八幡神社拝殿
八幡神社拝殿

杉花字杉花19-9に位置する杉花の氏神。八幡様とも呼ばれ、祭神は応神天皇。例祭日は4月15日。宮司は矢旗政義が務め、氏子は40戸²⁷。春祭りでは1年間の安全と豊作を祈り「湯立」が行われる。湯立では、神官が藁を束ねたもので釜の湯を掻き回し、湯の飛沫をあげるもの。この釜に水を入れる者には両親が健在で未婚の男が選ばれ、白草履にタスキがけ行われる。湯立の後は神社で直会が催される。また、戦前の祭礼では前夜に舞台を作り踊りが行われたという。春祭りの際には、部落内の大平山・相善様・山神様も祀る²⁸。

山神社

八幡神社境内社
八幡神社境内社

杉花字杉花19-9に位置する神社。祭神は大山祇神で、例祭日は3月12日と9月12日。八幡神社同様、矢旗政義が宮司を務める。氏子は6戸。山神様の日には、山に入ってはいけないとの言い伝えがある²⁷’²⁹。

大平山様

戦前の頃、田口仁吉が能代から御神体を運んできて、田口富雄宅前の畑道を進んだ先にある杉山の南側頂上に祀った。祭日は4月17日。戦後からは八幡神社の祭日に一緒に行うようになった³⁰。

相善様

大平山様が祀られている山の北側に祀られている。戦前頃までは、上仏社の相善様まで参詣に行っていたが、行かずに済むよう同地に祀られることとなった。祭日は4月5日だが、大平山様と同じように八幡神社の祭日に祭られるようになった³¹。

屋敷氏神

地内のいくつかの民家では敷地内などに祠を置き氏神を祀られている。杉花では不動様を祀る家が多く、稲荷様を祀っているのは田口耕作宅のみ³²。

文化

庚申講

庚申塔など
庚申塔など

杉花では、庚申様は道案内の神様と伝わっており、講員が「オーコーシンデ、マイタリマイタリソーワーカー、イチニハチダイ、チゴゴトウリノサンギサン、ロッコウダイシ」と7回唱えたという³³。

唐松講

杉花の唐松講では、回り番で毎月8日に宿を取り、秋田県仙北郡荒川村境の唐松神社で安産祈願をしていた。参加者は盆の上に1000円を置いて鉦を鳴らし、手を叩き席に着く。季節のモノと御神酒を供え、ロウソクが立てられた。また、集まったお金は女性の出産・結婚をする必要な時に貸し出され、利息は1000円に対して10円で3〜12ヶ月以内に返済していた³⁴。

天王山講

杉花の天王山講では、回り番で2人に代参者が秋田県船越天王町の東湖八坂神社へ参詣をしていた³⁵。

伝説

雪バンバ

悪いことをすると”雪バンバ”が来て山へ連れて行かれるという。杉花だけでなく沖田面でも”雪バンバ”の伝説があり、そちらでは「雪のたくさん降る日」に”雪バンバ”が来ると伝わっている³⁶。

脚注

出典

  1. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.831.
  2. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.308.
  3. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.52.
  4. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.158-163,168.
  5. 上小阿仁村百年誌編纂委員会.上小阿仁村百年誌.上小阿仁村,1989,p.40.
  6. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.178.
  7. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.192.
  8. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.188.
  9. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.237.
  10. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.150,p.310.
  11. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.22-23.
  12. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.353.
  13. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.199-200,p.309.
  14. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.309.
  15. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.310-311.
  16. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.274,p.316-326.
  17. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.328.
  18. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.332-333.
  19. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.355.
  20. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.359-360.
  21. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.374-377.
  22. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.479.
  23. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.721-723.
  24. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.309.
  25. 東洋大学民俗研究会.上小阿仁の民俗 : 秋田県北秋田郡上小阿仁村.東洋大学民俗研究会,1980,p.312,p.330.
  26. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.978.
  27. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.915.
  28. 東洋大学民俗研究会.上小阿仁の民俗 : 秋田県北秋田郡上小阿仁村.東洋大学民俗研究会,1980,p.297.
  29. 東洋大学民俗研究会.上小阿仁の民俗 : 秋田県北秋田郡上小阿仁村.東洋大学民俗研究会,1980,p.331.
  30. 東洋大学民俗研究会.上小阿仁の民俗 : 秋田県北秋田郡上小阿仁村.東洋大学民俗研究会,1980,p.332.
  31. 東洋大学民俗研究会.上小阿仁の民俗 : 秋田県北秋田郡上小阿仁村.東洋大学民俗研究会,1980,p.333.
  32. 東洋大学民俗研究会.上小阿仁の民俗 : 秋田県北秋田郡上小阿仁村.東洋大学民俗研究会,1980,p.309.
  33. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.314.
  34. 東洋大学民俗研究会.上小阿仁の民俗 : 秋田県北秋田郡上小阿仁村.東洋大学民俗研究会,1980,p.317.
  35. 東洋大学民俗研究会.上小阿仁の民俗 : 秋田県北秋田郡上小阿仁村.東洋大学民俗研究会,1980,p.319.
  36. 上小阿仁村史編纂委員会.上小阿仁村史 通史編.上小阿仁村,1994,p.967.

参考文献

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上小阿仁村史 通史編

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上小阿仁村

1994
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南沢杉花

上小阿仁村百年誌

上小阿仁村百年誌編纂委員会

上小阿仁村

1989
586
図書
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南沢杉花

上小阿仁の民俗 : 秋田県北秋田郡上小阿仁村

東洋大学民俗研究会

東洋大学民俗研究会

1980
456
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杉花

写真

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