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集落データベースとは?遺村プロジェクトマップご利用運営お問い合わせ舘越
舘越(たてごし)は、秋田県南秋田郡五城目町の大字。中山や岩野山の砦から派出された集落とされている。1592年(文禄元年)の記録によると、舘越村は佐竹氏の支配下にあったという。江戸時代初期には新田開発と堰の建設が行われ、水利権に関する厳格な規定が設けられた。近代に入り行政区画が再編され、1942年(昭和17年)には五城目町の一部となった。
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地理
地名
地名に「タテ」と付く地は奈良時代以降の奥羽・関東地方の屯田集落で多く見られ、舘越は中山や岩野山の砦から派出した集落と云われる¹。
歴史
近世
1592年(文禄元年)に作成された『秋田城介実季領地分限帳』の御領内総高書によると、舘越村は高崎・井内小内沢・久保村と共に小介川又四郎代官所の支配下にあった²。
常陸国から秋田へ転封された佐竹氏は、家臣に所領の一部を与え、知行地としてその部分の支配権を持たせた。秋田藩ではこの給人を「地頭」と呼んでいた。一方、下級の家臣に対しては、藩主に入る年貢から米や金銭を与える「蔵米知行」を採用。よって秋田藩の領地は、藩主が直轄して年貢を取る「蔵入地・蔵分」、地頭に分け与えられた「知行地(給分)」があり、地頭には比較的まとまった土地が与えられたため、その土地と農民に対する強い支配力を持っていた。しかし、次第に藩の支配力が強まると知行地が複数の村に分散され、 地頭の直接的な支配力も下がっていった。それでも、江戸時代末期でも全体の約7割を知行地が占めており、秋田藩では地方知行制が機能していた。また、地頭が自身の資本力で新田開発し知行地に組み込んでいたため、知行地は増加してた。1794年(寛政6年)2月の『六郡惣高村附帳』から各村高と蔵分・給分の内訳がわかる。これによると舘越村の村高は162石9斗4升3合で、そのうち蔵分4斗6升8合・ 給分162石4斗7升9合と、ほとんどの土地が知行地だったと分かる³。
近世において当地方では、検地が終わると各村ごとの年貢の村高が決定し令書が出される。秋田では、令書に領主の黒印が押されていることから「黒印御定書」と呼ばれていた。黒印御定書の中でも1702年(宝永2年)のものが各地で確認されており、そこから当時の舘越の村高・免(貢租の割合)・物成(貢租)がうかがえる。そのうちの「秋田郡舘越村物成幷諸役相定條々」から、舘越のの本田(高108石6斗9升6合)と新田(高21石4斗9升9合)に6ツ2分(62%)の免が割り当てられ、高34石3斗2升2合の新田に対しては免が4ツ割り当てられていたことが分かる。そして、157石4斗1升6合の村高のうち、物成が94石4斗5升であったと記されている⁴。
近世において村を自治する長である肝煎であるが、舘越村に残る文書の1つに、肝煎の横暴な振る舞いを数え上げ交替を願い出たというものがある。尚、この願いを出した時点でその肝煎は辞任していた⁵。
新田開発と堰
江戸時代になったばかりの頃の舘越村周辺は、新田開発に適した野谷地が多かったものの、水源が高崎村の落水と本田の落水、また岩野山からの沢水と水に乏しかった。そのため、切添程度の小規模開発に留まり、時には新田の作付けが不可能になり荒地になることもあった。そこで樋口村肝煎五兵衛が、馬場野目村第釈寺(現:帝釈寺)の馬場目川から取水し、樋口村まで引水する計画を同村地頭・真崎長右衛門季富に上申。1615年(元和元年)、長右衛門は実地検分した上で藩に願い出て、翌年に指紙を頂いた。この実地検分の際、計画遂行にあたり堰が通ることになる館越村などと調整談合が行われたと推測されている。また、この時決定した舘越村や高崎村との水利権などは、現代に至っても「水慣行」として厳しく守られていたという。用水路の工事は、長右衛門が資金となる持銀30貫目余りを拠出し、農民たちが労働力を提供して進められた。1617年(元和3年)に始まった工事は、翌年には樋口村まで幹線水路が通り竣工した。この堰は長右衛門の名から、現在でも「真崎堰」と呼ばれている。また、この開発工事は各村の有力者である肝煎・上農層の参加が不可欠で、彼らが参加したことで百姓全部が参加する形が実現した。その有力者の1人に舘越村の斎藤喜左衛門が挙げられている。今日、真崎堰による灌漑地域は約1000haに及び、県内有数の用水路に数えられている。1889年(明治22年)調べの真崎堰用水利用反別によると、舘越は20町2反3畝7歩だという⁶。
真崎堰通水後に開田されたとされる、舘越と高崎の間の舘越寄りの一帯は「治左衛門畷」呼ばれる。その名の由来となる治左衛門は、槐村の村役人で、中山と雀館の間の切り通しを受け持たされ、村人を励まし昼夜関わらず工事をして開田。その責任者の名が付けられたと伝わっている。尚、それを裏付ける史料は確認されていないため真偽は不明⁷。
厳格な取り決めと権利
水田耕作において水は、品質を作用する重要な要素の1つで、多いから良いというわけでもなく、余った捨て水を簡単に他の田にいれるわけにもいかなかった。更に、時期によっても必要な水量は変わるため、必要な時に必要な分だけ水を入れなければいけない。そのため農業用水を引く堰ができても、用水の水利権を関係村で調整しなければならず、水の管理は容易なものではなかった。したがって、水管理は村相互の細密な協定を取り決め、水肝煎を置き、本田肝煎・新田肝煎がこれに協力し運営された。これらの用水利用や堰の維持管理に関する当時取り決められた規則や約束などの効力は、現代にも及んでいる。この取り決めは「水慣行」と呼ばれている。この水慣行に関する1674年(延宝2年)舘越村の『水掛り道乗(のり)之覚』 には、「馬場目川を馬場目地内で横止めを作り引水していること」「はたの沢とゆふり沢から沢水を引いてるという3箇所の水源のこと」「余った水を高崎村の堰に落として高崎村で利用されていること」が記録されている。ここでいう馬場目川の取水口は帝釈寺の取水口を指しているとされ、沢水は量に乏しく低温だったであろうことから、舘越村の水田は真崎堰の水が大部分だったと推測されている。 現代の水権利にまで影響を及ぼす「水慣行」であるが、舘越村の真崎堰利用の権利がはっきりと記された古い文書『真崎堰関根文書一紙』がある。この文書は、1622年(元和8年)4月に水肝煎の樋口村五兵衛から出された権利書。当時から舘越村は狭く細い土地で、それに伴い田地面積も小さかった。そのため戸数を増やさない慣わしのようなものがあった。事実、戸数に大きな変動がなかったという。そういった事情の中、1616年(元和2年)の最初の開発では「用水路維持費用の無償」「捨て水の無制限の利用」が代償として約束された。しかし、1622年(元和8年)頃に新田開発が規模が拡大されるにあたり、用水の幅を広げる必要が出てきた。そこで、狭い土地が更に小さくなる舘越村にはそれ相応の見返りが必要となり、新たな協定がこの権利書をもって結ばれたという。文面には不明瞭な点もあるが「用水の半分は使用する権利がある」という。狭い土地である舘越村において、普段必要な水量は少なかったと思われるので、この権利は日照りで水不足に悩まされたときに効力を発揮したと推測されている。舘越村にとって重要なこの文書は、当初舘越村の草分けである斎藤家で保管されていた。その後、解約されるのを恐れ村人にも公開し、年番の家が保管の責任を持つようになった⁸’⁹。
堰をめぐる紛争
1791年(寛政3年)、舘越村肝煎小三郎と長百姓等の連名で、他の7ヵ村に対し、勝手な普請をしていると郡方に御検使(調査)を願っている。発端は舘越村地内での堰普請により御高地が潰地となったこと。舘越村側は、潰地を元に戻すようにと申し入れたが、7ヵ村が応じず埒が開かないと抗議。また、7ヵ村からも御検使派遣を願っているようだが、迷惑してるのは舘越側だと主張した。尚、この申し出に対する記録は確認されていないため、その後の処遇は不明。しかし、この文書から、他七ヶ村にとって重要な堰普請の為でも、耕地が少ない舘越村にとって潰地が発生することは容認できない事だったのが分かる¹⁰。 また1793年(寛政5年)には、堰を利用する「御堰郷」8ヵ村の工事費用分担の取り決めにおいて、舘越村が非協力的だと、親郷の五十目村肝煎宛に上樋口村肝煎が訴えている。水門立替えや普請などの工事費用は、高(水量)に応じて計算すれば良いと他村は考えたが、舘越は簡単に首を縦に振らずに苦情を言って、困っていたという。そこで、親郷肝煎から舘越村に「他7ヶ村と同様に支出するよう」と仰せつけるよう、上樋口村肝煎が訴える始末となったのだ¹¹。 1832年(天保3年)5月、舘越村の肝煎等が堰下流の開発により困っていると訴状を提出。下流開発により地内の堰筋に沿って5尺が潰地となることが問題だった。10月・11月にも、下流の開発主と思われる志崎須之助・郡方吟味役菅生兵右兵衛に訴えており、村民にとって土地が潰されることがどれほど深刻なことだったか窺える¹²。 堰費用分担のような水慣行を決めるにあたり、ひとくちに分水量で決定すると言っても、水路や水門の大きさ・通水する時間など様々な要因を考慮する必要がある。また、旱魃や洪水などの有事における対処方法も決めなければいけない。1896年(明治29年)1月の「真崎堰用水費大割当高」に各村の具体的な数字が記録されているのだが、舘越の分は記されていない。これは元和年間の約定が近代に入っても有効だったためとされている¹³。
天保の飢饉
1833年(天保4年)から農村を襲い始めた大凶作により米価は急騰。それに対し、同年10月、秋田藩は御救小屋を城下に4箇所、1郡1箇所設置し、飢民に1日1合5勺支給したという。さらに、五城目と付近の村々の大高持たちが米を出し合い、高性寺の境内にも御救小屋を置いた。天保の飢饉において、藩の正式記録には天保5年悪疫流行により52,400人余りが亡くなった記され、非公式の記録には秋田6郡の人口43万人弱のうち十数万が餓死したとある。『舘越村肝煎文書』には、1834年(天保5年)1月からひと月毎に保有米・人口を調査した記録が残っており、この惨状の様子が窺える。正月の調書によると残っていた米はたた5石余りで、人口120人のうち50人はどうにか食い繋ぎ、残り半分以上は御救米などに助けられている状況だった。また、1833年(天保4年)11月に御救小屋に17人送ったとある¹⁴。 さらに1834年(天保5年)5月に提出された拝借願が当時の惨状を物語っている。拝借願には、米13石・調銭70貫文・根舟25丁・根掘鍬25丁が記載。米は上納分を借用したとされ、銭は買扶持の手当てと農具などの買い入れ資金として借り入れたという。また、舘越では以前まであまり根掘りをしていなかったのか、付近の山で根花を採集するための根舟・鍬がそれぞれ25丁記されている。そして同年7月、郡方へ舘越村の死亡率が約15%であると報告されている¹⁵。ただ近郷と比べると舘越村は近世を通じ戸数・人口は一定で増減が少なかった。これは前述した狭い土地柄から、必要な労働力は人口を抑えて、田地に応じた戸数を保つという文化で、こうでもしないと生活できない状態だったと推測されている¹⁶。
近代
近代に入り施行された大小区制だが、1873年(明治6年)3月に大区小区の編制替が行われ、大区に区町、小区には副区長又は戸長が置かれた。これにより、舘越村は第1大区11小区に属した。1878年(明治11年)7月22日の郡区町村編制法の制定により、同年12月に郡制が施行され、秋田郡は南秋田郡・北秋田郡に分かれた。また、1町村に1戸長が通常であったが、財政面などで難しい場合は複数の村を合わせた組合村で1戸長置くことが認められ、舘越村は五城目・馬場目村など10ヵ村で構成された組合村に属した。その際、組合首部役所は五城目村に置かれた。1888年(明治21年)4月25日に町村制が交付され、上樋口・久保・高崎・舘越村が合併し馬川村が誕生。馬場目川の流水を利用し耕作を行う村々ということが村名の由来であるが、新村名選定の際、舘越村から他の案だった「世智会(よちあい)村」を望むという声もあった。しかし、不適切として採用されなかった。尚、4つの村が合併する「四ッ会村」から「世智会村」が発案されたと云う。こうして、近代以前より独立した村として扱われていた舘越、以降大字として地名が残ることとなった¹⁷。
現代
1942年(昭和17年)3月10日、五城目町と馬川村が合併し舘越は五城目町に属すようになる。戦後の1955年(昭和30年)3月31日には、その五城目町・馬場目村・富津内村・内川村・大川村の5ヵ町村が合併し、新しい五城目町が誕生した¹⁸。
1985年(昭和60年)10月20日、町村合併30周年を祝う「躍進五城目町合併三十周年記念式典」が催され、町功労者として舘越の本間作治が表彰された。本間作治は、1934年(昭和9年)から1972年(昭和47年)まで教師として教育振興に尽力し、町域の小中学校の校長などを歴任。退職後、1973年(昭和48年)からは五城目町社会教育委員長を務め、さらに秋田県柔道連盟理事として後進の育成に貢献した¹⁹。
脚注
出典
- 五城目町史編纂委員会.五城目町史.五城目町,1975,p.526.
- 五城目町史編纂委員会.五城目町史.五城目町,1975,p.211.
- 五城目町史編纂委員会.五城目町史.五城目町,1975,p.238-241.
- 五城目町史編纂委員会.五城目町史.五城目町,1975,p.252-253,p.257-258.
- 五城目町史編纂委員会.五城目町史.五城目町,1975,p.325.
- 五城目町史編纂委員会.五城目町史.五城目町,1975,p.283-286.
- 五城目町史編纂委員会.五城目町史.五城目町,1975,p.287.
- 五城目町教育委員会 生涯学習課.“41.真崎堰関根文書一紙”.朝市と城のある町 五城目町.https://www.town.gojome.akita.jp/bunkazai/tangible/detail_028.html,(参照 2023-12-25).
- 五城目町史編纂委員会.五城目町史.五城目町,1975,p.300-302.
- 五城目町史編纂委員会.五城目町史.五城目町,1975,p.302-304.
- 五城目町史編纂委員会.五城目町史.五城目町,1975,p.304-305.
- 五城目町史編纂委員会.五城目町史.五城目町,1975,p.308.
- 五城目町史編纂委員会.五城目町史.五城目町,1975,p.309.
- 五城目町史編纂委員会.五城目町史.五城目町,1975,p.452-453.
- 五城目町史編纂委員会.五城目町史.五城目町,1975,p.454.
- 五城目町史編纂委員会.五城目町史.五城目町,1975,p.455,468.
- 五城目町史編纂委員会.五城目町史.五城目町,1975,p.483,p.486,p.512-513.
- 五城目町史編纂委員会.五城目町史.五城目町,1975,p.616,p.635.
- 五城目町文書広報課.18団体と124人を表彰.広報ごじょうめ.1985,No.526,p.2.
参考文献
タイトル | 著者・編集者・編纂者 | 出版社 | 出版年 | ページ数 | 資料の種別 | URL(国会図書館サーチなど) | 所蔵図書館・利用図書館 | 集落記事 | Tags | 注記 |
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五城目町史編纂委員会 | 五城目町 | 1975 | 768 | 図書 | 舘越 | |||||
五城目町文書広報課 | 五城目町 | 1985 | 8 | 雑誌 | 舘越 |