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椿井(つばい)は、熊本県山鹿市の大字。1965年(昭和40年)に古墳時代のものと見られる御園石棺が発見され、中世には山鹿庄に属していた。近世では、加藤氏時代の検地帳と細川忠利の『地撫帳』に土地の記録がなされた。明治初期には小規模な村で、自由民権運動、戸長征伐、西南戦争の影響を受けた。
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小字
椿井の小字は以下の通り¹。
東大浦 | 岩本 | 原 | 西原 | 舛形 |
津留 | 坂本 | 東屋敷 | 西屋敷 | 尾崎 |
西大浦 | 眉間 | 苗代ヶ浦 | 下田 |
歴史
古墳時代
1965年(昭和40年)6月12日、農道拡幅工事により椿井字東居敷377(徳永鈴喜の所有地)で御園石棺(おぞのせきかん)が発見された。また同年6月12日、隈昭志・立山広吉・山鹿高校並びに鹿本農業高校生徒により調査がおこなわれた。尚、石棺の発見が工事中で、南側の1枚を残して他は元の位置から移動してあった、そのため、石材を抜き取った痕跡と工事関係者の記憶を元に復元され調査が行われた。石棺は、内法で全長約178cm・幅約44cm・床面までの深さ約49cm。棺材には全て凝灰岩が用いられ、内側を平坦に加工した各2枚の側石(計4枚)と各1枚の端石の計6枚からなり主軸をほぼ北西-東西にとっていた。尚、発見当時には棺蓋が3枚あったというが、最終的に確認されたのは2枚だった。また古墳時代の古墳・石棺にみられれる朱(赤色顔料)は内外とも確認されず、副葬品も不明。隣接地に朱痕が残る石材が数個散乱していたこと、すぐ南側の一段低い畑では2〜3基の石棺があったと云われること、更に東方20mの畑の境石に棺材が用いられることなどから、ここには10基ほどの石棺群が存在していたのではと推測された。また昭和初期に行われた道路工事の際、御園石棺の西方約200mの西屋敷で朱塗りの石棺から人骨2体と刀等が発見されたという²。
中世
「肥後国誌」によると、山鹿郡には平安時代以降の庄園として山鹿庄・尾登利庄・宮崎庄があったとし、それぞれの庄に属した近世の村名が記録されてあり、椿井村が中世に山鹿庄に属していたことがわかる。ただ、椿井村が山鹿庄域にあったのは確かだが、当時行政区としての村として認められていたかは定かではない。尾登利庄と宮崎庄に関しては庄園制時代の史料が一点も残っていないことなど信憑性に欠けるが、山鹿庄成立の経緯は「中右記」「醍醐雑事記」所蔵の文書などで確認されている³。
近世
1589年(天正17年)から1611年(慶長16年)に至るまでの加藤清正の入国後に実施した検地帳が原本・控・写を含めて3,956冊確認されており、そのうちの1つに1604年(慶長9年)9月の椿井村の検地帳がある。これによると、椿井村の田畑別反別(面積)は田150,011反・畑162,222反で計313,026反、田畑別の分米(生産量)は田184.75606石・畑117.00637石の計301.500石、屋敷登録人は14人だったと分かる。尚、ほとんどの村々には物成(税率)が表記されていたが、椿井村に関しては不明。この検地帳には農地の名請人として、土器屋・神主し・道場など様々な名称で検地帳に記録されており、椿井村では大法寺の名がみえる⁴。
近世における当地方の土地の帳簿は上述の加藤氏時代の検地帳が主で、細川忠利の入国後に作成された『地撫帳(ぢならしちょう)』はこれを補足したものだった。これらを基に貢租(主に米)が定められていたが、地撫が全ての郡村で実施されなかったこと、作成後の開墾や流失による面積の増減などにより、古帳と現状の差異が生じていたため年貢の不均衡が起きていた。しかし、全領内を測量し新たに検地帳を作るのは多くのリソースを費やすことになる。そこで郡横目田添源次郎定斯は、田畑の面積は改めず小字ごとに一筆の土地に番号を割り振り、本田畑のみならず新野開や畝物などの開墾地・借り受けた藪地など全ての土地を古帳と引合せ、新たに帳簿を作ることを提案。こうして、1757年(宝暦7年)から1769年(明和6年)の13ヵ年で『地引合見図帳』並びに『下ヶ名寄帳』が作成された。椿井村を含む山鹿市域の村々に関するこの諸帳は県立図書館に保管されているという⁵。
宝暦年間(1751年-1763年)成立と推定されている「肥後国中寺者御家人名附」や1727年(享保13年)ごろ成立の「肥後国誌草稿」から近世中期頃の山鹿郡に所在した主要寺社がうかがえ、当時から椿井村に真宗の正泉寺があったことが分かる。正泉寺の開基は1654年(承応3年)で山鹿湯町光顕寺の末寺。また、1667年(寛文7年)頃に北島雪山が編集した『国郡一統志』では「大宝寺 大日」とあり、これは1759年(宝暦8年)の『椿井村田畑下ヶ名寄帳』の西屋敷にある「外九歩 大日如来堂床」と同一のものと推測されている。この大日如来像の背面墨書銘から、1682年(天和2年)に松本太良左衛門尉・同彦左衛門尉が施主となり、佛師靱負藤原種俊により彩色がされたことが分かる。また棟札から、1722年(享保7年)3月に松本惣吉が願主となり大日堂が再興されたことも窺える⁶’⁷。
山鹿西部大橋ができるまでの間、約300年も産業・交通などの発展に貢献した渡船であるが、椿井にはこれの渡船場・荷出場・波止場があった⁸。
「御侍御知行高附(假題)」によると、椿井村の給人には井上十郎右衛門・陳佐左衛門・続亀之允・落合藤助がおり、知行総高は順に400石・300石・300石・200石だった⁹。
近代
明治初期の椿井村は戸数40軒・人口196人と山鹿市域の中では小規模な村だった。物産には米麦・煙草草・七島・藺(いぐさ)・楮皮・白麻などの商品作物が多かった。また大工1軒・桶1軒・石工3軒と荷舟が一艘あった¹⁰。
近代における椿井の物産品に七島・藺が挙げられているが、山鹿では七島2,000貫目・藺4,000貫目と多く生産されていた品で、椿井村の生産量は前者が20貫目で後者が10貫目ほどだった。山鹿の町部西側一帯は、「湯の尻」と呼ばれる湿地帯で、深田のため稲作に適さず湿田に合った七島や藺が植えられるようになったと云う。七島は、4月下旬から5月上旬に植え付けられ、9月に刈り入れられると、イカダで川を下り、椿井などの村々の河原石の上に干され乾燥させられた。晴天の場合はここで2〜3日干され、乾燥後は馬に積んで持って帰られた。この七島は頑丈な性質のため、蚕網(養蚕用具)や草履、畳表に使用された¹¹。
藩政時代に採用されていた手永制は近代に入ると郷組制に改められた。そのため山鹿・中村手永は両手永合わせて山鹿郡とされ、更に玉名郡の中富郷も山鹿郡に属すようになった。また、新たな行政区画として「組」が新設され、組には里正(りせい)が任命された。当時、椿井村は熊本藩山鹿郡山鹿郷鍋田組に属した。しかし、1870年(明治3年)に発足した郷組制は長く続かず、翌1871年(明治4年)12月に戸籍調査のため大・小区を編成し、郡の出張大属を戸長、里正を副戸長と改めた。戸籍編成のため定められた大小区であったが、1872年(明治5年)10月に行政区画として採用された。これにより椿井村は15大区17小区に組み入れられた。更に1874年(明治7年)2月からは行政区画の再大改正が始まり、8月までに白川県全域の大区は53から16に減少し、椿井村は6大区11小区に属した。また大区には区長、小区には戸長と副戸長が任命された。以前は戸長・副戸長に支給されていた官費は実学党政権没落に伴い廃止され、1874年(明治7年)1月から民費に拠るようになっていた。しかし、民費支給に替わっても依然として任命権は県にあったため、民衆の不満は募り、後の戸長征伐に繋がった。以下が明治初期の椿井村の行政区画の変遷¹²。
年代 | 椿井の上位行政区 |
1870年(明治3年) | 鍋田組 |
1872年(明治5年) | 15大区17小区 |
1874年(明治7年) | 6大区11小区 |
戸長征伐
熊本における自由民権運動は、1875年(明治8年)4月26日に宮崎八郎や広田尚等が開いた植木中学校から広がる。ここでは、宮崎八郎が東京から持ち帰った「民約論」を経典のように信奉する学生・講師達が人民主権説から導かれる結論「民会開設」のため、演説や集会など民衆に対する遊説活動がおこなわれていた。椿井村の徳永慎太郎もこの植木学校に関係していた民権論者の1人とされている。上述の通り、当時の行政区は大小区が採用されており、それぞれ官選の区長・戸長が置かれていた。それは植木学校の思想とは相反するもので、更に官選である戸長の給料などの費用は人民が負担している状態だった。そのため現職の戸長の中には、自らが官選戸長であることを拒み、植木学校に倣い戸長民選の運動に入る者や連袂辞職する者もいた。結局、植木学校は半年で潰れたものの、翌年の1876年(明治9年)には全国に先駆け県民会が開設され、戸長公選の要求がされたが採用には至らなかった。尚、この頃は全国的に、負担が大きくなった農民による一揆が頻発する情勢だった¹³。
そして、1876年(明治9年)12月18日に椿井村で大祓(行事)が行われた後、村人達による肝煎(世話役)の給料増額の話し合いの中で徳永慎太郎が「戸長等が地租改正費で不正をしているように思えるので問いただしてはどうか」との旨を提案し、これに村人達も同意。翌1877年(明治10年)1月20日に実際に戸長交渉が行われたが、この椿井村での協議が山鹿郡における農民運動の最初の記録だった。前述の第一回戸長交渉に続き、1月23日にも全員での戸長交渉が行われた。また、同日に近郷の志々岐村で石代納の話し合いが行われているところ、椿井村の徳永政次が訪れ戸長交渉に同行すると提案している。この日の夜、山鹿町の戸長詰所では、椿井村を担当する11小区戸長の続適をはじめ数名の戸長・副戸長が集った。どんな話し合いが行われたかの記録は残っていないが、戸長征伐闘争の対策や今後の対応などの相談が行われたのではないかと推測されている。そして、翌24日に志々岐村の惣代等が11小区の詰所に乗り込むと、戸長以下全員辞職しており、もぬけの殻となっていたという。こうして椿井村などで行われた戸長征伐は、官選の役人達を辞任に追いやることとなった。もちろん、県もただ黙っていた訳ではなく、23日に集会禁止令を出し農民による集団交渉を禁止し、代表者による陳情を強いた。また、24日には大属(官制における役人)尾崎行正・近藤幸止や県官を大区へ派遣し、続く25日には警察権力による弾圧のため三等警部2名・五等警部3名を山鹿警察出張所に臨時出張させ鎮圧を図った。更に、代表者による陳述を促すための23日の集会禁止令も効果が薄かったため、27日に再び集会禁止令を発し、集会を全面的に禁止した。2度に渡る法的措置も農民による闘争の勢いを止めることはできず、29日には県官に直接説明を聞こうと、農民達が山鹿光専寺に集い県官近藤幸止の到着を待った。この集会には山鹿郡6大区だけでなく5大区・7大区・8大区の村々の農民が集い、もちろん椿井の農民もいた。境内にはこの大群衆がひしめき合っていたため、近藤幸止の演説も空しく埒が開かない状態が続いた。日が暮れても群衆のどよめきは続いていたが、午後8時に9小区戸長大古閑忠蔵が捕縛・連行され、8小区戸長服部倫太郎も勾留されたとの報が入り、両小区の農民は安心し解散。他の小区に関しても「じゅうぶん事実を調査の上処置する」との約束を得たため引き上げていった。尚、官側の記録によると、この逮捕劇は戸長達の身柄保護の措置であったという¹³。
結局、戸長征伐により6大区のうち山鹿郡関係の戸長・副戸長は全員辞職においやられた訳であるが、農民闘争の中心人物は続々と警察に捕われた。椿井村の徳永慎一郎もまた例に漏れず、2月1日、山十町村(現三加和町)の集会で巡査により勾引された。慎一郎等が釈放されたのは2月中旬の既に西南戦争が始まった時で、彼らは協同隊を結成し、薩軍とともに政府に立ち向かうこととなった。戸長征伐に続き起きた西南戦争が沈静化した後、関係者の取り調べが始まり処罰が下され、椿井村の一般市民24人が1円25銭の罰金刑となった。尚、慎太郎は西南戦争で命をおとしていたため処罰は下されなかった¹³。
西南戦争
1873年(明治6年)1月、政府が徴兵令を布告。これにより、武士が旧来貰っていた封録(給料)の支給がなくなった。更に、1786年(明治9年)3月の配当令により、士族の特権であり誇りでもあった帯刀が禁じられた。このような政府による規制に対し、佐賀の乱や神風連の乱などの武力反乱が勃発したものの、他地方の士族が動かなかったため、直ぐに鎮台兵に鎮圧されていた。このようなの中、1887年(明治10年)2月14日、西郷隆盛等の薩軍が別府晋介の先発隊を放ち西南戦争の火蓋が切られた。薩軍13,000人(のちに25,000人)の兵力に対し、迎え撃つ熊本鎮台の兵は3500人と僅かだったため、政府は熊本鎮座小倉分営の300人を急行させた。更に、全国各地の陸軍を派遣し、最終的には兵58,000人・艦船19隻をもって薩軍の鎮圧を図った。この時、小倉(福岡)から南下し熊本鎮座への合流を目論む政府軍、それを阻止する薩軍がぶつかり合う舞台となったのが、椿井が位置する山鹿地方だった。
椿井の属した旧川辺村域では鍋田が主戦場であったが、3月3日には椿井も戦場となった。この日政府軍は、西方の菰田の渡しから椿井にかけて堡塁を築き、東京一聯隊1ヶ小隊・大阪八聯隊1ヶ中隊が正泉寺とその周辺を陣取り薩軍を迎え撃った。一方薩軍は、東方の鍋田から麻生野を通過して台地方面から攻め入った。数時間に及んだ激戦の末、政府軍が菰田方面に後退した。この戦いにより地内の正泉寺の楼門が焼失。また、本堂の柱・雨戸・石垣などに弾痕が現在も残っている。 当初薩軍の兵は約13,000人だったが、西郷率いる薩軍に変革を期待した宮崎・大分・熊本県の同志が加担したことで25,000人に拡大。その際、薩軍に加担した「共同隊」を結成したのが、前述した戸長征伐の中心人物だった。
2月22日夜から翌朝にかけて約70名の同志が集まり、正式に「共同隊」が結成され、隊長以下の役員も決められた。この共同隊関係者に椿井村の徳永慎太郎・同重蔵・同政次が挙げられている。ちなみに慎太郎は、同月20日、失敗に終わった軍資金調達のための県庁襲撃に参加しており、この時既に共同隊の同志として活動をしていた。徳永慎太郎等は熊七の子で、重蔵が三男、政次が五男。慎太郎が何番目の子だったかは詳らかでない。いずれも戦死しており、墓碑に慎太郎は5月24日(享年32歳)に水俣郡釘野村で、重蔵は11月23日(29歳)に菊池郡城山で、政次は4月9日(享年24歳) に亡くなったと刻まれたている。尚、墓碑の銘文と『明治の山鹿』では慎太郎と重蔵の死亡場所が逆になっている。1988年(昭和63年)11月、この三兄弟の顕彰碑が共同墓地入り口に建立された¹⁴’¹⁵‘¹⁶。
1888年(明治21年)4月に政府が市政・町村制を公布したことに伴い、翌1889年(明治22年)4月1日から熊本県でも町村制が導入された。その際に財政負担の面などから町村の大合併が行われ、椿井村は鍋田村・保多田村・西牧村・麻生野村と合併し「川辺村」に編入された。「市町村制調書」によると、村名はどの村も山鹿川周辺に位置していたため村民の申し出により決まったという。また合併理由として、各村とも戸数が少なく資力が細いため独立が困難であることが挙げられている¹⁷。
1904年(明治37年)に勃発した日露戦争であるが、熊本県の兵士は第六師団に編入され、遼陽・奉天などの大会戦で重要な戦闘を受け持った。日清戦争を遥かに凌ぐ兵力が投入された日露戦争では、鹿本郡の戦死病死者は129名にのぼり、椿井でも1名の死亡が確認されている¹⁸。
名所・神社仏閣
用水の碑
岩野川右岸の鍋田横穴付近にある2つの記念碑。1つは建立地周辺の堰から鍋田・下保多田・西牧・椿井の水田まで用水が通水して100年の記念碑で、もう一方はコンクリート堰に改修された際の記念碑。前者の碑文によると、1813年(文化10年)5月、下保多田倉瀬戸から西牧部落の下までのトンネル建設を計画し、西牧・椿井の農民総出で4年間これに尽力したものの成功しなかったと云う。また、これにより耕地は荒れ、農民達は疲れ果てていた。これを見かねた西牧・椿井の庄屋北原万助が、1825年(文政8年)、細川公に願い出て岩野川に堰を設けて水を引くことになった。堰設置のため山鹿郷中から人足が駆り出され、約3ヶ月を要して同年5月2日に通水に成功。用水は総延長1里11町(5,118m)で20町余(20ha)の水田を潤した。その後も幾度か補修などが施されたと云う。尚、河川工事などの関係で1986年(昭和61年)からこの用水は利用されなくなった¹⁹。
正泉寺
正泉寺は、菅原道真に所縁のある1654年(承応3年)開基の寺。菅原道真が太宰府に左遷された際、道真に随行してきた徳永雅楽頭(がかくのかみ)の数代の孫徳永彦左衛門が椿井の安国寺に移住。本願寺から正泉寺という寺号を賜ったという。また、菅原道真にあやかり姓を「菅」に改めたとも云われている。本堂には創建当時のものと云われる、白鳥四羽・虎と孟宗竹・三匹の白兎の壁画がある。西南戦争で楼門が焼失し、本堂の柱・雨戸・石垣などには弾痕が残っていると云う²⁰。
人物
徳永栄
椿井出身の元海軍中将。1891年(明治24年)7月27日に徳永藤太郎の次男として誕生。兄の盛雄が家業(農業)を継ぎ、栄は鹿本中学校(旧制)に進学。成績も抜群だった彼は、その後、海軍兵学校・海軍大学と進み、オックスフォード大学に留学もした。1940年(昭和15年)に戦艦長門の艦長を務め、その後も教育局長・ラバール司令官・横須賀軍厰長海軍技術研究所長を歴任する中で、終戦に至った。戦後は椿井ではなく、同じ山鹿市の大字中に居住。1955年(昭和30年)10月、郷里の川辺に忠魂碑が建立された際は慰霊碑に「殉国勇士之碑」と筆を揮った。1974年(昭和49年)10月24日、83歳で亡くなった²¹。
脚注
出典
- 山鹿市史編纂室.山鹿市史 別巻.山鹿市,1985,p.499.
- 山鹿市史編纂室.山鹿市史 上巻.山鹿市,1985,p.232-233.
- 山鹿市史編纂室.山鹿市史 上巻.山鹿市,1985,p.354-355,p.360.
- 山鹿市史編纂室.山鹿市史 上巻.山鹿市,1985,p.509-511,p.519-521.
- 山鹿市史編纂室.山鹿市史 上巻.山鹿市,1985,p.585-587.
- 山鹿市史編纂室.山鹿市史 上巻.山鹿市,1985,p.628.
- 山鹿市史編纂室.山鹿市史 下巻.山鹿市,1985,p.652.
- 山鹿市町おこし運動推進協議会.ふるさと山鹿.山鹿市町おこし運動推進協議会,1980,p.106.
- 山鹿市史編纂室.山鹿市史 上巻.山鹿市,1985,p.696-698.
- 山鹿市史編纂室.山鹿市史 下巻.山鹿市,1985,p.9.
- 山鹿市史編纂室.山鹿市史 下巻.山鹿市,1985,p.614-615.
- 山鹿市史編纂室.山鹿市史 下巻.山鹿市,1985,p.14,16-19.
- 山鹿市史編纂室.山鹿市史 下巻.山鹿市,1985,p.91-124.
- 山鹿市史編纂室.山鹿市史 下巻.山鹿市,1985,p.126-132.
- 山鹿市町おこし運動推進協議会.ふるさと山鹿.山鹿市町おこし運動推進協議会,1980,p.109-110.
- 西南の役山鹿口戦蹟顕彰会.西南の役 山鹿口の戦蹟を訪ねて.西南の役山鹿口戦蹟顕彰会,1989,p.16.
- 山鹿市史編纂室.山鹿市史 下巻.山鹿市,1985,p.214.
- 山鹿市史編纂室.山鹿市史 下巻.山鹿市,1985,p.245-246.
- 山鹿市町おこし運動推進協議会.ふるさと山鹿.山鹿市町おこし運動推進協議会,1980,p.110-111.
- 山鹿市町おこし運動推進協議会.ふるさと山鹿.山鹿市町おこし運動推進協議会,1980,p.110,117.
- 山鹿市史編纂室.山鹿市史 下巻.山鹿市,1985,p.352.
参考文献
タイトル | 著者・編集者・編纂者 | 出版社 | 出版年 | ページ数 | 資料の種別 | URL(国会図書館サーチなど) | 所蔵図書館・利用図書館 | 集落記事 | Tags | 注記 |
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西南の役山鹿口戦蹟顕彰会 | 西南の役山鹿口戦蹟顕彰会 | 1989 | 30 | 図書 | 椿井 | |||||
山鹿市町おこし運動推進協議会 | 山鹿市町おこし運動推進協議会 | 1980 | 164 | 図書 | 椿井 | |||||
山鹿市史編纂室 | 山鹿市 | 1985 | 802 | 図書 | 椿井 | |||||
山鹿市史編纂室 | 山鹿市 | 1985 | 776 | 図書 | 椿井 | |||||
山鹿市史編纂室 | 山鹿市 | 1985 | 847 | 図書 | 椿井 |