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概要
焼米(やいごめ)は、熊本県玉名郡和水町の大字。菊池川の北方と坂田川の東方に位置し、沖積低地と水田が広がる。1608年(慶長13年)の人口は56人。旧石器時代の大屋洞窟や弥生時代の甕棺墓地「焼米柳林遺跡」が発見されている。中世では玉名東郷荘に属し、焼米氏が代表的な存在であった。近世には加藤清正の総検地が行われ、村高が定められた。また、細川忠利により手永制が導入され、村は変化した。近代には養蚕が盛んで、共同製糸場が設置された。1990年(平成2年)には集中豪雨による水害が発生した。焼米城は中世における焼米村の中心的な施設で、13世紀半ばまで遡る可能性がある。
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地理
焼米の北方に菊池川が流れ、南から北へ流れる坂田川が東で接する山鹿市との境になっている。この2つの河川沿いには沖積低地が広がり、水田をみることができる。地内の東半分は台地となっており、その崖下に県道和仁・菊水線が通る。また南部で主要地方道玉名・山鹿線が東西に通過している¹。
人口
焼米の人口は以下の通り²。
西暦 | 世帯数(家数) | 人口 | 注記 |
1608年(慶長13年) | 20 | 56 | 焼米村・下焼米村の合算 |
1985年(昭和60年) | 39 | 144 | |
1995年(平成7年) | 39 | 129 | |
2005年(平成17年) | 43 | 112 | |
2020年(令和2年) | 28 | 60 | 令和2年国税調査 |
歴史
旧石器時代
日本において、旧石器時代の石器を作った跡や調理した跡は発見されているものの、明確な住居跡は確認されていない。しかし、自然の洞窟を住居とした例は多く確認されており、焼米でも旧石器時代人が住居として利用した可能性がある大屋洞窟が発見されている³。
弥生時代
弥生時代における墓は、前期では成人が土坑墓、小児が甕棺墓・壺棺墓に埋葬されることが多く、成人用の甕棺墓は少なかった。しかし中期になると、成人用の甕棺墓が盛んに作られるようになった。熊本県を例にとった甕棺墓では、方形の縦穴をローム層まで掘り込み、そこから斜め又は横穴を堀り、その穴に甕棺を埋める埋葬方法が用いられている。甕棺墓は福岡・佐賀県を中心に長崎県・熊本・大分・山口県に分布しており、熊本県内では県北部菊池川・白川・緑川流域に多く分布し、南は宇土半島基部周辺にまで及ぶ。焼米では、この弥生時代中期の甕棺墓地「焼米柳林遺跡」が発見されている⁴。
中世
中世において焼米が属した旧菊水町域は、玉名東郷荘に属し、12世紀前半には醍醐寺無量光院領「山鹿荘」の一部だったとされている。また山鹿荘は、1145年(久安元年)に鳥羽院が一部を孔雀明王堂に割き分けられたことで、醍醐寺無量光院領と仁和寺仏母院領に二分された。しかし、鎌倉時代初期に仁和寺仏母院領玉名荘の存在が確認され、同荘に関する初見史料として、1192年(建久3年)8月27日の恵眼房阿闍梨(性我)宛の仁和寺守覚法親王御教書土台が挙げられる。この史料から、1192年(建久3年)時点で玉名荘が存在し、そこに地頭が置かれていたことが推測されており、玉名荘成立の直接の契機に荘務の分割がある。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて山鹿荘の荘務にかなりの変化があったと窺える文書などがあり、そこからこの時期に荘務権の分割が行われ山鹿北荘・南荘・玉名荘などの区分が成立したと考えられている。このような荘務の分割には山鹿荘の年貢徴収がうまくいってなかった背景があったという。 「肥後国誌」によると、東郷荘内の村の1つに焼米村が挙げられている⁵。
中世における焼米の様子を窺えるものに、地内の西福寺跡にある、1482年(文明14年)3月17日の紀年銘をもつ六地蔵の竿石や13世紀後半のものとみられる薬研彫りの宝塔などの石塔群が挙げられる。前者に関しては、当地名を名字に持つ村落領主(地侍)の焼米秀秋が主導し、50人以上の善男善女が結縁し「現世安隠 後世善処」を願って建立した竿石。この法名を持つ男女50人以上の結縁は焼米一族のみでなく、同じ地域内で信仰と規範を共有する焼米の百姓も含まれていたとされている。このことなどから、焼米氏は中世における当地の代表者であり、字飛来で確認された焼米城跡が中心施設の役を担っていたと推測されている⁶。尚、六地蔵の竿石の現在地にこれ以外の石材が見当たらないことなどから、周辺にあったものが移設されたという⁷。
近世
加藤清正は、肥後熊本藩の領主になってから1608年(慶長13年)までの間に、領内の実態を把握するため総検地を実施。この総検地では太閤検地の石盛を採用された。ただ、中世的村落をもとに行われた太閤検地に対し、当総検地では実際の社会生活の場としての村落ごとに行われたため、中世的村落は数ヵ村に分けられ、近世の村として村高が定められた。そのため、太閤検地による郷帳では焼米村の村高364石7斗9升5合とあるのに対し、慶長13年検地帳では焼米村に加え下焼米村の村高が設定されている。両村の総検地は、どちらも堀江忠兵衛と水谷喜右衛門尉が検地奉行を担当し11月吉日に実施された。村高は、前者が360石6斗で後者が126石2斗2升5合だった。また家数や人口も記されており、焼米村は家数14軒・人口38人で下焼米村は6軒18人だった⁸。
細川忠利は、熊本藩に入国した翌年の1633年(寛永10年)5月、それまで加藤氏時代に採用されていた郷組制から手永制に切り替え、惣庄屋を任命した。ただ当時の惣庄屋は、郷組制を踏襲したものだったのか、郷組の大庄屋がそのまま任命されたと云う。手永とは、郡と村の中間に位置する行政区画で、数ヵ村から数十ヵ村を管轄し、郡には数手永が置かれていた。そして、惣庄屋がこの手永の長として郡奉行の支配を受けて地方行政を行なっていた。「地撫帳」によると、1639年(寛永16年)時点で焼米は内田源兵衛手永に属していた⁹。
1604年(慶長9年)の太閤検地による郷帳に記載されていた村は110村だったが、その後分化され享保年間(1716年〜1735年)には6手永252村にまで増加した。「新編肥後国志草稿」によると、当時の焼米村の361石余りで、村内には小村「榎原」があったという¹⁰。
近世中期、太閤検地以来の熟田畑である本方(蔵納・知行地)でなく、加藤家以来の古新地・郡方山方新地・諸開(野開きなど)について、村人立ち会いの上で一筆ごとに地番を付して検地帳と現地を照合した、宝暦地引合検地が行われた。これは江戸中期における重要な検地で、名請人を設定し、財源確保と雑税負担者の確定を企図するものだった。成果として700町の隠田を摘発し、古新地・御郡方新地と諸開も一筆残らず名請け人が設定された。この検地による焼米村の村高は、本方269石3斗5升3合6勺6才・新地方27石1斗5合と記録されている。また、村役人は清七で頭百姓2人・小百姓35人とある¹¹。
近世における菊池川舟運には、川平太船(川舟)という底の浅い荷物運搬用のものが用いられていた。構造上穏やかな川を上下するものであったため海上交通には適しないものだったと云う。また菊池川に関する川舟には御侍衆御手船と手永役船の2種類あり、前者は知行取の侍が自身の知行地から年貢米などを積みくだすための船だった。そうした性質上、御手船の預け先は知行地となるため、焼米にも1艘預けられていた¹²。
1858年(安政5年)に日米修好通商条約が締結して以降、生糸などの輸出が急増したため、国内の物資が不足し輸出品の物価が高騰。これが影響し米価などの諸物価も急騰した。『焼米村御祭札之御覚帳』から当時の旧菊水町域の米価の様子が分かる。これによると、米1俵あたりの町相場価格が1864年(元治元年)は65匁だったのに対し、翌1865年(慶応元年)には130匁と2倍となっている。この頃から米価は急騰し始め、最終的には1869年(明治2年)に約9倍の580匁を記録した。同年11月7日には焼米村熊野座神社祭礼勤主の庭左衛門が、「非常ノ凶作ニ付、其上諸式高直(値)之年ニ付」祭礼参加者の「人数相減申候」と記録しており、当時の物価高の影響が窺える¹³。
近代
1871年(明治4年)の廃藩置県により熊本藩は熊本県となった。しかし、同年11月に熊本県から八代県が分離し、翌1872年(明治5年)6月に熊本県庁は二本木に移転。同地が白川に近いことにちなみ熊本県から白川県に改称した。更に、続く1873年(明治6年)1月、白川県と八代県が合併し、現在の熊本県域を管轄とする白川県が誕生。以前より進めていた大区小区の整備であったが、両県の合併に伴い統合・再編が行われ、旧白川県時代の32大区362小区から53大区574小区となった。焼米は、旧白川県時代には第21大区7小区に属し、1小区1戸長制から数小区をまとめた組(合区)制度が採用された新白川県時代には第21大区竈門組7小区高野組に組み込まれた。その後も下記のように、2006年(平成18年)まで再編・合併が繰り返された¹⁴’¹⁵。
年代 | 上位行政区 |
1872年(明治5年) | 第21大区7小区 |
1873年(明治6年) | 第21大区竈門組7小区(高野組) |
1874年(明治7年) | 第8大区7小区 |
1879年(明治12年) | 志口永村列 |
1884年(明治17年) | 高野村列 |
1889年(明治22年) | 東郷村 |
1954年(昭和29年) | 菊水町 |
2006年(平成18年) | 和水町 |
焼米の属した旧菊水町域では西南戦争の際、官軍(政府軍)の大砲を据えた台場や砦の堡塁が築かれ、村民は「台場築」の人夫として駆り出された。1877年(明治10年)3月11日には、内田村金光寺住職沢永秀が山部少尉に依頼され焼米などの6ヵ村を2人で巡邏している¹⁶。
養蚕において、蚕が糸を吐き出す上蔟になるまでの感染・温度・湿度の管理などが極めて難しいことから、近代ではそれを専門に飼育する場所を設けて組合員により管理が行われる稚蚕共同飼育組合が組織されていた。焼米にも稚蚕共同飼育組合があって、1903年(明治36年)には養蚕の先進地群馬県から技師を招聘し技術向上に取り組んだ。このような努力もあり、熊本県において生糸は大量に生産されていたものの、品質自体は良くなかったため主に国内向けだった。そこで県は、1902年(明治35年)に「共同製糸組合補助規定」を布達し、25人以上が共同し輸出向けの生糸を50貫以上生産する組合に対し補助を行なった。 東郷村では1904年(明治37年)に共同製糸場の設置が計画され、1908年(明治41年)には焼米に設置されていたことが確認されている。尚、県の取り組みが振るわなかった為、1907年(明治40年)に補助事業が取り止められており、焼米の共同製糸場は、打ち切りの後に焼米の共同製糸場が置かれたということになる¹⁷。また、1912年(大正元年)には蚕繭協同組合が焼米に設置された¹⁸。
1920年(大正9年)6月、東郷村で電燈の点火が行われた。当時の様子が焼米村区有文書「焼米村御祭札之御帳書」に残っており、「電気も本年6月より点火す。何よりも幸福なり」と感動している様が記されてある¹⁹。
現代
1990年(平成2年)6月30日から当地方に降り始めた雨が、7月1日夜から2日朝にかけ集中豪雨となり熊本県北部を中心に襲った。菊池川上流地域(菊池市)で1時間に86mmの記録したこの雨は、川の水位を高め、馬場の石場の堤防2箇所からの溢流を起こし水害を起こした。これにより焼米の低地は、住宅の2階部分にまで及ぶ床上浸水の被害に見舞われた²⁰。
神社仏閣・名所
焼米城跡
焼米城は、同地字飛来に位置する比高58mの小山に築かれた平山城。城跡には小規模な麓集落があり、伝承によると城主は焼米五郎だったという。尚、江戸時代に編纂された文献には城名の記載が無く、城跡に関連した地名が残っていたことで存在が確認された。前述したように、当城は焼米村の中心的な施設で、戦時以外の平時は領民の心の拠り所だったと推測されている。
頂上には城主一族を祀った石碑と拝殿があり、村民からの愛着も強いことから、当番制で城跡の清掃が行われている。 伝承として残る城主焼米五郎は、「蒙古襲来絵詞」の弘安の役が描かれた「絵一三」で竹崎季長の兵船に乗る「やいこめの五郎」と同一人物ではないかと考えられている。しかし、1236年(嘉禎2年)の大友親秀の譲状から、豊福(現松橋町)にも焼米という地域があったと分かる為、真偽は不明。尚、西福寺跡にある竿石から15世紀後半には焼米一族の存在が確認でき、同境内に13世紀後半のものとみられる石塔があることから、一族のルーツは少なくとも13世紀後半まで遡る可能性もある。これらの城主伝説から焼米城の実年代を推測すると、鎌倉時代の13世紀半ばまで遡ることができるが、この時期での中世城の存在は時期尚早であるという。ただ石塔が残っているため否定されてもいない。しかし、西福寺跡の六地蔵の竿石から15世紀後半には焼米一族がこの地に居住していたことや麓集落がある総構えの城である性質上、城跡の実年代が1400年代後半であったと推測するのが妥当と考えられている²¹。
弁財天堂
1936年(昭和11年)12月15日、焼米城主一族を祀るため、城跡の山頂に建立された堂。本尊は弁財天。山鹿町の緒方光次郎・同考による祭礼田の奉納記念碑が敷地内にある²²。
熊野座神社
857年(天安元年)11月9日に豊後兵部丞が紀州熊野から勧請したとされている神社。祭神は、伊弉諾神・伊奘冉神・速玉男命・事解男命・大年神・御年神で祭日は10月20日。11月9日に祭礼が行われており、1673年から現代に至るまで書き継がれた祭典記録が残っている。1711年(正徳元年)に建立された猿田彦大神石碑が境内にあり、この上部には神仏混合を表す「㊀阿南」と記されている。これは全国的にも初期にあたる時期に建立されたもの。また、当神社の南方には稲荷大明神の石祠があり、そこに御神体である鏡が安置されていてる。ほかにも石段の途中、拝殿に向かって左側に室町時代の頃の石塔婆が建立されている。四方に種字が刻まれており、3面は薬研掘りである一方、西面は平彫りで未完成のようになっている²²’²³。
観音堂(西福寺跡)
観世音菩薩・阿弥陀如来・薬師如来が安置されている堂。元々位置した場所で幾度と水害に襲われたため、1956年(昭和31年)に現在の西福寺跡地へ移転された。祭礼は1月15日。安置されている木造聖観音菩薩立像は、高さ169cm・樟材・一木造・彫眼・彩色。木造自体の表面の傷みが激しいため時代判定が困難なものの、像が平安時代後期の様式のため、この頃の作とされている²²’²⁴。
妙見宮
祭礼が10月18日で祭神は7体。焼米地区で1戸ずつまわしで掃除が行われている。同宮の下には旱魃でも枯れたことがないといわれる水源がある²²。
友田守道君頌徳碑
1916年(大正5年)に建立された石碑。友田守道は熊野座神社の神官の家の生まれで、名古屋医専を卒業したあと日露戦争に軍医として従軍。その後、台湾台北市で開院したと記されている²²。
有働満平君頌徳碑
1907年(明治40年)に焼米区により建立された石碑。有働満平は、1846年(弘化3年)に生まれで、農事の改良取締役用掛や区長を歴任し、農業用水や耕地の改良に務めたと記されている²²。
施設
公民館焼米分館
地内の公民館焼米分館の住所は、大字焼米903²⁵。
東郷簡易郵便局
地内の東郷簡易郵便局の住所は、大字焼米359²⁵。
教育
1886年(明治19年)4月10日に政府が小学校令を公布。これに伴い熊本県では、同年8・10月に県令をもって尋常小学校・高等小学校の設置区域を通達され、熊本県全域で291学区と570尋常小学校・支校が設定された。焼米は第20尋常小学区に属し、大久保尋常小学校藤野支校が地内で開校。当校の授業生(教員)として1887年(明治20年)4月21日に荒木利誠が採用されている。荒木利誠は、1861年(文久元年)6月16日に玉名郡原万田村(現荒尾市)で生まれ、漢字・経史・作文などの教授を受けた後、三池郡三里小学校や同郡勝立小学校の教員を歴任し、官営時代の三池炭鉱で「三池鉱山局開坑第一課主筆補見習」の経験などもある人物だった。その後、1889年(明治22年)に市町村制が施行され東郷町が誕生し、焼米に東郷尋常小学校焼米支校が設立した。さらに1892年(明治25年)に玉名郡下町村の小学校数・位置が指定され藤野尋常小学校(焼米)へと再編された。尚、以前から焼米地内にあるにも関わらず小学校が冠する地名が焼米字「藤野」なのは、1882年(明治15年)7月に焼米を含む6ヵ村が共同で小学校を開設する際、学区の各村のほぼ中間地点の焼米字藤野であったため²⁶。
産業
農業
近代において、焼米では畳の材料となるイグサの栽培が行われていた。焼米は、玉名郡の全収穫高672貫目のうち300貫目の生産量を誇り、全体の約44%を占めていた。一方、紙の原材料である楮皮は、旧菊水町域で唯一収穫されていない村だった²⁷。
脚注
出典
- 菊水町史編纂委員会.菊水町史 資料編.菊水町,2006,p.1096.
- 菊水町史編纂委員会.菊水町史 資料編.菊水町,2006,p.1099.
- 菊水町史編纂委員会.菊水町史 通史編.菊水町,2007,p.133.
- 菊水町史編纂委員会.菊水町史 通史編.菊水町,2007,p.193-197.
- 菊水町史編纂委員会.菊水町史 通史編.菊水町,2007,p.362-371.
- 菊水町史編纂委員会.菊水町史 通史編.菊水町,2007,p.430-431.
- 菊水町史編纂委員会.菊水町史 資料編.菊水町,2006,p.1188.
- 菊水町史編纂委員会.菊水町史 通史編.菊水町,2007,p.580-581,p.726.
- 菊水町史編纂委員会.菊水町史 通史編.菊水町,2007,p.636.
- 菊水町史編纂委員会.菊水町史 通史編.菊水町,2007,p.728-729.
- 菊水町史編纂委員会.菊水町史 通史編.菊水町,2007,p.729-730.
- 菊水町史編纂委員会.菊水町史 通史編.菊水町,2007,p.728-729.
- 菊水町史編纂委員会.菊水町史 通史編.菊水町,2007,p.800.
- https://www.town.nagomi.lg.jp/hpkiji/pub/Detail.aspx?c_id=3&id=11
- 菊水町史編纂委員会.菊水町史 通史編.菊水町,2007,p.809-810.
- 菊水町史編纂委員会.菊水町史 通史編.菊水町,2007,p.872-874.
- 菊水町史編纂委員会.菊水町史 通史編.菊水町,2007,p.966-968.
- 菊水町史編纂委員会.菊水町史 通史編.菊水町,2007,p.1025.
- 菊水町史編纂委員会.菊水町史 通史編.菊水町,2007,p.1019.
- 菊水町史編纂委員会.菊水町史 通史編.菊水町,2007,p.1327-1332.
- 菊水町史編纂委員会.菊水町史 通史編.菊水町,2007,p.438-439,p.461-468.
- 菊水町史編纂委員会.菊水町史 資料編.菊水町,2006,p.1098.
- 菊水町史編纂委員会.菊水町史 資料編.菊水町,2006,p.1207,p.1217.
- 菊水町史編纂委員会.菊水町史 資料編.菊水町,2006,p.1152.
- 菊水町史編纂委員会.菊水町史 資料編.菊水町,2006,p.1099.
- 菊水町史編纂委員会.菊水町史 通史編.菊水町,2007,p.982-984,p.989.
- 菊水町史編纂委員会.菊水町史 資料編.菊水町,2006,p.788-789.
参考文献
タイトル | 著者・編集者・編纂者 | 出版社 | 出版年 | ページ数 | 資料の種別 | URL(国会図書館サーチなど) | 所蔵図書館・利用図書館 | 集落記事 | Tags | 注記 |
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菊水町史編纂委員会 | 和水町 | 2007 | 1367 | 焼米 | ||||||
菊水町史編纂委員会 | 和水町 | 2006 | 1268 | 焼米 |