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八戸(やと)は、大分県津久見市の大字。碁盤ヶ岳山頂の西側にある八戸台(高原)が特徴。歴史的には1597年(慶長2年)の史料で初めて言及された。1785年(天明5年)の天明の大飢饉など、過去には数多くの天災に見舞われてきた。近代に入ると、行政区の変遷を経て津久見市の一部となる。地域の生活は農業に依存し、灰焼き事業などが行われていた。
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地理
八戸は、津久見市街地の南西4.5〜6.5km、標高約450mに位置する。大村・中村・与三郎の3部落から成る。半島沿岸部に比べると気温が低く、最寒月の平均気温は約5〜6℃低い¹。
碁盤ヶ岳山頂(標高716.3m)の西側一帯は八戸台(高原)と呼ばれる。ここは、海抜600〜716mの石灰岩で構成され、ドリーネ(すり鉢状の窪地)やカレンフェルト(石塔原)がみられる²。
『八戸小史』では、津久見市における深山の八戸固有の生物として、土ボタルや河鹿蛙が挙げられている。湿気の多い土の中や土壁に生息する土ボタルは、大村の谷や畦道、中村の民家近辺の雑木林、真竹山、中ノ内-大村間のトンネル口などで確認されている。地元民にとってはホタルは土の中に生息するのが常で、大人になり市内外の清流で飛び交うホタルを見て「空を飛ぶ蛍もいるんだな」と感動したものだという³。
地名
口伝によれば、与四郎地区の方から月ノ戸・鷹ノ戸・庄五郎戸・駒戸・間ノ戸・瀬戸・広戸・横戸の8つの戸があったことが「八戸」という地名の由来だという⁴。
小字
八戸の小字は以下の通り⁴。
月ノ戸 | 佐土原 | 宇戸ノ平 | 迫原 | 赤萩 | タヲ |
山平 | 平ヶ迫 | 猿戸 | 鷹ノ戸 | 駒戸 | 境目久保 |
クラ谷 | ニタ尾 | 境目谷 | 境目 | 高尾 | 竹迫 |
与四郎 | 神ノ尾 | 鍋土 | 小葉付谷 | 山ノ神 | カバノキ |
小中尾 | 三ツ峯 | 大中尾 | 長谷 | ハゼケ谷 | ニタノ久保 |
後ケ平 | イバノ久保 | 中村 | 尾崎 | 中村谷 | グミノキ |
太郎治 | 桑ノ迫 | 子バ土 | マノト | 八戸台 | カン子ゾフ |
中屋敷 | 権現尾 | 中ヤシキ久保 | 宮ノ下 | 辻ノ後 | 植木本 |
イバノタ尾 | クヌギケ尾 | 大村 | タヲ | 大尾 | 竹ノ中 |
奥ノ迫 | 松平谷 | 松平 | 西ノ迫 | 桐木迫 | 恩地 |
クミヂ | 水口 | 桑木原 | 柳ケ尾 | 中ノ畑 | 小石谷 |
所古引 | 水ケ迫 | 広戸 | 猿河内 | 白水谷 | 白水 |
横江 | 下台 | 一本松 | 大川通 | 大村下 | 柿木尾 |
石割山 | 福原 | 新道 | 七 |
人口
八戸の人口は以下の通り⁵‘⁶。
年代 | 戸数(家数) | 人口 | 補足 |
1810年(文化7年) | 71 | 701 | |
1907年(明治40年) | 74 | 457 | |
1954年(昭和29年) | 426 | ||
1970年(昭和45年) | 50 | 248 | |
1976年(昭和51年) | 33 | 161 | |
1977年(昭和52年) | 24 | 113 | |
1980年(昭和55年) | 21 | 91 | |
1990年(平成2年) | 14 | 42 | |
1998年(平成10年) | 8 | 18 | 常住人口 |
2020年(令和2年) | 7 | 13 |
歴史
八戸という地名が確認された1番古い史料は、1597年(慶長2年)3月10日付の『海部郡佐伯庄大阪本内八戸村検地帳』⁷。
近世
八戸に関する中世の史料は発見されていないが、『八戸小史』によると、1600年(慶長5年)の「検地帳」にはすでに水田・畠・屋敷が記録されており、文治年間(1185-1190年)以降の佐伯荘時代に開発されていたと考えられている。「検地帳」では、八戸村が下ノ村と位置づけられ、水田や畠は三つの等級に分けられていた。水田については、孫六という人物が1反3畝2歩の上田一筆、藤七郎・孫六・衛門五郎・左衛門三郎の4人で所有する中田四筆(2畝28分)、六郎・左衛門・三郎の各々が所有する下田があった。また、畠は上畠、中畠、下畠に分かれ、畠の名請人は25人で、最大の畠は又七郎が耕作していた上畠(2反9畝4分)。また1番狭い畠は2分余りであったという。屋敷に関しては、藤二郎、新六、与四郎、左衛門の4人は屋敷を持っておらず、六郎・新十郎の屋敷を借りていたとされる。田・畠・屋敷の合計面積は16町3反7畝2歩で、分米(標準生産高)は103石1斗3升9合となっている。約50年後の1647年(正保4年)の「豊後国郷帳」では、大坂本郷八戸村の生産高は85石7斗8升2合と大幅に減少しており、水害などの天災による荒地が増加したことが原因と考えられている。また、茅山や紫山といった地域が「水損所」と記載されていたことも、天災の影響を示唆している⁸。
1598年(慶長3年)、臼杵藩主太田飛弾守が行った検地において、八戸が初めて本帳面に記載された。これにより八戸は、これまでの事情とは関係なく公式に認められることとなった。1601年(慶長6年)には佐伯藩領に編入され、大坂本村組(現:弥生町)の大庄屋の支配下に置かれることとなった⁹。
相次ぐ天災と天明の飢饉
1716年(享保元年)以降、八戸村では洪水や旱魃が頻発し、農民たちは苦境に立たされた。特に生産性の低い山際の畑や谷脇の田地は洪水によって損傷が大きく、山や浦の農民たちが最も困窮していた。損傷した土地の修繕は一時的なもので済まされることが多く、次の災害によって被害は拡大する一方であった。1785年(天明5年)に発生した天明の大飢饉の際には、八戸村では村中で崩れた畑の修繕を行うため、食料米の下賜を佐伯藩に願い出た。しかし、佐伯藩自体も米蔵の備蓄米が少なく、代わりに大麦を利子付きで貸し付けるに留まった。飢饉は続き、村民たちは葛根などを食べて凌いでいたが、最終的には種麦まで食べ尽くし、生活が立ち行かなくなったため、夫食願(食物支給の願い)を出すに至った。役所からの調査の結果、9軒(世帯)37人に対し大麦3石7斗・粉糠3石7斗の支給がなされた¹⁰。
逃散による交渉
1746年(延享3年)11月24日、八戸の百姓14軒、男女54人が牛2頭を連れ、小庄屋に無届で夜中に村を抜け出し、翌朝臼杵領東神野村組宮本(現在の臼杵市)の山畑に到着した。彼らは宮本小庄屋に保護を求めたが、断られた。そのため、一同は八戸に戻らず、野宿を決めた。この事態を知った八戸の小庄屋と大庄屋が現地に駆けつけ、役所に取り次ぐと申し出たが、百姓たちは応じなかった。 佐伯藩の郡奉行は臼杵藩に協力を求め、臼杵側も承諾し、代官を派遣して説得を試みたが失敗。臼杵藩は、八戸の百姓逃散事件の経過と自藩の処置に関する弁明の内容を日田役所に送り、同時に佐伯藩へも日田役所への連絡したことを伝えた。日田役所から両藩への返書は、「当方は奥山争論の現地調査に忙しく、そのような事に構っていられないが、協議して佐伯藩が解決すべきである。八戸は奥山争いに関係あるや」との問い合わせであった。両藩はこれに関係がないと返答した。 日田役所は1639年(寛永16年)に日田永山に設けられた布政所で、「日田代官所」や「日田郡代」とも呼ばれていた。1658年(万治元年)に設置された高松陣屋(現在の大分市大洲総合運動場付近)と共に、天領10万石の統轄および私領大名の監視を任務としており、その存在は煙たがられていた。また、奥山争論は、1601年(慶長6年)に佐伯藩に移籍した奥河内村が起こした争いで、幕府は現地調査を命じていた。 佐伯藩は日田役所からの手紙に動揺し、事態の長期化と拡大を恐れ、郡奉行自身が交渉にあたり、百姓側の願い事を聞き入れ、百姓側の責任者に対する処罰は行わないことを決定。この交渉の結果は証文で取り交わされ、立会人として大坂本村、東神野村、野津市の各大庄屋が署名した。佐伯藩はこの事件を特別扱いとして記録に残したが、百姓側の願い事の具体的な内容は明らかにされていない。こうして百姓たちは藩との交渉に耐え抜き、43日目に八戸に帰郷。八戸では以後このような事件は起きていない。臼杵藩はこの事を穏便に処理し、「延享4年(1747年)正月13日、佐伯領八戸村の百姓14軒、男女54人が東神野へ走り、同月末に帰郷した」との旨を記録している。また佐伯藩は臼杵藩の関係者に謝礼を送っている⁹。
百姓一揆
1811年(文化8年)12月、岡藩(竹田領)による重税に苦しめられていた農民による百姓一揆が発生。一揆に参加した農民達は藩主に面会を求めて各地から竹田の町へ押し寄せ、この煽りを受けて佐伯藩内の一部の農民も騒ぎ始めた。これに対し藩役所は、一揆の拡大を防ぐため先手を打ち、領内の村々に要求があれば文書で差し出せと通達。この知らせを受けた八戸も村中で相談の上、要求を願い出た。しかし、この時には一揆騒動も鎮静化していたため、役所の立場の方が強くなってり、申し出は不心得であると叱られ、のちに村役人が交代させられた¹¹。
炭焼きと火事
近世において、特権社会の贅沢な衣装の比べ会いに必要な生地の柄や色を出すために灰が必需品であった。そのため上等な灰は商品として京都の灰屋に売り出されていた。八戸では、1683年(天和3年)頃から灰焼きの話があり、本格的に始めてみると調子良く売れた。そのため、倍の税金を納めるので継続させて欲しいと願い出て、村庄屋も共同作業で灰焼きを行えば村を潤すであろうと、資本銀2貫500目(約50両)を役所から利子付きで借り出し、本格的に炭焼き事業が始動した。それまで臼杵の店に納めていたが、この時は庄屋が引き受け、津久見浦から船で積み出すこととなった。また、冥加銀(税金)は定められた銀を納めたが、海運が本業でないため帆別銀(帆の大きさによる積荷等への課税)は免除された。尚、八戸だけでは満船にするほどの灰が間に合わず、津久見村のあちこちに頼んで焼き出してもらい、どうにか荷が間に合ったという¹²。
このように、近世における八戸村民の収入源の1つであった炭焼きであるが、火を取り扱うため度々火事が起きた。紺屋(染物屋)を営んでいた西野内の弥右衛門は、仕事に使う灰を自宅付近に焼場を設けて焼き出していた。1821年(文政4年)8月のある夜、不注意で灰が燃え広がり、隣接していた染物作業所、さらに当作業所の隣合っていた願寺山から出稼ぎに来ていた大工の作業小屋が共に焼失。その他、臼杵町から注文を受けていた囲炉裏用の灰を焼いていたところ、管理の不十分で火事がが発生したこともあり、居家22軒・土蔵3軒・納屋25軒が焼ける大火事に発展した¹¹。
草刈場の境界論争
地内の八戸高原は、海抜717メートルに位置し、周辺の村々を見下ろす高さである。その面積は約88ヘクタールに及ぶ。この広い草場は、周囲の村々によって草刈場として競い合われて利用されたため、境界争いが頻繁に発生していた。 前述の日田役所役人が奥山論争で出張した際、八戸台の駒戸という場所で、大坂本村組の大庄屋市野瀬四郎兵衛と青江道尾村組の大庄屋仲野作左衛門がそれぞれ証人を立て、役人の前で境界を争って主張した。しかし、役人はそのために来たわけではないとしてこれを退け、結果的に数年後に改めて境界を定めることになった。 八戸村では、1790年(寛政2年)6月4日、八戸草場で起きた大規模な争いが記録されている。この日、八戸と東神野村河原内の百姓双方が草場をめぐって争い、鎌や竹槍、鳶口などを使った乱闘に発展し、八戸側の住民が手傷や深傷を負った。この事件に関して佐伯藩郡奉行は、怪我人の治療と事情調査のために部下と医師を八戸に派遣し、藩から米5石を治療代として貸し付けた。併行して臼杵藩へは、争いの真相について調査を依頼し、穏便に解決することが決定された。調査の結果、争いの場所に関する双方の主張に違いがあることが明らかになった。八戸台を主張する八戸農民の話は不確かなものであったが、臼杵藩側の報告では争いの場所は河原内草場であった。境界の確定が困難であることは両方が認識していたが、1753年(宝暦3年)には双方が和解し、八戸側が草を刈る権利を得る代わりに、草代を河原内側に毎年支払うことに合意していた。 数十年後、関係者が姿を消し、八戸村からの草代の支払いが滞り始めたが、草刈りは継続されていた。それに対し、庄屋は村中に草代の支払いを呼びかけたが、村人たちはこれに応じなかった。争いが発生する前の月には、河原内の村人が目撃したところによれば、八戸から2日間にわたって170人もが草切りに訪れていた。当初は見逃されていたが、そのままでは済まされないと感じた他村は、東神野、家野、掻懐、野田から合計400人を集め、八戸から来た約40人の草刈りに対抗し、両者の間で衝突が発生した。その結果、八戸側には手傷22人、深傷8人が出た一方、河原内側でも3人が手傷を負った。怪我人は田井か迫村(野田)で治療を受けていたと東神野村大庄屋が臼杵藩郡奉行に報告した。集団での争いと怪我人の発生により、双方はどのように解決すべきか悩んだ。その後、佐伯藩代官への相談を経て、臼杵町扇屋新兵衛が八戸を訪れ、庄屋や年寄たちと草場争いの問題について話し合った結果、争いは無事解決に至った。具体的な内容は不明だが、問題の草場には境界石が建てられ、東南側の草場が八戸のものと定められた。この際、佐伯藩は怪我人の治療代として貸し付けていた米5石を取り消し、今回の騒動で費用がかかった八戸村にそのまま下げ渡した。八戸村の草不足はその後も続き、1908年(明治41年)には奥河内村との間で草場契約を結んでいる¹³。
近世における交通
大村から領内で最も近い宇藤木村まで約3里(12km)、津久見村までは約4里も離れていた八戸は、その立地から「八戸や神野は世界の内か、そう言うそなたは人間か」と称されるほどの孤立した地域であった。この地域には、道らしい道がなく、佐伯への道は主に庄屋への訪問目的でのみ使用されていた。村で生産される産物は、主に臼杵の武家や商家によって購入されていた。この取引のため、臼杵への山道は頻繁に利用され、草も生えないほど踏み固められていた。津久見川岸に商船が接岸し、八戸との取引が始まると、この道は駄賃取りによって賑わいを見せた。運搬する前日には荷物の準備をし、暁に出発して、西野内を通り、西教寺や浦大庄屋脇の藩高札場、木場役所を経由して船着場に荷物を下ろしていた。帰り道には、西教寺で情報交換を行い、中田街道沿いの村大庄屋前では、生活必需品を扱う店で買い物や食事をすることもあった。このような交流を通じて、八戸の生活は次第に向上していった¹⁴。
近世中期は、八戸から役所へあまり願い事が持ち込まれなかった。『八戸小史』では、これは村の特産品が順調に売れ、ある程度の収益があり、村中に地力が付いたからだと考えられている¹⁵。
近代
八戸の行政区の変遷は以下の通り¹⁶。
年代 | 上位行政区 |
1871年(明治4年) | 佐伯県海部郡・大分県海部郡 |
1872年(明治5年) | 第4大区16小区 |
1878年(明治11年) | 大分県北海部郡 |
1889年(明治22年) | 津組村 |
1921年(大正10年) | 津久見町 |
1951年(昭和26年) | 津久見市 |
明治初年の新政府による旧石高数調べでは、八戸村の米出来高は181石に増えている¹⁵。
八戸内において、大村は火災が発生しないことで知られているが、与四郎地区では、1909年(明治43年)に18戸が全焼し、1953年(昭和28年)には11棟が全焼する大火が発生した。中村でも1927年(昭和2年)に大規模な火事があり、重大な損害が出た。さらに、1918年(大正9年)と1924年(大正13年)には、悪性感冒が流行し、多くの死亡者を出すという悲惨な出来事も発生している¹⁷。
道路改修
1948年(昭和23年)、中田から弥生町に通ずる八戸林道工事が民間林道工事として着工。翌年からの5年間は奥地林道工事として進められた。1954年(昭和29年)に二ツ端まで道路ができて津久見-宇藤木間まで開かれた。1955年(昭和30年)6月、待望の八戸林道が完成。総延長11,787mでその内7,435mは津久見側にあたる。その後も、林道完成同年から延長工事が続けられ、1959年(昭和34年)に二ツ端から大村への道路が完成した¹⁸。 道路工事と同時期の1952年(昭和27年)3月には、八戸トンネル工事が着工され、1953年(昭和28年)頃に八戸トンネルが開通。当トンネルは、津久見川と井崎川の分水界を越える標高370mの地点に位置し、延長321m・幅員3.5m・高さ3mとなっている¹⁸。
奥地の八戸にとって「夢の林道」とまでいわれた道路であったが、悪路ではあった為、1954年(昭和29年)1月に9名の死傷者がでる交通事故が発生。トンネルが狭かったことが事故の原因の1つとされた。その他、路面決壊もしばしばあったという。この様相に対し、市は1966年(昭和41年)4月から奥地林道改良工事を着工し、道路及びトンネルの改修に乗り出した。途中、1971年(昭和46年)と1972年(昭和47年)の台風による崖崩れの復旧工事などもあったが、紆余曲折の末、1974年(昭和49年)5月に完工。同年10月には開通式が盛大に行れた。トンネルは、旧来の幅員3.5m・高さ3mから幅員4.2m・高さ4.6mに拡張された¹⁸。
戦時下における八戸
昭和初期、特に1930年代後半における日本の戦時体制強化は、地域社会にも大きな影響を与えた。1938年(昭和13年)には、隣保班が組織され、5~20戸ほどを単位として毎月常会が開かれた。続いて1939年(昭和14年)からは、政治体制が一層強化され、大政翼賛会の結成により全ての政党が解消され、翼賛壮年団、産業報国会、在郷軍人会、警防団、大日本婦人会、部落会、町内会、隣保班などの団体が組み込まれた。
これらの隣保班は金属回収、国債の消化、貯蓄奨励、防空演習、納税、物資配給などの重要な役割を担った。町内会は警防分団と同一区域を管轄し、八戸地区の警防分団は津久見町の第一分団に位置付けられ、町内会長には新納芳夫が就任していた。国全体の戦争体制の中で、「欲しがりません、勝つまでは」の耐乏生活が続き、飛行機の燃料にする松根油の採取のために松の根を掘るなどしたと伝えられている¹⁹。
現代
離村問題と過疎化
1954年(昭和29年)の八戸地区の人口は、大村地区で209人、中村で53人、与四郎地区で132人、石山地区で32人となり、合計426人であった。しかし、1970年(昭和45年)には50戸248人に減少し、29年に比べて約42%もの減少を見せた。昭和30年代から地区を離れる人々が出始め、特に1962年(昭和37年)頃に五十川ドロマイトの操業中止により、急激な人口減少が見られた。1980年(昭和55年)の人口は21戸91人にまで減少し、10年間で29戸157人もの減少が見られた。市内の石灰石採掘業者が設立した共同アンホ株式会社は1975年(昭和50年)秋から川内で操業を開始したが、雇用拡大には繋がらなかった。1985年(昭和60年)には16戸67人、1998年(平成10年)には大村地区で5戸11人、中村地区で3戸7人のわずか18人となり、過疎化と高齢化が進んだ²⁰。
八戸出身の人々の間で語り継がれている話に、道路整備に関する市長(義円)の言葉がある。彼は、八戸に道路が整備され、便利になると人口が減少すると述べていたという。実際に昭和30年代前半(1955年代前半)に八戸に道路が開通し、当初は地域住民がその利便性を喜んだ。しかし、昭和40年代(1965年代)に入ると、人々が都市部に移住し始め、地域の人口減少が顕著になった。転居の理由としては、就職の機会や職業の選択肢を求めるため、また、地域に留まっても将来性が見込めないこと、山林や田畑の売却を機に新しい住宅地を求めること、子供たちの就職先や孫の教育環境、さらには子供の居住地への近接性など、様々な理由が絡み合っていた。過去約30年間の転居先としては、約70%以上が津久見市内であり、残りの約20%が大分市、臼杵市、佐伯市などの他地域に分布しているが、大部分は県内にとどまっている²¹。
住み慣れた家や土地を離れることを望まない人々が村に残り、伝統的な椎茸栽培や自給用野菜の栽培を続けている。八戸高原は立入禁止となり、県立豊後水道自然公園の指定も解除された。1997年(平成9年)6月には、大村地区共有地が戸高鉱業との間で売買の仮契約が結ばれた。こうした急速な過疎化の背景のもと、かつて大村が存在し、人々の生活があったことが後世に語り継がれる一助になればと『八戸小史』が作成され、武速神社境内に碑を建立するに至った²⁰。
教育
八戸分校
1887年(明治20年)2月7日、県令第12号に基づき、八戸村は尋常小学校の設置区域となった。しかし、八戸簡易学校の具体的な開校時期は特定されていない。1892年(明治25年)の時点で、大村と与四郎に津久見尋常小学校の分教場が開設されていたことは記録に残っている。同年7月には、県令甲第13号小学校教則改正により、八戸簡易学校は廃止され、津久見尋常小学校の分教場となった。これは与四郎と大村の民家を借りて設置されたものだった。1898年(明治31年)には分教場新築落成の記録が残っているが、『八戸小史』では各地区の民家を利用していたと推測されている。
時が流れ、1907年(明治40年)6月29日には村民全員を召集し、合併改築についての会議が開かれた。これにより、現在地への校舎建築が決定された。1909年(明治42年)5月13日に校舎が完成し、この日が分教場の開校記念日と定められた。当時の就学率は約75%で、良い年であれば93%前後になることもあった。日々の出席者数の平均値は約81%で、就学の困難さは大正時代まで続いた。八戸分教場の卒業生は、1897年(明治30年)から1982年(昭和57年)までの86年間で総数549名に達し、その内訳は明治期に72名、大正期に68名、昭和期に409名となっている。
1917年(大正6年)の第一次世界大戦と1931年(昭和6年)の満州事変を境に、日本の軍国主義が強まっていったことが八戸分教場での出来事から窺える。1916年(大正5年)2月2日、大分72連隊が八戸を通過した際に全員で歓迎し軍旗を拝したことや、1920年(大正9年)10月30日の勅語下賜30周年記念式典などがこれを示している。さらに八戸分校の『開校百年』には、出征兵士の見送り、凱旋兵士の出迎え、戦死者の村葬参列などの記録がある。1931年(昭和6年)2月には、大分72連隊が再び八戸を通過した際、児童や教職員が歓迎の様子を見せている。
学校は、地区民にとって心の拠り所であり、さまざまな集会の場として親しまれていた。大正時代には、通俗談話会、時局講演会、衛生講話会などが頻繁に開催され、幻灯機や蓄音機を使った啓発活動や娯楽提供も行われていた。これらの談話会には、郡視学、村長、校長、駐在巡査、警部補などが出席していた。
1946年(昭和21年)から1961年(昭和36年)までの間は、児童数が最も多かった時期で、市の体育祭で高得点を獲得し優勝した経験もあった。1980年(昭和55年)10月には、分校創立百周年記念式が開催されが、その3年後の1982年(昭和57年)3月31日に休校となり、同月24日に休校式が行われた。そして、1997年(平成9年)3月31日には、百年以上続いた八戸分校は歴史の幕を閉じ、廃校となった²²。
学校は、地区民にとって心の拠り所であり、さまざまな集会の場として親しまれていた。大正時代には、通俗談話会、時局講演会、衛生講話会などが頻繁に開催され、幻灯機や蓄音機を使った啓発活動や娯楽提供も行われていた。これらの談話会には、郡視学、村長、校長、駐在巡査、警部補などが出席していた。
1946年(昭和21年)から1961年(昭和36年)までの間は、児童数が最も多かった時期で、市の体育祭で高得点を獲得し優勝した経験もあった。1980年(昭和55年)10月には、分校創立百周年記念式が開催されが、その3年後の1982年(昭和57年)3月31日に休校となり、同月24日に休校式が行われた。そして、1997年(平成9年)3月31日には、百年以上続いた八戸分校は歴史の幕を閉じ、廃校となった。[八戸小史 36-37,47,49-54]
神社仏閣・名所
武速神社
武速(たけはや)神社は、1683年(天和3年)建立の神社。所在地は大字八戸字大村2-2033番地。祭日は、旧暦3月18日(春の大祭)・6月13日(夏の大祭)・10月18日(秋の大祭)。境内社に愛宕神社がある。祭神は、素盞嗚命・少彦名命・大己貴命²³‘²⁴。 1873年(明治6年)には村社に列せられた。1877年(明治10年)10月、いずれも無格社であった与四郎の八幡神社及び中村の八大神社と武速神社が合併。ただ、1883年(明治16年)2月には両神社は与四郎・中村に復旧した。1950年(昭和25年)3月、熊本財務部長より社寺国有地境内譲与許可を受けた。これに伴い、神社境内払い下げ記念碑が建立された。1969年(昭和44年)7月、境内木材伐採が承認され、伐採代金をもって社殿屋根が修理された。また、同月に杉の植樹も行われた。1986年(昭和61年)8月に境内社愛宕神社の改築・模様替え(瓦葺きから鉄板葺き)が、1988年(昭和63年)9月には武速神社本殿拝殿修理・模様替え(銅板葺き)が神社本庁から承認された。武速神社に関しては同年11月に本殿拝殿修復が完工し、境内には社殿模様替え記念碑が建立された²⁵。
神社横にはイチイガシの巨木があり、地元民からは御神木として崇められている。周囲約3.3m・樹高約21m。1998年(平成10年)1月の樹木医の調査により、巨木・古木として天然記念物に認められた²⁶。
八大神社
八大神社は、字中村に位置する神社。祭神は綿津美命。1683年(天和3年)建立。一時、1877年(明治10年)10月に武速神社と合併されたが、1873年(明治16年)2月に許可を得て復旧に漕ぎつけた²⁷。
八幡神社
八幡神社は、字与四郎に位置する神社。祭神は神后皇后・応神天皇。1689年(元禄2年)建立。八大神社同様、1877年(明治10年)10月に武速神社と合併した後、1873年(明治16年)2月に許可を得て再興された。昔、境内には1852年(嘉永5年)建立の本尊地蔵菩薩があった。しかし、神仏混合の姿と立地の悪さなどが原因で、1885年(明治18年)2月7日に与四郎の共有地344番地ノ1へ移転された。神社裏山の石灰岩地帯にはカヤ林が生育している²⁸。
音頭師 戸沢勇吉之碑
1965年(昭和40年)8月、字大村に建立された碑。音頭師とは、美声と節回しで盆踊りやジガチ(千本搗)等で唄う人。勇吉は後輩の指導に努めた人物だという²⁹。
黒田惣平墓碑
黒田惣平は、1851年(嘉永4年)から1857年(安政4年)の間、八戸で約2反の新地を開墾したといわれている人物。藩政時代の当時、佐伯藩は財政難に悩まされ、新地開発を奨励していた。彼の墓碑が、市内で唯一残る水田の近くにある²⁹。
文化
盆踊り
昭和40年代後半まで、八戸では区民全体のお盆行事として毎年盛大に盆踊りが行われていた。定例日の8月7日に区民総出で墓掃除を行う慣習があり、この日はお寺によって1戸ずつ盆経参りが行われた。盆踊り初日の8月13日には、大村区の中心地の広場に櫓が組まれ、夕暮れ時から盆踊りが始まる。この広場の横には、前述した「音頭師 戸沢勇吉之碑」が建っている³⁰。
踊りは「二上ガリ」で、これは扇子踊りに似ているが扇子は用いられない。口説きは、三重節・サエモン・サンカツ・オナツ・ユライ・二上ガリの6つ。中入れ(中休み)には、婦人達がきゅうりの塩揉みを差し入れ、それを酒の肴にしたという。多い時で13〜15日の三日間も踊り、時間は大体12時頃まで踊ったが、時には深夜2時まで踊ることもあった²⁹。
報恩講
九州地方における浄土真宗の伝来は約500年前のことであり、鶴崎や津久見、日向、鹿児島などで始まった。八戸地区においても、大正・昭和期には、地域全体が農作業や業務を休み、報恩講の準備に取り組む習慣があった。準備には食事の調達、掃除、お仏壇の装飾、会場の設営、墓の掃除などが含まれていた。報恩講には各家庭から2人ずつが参加し、当番の家族は特に奉仕に励んだ。女性は朝早くから、男性の大部分は昼過ぎから集まり、食事の準備や交流を楽しんだ。子供たちは親に連れられて遊び、家族全員が参加する行事であった。住職と僧侶2人が訪れ、お経を上げ、法話を行った。服装も法事に見合ったものを着用し、報恩講は夕方から夜にかけての2部構成で行われた。第一部は夕方から夜にかけて、読経と法話が行われ、その後食事が供された。一方、第二部は親類や友人を招いた法座で、夜遅くまで続いた。近年は人口減少に伴い、地区民が公民館に集まって報恩講を行うようになり、法座の内容や精進料理の伝統は続けられている³¹。
立会い
大村地区では、「立会い」と呼ばれる作業を地域住民が協力して行っていた。これには杉山の下刈り、道の繕い、矢道の草刈り、茅の刈り取りなどが含まれていた。植林後の10年間は毎年夏に杉山の下刈りを行い、道の繕いは春と秋の年二回実施されていた。道の繕いには、草刈りや土の盛り上げによる路面の整備が行われていた。また、矢道切りは猟を行う際の山中の道を整備する作業。大村地区における春の道繕いは、大抵6月頃に行われ、伍長と班長が日程を決定し、地区の人々に大声で伝えていた。道路の修繕や拡張に関しては、「道路修繕申合規約」に基づき具体的な取り決めがなされていた。これには、道の狭い部分を広げること、私有地を道として拡張する際の苦情を禁止すること、土岸を掘削した際は石垣ではなくシガラ(柵)を設置すること、などが含まれていた。シガラは杭を打ち並べ、竹や木を横に渡した構造で、土砂の流れ落ちを防ぐ目的があった。修繕された道が破損した場合、伍長や組頭の立ち会いのもとで検査が行われた。また、私道の作成や修繕に関しても、村人を各私道に配分して作業を行うことが定められていた。このように、大村地区では共同作業を通じて地域基盤の整備を図っていた³²。
産業・生業
農業
八戸地区の農業は、主に畑作が主であった。
八戸の畑は、急傾斜地に築かれた石垣を利用して作られた段々畑であった。主な作物としては、裸麦、小麦、唐芋(さつまいも)、里芋、大豆、小豆、野菜などが栽培され、主に自家消費のために用いられた。家の近くの畑以外にも、大正時代の末期まで、碁盤ケ岳の山腹で焼畑農業が行われていた。大村地区ではこれを刈野や刈畑と呼び、旧暦の5月上旬頃に藪を刈り払って焼き、粟、ソバ、大豆、里芋、唐芋などを植えていた。焼畑の耕作は約1年間行われ、その後には杉やクヌギなどの植林がなされた。しかし、除草や施肥などの手入れが行われないため、この方法で栽培された作物は通常の畑のものに比べて量や質が劣っていた。特筆すべきは、八戸高原において、戦後の食糧難の時期に焼畑が一時的に復活したことで、当時の厳しい食料事情を反映している³³。
水田に関して、その主要な位置は大村の東南方向に位置する谷間、井崎川沿いにある。これらの水田の総面積は約三町(約3ヘクタール)ほどで、一戸当たりの所有面積は平均して四、五反であるが、水田を持たない家庭が多かった。八戸地区の水田で主に栽培される作物は、糯米(もち米)が全体の約四分の一を占め、残りは粳米(うるち米)であった。稲刈り後の処理として、稲穂は田んぼで脱穀され(稲こぎ)、籾(もみ)は叺(かます)に入れて牛馬で運び帰る方式がとられていた。また、稲藁は使用しない場合、田のウラ(草場)にそのまま干し、乾燥させてから持ち帰り、納戸に保管された。この藁は足中(わらじ)や牛の草履、炭俵を縛る縄など様々な用途に利用された。『八戸小史』では、これらが市内に唯一残る水田と記されている³⁴。
椎茸栽培
津久見における椎茸栽培の歴史は古く、江戸時代の寛永年間(1624年~1644年)にさかのぼる。この時代に千怒の源平衛が人工栽培に成功し、その後津久見の茸師たちが西日本各地に出かけ、栽培技術を広めたとされている。当時の栽培は主に自給目的で行われていたが、換金目的での本格的な栽培は戦後に始まった。大村地区においても、1916年(大正5年)頃から江藤光蔵が椎茸栽培を手掛け始め、竹田市や大野町にまでその栽培技術を広げた。
1935年(昭和10年)頃になると、大村地区で椎茸栽培を行う者が増加し始めた。ただ、地区全体に栽培が広がり、椎茸栽培が全盛期を迎えたのは昭和30年代後半からのことであった。一方で、津久見地区では「椎茸を作ると子孫が絶える」との言い伝えがあり、栽培に失敗して破産する農家も少なくなかったという。
従来の鈍目式栽培法は、栽培の成功が自然条件に大きく左右されていた。しかし、戦後に森式種駒接種法が確立されると、椎茸栽培は劇的に変化し、本格的な栽培が可能となった。八戸地区では、1948年(昭和23年)頃から椎茸栽培が本格化し、多くの農業従事者がこれに取り組んだ。栽培で得た財産を元手に、現在の基幹産業であるミカン栽培を始めた人も多かった。また、椎茸栽培に従事する人々は「なば山師」と称されていたという³⁵。
狩猟
八戸地区では、戦前の時代に鉄砲猟が盛んであった。当時、猟師たちは単発の村田銃を使用し、鉛を鉄製の型に流し込んで弾丸を自作し、薬莢は再利用されていた。猟場は、津久見市を取り巻く姫岳や碁盤ケ品、彦岳などの山々であり、数人で組んで日帰りの狩猟を行っていた。
狩猟では、犬を連れた勢子が一人と、残りは鉄砲撃ちで構成されていた。まず、猪が湿地(ニタ)や茅を倒して作った寝床(カルモ)にいるかどうかを探し出す。猪が体に泥をかぶるのは、鉄砲の弾が通りにくくするためだと言われていた。猪の所在を特定した後、勢子は犬を放して猪を追い出し、猪が通る道(ウデ)に沿って鉄砲撃ちが待ち伏せ(ヤツボ)する。勢子は猪の動きを観察し、その方向にいる鉄砲撃ちの名を大声で叫んで知らせた。現在では、この役割にトランシーバーが使用される。
獲物となった猪は、四肢と土鼻を網で縛り、棒に吊り下げて担いで帰る。大村では、山の神の社殿前の露出した岩の上に柴を敷き、そこで猪を解体する。まずは胸下から腹部にかけて切り、内蔵を取り出す。昔は心臓、肺、肝臓、胃以外の内蔵は捨てられていた。心臓は花びらのように切り開き、竹串に刺して山の神に供える習慣があった。女性は心臓を食べることが禁じられていた。その後、猪を伏せて血を流すのである。次に耳の後ろから頭を断ち割り、首を切り落とし、背中を割る。猪の頭部と背骨周辺は、最初に猪を撃った人(一番矢)の取り分となる。また、あばら骨の付け根(シカタ)は、獲物を担いで持ち帰った人の取り分である。残りの者たちは、あばら肉と脚の肉を分け合う。この際、一人の人間の分け前は一株と呼ばれる。鉄砲撃ちの分け前は一株ずつであり、勢子は二株を受け取る。また、狩猟に用いられた犬たちには、脚の骨と共に一株分の肉が与えられる。解体した後、猪を撃ち取った人が「骨入れ」として煮炊き役を担い、猪肉の雑炊を作り、参加者全員で酒を飲みながら食べる。猪はほとんど捨てる部分がないとされ、頭部は下顎を外して丸ごと煮、天頂部(ズク)を割って脳を取り出して食べる。残りの肉は皮つきのまま切り分けられ、笊に入れて吊るしておくことで、一週間程度保存することができる。囲炉裏や焚き火で毛を焼き落とし、皮つきのまま焼いて塩をかけて食べることもある。また、スキ焼きにしたり、大根、ゴボウ、裸麦とともに煮込んで雑炊にすることも行われる。肉が柔らかい雌猪は「ウノ」と呼ばれ、特に珍重される。
津久見地区における狩猟文化には、猟期が始まると猟師たちが特定の神社や祠に参詣し、祈祷を受け、災難除けの御札を授かるという習慣が存在する。津久見の赤八端や弥生町の尺間様、野津町西神野のシシ権現などがその対象となり、特に野津町西神野のシシ権現には猪の下顎が多数奉納されている。同様に、八戸大村の山の神の祠にも猪の下顎が奉納されており、山の神は猟師や炭焼き職人の守護神として信仰されている。旧正月の6日と8月16日には山の神の祭りが行われ、特に正月6日の朝は山の神が山に出ているとされ、その時間帯は山に行かないようにする習慣があった。また、家に不幸があると、一週間は猟に出ることが禁じられていた。これは不浄がかかっているとされ、弾が当たらないと信じられていた。妊娠している女性がいる猟師の家庭では、獲物が非常に多くなるか全くないかという極端な結果になることが多かった。女性が銃に触れることは禁じられており、猪の足先は母屋の入口に打ちつけて魔除けとする習慣もあった。また、猟師は猪の後部に生える長いウノ毛を皮ごと剥ぎ、入口に打ちつけて門守りとしていた。猪の鼻は乾燥させて保存し、必要に応じて鋸で挽いて粉にして、米粒と練り合わせ、棘の吸い出し薬として用いられていた³⁶。
林業
八戸地区の林業では、経営者をセンドウ、作業員をヤマシ、木を切る人をコビキと呼んでいた。若い時にヤマシとして働き、経験を積んでセンドウになるケースもあった。山林の地主は山元、その下で働く人は山子と称されていた。
林道の建設が進むと、折しもの木材ブームも手伝って森林の伐採が急速に盛んになった。林道建設に関わる作業員のために、道路沿いの谷間に飯場が設けられ、賑わっていた。しかし1949年(昭和24年)ごろからは、豊かな森林資源を活用するために宮崎県の日本パルプが松を中心に山林の買収を始め、地区に多くの人が流入した。それまで八戸の森林は、伐採しても搬出方法が限られており、主に現地での移動製材による加工が行われていたため、立木は太く、木材の蓄積が進んでいた。1953年(昭和28年)の秋からは津久見の薬真寺製材、新納製材、佐伯の下村材木店、麻生林業、肥川製材、加藤製材などの木材業者が入り込み伐採を始めた。昭和28年10月から翌29年2月までの5ヶ月間に、一日平均144石の木材が搬出され、八戸は木材景気に沸いた。
伐採された木材は、山中の木馬道や谷間の索道を通じて道路まで運び出された。この時期、八戸地区では全戸で牛が飼われ、木材を引き出す駄賃取りも多かった。駄賃取りは運び出した木材の量を木口で計算し、運搬賃を得ていた。新納製材は庄作峠から西ノ内の奥とチヒリ峠からセズイシに素道を張り、日本パルプ、岩崎林業、川野製材は連続式運材架線、河村林業は集材架線、肥川林業・下村林業は木馬道で運び出し、トラックで津久見へ積出していた。木材景気は約10数年間続いた。
地内の大村林道(4310m)は、八戸林道から分岐して大村に至る道路で、昭和46年(1971年)に着工された西ノ内林道の開通により全面開通した。西ノ内林道(7214m)は市道願寺線に続く道路で、同じく昭和46年に着工され、昭和48年(1973年)9月には初めて八戸分校に車が乗り入れることができた。この道路の延長は2225m、幅員は3.6mで、建設費用は地元の負担金約900万円、市の補助金700万円、寄付金約500万円で賄われた。
林道の全面開通により、中ノ内と西ノ内を経由して市街地とつながり、村の産品の搬出や通学が便利になった。以前は急病人を病院へ運ぶ際、戸板か長持ちの蓋に寝かせて運ばなければならなかったが、林道の開通により車で搬送できるようになった。林道の完成後、この道路は市道に編入された。
八戸地区から市街地までの距離は約16kmで、第一中学校への通学には往復5時間かかり、朝5時には起床がする必要があった。このため学習にも支障が生じており、昭和37年(1962年)の秋から市への通学バスの運行を要望した。昭和38年(1963年)4月からは市営の通学バスが中ノ内経由で運行され、通学の問題が解消された。この通学バスは昭和60年(1985年)に廃止され、一時期はタクシーが代行していた。
伐採跡地には杉や桧などが植林され、造林も進んでいた。木材ブーム当時は間伐や枝打ちなどの手入れが十分行われていたが、後には椎茸のホダ場となり、採算が取れなくなった現在では、成長した樹木も顧みられず、荒れたまま放置されているものが多い³⁷。
炭焼き
大村地区では炭焼きが盛んで、主に土窯で焼かれた黒炭が中心となっていたが、かじ(鍛治)炭や白炭の生産も行われていた。使用される原木には、カシ、シイ、サクラ、ナラ(ハサコ)、クヌギなどがあり、ツバキ、ミズシ、コウカ、モミジ、タブなども利用されていた。これらの木々から生産される炭の中で、カシから作られる炭が最も硬く、ツバキが次に硬く、火持ちの良さから高値で取引されていた。かじ炭は、穴を掘って松の木を蒸し焼きにして作られ、「ふみ炭」と呼ばれ、主に鍛治屋で利用されていた。太平洋戦争後、椎茸栽培が盛んになると、クヌギやナラは椎茸の原木として使用されるようになり、炭の原料としては使われなくなった。黒炭の生産においては、一回の火入れで一窯から約600~750袋の炭が焼けた。大正時代までは「二貫ご」と呼ばれる炭だつに詰めて出荷されていたが、その後、四貫俵へと変更された。炭は、セイタ(カルイ)に2俵ずつ積み、牛の背に約10俵積んで、津久見の町の炭問屋まで運ばれていた⁶。
草場
八戸高原とその山腹には、牛馬の飼料として利用される草切り場が存在し、大村、中村、与四郎三地区の入会地として利用されていた。八戸高原の広さは約80町歩余りで、戸数割により大村と与四郎地区に広いエリアが与えられ、中村地区には狭い範囲が割り当てられていた。大村では、草の質に応じて上、中、下の3段階で約30箇所に分けて管理し、約10年ごとに割り替えを行っていた。
草刈り作業は毎年10月中旬に始まり、刈り取った草はいくつかの場所に集め、冬の飼料として用いられた。夏季には放牧場としても利用されており、牛を集める際には味噌を見せたりバケツを叩いたりする方法が取られていた。長峰の草場は約20~30町歩の広さで、明治時代に宇藤木村から分割されたとされる。入会地は昭和7年(1932年)ごろ小野田セメントに売却され、石灰石の鉱区権が設定されたが、本格的な採掘が始まるまでは採草権が認められていた。売却価格は約4万円であった。
入会地以外にも、茅切り場が八戸高原の中腹に3か所存在し、屋根葺き用の茅を刈る場所として機能していた。毎年11月上旬には、各家庭が母屋茅や納屋茅を刈り、屋根の葺き替えに使用していた。この茅刈り作業は昭和30年代(1955年代)ごろまで行われていたが、昭和40年代(1975年代)に瓦葺きが普及すると徐々に行われなくなった。
草刈り場や山林などのように境界となる明確な目印が少ないため、境界を巡る争いが起こりやすく、八戸地区でも江戸時代から隣村との境界争いが頻繁に発生しており、明治時代に入ってもその傾向は見られた³⁸。
鉱業
ドロマイトやマンガンの採掘が八戸地区で始まったのは、1942年(昭和17年)から1943年(昭和18年)頃である。ドロマイト、または白雲石とも呼ばれるこの鉱石は、耐火材、ガラス、肥料などの原料として広く用いられている。この時期には、五十川ドロマイト社が与四郎地区で採掘作業を行っており、多くの作業員が常駐していたため、その地域は「石山」として知られていた。一方、マンガンは合金の製造に利用される金属で、量は少ないながらも八戸地区の各所に分布していた。特に長峰地区での採掘が行われていた。マンガンの採掘は、戦時中の資源確保の一環として重要な役割を果たしていたことが伺える¹⁹。
竹かご
八戸地区では古くから竹かご作りが盛んであった。山地の中腹に自生する淡竹を利用し、副業として様々な種類の竹かごを製作していた。主に作られていたのは八カザル、六カザル、手箕(ちり取り)、さくらザルなどである。八カザルは16個を重ねて一荷にし、土木作業用に使用されていた。特に大村地区では八カザルと手箕の製作が多かった。一方、さくらザルは「よしのザル」とも呼ばれ、与四郎地区で石灰採掘用に作られていた。明治時代の「竹籠通」によると、大村地区では八寸カゴや皿カゴなども製作されていた。これらのカゴは大きさや形状をもとに名付けられたと思われる³⁸。
伝説
八戸では、平家の落人伝説に関する伝承が具体的に残っている。伝説は以下の通り。後述のように大村には詳しい伝承が残り、毎年8月16日に地区全体で先祖祭りが行われていた³⁹。
八戸の落人伝説
八戸に住み着いた先祖は、平家の旗頭で、小田原で中納言の役職に就ていた。しかし、戦に敗れた末、一部は宮崎に逃れ、残りは八戸へ落ちてきた。また、この時に天皇から菊一文字を賜り、これが代々受け継がれた。当時、八戸高原は樹木が茂り、大蛇などの棲家であったがここを居住地とし、家臣の黒田・戸川・戸次家も一緒に下がってきた。学問の師でもあった黒田家は、僧侶も連れて来ていたため、地名に寺屋敷が残っている。落人は元々藤原姓であったが、追っ手から逃れるため、新納刑部大輔小太郎金光と偽名を使った。現在、この人のものとされている五輪塔が残っている⁴⁰。 当初は八戸高原に住み着いた落人一行であったが、風が強かった為、8町ほど南に下りた所に移住。そして、中村に長男一族、大村に次男一族、与四郎に三男一族が住むこととなった。3代目までは、毎日武芸の稽古ばかりして暮らしていたが、資金が無くなった為、山を開拓して畑を作って麦・粟・稗・芋などを植えた⁴⁰。
ある時、中村に敵が攻めて来て、戦に敗れた際は中村の代表者が切腹してきりがついた。また、5代目になっても戦は続き、「うとぎ」に敵が攻めて来たのを撃退。戦勝の祝杯をあげていたところ、向かいの山に1人の敵が現れ、弓を引いてどこを射ろうかといった。それに対し、それまで幾多の矢を手で掴み退けてきた5代目が「ここじゃ、ここじゃ」と自身の胸に指を差した。当然、放たれた矢を掴んだ5代目であったが、管矢だったため中の矢が刺さり戦士。大村の墓地に埋葬され、墓石には新納八郎先祖と刻まれたという³⁹。
大蛇と白い猿
毎朝4時に起きて「射りが戸(河原内の奥)」に登って武芸の稽古をしていた2代目は、ある日、大蛇が現れて闘いになった。2代目の方が形勢が不利となっていたその時、そばの桜の木にいた白い猿が2代目に加勢。無事、大蛇を討つことができた。尚、この大蛇は河原内の氏神になったという。また、2代目は白い猿を連れて帰って上の山で飼い、猿の死後、白山権現として大村に祀った⁴⁰。
各部落の神社と先祖
中村では八大神社(八大龍王)と荒神が祀られ、後者は戸川家が日向から背負って来たものだという。大村の武速神社(祇園様)であるが、御神体は3代目が京都の八坂神社から霊を背負って、降ろさず飲み食いもせず持ち帰ったものだとされている。この御神体は、33年ごとに祭典を行い、その時に拝むのだという³⁹。
脚注
出典
- 八戸大村故郷を想う会.八戸小史:大村を中心として.八戸大村故郷を想う会,1999,p.7-8.
- 八戸大村故郷を想う会.八戸小史:大村を中心として.八戸大村故郷を想う会,1999,p.7.
- 八戸大村故郷を想う会.八戸小史:大村を中心として.八戸大村故郷を想う会,1999,p.95.
- 八戸大村故郷を想う会.八戸小史:大村を中心として.八戸大村故郷を想う会,1999,p.96.
- 八戸大村故郷を想う会.八戸小史:大村を中心として.八戸大村故郷を想う会,1999,p.24.
- 八戸大村故郷を想う会.八戸小史:大村を中心として.八戸大村故郷を想う会,1999,p.32.
- 八戸大村故郷を想う会.八戸小史:大村を中心として.八戸大村故郷を想う会,1999,p.13.
- 八戸大村故郷を想う会.八戸小史:大村を中心として.八戸大村故郷を想う会,1999,p.14-15.
- 八戸大村故郷を想う会.八戸小史:大村を中心として.八戸大村故郷を想う会,1999,p.16-21.
- 八戸大村故郷を想う会.八戸小史:大村を中心として.八戸大村故郷を想う会,1999,p.20.
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- 津久見市.津久見市誌.津久見市,1985,p.360.
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- 八戸大村故郷を想う会.八戸小史:大村を中心として.八戸大村故郷を想う会,1999,p.10,59.
- 八戸大村故郷を想う会.八戸小史:大村を中心として.八戸大村故郷を想う会,1999,p.57.
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- 八戸大村故郷を想う会.八戸小史:大村を中心として.八戸大村故郷を想う会,1999,p.39-41,p.91-92.
- 八戸大村故郷を想う会.八戸小史:大村を中心として.八戸大村故郷を想う会,1999,p.34-35.
- 八戸大村故郷を想う会.八戸小史:大村を中心として.八戸大村故郷を想う会,1999,p.82.
- 八戸大村故郷を想う会.八戸小史:大村を中心として.八戸大村故郷を想う会,1999,p.81.
参考文献
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