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畑瀬(はたせ)は、佐賀県佐賀市富士町の大字¹。ダム完成以前までは、嘉瀬川により東畑瀬・西畑瀬に分かれていた。縄文時代の遺物が発見され、古墳時代の遺構も確認されている。安富荘の一部で、戦国時代には畑瀬氏が重要な役割を果たしていた。近世には佐賀藩と小城藩に分かれ、近代に佐賀県に統一された。豪雨災害や嘉瀬川ダム建設など、様々な歴史的出来事がある。
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地理
嘉瀬川ダム建設以前の畑瀬は、嘉瀬川を挟んで東畑瀬・西畑瀬地区に分かれていた。近世や近代初期に関しては行政区でも他藩・他県の地区として取り扱われていた。その後、近代の町村編成に伴い統一され、大字畑瀬と取り扱われるようになった。近世の史料では、「畑瀬村」のほか「畑瀬山村」と記録されており、小城藩に属した西畑瀬は「波多瀬」とも表記されていた。旧富士町が山間地であったため畑瀬の標高も高く、旧東畑瀬集落の標高は280mで、西畑瀬は200mだった。また標高340mの東畑瀬峠がある²。
人口
富士町畑瀬の人口は以下の通り³’⁴。
年代 | 戸数(世帯数) | 人口 | 補足 |
1878年(明治11年) | 80 | 355 | 「明治11年戸口帳」の東・西畑瀬を合算 |
1975年(昭和50年) | 31 | 119 | |
2008年(平成20年) | 13 | 25 | |
2023年(令和5年) | 5 | 15 |
歴史
縄文時代
嘉瀬川流域では縄文時代の遺物が発見されており、畑瀬でも字前田・中ノ道・堂ノ下・山ノ上に渡り縄文遺跡(西畑瀬遺跡)が確認されている⁵。
古代
前述の西畑瀬遺跡では、旧富士町で初めて古墳時代の遺構が確認されている。これは、1998年(平成10年)の富士町教育委員会による嘉瀬川ダムの工事用道路用地の発掘調査によって明らかとなった。発見されたのは古墳時代前期(4世紀)の小穴1つで、内部から土師器3個が出土している。また、出土品が一般の集落や古墳での出土状態とは異なることから、何らかの宗教儀礼の痕跡であるか、平野から山を上ってきた人々による山に対する祭祀であったと推測されている。当調査の対象範囲は狭かったことから、周辺にはまだ多くの遺物や遺構が埋まっていると考えれているが、そのほとんどが現在は水没してしまった⁶。
中世
奈良時代から戦国時代にかけて、各地には田圃を中心とした荘園が存在し、旧富士町域に関するものとしては安富荘があった。安富荘は北は畑瀬・小副川などの佐賀郡最北端付近の山間部から、南は大和町大字久留間などの平野部に及んでいたとされている。当初、安富荘は後白河法皇が自身の持仏堂である長講堂に寄進した荘園群「長講堂領」の1つであった。後に蒙古合戦の恩賞配分地に指定され、松浦党一族に均分配分され、同一族に地頭職が分与された⁷。
松浦歴史資料館所蔵の『石志文書』、松浦党一族で上松浦の石志(現:唐津市大字石志)を本拠とした「石志満(沙弥定阿)譲状」に、1339年(暦応2年)4月25日付で父満が嫡子源三郎煕に与えた所領の1つに「肥前國安富庄内畑瀬村<同村内火桶>」とあり、更に同史料内には庶子彦四郎披に「安冨庄畑瀬村内上於副河所分与」とも記されている。同史料から、惣領職を継承した煕・披兄弟は、父の満から畑瀬村の一部を与えられたことがわかる。史料内の「火桶」は現在の大字小副川の日池であると推測すると、14世紀前半当時の畑瀬村域は、現畑瀬を中心とした上小副川から日池を含む広範囲に及んだと考えられる。『石志文書』が発給されたのが南北朝時代の早々であるため、畑瀬村が安富荘内に入ったのは鎌倉時代の頃と推測されている⁸。 また『富士町史』では、安富荘内の畑瀬村を管理する地頭(荘官)として畑瀬氏が存在し、のちの神代氏の家臣畑瀬氏は、鎌倉時代、既に山内に有力な勢力を持っていたと推測されている。また東畑瀬の曹洞宗瑞雲山宗源院にあった1617年(元和3年)の銘がある銅鐘には「肥前国佐嘉郡安富荘畑瀬」と刻まれてある⁹。
神代衆「畑瀬氏」
畑瀬が位置した山内地方は、脊振山地南麓から小城郡天山北麓に及ぶ山地を指し、ここに山内二六ヶ山(山は主要な村や集落にあたる)が存在した。山内二六ヶ山は、神埼七山・佐賀七山・小城一二ヶ山で構成され、畑瀬山は佐賀七山の1つであった。外部勢力の侵攻がいつあるか分からない不安定な情勢にあった戦国時代において、山内地方は、渓谷・小盆地が多く点在し、全体的・政治的まとまりがなかった。その為、山内の武士の中には、当地方での団結が必要であると考える者もいて、その1人に三瀬山城主の三瀬土佐守入道宗利がいた。享禄年間頃(1528年〜1531年)、神崎・佐賀・小城の山内で500人の門弟をかかえ剣術の指南をするなど、当地方で名を轟かせていた神代新次郎に目を付けた三瀬宗利は、新次郎を山内の総大将に擁立し、山内を団結させることを画策。前もって松瀬城主の松瀬能登守又三郎宗茂に相談し、宗茂の同意を得て、山内の諸城主にこの趣旨を伝えて、三瀬山の館に招集。この時、畑瀬山城主の畑瀬兵部少輔盛政もこれに参加している。1532年(天文元年)に評議が行われ、即日一決し、連判をもって神代新次郎を主人とする契約がなされた。また、新次郎は神代刑部少輔勝利に改名した。こうして、畑瀬山(畑瀬村)は神代勝利の支配下に置かれることとなった¹⁰。
山内の総大将となった神代勝利を支えた家臣団は神代衆と呼ばれ、神代家五人衆の1人に畑瀬氏が数えられていた。前述の通り、畑瀬氏は鎌倉時代の頃からの安富荘畑瀬村の土豪の末裔であると推測されている¹¹。また、神代家臣団の共通点の1つに、各郷士が大明神を祀っていることがあげられ、畑瀬では白髭大明神が祀られていた¹²。
筑前の小田辺氏を降伏させた神代勝利は、龍造寺隆信を倒し肥前を統べることを画策。その噂を耳にした隆信は、1561年(永禄4年)9月初旬に堂々と決戦を挑もうと勝利のもとに使者を遣わせた。それに対し勝利も快諾し、合戦の期日は9月13日と定められた¹³。この戦で畑瀬氏は、三瀬氏や栗並氏等の重臣と共に、大将勝利が本陣を構えた淀姫神社の西惣門に集い戦に備えた¹⁴。この戦は、「川上合戦」と称され、味方の裏切りにより劣勢となた神代軍が最終的に三瀬城まで退却し、勝利は再起を期して一度上松浦に落ちることとなった。敵将隆信は山内の武士らに対し降伏するよう誘ったが、山内の団結は強く、隆信に降らず勝利の帰還を待った。そして同年12月中旬、中村壱岐守父子が龍造寺方代官の討ち取りに成功。さらに各所の代官が逃亡するなど機は熟し、大将勝利は三瀬城に帰還¹⁵。ただ、先の戦で多くの武将を失った神代軍は、いつ隆信軍に攻められてもおかしくない不安定な状況にあった。そんな中、1562年(永禄5年)、隆信の使者が山内に来て和議を申し入れ。評議の結果、勝利はこれを受け入れることとし、最終的に山内と佐賀の和平が成立。その後、旧来の三瀬城が居城では佐賀との往来に不便であったため、1564年(永禄7年)、勝利は畑瀬山に畑瀬城を築城し、家督を嫡男長良に譲り、ここに隠居した。尚、長良は千布の土生島館に居住した。畑瀬城に隠居した勝利であったが、翌1565年(永禄8年)3月15日に享年55歳で亡くなった。遺体は畑瀬山宗源禅院に葬られた¹⁶。
当時の名残として、畑瀬山の北西麓宗源院付近に「館」「風呂谷」などの地名があり、周辺にはわずかに石垣や門跡が残る。また砦は畑瀬山頂上にあったという¹⁷。
和平後、畑瀬村は龍造寺氏・鍋島氏の支配下に置かれた¹⁸。
近世
近世における畑瀬村は、嘉瀬川を挟んで右岸が佐賀本藩領畑瀬村で「佐賀畑瀬」「東畑瀬」と呼ばれ佐賀郡にあった。それに対し、左岸は小城藩領畑瀬村だったため「小城畑瀬」「西畑瀬」と称され小城郡にあった¹⁸。近世においては、板橋によって東畑瀬と西畑瀬で連絡が行われていた¹⁹。
東畑瀬
東畑瀬村は佐賀藩の山内分に属し、上佐賀代官所の支配下にあった。『富士町史』によれば「慶長国絵図」に東畑瀬が描かれていないというが、『角川日本地名大辞典 佐賀県』では同史料上に村高173石余りとあるという。「正保国絵図」には「畑瀬山村 八十六石余」、「天明村々目録」では「高八十六石二升 畑瀬山村」とある。ただ「天保郷帳」では102石余に増加している。『佐嘉山内図』の畑瀬村の社寺として「豊富宮」「毘沙門天」「八龍社」「宗源院」の名が見られ、集落には42軒あったという¹⁸’¹⁹。
西畑瀬
西畑瀬村は小城藩の山内郷に属し、大野代官所の支配下にあった。村高は「慶長国絵図」には「波多瀬 高百八十六石五升六勺」、「正保国絵図」では「畑瀬山村 百五十石余」とある。また「天明村々目録」でも同程度の「高百五十石八斗二升九合 畑瀬山村」と残されている。江戸時代の当地方を表した古地図の1つに「小城畑瀬村図」が挙げられ、これから当時の村の様子が窺える。寺社には「東泉寺」「波多瀬大明神」が描かれ、その他「九郎神」「荒人」「妙見」「七郎神」「矢房」「天神」がある。後述する「太閤石」や「千駄ヶ原」も当地図に記載されていることから、少なくとも江戸時代頃には既にこれらの伝説があったと推測されている¹⁸’²⁰。
1829年(文政12年)3月16日午前11時頃、領内を巡見していた第9代小城藩主鍋島直堯(なべしま なおたか)が畑瀬村東泉寺に到着。この時、御宿礼として100疋を渡した。佐嘉畑瀬村宗源院の神代勝利の墓前に立ち寄り、金100疋を納めた。他にも、畑瀬村庄屋や村役の者達が、山いもや志可(ウド)を献上したため銀2両を、また全てお供の者へ酒が振舞われたため金100疋を渡している²¹。同日に畑瀬を後にしていた藩主鍋島直堯とその一行であったが、翌17日に畑瀬村大山留の弥平に対し金100疋を渡している。興味深いことに、同日に古場村・大野村・上熊川村それぞれの大山留に対しては銀2両を渡していた。また、前述の4ヵ村の大山留が志可(ウド)を献上したため、銀2両を与えている²²。
近代
年代 | 上位行政区 | 補足 |
1871年(明治4年) | 佐賀県(小城県)・伊万里県 | 当初、東畑瀬は佐賀県、西畑瀬は小城県に属した。伊万里県以降は同一県に属した。 |
1872年(明治5年) | 佐賀県 | |
1876年(明治9年) | 三潴県・長崎県 | |
1883年(明治16年) | 佐賀県 | |
1889年(明治22年) | 南山村 | |
1956年(昭和31年) | 富士村 | |
1966年(昭和41年) | 富士町 | |
2005年(平成17年) | 佐賀市富士町 |
『小城郡村誌』を参考に作られた1881年(明治14年)頃の旧南山・北山村域の村々の状況を示した表によると、畑瀬村には本籍45戸あり、そのうち16戸が士族、26戸が平民であり、37戸が農業を生業とし、商業・工業はそれぞれ4戸と僅かであった。人口は180人(男94・女86)。物産としては、小麦(約15石)・大豆(約20石)・楮皮(約900貫)・櫨(約3000斤)・麻糸(約400斤)・竹大小・茶が挙げられていた。当域で茶が産出されるの珍しく、21ヵ村のうち畑瀬村と上熊川村でしか物産として挙げられていなかった²³。
1888年(明治21年)4月、市制町村制が交付され、翌年4月1日から施行。旧来の古湯村外七村戸長役場管轄区のうち大串・栗並村の2ヵ村が北山村へ移り、残りの6ヵ村と上熊川村外三村戸長役場管轄区が併合し、この10ヵ村を一つとした南山村が誕生。これにより旧畑瀬村は、新たに大字畑瀬として南山村に属すこととなった²⁴。
1896年(明治29年)5月19日、南山村畑瀬で火災が発生。民家39戸・納屋など30戸が全焼する甚大な被害を及ぼした²⁵。
1922年(大正11年)8月、富士村大字畑瀬字千田ヶ原で川上川第三発電所の運転が開始された²⁶。
1938年(昭和13年)、西畑瀬出身の鳥谷千太郎がブラジルへ移住。1886年(明治19年)の日布渡航条約に基づくハワイへの移住から日本では本格的な移民制度が始まったが、1908年(明治41年)の日米紳士協定や1924年(大正13年)の移民法によりハワイ・アメリカへの移民が激減。代わりに南米、とりわけブラジルへ移住が盛んになり、1933年(昭和8年)頃に興隆期に差し掛かった。ただ、1934年(昭和9年)以降はブラジル移民も制限を受けたため激減。千太郎が移住した時期は、こうしたブラジル移住への制限がかかり始めて数年経った頃だった²⁷。
現代
豪雨災害
1949年(昭和24年)、ジュディス台風の影響で、8月16日16時から翌日日中にかけて豪雨が当地方を襲った。これにより南山村畑瀬部落の222名が被災。死者は出なかったものの、重軽症者2名・全潰家屋1軒・半潰家屋1軒・道路決潰5件・橋梁決潰1件の被害に遭った。被災者数は南山村の中で最も多かったが、家屋損傷などの被害は比較的少なかった。特に道路決潰5件というのは、鎌原部落(被災者数188名)の120件、市川部落(被災者数105名)の110件と比べると顕著に少ない。この要因として、豪雨が天山北斜面地域に集中して襲ったため、その麓の集落が特に被害が甚大だったことが挙げられる²⁸。尚、小関村畑瀬の被害は、流失全壊家屋1軒・半壊家屋2軒だった²⁹。 1962年(昭和37年)7月、畑瀬地区が大雨により洪水に遭った³⁰。 1963年(昭和38年)6月30日から7月3日にかけ、梅雨前線の停滞に伴い当地方に大雨が集中。この豪雨により、西畑瀬部落全域を山津波が襲い、甚大な被害となった。7月1日の『佐賀新聞』の記事によると、同部落の背後にある「百合の谷」から山津波が部落中央に押し寄せ福富家・田中家の家を埋めたという。その後も複数回に渡って泥土が部落に押し寄せ、部落の36戸全てが泥土に覆われ、全壊6戸・半壊2戸の被害に遭った。特に部落入り口に位置していた山口家や付近の中家の被害は甚大で、押し寄せた泥土に押し流され、家もろとも川上川に流された。この災害により西畑部落では6名が行方不明となり、部落民150名は農業倉庫・畑瀬巧宅に避難。行方不明者の多くは自宅で発見されたが、西畑瀬の光野タケ(63歳)は現場から9km下流で発見されており、この豪雨の苛烈さが窺える²⁹。
嘉瀬川ダム建設
1968年(昭和43年)7月、北部九州水源開発協議会において筑後川関連河川の開発第一候補地に嘉瀬川が選ばれた1973年(昭和48年)4月には嘉瀬川ダム調査事務所が設置され嘉瀬川ダム実施計画調査が着手され、1988年(昭和63年)4月に建設事業が着手された³¹。途中、畑瀬地内では、1980年(昭和55年)に東畑瀬公民館が新築されたが、1997年(平成9年)の嘉瀬川ダム建設に伴い移転している³²。2011年(平成23年)に工事は竣工し、翌年3月に嘉瀬川ダム事業が完了し、翌月の管理開始に至った³¹’³³。また、ダム建設後の国道323沿いには「ダムの駅 富士しゃくなげの里」が設けられている³⁴。ダム建設に伴い、東畑瀬のほとんどの人々は大和町東山田に移転し、西畑瀬の人々は集落の上に開かれていたその他の土地に移転した³⁵。
1989年(昭和64年)12月に公開された映画「男はつらいよ ぼくの伯父さん」では、水没前の東畑瀬地区の風景が撮影されている³⁶。
1991年(平成3年)2月14日、富士町畑瀬637の古賀勝己方で出火。火の不始末によるもので部分焼けで済んだ³⁷。
神社仏閣
畑瀬大明神
畑瀬大明神は、嘉瀬川ダム建設に伴い水没した神社。大字畑瀬字前田に位置した。祭日は12月19日で創立は不明³⁸。
白鬚神社
白髭神社は、字西畑瀬に位置する神社。祭神は武内宿弥。由緒などは詳らかとなっていない³⁹。
瑞雲山 宗源院
宗源院は、東畑瀬に位置した曹洞宗王林寺の末寺。嘉瀬川ダム建設に伴い水没している。中世の神代勝利が存命の頃、天陽禅師が開基した。1562年(永禄5年)に天陽が入寂した後は、約200年後の1757年(宝暦6年)に第2代禅閑禅師が入寂していることから、永年無住後に再建されたと考えられている。2代目以降は長く続いたが、1996年(平成8年)に第22代鷹雲和尚未亡人昭園美芳禅尼が亡くなって以来無住となった。水没以前は、堂字の背後の高台に勝利の墳墓があった。ダム建設後は、畑瀬の対岸の畑瀬トンネル近くの高台に移設された。儒者閑室元佶が若いころ、勉学のため宗源院に滞在したといわれている¹⁸’⁴⁰’⁴¹。
東泉寺
東泉寺は、畑瀬に位置する曹洞宗の寺。天明年間(1781年〜1789年)に創立された。本尊は釈迦牟尼仏⁴²。
名所
太閤石
太閤石は、豊臣秀吉が名護屋(現:唐津市鎮西町)へ行く道中に座ったと伝わる石。長さ1m・幅50cmの平たい石で道沿いの田んぼのなかにある。あくまで伝説であるため真偽は不明であるが、秀吉が名護屋に在陣中に母の病気で伏見へ戻って再び肥前へ下向した際、畑瀬から遠くない佐賀上道(現:大和町)を通っている。太閤石のほか、千頭の馬が休んだとされる「千駄ヶ原」という地名も残っている⁴³。
文化
伊勢信仰
畑瀬にも伊勢講があり、水没前の東畑瀬宗源院に天照大神の神像が彫られた伊勢講碑があった。当碑は、その後、大和町東山田宗源院に移された。通常、伊勢講では三重県の伊勢神宮への参詣が行われる。しかし、地理的に多大な費用と時間を要することから、代わりに地方に分霊された神社への参詣が行われる。1868年(慶応4年)の参宮帳によると、4・9月に畑瀬から参詣が行われたという⁴⁴。
若宮信仰
当地では若宮大明神を牛馬の神として信仰されていて、旧宗源院前には1855年(安政2年)の石碑が置かれていた⁴⁵。その他、天満天神信仰や毘沙門天信仰があった。東畑瀬では、毘沙門天像が祀られていて、8月3日に毘沙門堂の祇園が行われていた⁴⁶。
カンコロ祭り
カンコロ祭りは、春祭りの一環として東畑瀬で3月17日に行われる催事。イリコ・昆布で煮たカンコロ(干し芋)を袋に入れて配ったり、竹で編んだ的に「鬼」と書いて弓で射るという⁴⁷。
サナボイ
サナボイは、田植え上がりの慰労として、親族の家を訪問したり招き飲食をしたり餅を配る慣習。集落により若干の違いがあり、西畑瀬では他と異なり、決まった日(7月15日)に行われていた。この日になると、田植え上がりの休みに夫婦で嫁方の里を訪れる。その時、酒・魚・キーコミに麦の粉を入れて持っていく⁴⁸。
灯籠つけ
東畑瀬では、青年の仲間入りをした青年・娘が観音祭りの際に灯籠を奉納していた。奉納する灯籠には、青年が武士の絵を、娘が桜や梅などの花の絵を描いたという⁴⁹。
人物
西 功
西功(にし いさを)は、旧小関村東畑瀬出身の軍人。1923年(大正12)に誕生し、三養基中学・広島陸軍幼年学校を経て、陸軍士官学校卒業後に陸軍少尉に任官。三重陸軍航空隊入隊後にフィリピンに転属された。その後、1944年(昭和19年)11月18日、フィリピンのレイテ湾で僚機3機と共に停泊中の敵輸送船団に空中特攻。大型輸送船2隻・中型輸送船2隻を大破炎上させた。享年21歳。これにより、功三級金鵄勲章及び勲四等旭日章を授与された⁵⁰。
教育
畑瀬小学校
1880年(明治13年)4月、古湯小学校の畑瀬支校が開設された。『佐賀県教育史第二巻資料編(二)』の記録を元にした『富士町史』の明治20年代前半の小学校一覧によると、畑瀬支校の所在地は畑瀬村40であったことが分かる。しかし、1894年(明治27年)10月に畑瀬・古湯・鎌原・柚木の4校が併合し古湯尋常小学校に改められた⁵¹。
畑瀬集義団
畑瀬集義団は、1907年(明治40年)8月に創立された青年団。15歳以上35歳以下の畑瀬在住の青年で構成されていた。明治42年度の『小城郡市』によると会員数は25名で、資産はなく会員の出金で事業が維持されていた。事業では植林と夜学が挙げられている⁵²。
交通
『小城畑瀬村図』から江戸時代に東畑瀬・西畑瀬を結んでいたのは板橋であったことがわかる。また、大正中期頃まで両畑瀬をつなぐ渡舟があり、冬季のみ土橋がかけられたという。大正中期になり釣橋が架設されたが、木材を積載したトラックが橋もろとも落下したため、永久橋仮設の建設計画が浮上。そして、1935年(昭和10年)3月、鉄筋コンクリートの橋が竣工した。
脚注
出典
- 角川日本地名大辞典 編纂委員会.角川日本地名大辞典 41 (佐賀県).角川書店,1982.p.552-553.
- 富士町史編さん委員会.富士町史 上巻.佐賀市,2000.p41.
- 佐賀市.“住民基本台帳月報 平成20年3月分“.佐賀市公式ホームページ.2020-03-31,https://www.city.saga.lg.jp/site_files/file/usefiles/downloads/s33347_20120904084619.pdf,(参照 2023-12-21).
- 佐賀市.“住民基本台帳月報 令和5年2月分“.佐賀市公式ホームページ.2023-02-28,https://www.city.saga.lg.jp/site_files/file/2023/202303/p1gqt5b3421lp6me91da510djjhp4.pdf,(参照 2023-12-21).
- 富士町史編さん委員会.富士町史 上巻.佐賀市,2000.p.120-122.
- 富士町史編さん委員会.富士町史 上巻.佐賀市,2000.p186.
- 富士町史編さん委員会.富士町史 上巻.佐賀市,2000.p.234.
- 富士町史編さん委員会.富士町史 上巻.佐賀市,2000.p.234-235.
- 富士町史編さん委員会.富士町史 上巻.佐賀市,2000.p.235.
- 富士町史編さん委員会.富士町史 上巻.佐賀市,2000.p.270-273.
- 富士町史編さん委員会.富士町史 上巻.佐賀市,2000.p.284-286.
- 富士町史編さん委員会.富士町史 上巻.佐賀市,2000.p.292.
- 富士町史編さん委員会.富士町史 上巻.佐賀市,2000.p.293.
- 富士町史編さん委員会.富士町史 上巻.佐賀市,2000.p.294.
- 富士町史編さん委員会.富士町史 上巻.佐賀市,2000.p.296-298.
- 富士町史編さん委員会.富士町史 上巻.佐賀市,2000.p.299-302.
- 富士町史編さん委員会.富士町史 上巻.佐賀市,2000.p.291.
- 角川日本地名大辞典 編纂委員会.角川日本地名大辞典 41 (佐賀県).角川書店,1982.p.553.
- 富士町史編さん委員会.富士町史 上巻.佐賀市,2000.p.361.
- 富士町史編さん委員会.富士町史 上巻.佐賀市,2000.p.365-367.
- 富士町史編さん委員会.富士町史 上巻.佐賀市,2000.p.386,p.400.
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- 富士町史編さん委員会.富士町史 上巻.佐賀市,2000.p.526-528.
- 富士町史編さん委員会.富士町史 上巻.佐賀市,2000.p.552-553.
- 富士町史編さん委員会.富士町史 上巻.佐賀市,2000.p.86.
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- 富士町史編さん委員会.富士町史 下巻.佐賀市,2000.p.194-196.
- 富士町史編さん委員会.富士町史 上巻.佐賀市,2000.p.68,72,78.
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- 富士町史編さん委員会.富士町史 下巻.佐賀市,2000.p.198.
- 国土交通省九州地方整備局佐賀河川事務所.”沿革”.国土交通省九州地方整備局.http://www.qsr.mlit.go.jp/saga/office/enkaku.html,(参照 2023-12-21).
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- 一般社団法人 佐賀市観光協会.“ダムの駅富士 しゃくなげの里”.サガバイドットコム.https://www.sagabai.com/main/?cont=kanko&fid=285,(参照 2023-12-21).
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- 有明抄 ダムに沈んだ風景を忘れない.佐賀新聞.2022-03-20,佐賀新聞,https://www.saga-s.co.jp/articles/-/827574,(参照 2023-12-21).
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- 富士町史編さん委員会.富士町史 上巻.佐賀市,2000.p.777.
参考文献
タイトル | 著者・編集者・編纂者 | 出版社 | 出版年 | ページ数 | 資料の種別 | URL(国会図書館サーチなど) | Tags | 集落記事 | 所蔵図書館・利用図書館 | 注記 |
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富士町史編さん委員会 | 富士町教育委員会 | 2000 | 929 | 図書 | 畑瀬 | |||||
富士町史編さん委員会 | 富士町教育委員会 | 2000 | 922 | 図書 | 畑瀬 | |||||
「角川日本地名大辞典」編纂委員会 | 角川書店 | 1982 | 1118 | 図書 | 畑瀬河内町星領 |