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星領(ほしりょう)は、佐賀県唐津市の大字。高原台地に位置し、約650mの標高に達す。近世では山内南筋の五ヵ山組の一部で、冬季は孤立するほどの厳しい気候条件だった。地名の由来は「榜示(ほうじ)」がなまって「星領」になったとされている。経済は木炭焼きや農業が中心で、近代には林道開発や用水施設の整備が進んだ。藤原神社や星領浮立などの文化財がある。
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地理
星領は高原台地に位置するため、集落の標高は約650mに達す。星領集落と片原集落の2つから成り、前者は厳木川(古名:森ノ木川)とその支流荒川内川・袖切川の合流地点一帯に、後者は厳木川が厳木町広川の杉宇土地区と接するあたりに位置する。星領の面積は4.25㎢¹’²。
近世において、山内南筋の五ヵ山組の1村であった星領は、肥前国の中で1番の高山にあり夏も4月まで霜が降るとの旨が史料に残るなど、凶作に困窮する地区であったという³。さらに近世頃までは毎年積雪が60cm以上あり、冬期間にその雪が消えることはなかったと伝わっており、自ずと冬は孤立状態だったという¹。
北東にある椿山から南西の作礼山にかけて連なる稜線に山々があり、戦前はこの山々の雑木で木炭焼きが行われ、草原山は入会地として草刈場だった。山々の主峰は蝦蟇山(わくどやま)で、これと椿山の稜線の間には、山頂に愛宕社が祀られる標高710mの大立山(おおだつやま)がある。その他、南山麓に金剛寺跡がある大平山、山頂に弁財天を祀る向山などがある⁴。
地名
地名の由来には諸説あり、『厳木町史 上巻』では中世の「榜示(ほうじ)」がなまり、最終的に「星領」になっと考えられている。榜示は、律令制における国や郡の境に置かれる札などのことで、同史料では星領にこれが設けられていた可能性が高いとしている⁵。 というのも、平安時代において東松浦郡は、天皇御領の荘園である松浦東郡と大江氏の荘園である松浦西郡に分けられており、五ケ山地区において星領がその東西の境であった可能性があるためだという。更に中世後期の東松浦郡では、岸岳城の波多氏と鬼か城の草野氏が覇権を争っており、近郷の鳥巣が草野氏、星領が波多氏の所領であった可能性が高く、その境に榜示が設けられいたと推測されている。その後の『慶長国絵図』では、「星路」と記録され、それが訛り「星領」になったという⁶。
小字
明治初期の地籍調査に記載された小字名は以下の通り⁷。
原田 | 本村 | 前田 | 爪ノ元 | 大井出 |
杉谷 | アザミ原 | 畑田 | 大迫 | キクロヲ |
斧杉 | 有川 | 北向 | 堀切 | 高焼朝 |
熊山 | 川内(こうち) | 九郎森 | 片原(かたばる) | タキリフチ |
武蔵腹(ぶぞうばる) | 浦平 | 広平(ひろひら) | 竹谷 | 楮原(かごはら) |
ホキノ元 |
人口
星領の人口は以下の通り⁸’⁹。
年代 | 戸数(世帯数) | 人口 |
1873年(明治6年) | 45 | 179 |
1886年(明治19年) | 39 | 159 |
1925年(大正14年) | 13 | 73 |
1949年(昭和24年) | 13 | 83 |
1965年(昭和40年) | 13 | 70 |
2005年(平成17年) | 13 | 60 |
2023年(令和5年) | 12 | 20 |
歴史
古代は松浦郡に属し、中世では五ヶ山地区に属していた。一方、生活圏や勢力圏は、松浦東郷を支配した鬼か城の草野氏の支配下にあったという¹。
近世
近世における年貢徴収・諸賦課の基礎となった元和検地であるが、唐津藩は無類の厳しさで行われたという。松浦郡だけで、元和検地以前の石高66,515石余から82,416石余に増加。更に石盛に関しても、唐津藩では全国平均に比べて高い基準が設定されていた。『唐津藩高帳上(松尾文書)』所載の寛永7年(1630年)「寛永高帳」から、元和検地における星領山の石高が76石5斗1升だとわかる。また、藩の蔵入地として代官山中勘四郎の支配下にあった¹⁰。
唐津藩は石盛だけでなく、免(年貢率)も同様に高かった。星領の免は、明暦年間(1655年〜1657年)の唐津藩主が大久保氏であった時代は6割9分6厘で、文化年間(1804年〜1817年)水野氏時代は8割5厘。領内では佐賀領に隣接する東部の山間地域の免が高く、星領もそのうちの一つで、収穫の多くが徴収されていた。ただ、山間部が平野部に比べ免が高かった理由には、検地が行われていない隠田があったことが挙げられる。隠田については、村々に残る隠田伝承や地租改正時の耕地面積増加からその存在が窺える。事実、星領の高知面積は、文化年間が16.3町、明治初年が19.8町だったのに対し、地租改正時の測量では45.6町と2倍以上に増加している。『厳木町史 下巻』では、この増加分のほとんどが隠田であったと推測されている¹¹。
1691年(元禄4年)2月、唐津藩主松平乗邑が鳥羽へ転封されたことに伴い、鳥羽城主土井周防守利益が入部。大名の転封に際しては、領内の村名・村高・小物成が記された「郷村帳」が幕府勘定所から渡される。『松尾文書』に残るその写本によると、星領山の村高は計78石9斗2升6合。そのうち10石3斗9升2合が新田高で、前述の元和検地で記載のなかった新田高がここでは示されている。これは天保以前の松平時代に開墾された新田。また、小物成は米2石2合・銀47匁3分7厘で、米納と銀納で分けて徴収されていた。銀納は漁業・商業に対する営業税のような運上銀などで、星領のような農村では、河川での漁獲や山林からの木切りなどの運上が銀によって納められていた¹²。1817年(文化14年)の星領山では銀374匁の炭竈運上が納められている¹³。
1817年(文化14年)、唐津藩主水野忠邦は浜松への国替えが命じられた。この時、忠邦は唐津領のうち厳木をはじめとした43ヵ村1万石が幕府領へ上知した。星領は、上知された43ヵ村のうちの1つであった。この上知により唐津藩の領民の負担が重くなると、唐津領に残った村々が上知反対運動が起こした。一方、唐津領民による反対運動が行われる最中の1838年(天保9年)9月、星領を含む新幕府領の全領を挙げての農民一揆が発生。原因は、上知により旧来の庄屋との行政の仕組みが変わったことで、農民の年貢の負担が増加したこと。更にそれを利用し庄屋の不正が発生し、またその庄屋を擁護する唐津藩の態度に不満が溜まったことにあった。この一揆は隣藩の佐賀藩への逃散という方法が採られた¹⁴。
1819年(文政2年)の『庄屋・名頭給米帳』(秀島家文書)から庄屋及び庄屋給米がわかる。当時の星領山庄屋は源兵衛で、庄屋給米は1石8斗だった¹⁵。
江戸時代初期まで、星領の西方にある山瀬(現:浜玉町山瀬)は星領の枝村とされていた。藩政初期は唐津藩領であったが、寺沢氏の時代には藩直轄地として代官の支配下にあった。その後の変遷は以下の通り¹⁶。
年代 | 支配領・支配者 |
慶安年間(1644-1651) | 幕領 |
1649年(慶安2年) | 唐津藩領 |
1817年(文化14年) | 幕領日田代官支配 |
1831年(天保2年) | 長崎奉行支配、幕領唐津藩領預り |
1842年(天保13年) | 長崎奉行支配地 |
幕領となった文政年間(1818年〜1829年)以降、星領山に改められたが、1870年(明治3年)に星領村に戻っている¹⁶。
天保の大飢饉
1833年(天保4年)、星領をはじめとした当地方の幕府領を冷害が襲い、ほとんどの村々が凶作により年貢が減免された。翌年、星領山と鳥巣山はその困窮具合を文書をもって唐津藩預り役所へ訴えた。ここでは、前年(天保4年)の凶作により困窮して農作業の気力も失われた状態のため御役人様に両山村に視察に来て頂き、困窮状態を調査した上で農事資金としての拝借金の配布また村人の救済の手立てをして欲しい旨が嘆願されていた。こうして、調査の上で困窮を極めた村人たちに拝借金が配布されたのだが、一部の村民は凶作を機に農事を捨て離村し没落する者もいた¹⁷。 また、1837年(天保8年)にも大飢饉に見舞われ、その窮状を星領山・鳥巣山が訴えている。この訴えでは、「五ヵ山は高山で例外のために3年で1ヵ年分の収穫すらないのに、地理的不条件を考慮されていない高い石盛が見積もられている」「唐津藩主からは年貢の救引きや拝借金を頂いていたが、幕府領に替わったことで同制度が廃止された」「さらに、唐津藩成立時から減免されていた新田畑の年貢率が本途免率に引き上げられた」「こうした重税に苦しむ状態で、1833年(天保4年)と1837年(天保8年)と短期間で凶作に見舞われている」との旨が伝えられ、このままでは大乱が起きそうな状態だとも訴えられていた¹⁸。
1838年(天保9年)、星領村を含む幕府領で庄屋の汚職を紛糾する運動が起きた。また翌年には関係農民が広瀬の金比羅嶽に一揆終結する「金比羅嶽騒動」に発展した。これに対し、幕領地を預かっていた唐津藩は武力をもって鎮圧し、当一揆関係者の農民及び庄屋を処罰。そのうち庄屋層に課された処罰の中で最も重い罪となったのは「家財取上ゲ所払」で、この対象者の1人に星領の孫兵衛が挙げられている。彼らが重罪に問われたのは、用捨米を別に農民から徴収し、私用にしていたことが発覚したためであった¹⁹。
近代
1868年(明治元年)の山瀬村を含めた星領山の耕作規模は、田17町4反・畑2町4反だった。唯一厳木町域の村で二毛作をしていなかったのが星領山であった。また、1戸あたりの耕作規模は5反7畝と、同町域で最も大きかった。耕作の土起しで用いられる牛は19頭飼育されていた²⁰。
1883年(明治16年)に発行された『東松浦郡町村誌』では、星領村の物産物として米(110石)・木炭(4,500斤)が挙げられている。厳木町域で木炭を物産として挙ていたのは星領のみだった。また、同史料に当時の牛馬数があり、星領村では30頭の牛が飼育されていたことが分かる。当時、牛馬を田畑の耕作に用いた形跡はなく、牛は肥育牛(食肉用)として飼育されていたという²¹。
1889年(明治22年)4月、市町村法の施行により、星領村の属した広川村外四か村と厳木村外九か村が合併し、厳木村が誕生した²²。
行政区の変遷
年代 | 上位行政区 |
1871年(明治4年) | 厳原県・伊万里県 |
1872年(明治5年) | 佐賀県 |
1876年(明治9年) | 三潴県・長崎県 |
1883年(明治16年) | 佐賀県 |
1889年(明治22年) | 厳木村 |
1952年(昭和27年) | 厳木町 |
現代
1967年(昭和42年)5月28日に、農村集団電話が厳木町で開通したが、星領集落は区域外であった。農村集団電話は1回線を5軒から9軒で利用する性質上、「通話中」となっていることが多く、利用者から不便だという声が度々寄せられていた。さらに、区域外の星領集落や天川集落で新規に電話を設置するためには、莫大な費用が必要であるという問題も存在していた。これらの問題を解消するために、厳木町は関係機関に働きかけを行い、電信電話公社は「集団電話加入者全員が一般電話に切り替える」という条件の下で、厳木町全域を普通区域に切り替える方針を決定した。その結果、従来の農村集団電話はすべて一般電話に切り替えられることとなった。こうして、1979年(昭和54年)1月7日から、市外局番5局(星領・天川・広川・鳥越)および同3局(それ以外の地区)が設置され、新しい5桁の電話番号が導入された。これにより、厳木町全域で通話が可能となった。
1955年(昭和30年)頃から厳木町では木材の搬出のための林道開発が推進され、林道「星領-あせび線」はこの動きの初期に開発された。同林道は幅員4m・路線長3,855m²³。
1999年(平成11年)から2001年(平成13年)にかけて、それまで山水(流水)等を利用していた星領を含む厳木町山間地区の用水施設が整備された。これにより厳木町域の無給水地区は完全に解消している²⁴。
神社仏閣・名所
藤原神社
藤原神社は、星領字北向に位置する神社。1795年(寛政7年)8月創建で、祭神は藤原鎌足。九郎社と八坂神社が合祀されている²⁵’²⁶。 1883年(明治16年)に長崎県へ提出された『東松浦郡村誌』によると、藤原神社は星領住民の氏神で村社の社格が与えられていた。ただ、江戸時代の文化年間(1804年〜1817年)の『松浦拾風土記』では、星領の氏神を山ノ神社とされていた。同史料では祭神について記述されていなかった。『厳木町史 下巻』では、この近世と近代での神社名・祭神の違いは「神仏分離令の発布」が原因であるとしている。この時、政府は祭神の神名を届け出するようにしており、神名不祥を認めなかった。また、古事記・日本書紀の中の神々から祭神を選ぶよう指導したため、近世の「山ノ神社」から「藤原神社」へ変更したのではないかという²⁷。
現在、藤原神社の祭日は9月15日となっており、この日には星領浮立(神事芸能)が奉納される。浮立の噺は、打出しの「宮めぐり」、道中の「道ゆき」、神社境内での「宮めぐり」「神の前」が演じられる。1980年(昭和55年)3月には無形民俗文化財に指定された²⁸。 神殿に奉納されている一対の石造狛犬は江戸時代初期に作られたものとされている。また、一対の石燈籠は文政期(1818年〜1829年)の作である²⁸。 境内には、佐賀県内でも分布が稀なナナツバキがある。この樹木は、1990年(平成2年)、藤原神社の社叢林(神社に付随し、神殿や境内などを囲むようにある森林)として天然記念物の指定を受けている²⁸。
星領浮立
星領浮立は、1980年(昭和55年)3月21日に重要無形民俗文化財に指定された太鼓浮立の1種。指定当時は、旧厳木町によるもので、町村合併後の現在は唐津市より文化財の指定を受けている。奉納は旧8月15日の藤原神社の例祭に五穀豊穣の祈願と感謝の年を込めて行われていたが、のちに9月15日に催されるようになった。起源に関する口伝は、祭神藤原鎌足に奉納するとともに、日天・月天と片原九郎神社・天山社・作礼社・鳥巣天満宮の祭神に対しても奉納すると残るのみで、詳らかでない。ただ、藤原神社の創建が1795年(寛政7年)8月といわれ、浮立の笠鉾の布地に文化3年(1806年)の寄進銘があるため、『厳木の文化財』ではその頃に起こったのではないかと推測されている。浮立を演ずるのは男子のみ。戦前までは、曲をリードする笛の吹き手以外は小学生で構成されていたが、現代に至り人手不足となりると高校生まで浮立に加わるようになった。
浮立衆の装いは、浴衣と袴に長めの紅白の襷をかけ、白足袋に草履。出演者は、笠鉾3人(長老)・笛4人(青年)・大胴1人・鼓2人・締太鼓2人・一番鉦1人・二番鉦1人・大太鼓1人・鬼1人。公民館前広場を打ち出しに広場を周る「宮めぐり」、神社へ至る道中の「道ゆき」、神社境内での「宮めぐり」「神の前」の順で演じられる。舞いは、巨大な角形の飾りを付けた冠を頭に載せ、太鼓を打ち鳴らしながら舞う舞手を中心に演じられる²⁹’³⁰。
九郎神社
現在、藤原神社に合祀されている九郎神社であるが、元々は星領地内の片原の九郎森にあった。祭神は大国主命だとされている。九郎神社は片原地区住民の氏神で、跡地には石の祠堂が残るだけであるが、神域は地元民による管理されているという。元来、九郎社は原始宗教以来の地の神を祀るものと考えられており、『厳木町史』では、当地の九郎神社もこの地を切り拓いた人々を祀るものだと推測している²⁸’³¹。 祠堂内には、1705年(宝永2年)に藤木太郎左衛門が寄進した鰐口1個がある。このほか1797年(寛政9年)に平形九左衛門が寄進して石造狛犬一対が残る³²。
金剛寺
金剛寺は、字大迫の大平山南山麓に位置した寺で、現在はその跡が残るのみとなっている。浜玉町の功岳寺の末寺。開山は不明であるが、伝承によると1582年(天正10年)に創建されたという。この寺は明治初期まで存続したとされ、住職は星領・鳥栖の中間にできた小学校の教師となり、代役として庄屋も勤めた。住職は、托鉢や修行の行脚が多かった為、ほとんど留守にしていたという。寺跡にある堂は東川二十三番礼所で、薬師如来など数体の仏像がある。また、寺跡の門前道脇に六地蔵があり、その傍には樹齢数百年と推定される桧の大樹が2本ある。そのほか、文政年間(1818年〜1829年)の作の石燈籠が一対ある³³。
愛宕社
愛宕社は、集落の北方、大立山(ううだつやま)の山頂に位置する神社。由緒は不明³³。
平形土佐守墓
平形土佐守墓は、金剛寺跡の西方の小高い丘にある墓。平形土佐守は、星領の開祖とされており、1483年(文明15年)没と伝わっている。子孫の平形氏は、寺沢志摩守から庄屋を任命され、以降居付き庄屋として世襲している¹⁶’³¹。
産業
農業
1972年(昭和47年)5月の「広報きゅうらぎ」によると、当時の星領の出稼ぎ戸数は100%だった。1970年(昭和45年)に始まった米の生産調整が、この星領の農家の財政悪化に繋がったと思われる³⁴。
1974年(昭和49年)から厳木町の種籾出荷実績の記録がされるようになるが、それ以前の1966年(昭和41年)頃から山地を中心に種籾の出荷が行われるようになったという。この先駆けが星領や平之だった³⁵。
1868年(明治元年)の『肥前国松浦郡村々様子大概書』には、星領を除く他の集落には、田の裏作として麦が作られていると記録されており、星領でのみ裏作としての麦が栽培されていなかった³⁶。
1972年(昭和47年)4月、厳木町役場の援助のもと技術員の拡充が行われ、星領10戸・天川7戸・広川4戸・鳥越3戸の生産農家でトマトの栽培に取り組むこととなった。以前から、厳木町の山間集落で水田を利用した高冷地野菜栽培の希望が持ち上っていたことに起因する。1985年(昭和60年)には、主に夏に出荷される高冷地トマトが星領・片原・杉宇土地区で栽培され、作付面積70a・出荷目標70tほどの規模となっている³⁷。
畜産業
1969年(昭和44年)、厳木町と片原・星領和牛組合による林間放牧が始まった。放牧地は、片原広平の町有林16haと星領爪ノ元30ha。1973年(昭和48年)には、放牧頭数が当初の2倍以上の73頭に増加した³⁸。
昔は星領地区12戸で堆肥をとるため、牛が1頭ずつ飼育されていた。しかし、化学肥料が容易に入手できるようになってからは5戸に減少したという³⁹。
教育
星領小学校
厳木町域では、1875年(明治8年)6月から9月にかけて、中島校・平之校・岩屋校の3校が設立願いを提出し、それぞれ開校に至った。星領はそのうちの平之校区に属していたが、当校区が郡内最大の山間僻地という地理的不条件により、教育の普及は望めないのが現実であった。そのため、県に対して平之校からの分設願いが提出された。要旨は、平之校区から天川・星領・鳥巣村が分離し、天川校(天川村)と星領校(星領・鳥巣村)を開設したいというもの。こうした経緯を経て、1875年(明治8年)11月22日、星尾小学校は旧民家を校舎に充て設立された。また1877年(明治10年)10月には学校設立に当たり年間予算の伺書が提出された。翌1878年(明治11年)の星尾小学校の就学生徒は13名で、男子児童のみであった⁴⁰。以降の星領小学校の動向を伝える資料は確認されていない。1890年(明治22年)の市町村法施行時の予算書が保存されていたが、すでに星領小学校の名は消えていた。代わりに、星領・鳥巣が一緒になって興した「尋常第4区簡易科鳥巣小学校の名が確認されている。当校は、両部落の中間地点あたりに位置したという。ただ、この鳥巣小学校も長くは続かず、厳木村の予算書によると1892年(明治24年)を最後に鳥巣小学校の名は確認されなくなったという。これは、市町村法施行にあたり、鳥巣が五ケ山地区から平原地区の大村に属すようになったことの影響によるという。また、当時、隣村の広川で新たに広川簡易小学校が発足したため、星領の児童は広川校に通学するようになったと推測されている⁴¹。1898年(明治30年)4月からは厳木尋常小学校広川分校へ通学することとなった⁴²。
交通
県道厳木・七山線
1889年(明治22年)に厳木村が成立してから、星領のような山間地区(五ヵ山地区)や炭鉱が栄えていた厳木村は道路の整備に力を入れた。1897年(明治30年)春、星領を含む「五ヵ山里道改修工事」が六か年事業として着手された。道路は牧瀬の車之元から星領大迫までの約15km。設計金額は19,366円74銭3厘で、県の補助金と村税を引いた残金14,913円34銭3厘は関係地区(星領・牧瀬・浦川内・平之・廣川)が負担した⁴³。 同工事は地元民総出で行われ、荷馬車が通行することを想定し、傾斜はできるだけ緩やかにし、露にになった巨石を除去しながら工事は進んめられた。1903年(明治36年)春に完工し、事業終了後に浦川内に「五ヵ山里道改修記念碑」が建立された。後に県道厳木・七山線となり、戦後は改修が進められ、道幅は約6mに広げられて全線に舗装が施された⁴³。尚、江戸時代末期の道幅は2尺(約60cm)ほどで、五ヵ山里道改修工事以前は6尺(約1.8m)、同工事により9尺(約2.7m)に広がっている⁴⁴。
近代に入り整備が進んだ同道路であるが、古来より星領と近郷を結ぶ道で、1573年(天正元年)12月に龍造寺隆信が草野鎮永を攻めた際には、この道を通って鳥巣に軍を集結したという。よって、中世か軍馬が通れる規模の道であったことがわかる⁴⁴。
脚注
出典
- 厳木町史編纂委員会.厳木町史 上巻.唐津市,2007,p.62.
- 厳木町史編纂委員会.厳木町史 下巻.唐津市,2011,p.317.
- 厳木町史編纂委員会.厳木町史 下巻.唐津市,2011,p.133.
- 厳木町史編纂委員会.厳木町史 上巻.唐津市,2007,p.62-63.
- 厳木町史編纂委員会.厳木町史 上巻.唐津市,2007,p.61.
- 厳木町史編纂委員会.厳木町史 上巻.唐津市,2007,p.61-62.
- 厳木町史編纂委員会.厳木町史 上巻.唐津市,2007,p.78.
- 唐津市.”町別人口・世帯数の統計”.唐津市ホームページ.2023-12-04,https://www.city.karatsu.lg.jp/kikaku/shise/toke/jinko/documents/20230401.pdf,(参照 2023-12-21).
- 厳木町史編纂委員会.厳木町史 下巻.唐津市,2011,p.319.
- 厳木町史編纂委員会.厳木町史 下巻.唐津市,2011,p.33-36.
- 厳木町史編纂委員会.厳木町史 下巻.唐津市,2011,p.128-130.
- 厳木町史編纂委員会.厳木町史 下巻.唐津市,2011,p.51-54.
- 厳木町史編纂委員会.厳木町史 下巻.唐津市,2011,p.224.
- 厳木町史編纂委員会.厳木町史 下巻.唐津市,2011,p.131-138.
- 厳木町史編纂委員会.厳木町史 下巻.唐津市,2011,p.43.
- 厳木町史編纂委員会.厳木町史 上巻.唐津市,2007,p.67.
- 厳木町史編纂委員会.厳木町史 下巻.唐津市,2011,p.159-160.
- 厳木町史編纂委員会.厳木町史 下巻.唐津市,2011,p.160.
- 厳木町史編纂委員会.厳木町史 下巻.唐津市,2011,p.208,686.
- 厳木町史編纂委員会.厳木町史 下巻.唐津市,2011,p.221-222.
- 厳木町史編纂委員会.厳木町史 下巻.唐津市,2011,p.689-690.
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- 唐津市.”唐津市内の民俗文化財”.唐津市ホームページ.2022-3-16,https://www.city.karatsu.lg.jp/manabee/bunkazai/minnzokubunkazai.html,(参照 2023-12-21).
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参考文献
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厳木町史編纂委員会 | 佐賀県唐津市 | 2007 | 692 | 図書 | 星領 | |||||
厳木町史編纂委員会 | 佐賀県唐津市 | 2009 | 713 | 図書 | 星領 | |||||
厳木町史編纂委員会 | 佐賀県唐津市 | 2011 | 847 | 図書 | 星領 | |||||
厳木町史編纂委員会 | 佐賀県唐津市 | 2010 | 946 | 図書 | 星領 | |||||
厳木町教育委員会 | 厳木町教育委員会 | 1985 | 177 | 図書 | 星領 | |||||
厳木町教育委員会 | 厳木町教育委員会 | 1983 | 84 | 図書 | 星領 | |||||
吉村 茂三郎 | 松浦郷土史刊行會 | 1952 | 140 | 図書 | 星領 | |||||
「角川日本地名大辞典」編纂委員会 | 角川書店 | 1982 | 1118 | 図書 | 畑瀬河内町星領 |