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河内町(かわちまち)は、佐賀県鳥栖市の大字。標高200〜400mの高地にあり、花崗岩の山々に囲まれた谷底平野に位置する。1826年(文政9年)の人口が339名なのに対し、2023年(令和5年)には47名に減少している。古墳時代の遺跡があり、1198年(建久9年)に建立された臨済宗の本城山万才寺がある。中世以降の武士集落の形成が示唆され、近世には対馬藩の影響下にありながらも、田代領基肄郡下郷に属していた。
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地理
河内町は、標高200〜400mの高地に位置し、600〜900mの花崗岩から成る山々に囲まれている。また、集落は地内を蛇行しながら流れる大木川の形成した狭小な谷底平野に位置する。[鳥栖市史 45]地内の家々の周辺で屋敷林を見ることは少ないが、谷底の氾濫原に立地している集落では南東風を防ぐための杉の防風林がみられた¹。
小字
河内町の小字は以下の通り²。
東十郎 | 竜目 | 三子谷 | 小原山 | 石坂 |
北原 | 鶴 | 大峠 | 桜谷 | 本村 |
谷口 | 倉谷 | 中原城 | 鳥越 | 西十郎 |
樋渡 | 新屋敷 | 櫓石 | 柿原 | 木の谷 |
芳谷 | 大谷 | 越道 | 城の浦 | 城の本 |
添川原 | 横井 | 貝方 | 転石 | 象石 |
頭野 |
人口
河内町の人口の変遷は以下の通り³’⁴。
年代 | 戸数(世帯・家数) | 人口 | 注記 |
1705年(宝永2年) | 67 | ||
1826年(文政9年) | 69 | 339 | |
1955年(昭和30年) | 56 | 321 | |
1970年(昭和45年) | 31 | 158 | |
2023年(令和5年) | 22 | 47 | 字横井(1世帯・3人)を含む |
記録が残る1705年(宝永2年)から第二次世界大戦まで、家数(世帯数)は70戸弱で安定し大きな変動はなかった。しかし、1955年(昭和30年)以降に減少し始めた人口は、1960年(昭和35年)頃のプロパンガス普及による製炭業の衰退、高度経済成長に伴う鳥栖市街地への工場誘致・設置による工場勤務者の増加、1965年(昭和40年)の河内ダム建設の決定により拍車がかかり、とどまるところを知らなかった⁵。
歴史
弥生・古墳時代
河内町では弥生・古墳時代の土器が確認されている。また、横井町の古墳の発見により先住民族の居住地となった事も明らかとなっている⁶。
東十郎古墳
東十郎(ひがしじゅうろう)古墳群は、鳥栖市河内町字東十郎、神辺町字森塚及び谷口にまたがる古墳群。標高312mの杓子ケ峰から南下する6つの小丘陵に79基の古墳が分布する。1965年(昭和40年)に調査が行われた⁷。
鳥栖地方には、杓子ヶ峰古墳群などの多数の古墳が6世紀後半から7世紀前半にかけて築成された。しかし、7世紀後半に入ると646年(大化2年)の喪葬制や仏教文化の普及が影響を与え、古墳の築造は衰退期を迎えた。一方で鳥栖地方の一部では、8世紀に入っても古墳築造の伝統が継続していた。そういった時代背景の中、杓子ヶ峰の南斜面に位置する東十郎(ひがしじゅうろう)古墳群は、7世紀後半から8世紀前半にかけての長期間に渡り築造された⁸。
当古墳は、多くの小谷を境にして幾つかの群を形成している。それぞれの群は独自の特色を持っており、この特色の差は、築造された時期や背後に存在する集団の社会的背景に起因していると推察されている。古墳の形状は、すべて円墳で、その封土の径は3.5mから15mまでの変動があるが、7m前後のものが主流。内部構造としては、横穴式石室が主体で、その主軸は南北に配置され、石室の開口部は南向きである。また、副室を持つ大型の石室墳が13基存在する一方、奥行き・幅・高さが約1mの小型石室墳もいくつか確認されている。出土した遺物に関して、須恵器や土師器などの土器が多数見られた。さらに、装身具、馬具、鉄器などの多様な出土品が存在し、その中でも有柄鎌、鋏、あてびし、たがねといった農工具が見つかった古墳もあった⁷’⁸。
古代
地内の本城山万才寺は、1198年(建久9年)に日向の人僧以亨謙という禅僧によって建立された臨済宗の寺と伝わっている。尚、万才寺の建立が1190年(建久元年)という説もあるが、いずれにせよ鎌倉時代以降の集落とされている⁶。
中世
『鳥栖市史 研究編 第4集』では、河内町の萬歳寺に残る宝篋印塔の様式、寺に伝わる「応永九年(1402年)開山以享謙和尚没」という口碑、1424年(応永31年)に九州探題渋川義俊が築城した城山勝尾城の時期と関連して、河内村は武士が形成した集落ではないかと推測されている。さらに、山麓の大木川沿いにある神辺地区の臨済宗徳昌寺や今は無き国泰寺の存在が、この地域の武士集落の存在を示唆しているともいう。神辺地区に隣接する萱方(かやかた)は「かいかた」と発音され、河内町の貝方は「山の貝方(やまんかいかた)」と呼ばれており、これらの呼び名の特徴が、山麓から山間部への移動を示しているという⁹。その他、河内町には中原城・城の南・城の本といった小字名が今も残り、柚比町には本陣という小字名が見受けられる。これらの地名から推察すると、丘陵地帯の柚比、神辺、牛原、山浦周辺から山間地帯の牛原河内、大谷、貝方、河内にかけての範囲で、武士集団がかつての集落の形成に関与してきたことが想定されるいう。しかしながら、現存する史料や情報は断片的であり、中世以前の鳥栖地方の集落の全容を示す資料は今のところ確認されていない¹⁰。
近世
対馬藩は、文禄・慶長の役で朝鮮侵略の最前線となり、大打撃を受けた。朝鮮貿易の途絶による経済的被害も深刻で、領内の復興策を模索する状況となった。藩主宗義智は朝鮮貿易の再開を目指し、1599年(慶長4年)に家臣を朝鮮に派遣。1605年(慶長10年)に日朝間の講和が成立し、1611年(慶長16年)には貿易が再開された。そんな中、領内では、家臣への論功行賞の宛行が最も重要な課題として浮かび上がった。その結果、1605年(慶長10年)・1610年(慶長15年)・1614年(慶長19年)には、新知行の宛行を集中的に行った。この新知行宛行では、蔵入地の整備を基に行われ、特に1605年(慶長10年)に肥前への2,600石の知行宛行が行われたため、肥前の実態把握が必要とされ、肥前田代領の検地が始まったとされる。この検地は、代官の古藤三郎左衛門が担当したため「古藤御検地」と称された。また、古藤御検地は1595年(文禄4年)に山口玄蕃によって行われた検地と対照された。慶長検地の竿の基準についての明確な記録はないが、町段畝歩制を採用し、田畑の等級を分けていたことは文禄検地と共通である。しかし、検地竿が6尺3寸か6尺5寸かは不明である。1605年(慶長10年)の古藤御検地で打ち出された数字は文禄検地と比べて増加しており、文禄検地の石高が11,837石だったのに対し、古藤御検地では16,309石6斗7升に増加。増高率は37.8%であった。当時、河内村(本城河内村)は対馬藩田代領基肄郡下郷に属していた。本城河内村の古藤竿高は120石3斗余りと、基肄郡下郷では赤川村に次ぐ、2番目に低い数字で、田代領33ヵ村の中でも4番目に低かった。以前の玄蕃竿高は102石7斗4升で、慶長検地による改出高は17石5斗6升余り(17.2%増)であった¹¹。
「慶長肥前絵図」に基づくと、石高の記載がある村は基肄郡で17カ村と1町、養父半郡で10カ村だったが、河内村の記載は見当たらなかった。しかし、その後の「元禄絵図」によれば、基郡は21カ村、養父半郡は変わらず10カ村と増加している。この増加分には、河内村、牛原村、古賀村、萱方村、金丸村、田代村、野口村が含まれており、これらの村は絵図に正式に記載されるようになった¹²。また、1653年(正保3年)の郷村帳に「本庄川内村」として記載されていた。また『基養精細録』には、元々は本城河内と称され、また本庄川内としても知られていたとある⁷。近世における河内村は広範囲にひろがる集落で、1701年(元禄14年)の元禄絵図によると、本城河内村では山神宮付近から天神松付近にかけて分布。地内の山ノ貝方村には大山祇神社があり、1626年(寛永3年)成立の横井部落と1665年(寛文5年)成立の大谷部落にはそれぞれ3軒程あった。大木川の左岸に庶民集落の日向集落が位置する一方で、右岸の旧道に面した日陰に庄屋の屋敷が置かれていた。これは庄屋が庶民集落全体を見通せるようにするためだったと推測されている¹³。
1760年(宝暦10年)、代官小川又三郎と佐役小田儀左衛門は宗門改の際、宗旨心得違とみなした者に対し宗旨替えを強制し、誓約の上、血判もさせた。それでも宗旨心得違と思われる者は後を絶たず、1763年(宝暦13年)3月には頭立った者5人が対馬へ送られた。さらに上郷山附きの村々に宗旨心得違の者があったとして、同年12月に代官所は宗門弾圧を決行。同月17日に11人を対馬送りにし、城戸村(16人)・宮浦両村(17人)・園部村(17人)・奈良田村(6人)・曽根崎村(4人)・飯田村(8人)・田代町(3人)の住民を他の村々へ分散させる「所替え」に処した。そのうち園部村の17名が河内・古賀・幡崎村に所替させられている¹⁴。
近代
近世から近代にかけての行政区画の変遷以下の通り²。
年代 | 上位行政区 |
近世 | 田代領基肄(きい)郡下郷 |
1872年(明治5年) | 柚比村 |
1889年(明治22年) | 田代村 |
1936年(昭和11年) | 田代町 |
1954年(昭和29年) | 鳥栖市 |
1939年(昭和14年)、佐賀地方における6月から7月にかけての雨量が220mと平年の30%程度と非常に少なかった。そのため、当時の三養基郡(現:鳥栖市域)の大部分の水田が干害に遭い、各地で雨乞い祈願が行われた。河内町貝方の牛石と呼ばれる奇石に酒を注ぐ雨乞いの行事や、九千部山の千把焚きなどが行われたが効果は無かったという¹⁵。
現代
河内防災ダム
ダム建設以前までは、河内町を通る大木川の下流両岸一帯の耕地295.6haのうち、280haが大木川の洪水による甚大な被害を受けていた。更に、65haは農業用水の不足による干害にも悩まされていた。そこで佐賀県農林部は、1962年(昭和37年)度にダム築造の調査・計画が行い、1966年(昭和41年)、農地防災及び灌漑排水事業として「河内防災ダム」を着工。そして1970年(昭和45年)2月に竣工した¹⁶。河内防災ダム竣工に至るまでの間、ダム建設に伴う付替道路工事による労働需要の増加や立木補償・土地売却金の支払い・土捨場の補償金など、河内町住民に金銭が流れる機会が増えた。『鳥栖市史』では、これが挙家離村を誘発したと主張している。また、当地での農業機械の普及・自動車の購入・他町村への農地拡大などの農業合理化を進めた原動力ともなり、離村現象へと繋がったともいう¹⁷。
前述のダム建設・離村傾向は部落における社会組織にも影響を及ぼした。1957年(昭和32年)頃まで部落の隣り組は谷口・本村・中・春ノ前・下の五つに分けられていた。しかし、時代の変遷と共に上組・中組・下村の三つに再編され、また貝方地区では、山ノ貝方上と山ノ貝方下の二組が一つに統合されるなど、社会組織も戸数減少に合わせて変化した。さらに、河内ダムの開通を契機に新たな道路が整備されたことで、転石地区が中心的な集落として発展した¹⁸。
市村自然塾 九州
市村自然塾九州は、地内にあるNPO法人が運営する自然体験施設。2002年(平成14年)1月28、株式会社リコーなどの創業者市村清の生誕100周年を記念してNPO法人市村自然塾が設立され、2003年(平成15年)3月から塾運営が開始。塾施設の所在地は鳥栖市河内町字谷口2212-2。市村清の出身地であることから、当塾が佐賀県で開塾することとなった。尚、神奈川県足柄上郡松田町には、一足早く2001年(平成13年)10月に「市村自然塾 関東」が開設された。当塾では、農業・自然体験や共同生活を通じて、子どもたちの健全育成、成長の支援が行われている。2014年(平成26年)に公益財団法人社会貢献支援財団から社会貢献者賞、2017年(平成29年)には佐賀県県民協働課から佐賀さいこう賞を受賞している¹⁹’²⁰。
神社仏閣・名所
大山祇神社
大山祇神社は、市社会教育研修所付近の山間部に位置する神社。祭神は大山祇命。創建の年代は不明であるが、長門の毛利蔵人という者が家臣を率いて当地に移住し、祀ったのが起源だという。1873年(明治6年)には、村社に列せられた。神殿の建立時期は、妻の虹梁や柱の風食状況などから、19世紀中期と推定されている。また、拝殿に関しては、正面・背面中央間の虹梁の絵様からは18世紀末頃のもの推測されたが、柱の風食状況や頭貫木鼻から神殿と同じ19世紀中頃のものと考えられている。尚、1985年(昭和60年)に瓦を葺き替えており、板壁や垂木より上部はその時に新しくなったと推測されている。石造明神鳥居は、花崗岩からなる1本もので、1851年(嘉永4年)に建立された²¹’²²。
山神社と河内町
地内には、本村と貝方に山神社がある。『鳥栖市史 研究編 第4集』では、河内村の形成が中世以降であることから、原始的な山霊信仰より、集落形成以降の守護神的な意味で祀らていると考えられている²³。
当地方の山仕事を持つ地域では、12月20日を「果つる日二十日」として、正月20日と対応する山の神の忌日としている。こういった地域に共通してある伝承に、この日は山の神が立木の数を数えられるので、山に入ると命を取られるというものがある。また『鳥栖市史 研究編 第4集』では、人々の「春に山を下り、田の神となっていた山の神が戻ってくる日であるため、浄界を維持しなければならない」という感覚と、前述の伝承との習合とも考えられている。山仕事として薪取りが行われる河内町では、この日は山に入っては行けない日とされ、各家庭では御神酒と搗いた餅が神様に供えられる²⁴。
猿田彦大神(現人神社)
基肄養父(きやぶ)地方には、現人(あらひと)神社又は荒人神社という神社がある。神社明細帳で河内町の「現人神社」は「猿田彦大神」となっており、住民たちもそれを認めている。「現人様」は石躯で、山神社の境内にあり「現人様はお堂に入りたがらないので、わらとび(藁づと)を被せてあげる」慣わしとなっている²⁵。
萬歳寺(万才寺)
1191年(建久2年)、禅宗の開祖栄西が再度の入唐から帰国。翌年、筑前香椎宮の傍に国内最初の禅寺建久報恩寺を建立。その後、栄西は、1194年(建久5年)にかけて九州地方を巡り、各地に禅寺を建てた。萬歳寺起源の1説に1198年(建久9年)とあるのは、こうした縁由に基づく。他の説には、1190年(建久元年)建立というものがある²⁶。元々、今泉町にあったが潮に汚れていたため、天正年間に河内に移されたという²⁷。
近世以降に一時無柱となったが、第4世大麻和尚が中興し、第9世養浦和尚の代に本格的な本堂が再建されたと伝えられる。本堂建立の時期は1798年(寛政10年)頃とされるが、1985年(昭和60年)に茅葺きから瓦葺きにする時に、入側部分やブツマの両脇間などの大改造が施された。尚、屋根は1946年(昭和21年)頃にも一度葺き替えられている²⁸。
観音堂は、すべての柱が杉材の素木で造られており、1988年(昭和63年)に建立された。また、「基肆養父郡観音霊場三番札所」として知られている。山門も柱は杉材の素木造で、虹梁の絵様や柱の風食状況などから、18世紀末期ごろの建立とされる。この山門は、筑後市西牟田の寛元寺から1998年(平成10年)に移築されたもの²⁹。
萬歳寺には創建当初からの仏像が4体祀られ、特に、宝冠釈迦如来像、地蔵菩薩像、および傳大士像は、その作風や構造から見て、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活動していた「院派仏師」によって作られたと考えられている。この仏師は、当時、足利将軍家にも重用されていたことが知られている。当時を代表する禅僧の1人、以亨得謙禅師によって創建された萬歳寺ふさわしい、一流の仏師の手による仏像が存在することから、京都五山文化との深い関連がうかがえる。また、誕生仏は朝鮮・高麗時代のものとされ、北部九州と朝鮮の交流を示唆している。近世には一時荒廃の危機に瀕したが、創建からの遺品が600年以上保存されている³⁰。
以下で紹介する仏像はいずれも、河内町の萬歳寺で所蔵されており、2003年(平成15年)6月9日に鳥栖市から重要文化財に指定されている。
宝冠釈迦如来座像
宝冠釈迦如来座像(ほうかんしゃかにょらいぞう)は、檜材を使用し、寄木造りの漆箔技法で、像高は39.0cmであり、室町時代前期(15世紀初頭)に作られたもの。この像は宝冠を戴く宝冠釈迦如来として、中世の禅宗寺院の本尊仏としての位置づけがあり、萬歳寺創建当初の本尊仏である可能性が指摘されている。しかし、宝冠の部分は現在では失われている³⁰。
地蔵菩薩像
地蔵菩薩像は、檜材を使用し、寄木造りの漆箔技法で、像高は13.0cm、室町時代前期(15世紀初頭)に制作された。この像は、出家前の釈迦の姿を元にしているが、地蔵菩薩のみは僧侶の姿をしている。戦後、金泥を塗り重ねられ、手に持つ錫杖や宝珠はその時のものである³⁰。
傳大士像
傳大士像(ふたいしぞう)は、檜材を使用し、寄木造りの漆箔技法で、像高は33.8cm、室町時代前期(15世紀初頭)に制作された。傳大士は、497年~569年(中国・南北朝時代)の人物で、輪蔵(経典を収める棚が回転するようにつくられた経蔵)を創始したとされている。そのため禅宗寺院の輪蔵内には、守護神として傳大士の像がまつられており、萬歳寺でも創建当初の伽藍に輪蔵が存在していた可能性があったという³⁰。
誕生仏
誕生仏は、銅製でメッキが施され、像高は9.9cm、朝鮮・高麗時代(10世紀から14世紀)に制作された。この仏像は、朝鮮半島で作られ、請来されたもの³⁰。
九千部山展望台
佐賀と福岡の県境にまたがる九州自然歩道の途中、地内の九千部山(標高847.5m)の山頂には展望台がある。天気の良い日はここから、有明海や博多湾を一望することができる³¹。
文化
秋彼岸
他の地域と異なり、河内町では部落神山神社の中心的祭事として、秋彼岸の願成就と宮座が複合して行われる。現在は行われていない。神家は13人で、右座・左座があった。秋彼岸中日の早朝、山神社の後ろの川で禊をして汐井を採り、村内の禊が行われる。座元では、大釜で炊かれた御飯を箕の中に移し、一升飯の高盛神家分が準備され、それに塩鰯2匹を拝み合わせに藁で結ばれたものが添えられる。また山神社のお供えと同時に、境内の現人様にも3升3合の御飯が供えられ、石塔に被せられている藁とびの交換がされた。山神宮での祭事が行われた後、村内の青年が全員でお供えを掲げ、神殿から石段の下まで「ヨイサ、ヨイサ」という掛け声で、3度上り下りを繰り返す。そして、最後に神官が青年の群にお供えを投げ込み、青年一同が奪い合う。これは「飯(まま)つかみ」という行事で、青年たちは米粒だらけになるという。そのあと、神家がお宮に揃って宮座・御願成就の直会が行われる。直会の終わりに頭渡しがあり、酒をハンキ腕3杯は飲まなければいけなかったので、座は賑やかであったという。また、座が終わると前述した一升飯と塩鰯を持ち帰り、組内の人に振る舞っていた。「飯つかみ」は柚比町平原の風止め願成就の時のものと同じ発想で、貴重な米を気前よく消費することで祭りを一層賑やかにする目論見があった³²。
神送りと神迎え
神無月と称される陰暦10月には、神々が出雲へ集まるとされ、9月晦日に神送り、10月晦日の夜から青年がお籠りをして神迎えをする行事が行われる。これらの行事は日本各地に広く伝わっており、特に地域によって異なる特色を見せることがある。鳥栖地方においては、陰暦十月は農事が最も多忙となる時期に重なるため、大人たちが行事を主体とするのは難しいため、当行事は子供たちを中心に進行される。特に河内町では稲の収穫が早めに終わるため、神送りは大変賑やかだったという³³。
神送りは、太陽暦11月1日の夕方に子供たちが「野菜・米・小豆くれなさい」と唱えながら集めた食材で夕食が楽まれる。この宿元は、その年に小学校一年生の子供を持つ家が引き受けることになっている。そして、夕食後には男子達だけが山神社でのお籠りを行う。翌日の早朝、前日に集めた薪で火を焚き、宿元から小豆ご飯のおにぎりを貰い、松明を灯して、行列を作って歌や太鼓を鳴らしながら天神松まで神送りを行う。送って帰る頃、夜明けと共に村の人々が神社に詣でてくる。この時、子供たちがお握りを箸に刺し、野菜の煮しめを添えて接待を行う。この接待は、間接的には子供たちが農作業に忙しい大人たちに対する慰労の意を表現するものと解釈される³⁴。
神迎えは、神送りを行った子供たちが主体となり、陽暦12月2日の早朝、前回の神送りと同様に松明行列が作り行われる。さらに、村中ごくさ(御供飯)の接待が子供たちによって実施される³⁵。
婿入り客
鳥栖地方の婚姻慣習は、基肄養父と肥前地方に共通する特徴として、嫁入りに先立って婿入りが行われていたという。肥前側においては、以前は「お茶婿入り」と称される儀式があり、これは結婚式の前日に嫁方が婿方の親戚を招待し、その際に婿入りが行うというもの。しかし現在では、嫁入りが終了してから3日後に行う「三つ目婿入り」が多くなっている。河内町においても、嫁入りの日の午前中に婿方の親戚が嫁の家に招待される「婿入り客」という慣習が伝承されている。これは、本来は結婚式の前日や数日前に行われていた古風な婿入りの残存であるという³⁶。
彦山詣
河内町では、大正期まで彦山講の形が存在していた。彦山講は毎年11月下旬に行われ、各戸から50銭ずつ(明治末期において)を集め、2名の代参者を派遣してお札を求めていた。この代参者たちが宿泊する宿坊は、立石坊と決まっていたと伝えられている³⁷。
正月行事
鳥栖市一円の七日正月行事に「ほんげんきょう」というものがある。現在は殆ど行われないが、早朝から各戸のキンド(門口)で竹と藁を燃やす文化で、天台宗の徒が行なっていた修正鬼会の地方伝播とされている。部落により若干の違いがあるが、早朝に門口で火を燃やすという魔除けの性質と子供の行事であることは、一帯で共通している。河内町特有の文化としては、神棚に供えた正月餅をここで焼いて食べる。また3〜5軒くらい廻るとその年は病気にならないとされていた³⁸。
産業
山間部の河内町における生業は多岐に渡った。九千部山を越えた先にある南畑一ノ瀬(現:那珂川市)付近で採取した氷をおがくずで保存しておいて、夏になったら福岡県三井郡の小郡・北野・久留米辺りのヨドの市に出品していたという³⁹。
くるま屋
鳥栖地方においては、水車を利用した製粉業が古くから営まれており、これを営む者を「くるまや」と呼んでいた。1907年(明治40年)頃には最盛期を迎え、河内村にも1箇所の水車が存在していた。この地方の水車は主に粉挽きを中心に行っていたが、依頼があれば精米や裸麦の精白も行ない、大正期には河内村で水力タービンを利用して製材業も同時に営まれていた。水車の仕組みは、川の傾斜を利用して上流からモチミゾ(小溝)を引き、水車の上に水を落とし、その力で車を回していた。そして、軸の回転は歯車やベルトで繋がれ、挽き臼と揚き臼をそれぞれ操作する仕組みになっていた。神辺村上の車の水車大工であった権藤吉次(1889年生まれ)が語った「くるま屋繁昌記」という記録によれば、川上の河内車までの間に7台の水車が存在し、1905年(明治38年)頃にはさらに1台が加わり、全部で8台になったという。主に神辺村字松本の人々が来て設置していた。しかし、1925年(大正14年)に曽根崎に日清製粉が設立されて以降、くるま屋だけでは生計を立てることが難しくなり、くるま屋は次第に衰亡していった。そして終戦を境に、この地域のくるま屋はすべて姿を消してしまった⁴⁰。
林業
山間部に位置する河内町は耕地が狭く現金収入が少なかったため、薪取りひいては林業は、地域の人々にとって重要な収入源となっていた。1901年(明治34年)の河内在住の村山辰次郎(1876年生まれ)の日記によれば、当時、村人たちはろ山から薪を取り、牛の背に10把(250斤)、自分の背に2把(100斤)を担い、田代、鳥栖、姫方などに売りに出向いていた。この日記によれば、1日の売上は6、70銭になっていたという⁴¹。
河内だけでなく、牛原・山浦・立石各村でもそれぞれに雑木山が存在し、農閑期には村人たちが薪取りを行い、町部へと触れ売りに出掛けていた。特に田代領内では、木山としては牛原河内(牛原村)と本城河内(河内村)しか存在していなかった。そのため、立木の保護には特に注意が払われ、代官所には山掛の役人が配置され、取り締りを行っていた。しかし、代官所日記には、山麓から牛を牽いて立木の伐採に来る者があり、それに困っていた旨が記されている⁴²。
さらに『田代代官所日記』の1717年(享保2年)2月23日の条には、雑木林から枯枝を取ることは許されていたが、生木を伐ったり、更には他領まで売りに行く者があったため、村役・町役に厳しく取り締まるよう通達していた記述が残っている⁴³。
教育
河内小学校
河内小学校は、1879年(明治12年)4月に田代小学校付属分校として設立。1902年(明治35年)4月の小学校令の改正を受けて、田代小学校から独立し、河内尋常小学校として運営されるようになった。その後、1971年(昭和46年)4月2日に学校は閉校となり、その際の児童数は7人であった¹⁸。
脚注
出典
- 鳥栖市.鳥栖市史.国書刊行会,1982,p.46.
- 鳥栖市.鳥栖市史 研究編 第4集.別表1,鳥栖市,1971.
- 鳥栖市.”公称住所別人口及び世帯数”.鳥栖市ホームページ.2023-12-12,https://www.city.tosu.lg.jp/site/profile-tosu/2706.html,(参照 2023-12-21)
- 鳥栖市.鳥栖市史.国書刊行会,1982,p.45,p.50.
- 鳥栖市.鳥栖市史.国書刊行会,1982,p.50.
- 鳥栖市.鳥栖市史.国書刊行会,1982,p.45.
- 角川日本地名大辞典 編纂委員会.角川日本地名大辞典 41 (佐賀県).角川書店,1982.
- 鳥栖市.鳥栖市史.国書刊行会,1982,p.100-101.
- 鳥栖市.鳥栖市史 研究編 第4集.鳥栖市,1971,p.19.
- 鳥栖市.鳥栖市史 研究編 第4集.鳥栖市,1971,p.26.
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参考文献
タイトル | 著者・編集者・編纂者 | 出版社 | 出版年 | ページ数 | 資料の種別 | Tags | 集落記事 | 所蔵図書館・利用図書館 | URL(国会図書館サーチなど) | 注記 |
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鳥栖市 | 国書刊行会 | 1982 | 1182 | デジタルコレクション | 河内町 | 相互貸借 | ||||
佐藤正彦 | 鳥栖市 | 2008 | 図書 | 河内町 | 相互貸借 | |||||
小林肇 | 小林肇 | 2004 | 791 | 図書 | 河内町 | 相互貸借 | ||||
小宮博康 | 洋学堂書店 | 1995 | 294 | 図書 | 河内町 | 相互貸借 | ||||
長 忠生 | 鳥栖市 | 1970 | 77 | デジタルコレクション | 河内町 | 相互貸借 | ||||
佐々木哲哉 | 鳥栖市 | 1971 | 309 | デジタルコレクション | 河内町 | 相互貸借 | ||||
「角川日本地名大辞典」編纂委員会 | 角川書店 | 1982 | 1118 | 図書 | 畑瀬河内町星領 |