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その他
地理
久利須地区には県道小矢部津幡線が通っており、久利須川が流れている。この地区は旧宮島村域の最北端に位置し、石川県境に接している。さらに、小矢部市で最高峰となる標高397.5メートルの大嶺山の山麓に位置している。(小矢部市史 おやべ郷土編377-)
地名
弘法大師が前坂で「アアくるしや」と言ったことから、久利須と名付けたとされる説と、五ヶ山の栗栖と同じく、栗の多く生えていたためという説がある。(小矢部市史 上巻 308)
小字
(小矢部市史 下巻 692)
谷内 | 軒窪 | 稲葉 |
池ノ上 | 南窪 | 小池 |
義郎谷 | 大嶺 | 西大久利須 |
中大久利須 | 東大久利須 | 南大久利須 |
北大久利須 | 大久利須 | 稗谷 |
瀬戸 | 向尾 | 赤坂 |
前坂 | 宮納 | 谷 |
人口
(小矢部市史 下巻 55)
年代 | 戸数 | 人口 |
1872年 (明治5年) | 19 | 117 |
歴史
中世
久利須の山中には、法勝寺の執行であった俊寛僧都のものとされる俊寛塚がある。伝承によれば、俊寛僧都が流された場所は九州の硫黄島ではなく、実際には小矢部市宮島谷の奥であったという。この他にも、砺波市宮村の景完寺境内にも俊寛塚が存在し、いずれの塚も俊寛僧都の侍童であった有王が亡き主の遺情を納めた場所と伝えられている。『小矢部市史 上巻』によれば、これらの塚はおそらく中世の時衆の聖か、または高野聖がこの地で俊寛供養のための大念仏会を開いた際に築いた墳丘である可能性が高いとされる。また、俊寛塚の近くには比丘尼塚と姫塚もある。(小矢部市史 上巻 237-238)
近世
(小矢部市史 下巻 25-29)
藩政の初期、嘉例谷村を含む砺波郡の村々はいくつかの郷に分かれていたが、慶長九年(1604年)に十村制度が始まると、それぞれの郷は組に改められた。この制度の開始時には浅地村の喜左衛門が蟹谷組の十村を務めたが、小矢部市域に関する詳細な記録は残されていない。元和五年(1619年)の砺波郡『家数調』によると、砺波郡には二十九組があり、久利須村は峠組に属していた。また、『元和五年利波郡家高ノ新帳』によると、当時の税を負担する本百姓(役家)数は7間(軒)であった。尚、ここには栗須村と記載されている。その後、寛永十一年(1634年)には砺波郡に十二組が設置され、久利須村は土屋村宗右衛門組に属した。(小矢部市史 上巻 544-546)(小矢部市史 上巻 287)
『天保十年砺波郡高物成帳』によると、久利須村は宮島組に属し、御印高は72石、免は四ツ六歩であった。また、『明暦二年利波郡村々物成帳』によると、嘉例谷村の総高は88石、免は四ツ六歩であり、小物成として山役48匁、蝋役2匁が記されている。藩への年米の上納は、藩倉(蔵)や指定の町蔵(蔵宿)へ収納され、これを御認と呼んだ。これらの監督は砺波郡奉行や石動町奉行が担当した。御蔵の米は小矢部川を吉久・伏木まで川下げし、出船に積まれて登米(回米)として大坂や江戸へ運ばれた。(小矢部市史 上巻 578,591,595)
天明七年(1787年)、近世の農学者である宮永正運は、公用で南谷から宮島・西明寺方面の山村を視察した。その視察の紀行文である『春の山路』には、久利須村と縁のある3地点を訪れた際に詠まれた和歌が記されている。(小矢部市史 上巻 695-696)
久利須の霊泉では以下の和歌を詠んでいる。(小矢部市史 上巻 696)
法の師の結びし水を尋ね来て 今くむからに袖ぞぬれける
俊寛塚では以下の和歌を詠んでいる。(小矢部市史 上巻 696)
世々へてもゆか里の色をさく藤に なれし雲居や猶したふらん なき魂も法の台にむかへなん 藤さく塚のむらさきの
比丘尼塚では以下の和歌を詠んだ。(小矢部市史 上巻 696)
なき跡に残すしるしの桜木も 花ものいわぬ春日のあはれさ
さらに『春の山路』では、和歌だけでなく、久利須にまつわる俳句も記されている。(小矢部市史 上巻 716-717)
久利須の前の平杵(ひらきね)坂では以下の俳句を詠んだ。(小矢部市史 上巻 717)
草餅の床しさはしらじ平杵坂
俊寛塚では以下の俳句を詠んだ。(小矢部市史 上巻 717)
かへる雁にもれて越路の哀哉
近世において、能登方面へ向かう道は八つあり、そのうちの一つは久利須を通るものであった。この道は宮島方面から久利須を経て、牛首(能登)に至るものであった。この交通路の影響により、国境に近い能登・加賀の村々、特に河合谷、笠谷、池ヶ原、幾日などと、南谷地区の荒間、千石、嘉例谷、峠、久利須などの村々は、藩政時代から明治・大正のころまで特姻関係で深く結ばれていた。さらに、河北郡池ヶ原の敬楽寺は、嘉例谷に三十一戸、久利須に十九戸の檀家を有していた。(小矢部市史 上巻 659-660)
久利須には、八幡(のちの八幡社)に奉仕する山伏が野尻村の宝乗院から来ていた。『正徳社号帳』によれば、小矢部市内で山伏が奉仕していた宮は、市域外から来ているものが多かったことがわかる。(小矢部市史 下巻 48-49)
近代
行政区画の変遷(小矢部市史 下巻 30-)
現代
昭和四十八年八月、異常干天により久利須を含む西北部山間地で水不足が発生した。この事態を受けて、昭和五十一年度より市西北部地域の南谷地区、宮島地区、子撫地区の一部を対象とした北部簡易水道事業が開始されたのだが、久利須や宮中、矢波などはその対象外だった。(小矢部市 市政40周年 121)
平成に入り、県は県定公園の利用計画の見直しを行うことと、新たに県定公園を指定することを決定した。これを受けて、小矢部市は平成3年(1991年)11月22日に「稲葉山・宮島峡」を新規指定候補地として再び申請した。その結果、久利須を含む小矢部市の下屋敷、高坂、清原、原牧および原牧新の全域、ならびに森屋、北屋敷、二の滝、名ヶ滝、了輪、別所滝、糠子島、岩崎、嶺、矢波、田川、宮中、畠中、屋波牧、西中野、法楽寺および六郎谷の各一部が「稲葉山・宮島県定公園」に指定された。(小矢部市 市政40周年 194-195)
平成7年(1995年)7月12日、子無川が284mで警戒水位を超えた。これに続き、7月14日には久利須地内の県道津幡宮島峡公園線の路肩が幅50cmから1m、延長30mにわたって崩落したため、全面通行止めとなった。(小矢部市 市政40周年 181)
久利須牧場(小矢部市史 下巻 681)
久利須林間休養施設
昭和五十六年(1981年)、久利須地内の宮島峡観光コースの最終地点に、林間休養施設恵林館が建設された。隣接する旧久利須牧場の跡地も整備され、グラウンドとキャンプ場が設置された。また、広場近くの高台には、宮島峡ビーナスの聖望の像や生誕の像が立っている。坂を下ると、竈々の森があり、そこには俊寛僧都の宿り跡と伝えられる大地に「俊寛塚」と刻まれた碑が建てられ、カラスサンショウの大木とともに伝説と景勝の地として整備された。夏休みの時期には、青少年のキャンプ場として利用され、児童・生徒の遠足や休憩場所、自然観察、ソフトボール競技などの場として、大自然を体験できる施設として活用されている。(小矢部市 市政40周年 335)
神社仏閣・名所
俊寛塚
久利須部落の北方、県境には俊寛塚が位置している。この塚は、治承元年(1177年)に起きた京都鹿ヶ谷山荘での密議に関するものである。当時、藤原成経、平康頼、そして法勝寺の執行俊寛が後白河法皇を擁し、平清盛を討つ計画を立てた。しかし、源行網の密告によりこの計画は露見し、彼ら三人は薩摩の鬼界島に流された。翌年、成経と康頼は赦免されて帰洛したが、俊寛は赦されず、そのまま鬼界島で没したとされる。しかし、久利須に伝わる伝説では、流罪を執行したのは越中国司の平盛俊であり、成経が盛俊の娘婿であったため、表向きは薩摩に流されたが、実際には盛俊の領地である久利須に流されたという。この俊寛塚の名称は古くから使用されており、『宝永誌』にも記載がある。『小矢部市史 下巻』によると、塚の石垣は崩れ、大小の岩石が積み重なった場所にボウダラセンの木が枝を広げている。さらに、この塚の近くには俊寛夫人の墓である比丘尼塚や娘の墓である姫塚があるが、墓印となるものは残っていない。また、『春の山路』には俊寛清水についても記されている。(小矢部市史 下巻 778-779)
出合橋
出合橋は、久利須川が子撫川の本流に落ち合う地点にある橋。伝説によれば、俊寛が久利須へ流された際、彼の妻が夫の身を案じて娘を連れ、久利須を訪ねてきたという。俊寛は妻子がこの草深い土地を訪れたと知り、懐かしさの余り久利須から迎えに出た。そして、妻子と出会い嬉し涙を流した。この出来事から、この橋は出合いの橋と名付けられたのである。(小矢部市史 下巻 777-778)
八幡宮
久利須の八幡社は、久利須193に位置し、誉田別命を祭神とする久利須の氏神。江戸時代の文献には、正徳二年(1712年)の越中国社号帳、宝暦九年(1759年)の神社改書上帳、寛政八年(1796年)の宮社帳に「八幡」または「八幡宮」として記載されている。明治初年に村社となり、平成五年には瓦の葺き替えや石段のコンクリート化が行われた。また、平成十年四月には新たに鳥居が建造された。(小矢部市史 おやべ郷土編 387,392)
宮島みどりの村
(小矢部市史 おやべ郷土編 389)
教育
現小矢部市では、1873年(明治6年)4月1日にはじめて、今石動町小学校南校と同北校が設けられ、久利須を含む近村66ヵ村を校下とした。尚、同年7月に広範囲過ぎた通学区域が改められ、久利須村は校下から除かれている。(小矢部市史 下巻 285-286)
明治十五年(1882年)の教育令改正により、就学率および出席率を向上させるため、生徒数の少ない部落や僻地には分数場や巡回授業所が設けられた。当時、石川県令から指定された久利須が属する第2学区には、巡回授業所が7箇所(糠子島村・矢波村・名ケ原村・久利須村・嶺村・高坂村・森屋村)設けられ、巡回授業が行われていた。(小矢部市史 下巻 295)
久利須分校
久利須地区には、かつて宮島村立宮島小学校久利須分校が存在した。1948年(昭和23年)12月に冬季久利須分校が設立され、翌年9月には通年制の久利須分校となった。その後、宮島小学校が東部小学校と併合されたことに伴い、東部小学校久利須分校と改称された。昭和三十年度には在籍児童数が11名(教職員1名)だったが、昭和四十年度には児童数が5名に減少し、昭和五十一年度には1名を最後に昭和五十二年度から休校となった。昭和六十一年春に他町から久利須地内に移住してきた家族の一児童が就学することとなり、市では老校舎を木造平屋建94平方メートルの高床式六角形のバンガロー風の新校舎に改築し、昭和六十二年4月に再開校した。しかし、平成元年(1989年)3月に児童の卒業により再び休校となった。『小矢部市史 おやべ郷土編』が発行された時点では、この校舎は小矢部市芸術文化連盟陶芸クラブに使用されている。(小矢部市史 おやべ郷土編387)(小矢部市史 下巻 349)(小矢部市 市政40周年 294)
産業
広域基幹林道「能越線」
久利須を通る広域基幹林道「能越線」は、小矢部市、福岡町、高岡市、氷見市の三市一町にまたがり、森林資源の開発を目指して開設された。標高150~300メートルの山腹を走るこの林道は、県道福光安楽寺押水線(現 国道471号)の嘉例谷から始まり、久利須を経て、福岡町沢川、高岡市勝木原奥山を通り、氷見市坪池で終点となる。幅員は5メートル、延長は22.64キロメートルである。久利須を含むこの地域にはこれまで大型林道がなく、主にまきや木炭材としての管理しかできなかったため、造林適地でありながら造林事業が実施できなかった。しかし、林道開設により利用できる山林面積は2,436ヘクタールに達し、杉、松、ナラなど23万8千立方メートルの材木が搬出可能となった。また、雑木林約1,012ヘクタールに杉の拡大造林や森林レクリエーションを含む広域的なプロジェクトが実現可能となり、林業労働力の広域活動や広葉樹、用材林の有効活用、地域産業の振興を目指すことができた。昭和五十二年(1977年)、関係四市町で「広域基幹林道能越線建設促進期成同盟会」が発足し、同年六月に嘉例谷で起工式が行われた。昭和五十二年度から六十一年度までの十か年計画で着工し、林道下山線の能越線への編入や新設工事が行われた。昭和五十七年七月には嘉例谷~久利須間の5,005メートルが完工し、昭和六十一年六月には福岡~氷見区間の工事が完成し、幅員5メートルの未舗装林道として全線が開通した。総事業費は15億1,300万円であった。昭和五十七年から舗装、昭和五十九年から斜面の緑化などの改良事業も並行して行われ、平成五年(1993年)十一月にはすべての工事が完成し、全線完工式が氷見市で執り行われた。事業費は国・県が91%、市町村が9%の負担率であった。能越線の完成により、林業生産活動の基盤道路としての活用に加え、四市町を横断する交通体系の整備が進み、山村を結ぶ道路として住民の生活改善と地域活性化に寄与するものとなった。(小矢部市 市政40周年 285)
文化
盤持ち(バッブツ・バンモツ)は、青年たちが重いものを持ち上げて力比べをする娯楽であり、明治から大正初期にかけて小矢部市のほぼ全域で草相撲とともに流行した。しかし、昭和の年代に入ると次第に衰退し、現在ではほとんど行われなくなった。それでも、小矢部市内各地区には多くの盤持石(力石)が残っており、宮島地区には11個の盤持石が確認されており、久利須にもそのうちの1つが所在している。(小矢部市 市政40周年 404-405)
リスト: “”” ・公園緑地化を図る稲葉山や宮島峡の自然公園を一体的観光道路で結ぶ整備が進められたのは昭和四十年から。 ・同四十八年から五十二年にかけて、宮島峡・子撫川ダム・稲葉山牧場の警備が一段と前進した。 ・昭和五十六年一月、森屋地内竜宮淵に「人魚姫」の像を建立、これを皮切りに同六十一年にかけて集中的にヴィーナス像建立の運びとなった。 ”””
(小矢部市 市政40周年 421)
(小矢部市 市政40周年 422)
(小矢部市 市政40周年 422)
(小矢部市 市政40周年 423)