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野門(のかど)は、栃木県日光市の大字。山間の野原に位置し、地名は山の険しい地形と柵囲いに由来するとされている。江戸時代には栗山郷の一部で、日光山領の一部だった。地震や飢饉などの自然災害に苦しんだ歴史があり、1853年(嘉永6年)には二宮尊徳による農村復興事業が行われた。戊辰戦争時には日光東照宮の御神体が隠されたとの伝承が残る。近代には、村の再編が行われ、教育、農業、山林資源の利用が特徴的であった。地域文化には獅子舞や地芝居があり、薬師様の信仰や二十三夜講、男体講などの伝統が残っている。
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いくつか地名の由来がある。1つは集落が山間の野原に形成され、イノシシや鹿などの獣害を防ぐために柵囲いを作ったから。他に山の険しい段丘上の傾斜地の地理的要因から、山裾や高原を表す「野」と山の険しい箇所を表現する「カテ」転訛で「門」を合わせて「野門」とした説もある¹。
歴史
近世
江戸時代前期頃、野門村は川俣・上栗山・土呂部・黒部・日陰・日向・湯西川・西川と川治村(旧藤原村)と共に栗山郷十ヵ村を構成していた。尚、川治村は他村と距離が離れていることや会津西街道の影響を受けるようになったことで、江戸中後期以降に、実質的に栗山郷から離れたと推測されている。栗山郷十ヵ村の野門村は他村と同様に日光山領だった。1666年(寛文6年)に行われた日光領総検地で高や反別が確定して以降、年貢の額と共にこれらは近世期間は変わらなかった。また、反別も屋敷と畑のみで畑作物も少なく、山稼ぎで生計を立てていた²。当検地によると野門村の反別は15町1反余で高は33石、定免金納3両3分余と他の栗山郷と比べると少なく、西川村・黒部村に次ぐ下から3番目の小規模な村だった。また野門村を含めた7ヵ村では、独自の貢納として日光山本坊御殿役所へ毎年蕎麦を納めていた³。
1853年(嘉永6年)時点で、家数20軒・人口85人だった³。
近世後期以降、当地方では荒地が増加し農村の荒廃が激しくなり、天明や天保の飢饉の際は奉行所などの度々救済願いを出していた。特に1833年(天保4年)以降の天保の飢饉においては天候不順と自然災害が重なり、農民は笹の実や栃の実、楢の実を団子や餅にしたり、草や木までも食用として飢えを凌ぐような状況だった。それに対し、1853年(嘉永6年)、二宮尊徳による日光神領の難村旧復事業が栗山郷でも展開された。これは日光仕法と呼ばれる尊徳による農村復興事業で主に荒地の再開発がされた。また、野門村では日光仕法とは別に、1861年(文久元年)に郷山売木代金を資金とした村独自の困窮立て直し策が打たれた⁴。
戊辰戦争と栗山東照宮
1868年4月11日、江戸開城の当日、これを不満とする旧幕府軍歩兵奉行大鳥圭介と新撰組幹部土方歳三ら約2000人が、江戸を脱出し下総国市川に集結し日光を目指す。幾多の争いを繰り広げながら4月19日には大鳥軍が宇都宮城を占領。しかし、宇都宮城奪回を目論む政府軍と大鳥軍は安塚・幕田での戦い、大鳥軍はこれに敗れ宇都宮に敗走。23日には政府軍が宇都宮城が奪回。宇都宮を放棄した大鳥軍は当初からの目的地であった日光に入り、政府軍との戦いに備えた。しかし大鳥軍は日光山の僧侶の嘆願を受け、日光を後にし会津へ向かった。これにより日光は戦火を免れることとなった。また戊辰戦争の戦火を避けるため、日光東照宮の御神体が富士見峠を越え野門に隠されたとの伝承があり、現在も徳川家康とされる御神体は栗山東照宮に祀られている⁵。
近代
近代における野門村の変遷 1871年(明治4年)6月、日光県が管轄下の地域を5部74区に制定。塩谷郡栗山郷の野門村外9ヵ村は第三部四三区となった。同年7月には廃藩置県が施行、11月には栃木県と宇都宮県が設置され野門村外9ヵ村は河内・芳賀・那須・塩谷で構成される宇都宮県に属す。翌年の1872年(明治5年)3月には先述した4郡を7大区76小区に制定され野門村外7ヵ村は旧藤原町域の村々と共に十区ノ五に属すようになる。1873年(明治6年)6月15日には宇都宮県が廃止となり栃木県の管轄下となり、野門村外9ヵ村は都賀郡の今市宿及び10ヵ村や河内郡小百村と共に第二大区八ノ小区に制定された。尚、当区画は1876年(明治9年)に更に改定されている。当時の家数・人口は下記の通り⁶。
西暦 | 家数 | 人口 |
1875年 | 20 | 98 |
1876年 | 20 | 100 |
1877年 | 20 | 100 |
近世後半の1853年(嘉永6年)は家数20軒・人口85人で³、飢饉で苦しんだ期間もあったが大きな変動はない。1878年(明治11年)に地方三新法が制定され、大小区が廃止され各郡に郡役所が設置されると、野門村は矢板村に置かれた塩谷郡役所の管轄下となる。1889年(明治22年)に町村制が施行され、旧来の村々を合併する動きが進められ、野門村・湯西川村・西川村・土呂部村・黒部村・川俣村・上栗山村・日陰村・日向村が合併し栗山村が成立。以降日光市に合併するまでの間、野門村は栗山村に属した⁷。またこの時、各村々は大字に改められ区長置くこととなった⁸。
教育
1875年(明治8年)3月、日向村に日向学校が設置される。1877年(明治10年)時点で野門村は当校の学区に属した。しかし当時の日向学校及び第一支校を合わせた就学率は30%で、同時期の栃木県全体の就学率44%と比べると低かった。これは同校の学区が8ヵ村と広大で多くの児童にとって通学が困難であったことが原因とされている。しかし、1892年(明治25年)に栗山村立日向尋常小学校が誕生して以来、日向以外の大字に分教場が順次設けらるようになった⁹。
産業・生業
近代の生業
近代における栗山郷の生業、農業とは別に、山林の木材を利用し加工品・半製品を製作して今市・日光方面に出荷するのが特徴だった。『地誌編輯材料取調書』によると、明治初年における野門村の特産物は下駄・杓子・膳板その他の用材で、年間数量は順に20駄・12駄・105駄。輸送先は日光町であった。このように木材は重要な資源であったが、近代に入り山林が国有林に組み込まれることことが増えた。これにより国有林から用材を得るためには毎年立木払下の許可を受ける必要があり、年によっては許可が遅延することもあり、村民の頭を悩ませていた。そのため、1899年(明治32年)には野門・川俣・上栗山・土呂部が栗山村町を代表とし、国有林野及び国有地の下戻を国に申請。しかし、農商務大臣に却下された。それに対し栗山村長は引くことなく、弁護士の近藤外次郎を代理人とし、野門・湯西川・西川・日陰・川俣・上栗山・土呂部の国有林下戻訴訟を行政裁判所に提訴¹⁰。しかし、1947年(昭和22年)、戦後に持ち越された野門の訴訟は敗訴した¹¹。
他には馬による物資の輸送「駄賃つけ」も貴重な現金収入源の1つで、この仕事は主に女性が行っていた。そのため栗山地区では多くの馬が飼育されていて、野門では1876年(明治9年)時点で20頭の馬が飼われていた¹²。
農業
野門に属した栗山村は、高冷地で夏場も気温が上がらず、水温が低いことから稲作に適しておらず、基本的には米作りが行われていなかった。村内では土呂部が現代において29戸中5戸が自家用に米作りをしており、野門でも昔米作りをしたとの伝承が残っている。しかし、水が冷たく土壌が悪かったことから、実が入らなかったり味が良くなかった為、長続きしなかったと云う¹³。
1922年(大正11年)の所得額申告書によると野門の畑は丙(3等)で一反歩当りの18円。また田んぼに関しては反当たり25円の収穫量だった¹⁴。
駄賃つけ
近世・近代において、農地に恵まれた地とはいえない野門村の農民にとって、木材加工と並んで駄賃つけは重要な現金収入源だった。前述したように駄賃づけは主に女性の仕事で、当時馬方をしていた老女によると、雪が降っていても山を越え今市まで炭俵や下駄材などを運んだと云う。そういった冬場の服装は綿入れ半纏にモンペ、山袴で寒さを凌いだ。この老女が体験した1番辛い思い出は、旧正月の前の大雪の降る中、正月になると稼ぎに出られないという理由から、少々無理をして稼ぎに出かけたことで履いていた地下足袋が濡れて大変冷たい思いをしたことという。運輸が馬からトラックに変わりゆく昭和10年代にやっとゴム長靴を履くようになった。また荷物を背負うのは馬だけでなく、同様に女性達も木炭や曲げ物材を背負った。中には、駄賃つけの際にも背負い蓑を使うとその分重くなるため、着なかった人もいたと云う¹⁵。
文化・風習・暮らし
帯戸を用いた葬送習俗
旧栗山村域の葬送の文化の中で特徴的なのが帯戸で死者を囲む点。県内にも死者と周囲を遮断する風習はあるものの、旧栗山村の各地区では更に厳格に周囲と隔離される。同村域内でも地区ごとに違いがありる¹⁶。
野門地区では囲いが作られるのは、死んだ翌日の昼頃で、4枚の帯戸を外してその内の3枚で三方を囲い、残りの1枚で蓋をする。更に囲いが崩れないよう、科の木の皮でよじって作った背負い縄で一重に縛る。この際、必ず隙間ができないように注意して作る。また、囲いの上には魔除けのために鎌を男女関係なくのせる。出棺の前に行われる湯灌の時に囲いを壊すのだが、完全に囲いを取り払うのは死者が入棺されてから¹⁷。
獅子舞
旧栗山村内の各大字に若者1名が1匹の獅子となり、3名の太夫・雄獅子・雌獅子の踊り手が舞う一人立三匹獅子舞がある。これは江戸時代に日光市や今市市地方から伝来したとされている。尚、野門の獅子舞は川俣・土呂部と同様に関白流を名乗っている。上演されるのは7~9月の間で大山祇神社や集会所で催される¹⁸。
地芝居
旧栗山村の各地では、江戸時代から昭和にかけて、鎮守の祭礼などの時に素人役者や義太夫師などが出演する歌舞伎芝居「地芝居」が行われていた。野門ではこの歌舞伎衣装の一部が残存している¹⁹。
名所・寺社
野門には末社や小祠を含め多くの神社がある。総鎮守は北峯神社。鎮守は蛇王神社・神明宮・飯綱神社の3社。境内社は7つあり、春日神社・山神社・大杉神社の3社と稲荷神社と八坂神社がそれぞれ2社ある²⁰。
栗山東照宮
栗山東照宮は徳川家康像と日光三社権現の御神体が祀られる神社。口碑伝承によると、1868年(明治元年)8月、戊辰戦争の戦火を逃れて御神体が当地に移されたのが当神社の始まりとされている。徳川家康生誕を祝い毎年10月26日に例祭が催されている。尚、同様の話が山形県の山寺立石寺にもあるため、真偽は口伝の程度に留まる。しかし、近世において野門は幕府の神領であったことなどから、当神社を観光資源として村おこしに活用し、「家康の里」として野門温泉共同浴場「家康の湯」などを中心に観光整備を進めている²¹。
八坂神社
八坂神社は野門の境内社で旧暦6月15日(現在は7月15日)に天王様の祭りが行われている。天王様の祭りは、京都の祇園にある八坂神社の祭神牛頭天王に関するもので、牛頭天王が夏の暑さを迎えて起こる病気の流行などを防ぐ神様として信仰されている。元々、御神体は天狗のような面であったが、盗難に遭い、現在は古峰神社から受けた天狗の面が御神体となっている。祭り当日は、この御神体を神輿に載せ若衆が担いて村を練り歩き、その後集会所で獅子舞が行われる。また、あらかじめ天王様の花と称す造花が造られて、各家に1本ずつ配り、玄関のところに挿しておく慣わしがあり、これにより家内安全を祈願する²²。
薬師様
4月8日が縁日で集落の十数軒共同でお祭りが行われている。当地では、薬師様が主に目の病を治してくれる仏様として信仰が深く、お堂の中の「め」と墨書された夥しい量の半紙から信仰の深さが窺える。中には信仰深さから自身の髪を結納する人もいる²³。
二十三夜講
当地では、毎月23日の夕方から夜中にかけて、若い女性を中心に蕎麦を食べながら世間話をする二十三夜講があった。本来は行員が集まって飲食をしながら月待ちをする信仰であったが、次第に娯楽色が強くなったと云う。また講員が女性で、安産・子育てにご利益があると信じられている²⁴。
男体講
当地の男体講では男体山登拝が行われていた。明治時代中期までは行屋で1週間行を積み、身を清めて男体山へ出発した。行屋には女性は近づけず、行人は自分で米を持ち込み調理していたと云う。しかし、時代と共に行を積む期間は短くなり、大正末期までは5日間、昭和に入ってからは3日間に短縮され、1990年代後半時点では7月31日だけ水行をするまでに簡略化された。当地では男体山を「仏の山」とも呼んでいることから、男体山登拝が生変の機会とされていたと推測されている。また行屋には1811年(文化8年)建立の男体山の石燈篭がある²⁵。
野門の地蔵
当地には物を失くした時にお祈りすると良いいわれる地蔵ある。この地蔵を持って軽く感じた時に紛失物は見つかるが、重く感じる時には見つからないとされている²⁶。
交通
・鬼怒川温泉女夫渕線 家康の里民宿村入り口
昔話
運定め・かぴたりの由来
昔、若夫婦がいて奥さんは間も無く子供が生まれそうだった。もうすぐ子供が生まれる時、その旦那が伊勢参りをして、その帰り道明るいうちに家に着かないと察し、薬師堂の縁の下に泊まった。縁の下で休んでいたら、足音がした。何かと思ったら、神様が集まって薬師様を誘いに来た。なんでも、お産がするときは神様が集まるのだという。神様達に誘われた薬師様だったが、その日はお客があるからいけないと断った。仕方ないと神様達は薬師様抜きでお産に行った。夜が明けると神様達がお産から帰ってきて薬師様に、「男の子が出来た」「13歳の12月1日までの命を与えてきた」「職業は魚釣りを与えた」と言った。それを聞いた縁の下にいた旦那は、きっと自分の子に違いないと急いで家に帰ると、案の定男の子が生まれていた。女房に心配を掛けたくなかった旦那は、命日を告げずに息子を育て、13歳になる頃にはもちろん魚釣りになってた。そして命日の12月1日、旦那はついに女房に今日が息子の命日であることを告白し、最後はあんこ餅をたらふく食べさせてやってくれと言った。当然女房は驚いたが、旦那の言う通りあんこ餅を作り、袋に入れて息子に持たせてやった。袋をもらった息子はそれを背負って、そそくさと釣りに向かった。遠くから息子の最期を見届けようと旦那が見守っていたところ、息子が釣りを始めると、川上の方から大蛇が現れ大きな口で飲み込もうとした。すると、息子は袋に入ったたくさんの餅を取り出し、大蛇の口に放り投げた。大蛇はこの餅を飲み込めず流れていってしまった。こうして息子は命日に死ぬことはなく長生きしたという²⁷。
これが始まりで野門では「12月1日の川びたり」という水神様の祭りが行われるようになった。この日は水神様に餅を供えるとして、川に投げ込む²⁸。
うば捨山
自分の父が60歳になったため姥捨山に捨てなければいけなかったが、親孝行の息子にはそれができず、自分の家の縁の下を掘って家を作った。ある時、殿様がやってきて「灰縄を結って出せ」と言われ、どうすれば良いかわからないかった息子は、縁の下にいる父の元に行き方法を教えてもらった。その通りに縄を作って殿様に差し出したところ、殿様に「お前にできるとは思わない」を言われ問いただされた。そこで息子は謝罪と共に父に教えてもらったことを伝えると殿様は納得した。その後、年より知恵がもったいないと、年寄りを姥捨山に捨てなくなった²⁹。
脚注
出典
- 栗山村誌編さん委員会.栗山村誌.栗山村,1998,p.15.
- 栗山村誌編さん委員会.栗山村誌.栗山村,1998,p.32.
- 栗山村誌編さん委員会.栗山村誌.栗山村,1998,p.33.
- 栗山村誌編さん委員会.栗山村誌.栗山村,1998,p.35-36.
- 栗山村誌編さん委員会.栗山村誌.栗山村,1998,p.42-43.
- 栗山村誌編さん委員会.栗山村誌.栗山村,1998,p.44-45.
- 栗山村誌編さん委員会.栗山村誌.栗山村,1998,p.45-46.
- 栗山村誌編さん委員会.栗山村誌.栗山村,1998,p.208.
- 栗山村誌編さん委員会.栗山村誌.栗山村,1998,p.48-49.
- 栗山村誌編さん委員会.栗山村誌.栗山村,1998,p.58-59.
- 栗山村誌編さん委員会.栗山村誌.栗山村,1998,p.73.
- 栗山村誌編さん委員会.栗山村誌.栗山村,1998,p.60.
- 栗山村誌編さん委員会.栗山村誌.栗山村,1998,p.113-114.
- 栗山村誌編さん委員会.栗山村誌.栗山村,1998,p.115.
- 栗山村誌編さん委員会.栗山村誌.栗山村,1998,p.137-138.
- 栗山村誌編さん委員会.栗山村誌.栗山村,1998,p.306.
- 栗山村誌編さん委員会.栗山村誌.栗山村,1998,p.307.
- 栗山村誌編さん委員会.栗山村誌.栗山村,1998,p.411-412,416.
- 栗山村誌編さん委員会.栗山村誌.栗山村,1998,p.420.
- 栗山村誌編さん委員会.栗山村誌.栗山村,1998,p.357.
- 栗山村誌編さん委員会.栗山村誌.栗山村,1998,p.363-364.
- 栗山村誌編さん委員会.栗山村誌.栗山村,1998,p.364-365.
- 栗山村誌編さん委員会.栗山村誌.栗山村,1998,p.374-375.
- 栗山村誌編さん委員会.栗山村誌.栗山村,1998,p.390-391.
- 栗山村誌編さん委員会.栗山村誌.栗山村,1998,p.397-398.
- 栗山村誌編さん委員会.栗山村誌.栗山村,1998,p.408.
- 柏村祐司.栗山の昔話.随想舎,2009,p.72-75.
- 柏村祐司.栗山の昔話.随想舎,2009,p.75.
- 柏村祐司.栗山の昔話.随想舎,2009,p.182-183.
参考文献
タイトル | Tags | 集落記事 | 著者・編集者・編纂者 | 出版社 | 出版年 | ページ数 | 所蔵図書館・利用図書館 | URL(国会図書館サーチなど) | 注記 |
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野門 | 栗山村誌編さん委員会編 | 栗山村 | 1998 | 501 | 相互貸借(小千谷市立図書館依頼) | ||||
野門 | 柏村祐司 | 随想舎 | 2009 | 246 | 相互貸借(小千谷市立図書館依頼) | ||||
五十里野門 | 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 | 角川書店 | 1984 | 1462 | 小千谷市立図書館 |
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