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データベース
その他
地理
嘉例谷は、石川県との県境に位置し、市街地からは約10キロメートルの距離にあり、国道471号から西に折れて市道に入ると、道路沿いに家が段状に並んでいる。集落の中程には構造改善センターが建ち、ここから三国山に登る山道があり、三国山の山頂には三国の分岐点および三等三角点が存在する。さらに、山頂には前田利長を祀った神社がある。(小矢部市風土記 291-292)
子撫川の西側に位置する嘉例谷は、小矢部市の北西部に広がる丘陵性山地にある。この地域は軟弱な砂岩と泥岩で構成されているため、峠や論田、荒間と同様に、馬蹄形の緩斜面を持つ地すべり地形が特徴である。また、そこが水田化され、部落もその周辺に所在し、多くの溜池が見らる(小矢部市史 上巻 5)。
昭和二十五年頃は四九戸だったが、昭和四十年頃から過疎化が進み、平成十年には二三戸と半数に減少。(小矢部市風土記 292)
地名
嘉例谷は、水の枯れやすい土地を開いた地であること、涸小谷を”嘉例谷(かれいだん)”にしたとされている。また、『小矢部市史 上巻』には400〜500年前まで下山部落にいたのが、のちに現在地に移り住んだという旨が記されている。(小矢部市史 上巻 303)(ふるさとのこころ10 おやべの地名と由来(その2) 27)
小字
(小矢部市史 下巻 686)
中ノ坪 | 大坪 | 池田 |
九九ノ木 | 万坂 | 三国山下 |
東谷 | 柿木原 | 下山 |
壱丁畑 |
人口
(小矢部市史 下巻 55)
年代 | 戸数 | 人口 |
1872年 (明治5年) | 49 | 254 |
歴史
中世
『小矢部市史 上巻』では、市内にある室町時代以前の石造物として、嘉例谷八幡宮の五輪塔(部品数個)と嘉例谷地内の五輪塔(部品)が挙げられている。(小矢部市史 上巻 232-233)
近世
近世における行政区画の変遷(小矢部市史 下巻 25-29)
改正年度 | 上位行政区 | 補足 |
慶長以前 | 宮島郷 | |
1619年(元和5年) | 峠組 | 表記:かれい谷 |
1634年(寛永11年) | 三介組 | |
1656年(明暦2年) | 大滝村 宗右衛門組 | 表記:佳例谷 |
1663年(寛文3年) | 大滝村 宗右衛門組 | |
1792年(寛政4年) | 大滝村 太左衛門跡組 | |
1793年(寛政5年) | 宮島組 | |
1801年(享和元年) | 大滝組 | |
1808年(文化5年) | 大滝村 太左衛門跡組 | |
1836年(天保7年) | 大滝村 太左衛門組 | |
1839年(天保10年) | 宮島組 | |
1868年(慶応4年) | 大滝村 太左衛門組 |
藩政の初期、嘉例谷村を含む砺波郡の村々はいくつかの郷に分かれていたが、慶長九年(1604年)に十村制度が始まると、それぞれの郷は組に改められた。この制度の開始時には浅地村の喜左衛門が蟹谷組の十村を務めたが、小矢部市域に関する詳細な記録は残されていない。元和五年(1619年)の砺波郡『家数調』によると、砺波郡には二十九組があり、嘉例谷村は峠組に属していた。また、『利波郡家高ノ新帳』によると、当時の税を負担する本百姓(役家)数は五間(軒)であった。その後、寛永十一年(1634年)には砺波郡に十二組が設置され、嘉例谷村は水牧村三介組に属した。(小矢部市史 上巻 544-546)(小矢部市風土記 292)
『天保十年砺波郡高物成帳』によると、嘉例谷村は宮島組に属し、御印高は255石、免は五ツ八歩であった。その内訳は、貞享元年(1684年)に行われた検地による引高が72石、総高は183石であり、免は五ツ八歩であった。また、『明暦二年利波郡村々物成帳』によると、嘉例谷村の総高は255石、免は五ツ八歩であり、小物成として山役207匁、蝋役2匁、漆役2匁が記されていた。藩への年米の上納は、藩倉(蔵)や指定の町蔵(蔵宿)へ収納され、これを御認と呼んだ。これらの監督は砺波郡奉行や石動町奉行が担当した。御蔵の米は小矢部川を吉久・伏木まで川下げし、出船に積まれて登米(回米)として大坂や江戸へ運ばれた。(小矢部市史 上巻 578,591,595)
近世において、農民たちにとって収納は最大の義務であった。しかし、藩政時代の未発達な農業技術と不安定な天候の影響で、農業生産は安定していなかった。その結果、農民の生活は常に貧しく、収納を全て納めることは困難であった。藩は農民保護のために蔵宿の不正を戒めつつ、歳宿に対しては給人知の完納を厳命していた。紅屋平兵衛関係の記録によると、多くの蔵下村が蔵入不足により貸借証文を発行していたことがわかる。これによると、宝暦10年(1760年)12月14日付で嘉例谷村は3石を借りている。これは収納米の不足が理由であり、返済期限は翌年の10月とされていた。借人には肝煎甚左衛門と組合頭九兵衛、同次郎三郎の名が記され、利足(利息)として3斗が加えられていた。(小矢部市史 上巻 436-438)
天明七年(1787年)、近世の農学者である宮永正運は、公用で南谷から宮島・西明寺方面の山村を視察した。その視察の紀行文である『春の山路』には、嘉例谷の産神八幡宮を訪れた際に詠まれた以下の和歌が記されている。(小矢部市史 上巻 695-696)
山ふかくわけ入りうさも恵みあれや あふくに高き神のみしめは
嘉例谷に所在する神社として、『正徳社号帳』には八幡(百姓持)、明治13年に編まれた『神社明細帳』には八幡宮とそれぞれ記されていた。また、小矢部市史発刊当時の八幡宮の奉仕者は埴生知麿だった。(小矢部市史 上巻 791)
近世において、能登方面へ越す道は八つあり、そのうち嘉例谷を通る道が二つあった。一つは南谷方面からの安楽寺、道坪野、論田、岩尾滝、嘉例谷、河合谷に至る道であり、もう一つは宮島方面からの矢波、屋波牧、平山、論田、岩尾滝、嘉例谷、河合谷に至る道であった。この交通路の関係からか、国境近くの能登・加賀の村々(特に河合谷、笠谷、池ヶ原、幾日)と南谷地区の荒間、千石、嘉例谷、峠、久利須などの村々は、藩政時代から明治・大正のころまで特姻関係で濃く結ばれていた。さらに、河北郡池ヶ原の敬楽寺は、嘉例谷に三十一戸、久利須に十九戸の檀家を持っていた。(小矢部市史 上巻 660)
小矢部市域に位置する村々には、10種類の小物成が課せられており、その総額は7852匁に達する。この中で、特に山間部に適用される山役が突出しており、57か村に対して6454匁と、小物成全体の82%を占めている。山役は草刈場の使用権を意味し、草は水田の肥料や牛馬の飼料として農業経営に欠かせない資源であった。嘉例谷では、山役が200匁台に設定されており、これは小矢部市域の村々の平均山役113匁を大きく上回っていた。山役を負担する村々は、高免地帯と重なる傾向がある。これらの地域は、地味が豊かで水害の心配が少なく、日当たりも良好で、草刈場を確保しやすい条件が揃っているためだという。(小矢部市風土記 59)
天保(1830年-1844年)期の小矢部市域の村々では、村総高が御印高を上回る村が63村、下回る村が34村であり、三分の二の村が総高を上回っていた。御印高が総高を上回る村々は小矢部川の西側や山麓に集中し、総高が御印高を上回る村々は小矢部川流域に多かった。この違いは、小矢部川の治水技術や新田開発による田畑の増加が影響したとされる、南谷にあった嘉例谷は例に漏れず御印高が総高を上回っていた。(小矢部市風土記 64-65)
近代
嘉例谷の行政区の変遷(小矢部市史 下巻 30-33)
年代 | 上位行政区 |
1872年(明治5年)1月27日 | 第10区4番組 |
1872年(明治5年)6月6日 | 第16大区小3区 |
1872年(明治5年)11月5日 | 第24大区小3区 |
1874年(明治7年)2月 | 第22大区3小区 |
1876年(明治9年)11月 | 第5大区小14区 |
1879年(明治12年) | 埴生村 |
1884年(明治17年)7月 | 埴生村外二十ヵ村 |
日露戦争後、富山県内の壮丁教育調査によると、6165人のうち465人が無学者であった。これを受けて、明治四十一年(1908年)に富山県から発された訓令に基づき、青年団体の組織が奨励され、農閑期や適当な季節に夜学会を開設して補習教育を施し、青年の修養機関とする方針を打ち出された。この努力の一環として、大正元年(1912年)に嘉例谷村青年会が創立された。(小矢部市史 下巻 362-364)
現代
昭和四十八年(1973年)八月の異常な千天による水不足を受け、昭和五十一年度(1976年)から市西北部地域の嘉例谷の属す南谷地区や宮島地区の一部で北部簡易水道事業が実施され、昭和五十六年(1981年)三月に竣工。また、昭和五十四年(1979年)九月までに嘉例谷に県営西部水道用水供給事業の一環として減圧弁などが設置された。(小矢部市 市政40周年 121)
平成十年(1998年)十一月、嘉例谷の国道471号で地滑りが発生した。降雨により地下水位が上昇し、延長75メートル、幅30~40メートル、総面積約2ヘクタールにわたる範囲で国道の路面が半分崩れ落ちた。この影響を受けて、県は平成十一年(1999年)九月から十二月にかけて災害復旧事業を実施した。事業費は約1.3億円で、延長70メートルの道路工事を行い、切土800立方メートル、盛土1100立方メートル、布団篭124メートル、舗装工事415平方メートルを完了させた。この期間、嘉例谷の住民は市内への通勤に際して千石を迂回するなどの不便を強いられた。(小矢部市 市政40周年 185)
2020年5月23日午前1時55分頃、富山県小矢部市嘉例谷の国道471号で乗用車が道路脇の木に衝突し炎上。この事故で、石川県白山市に住む18歳から19歳の少年5人が全身を強く打ち、病院に搬送された。(https://www.asahi.com/articles/ASN5R2R0HN5RPISC002.html)
2023年(令和5年)6月16日、小矢部市美術展の入賞作品が発表された。十六歳から八十九歳の市内在住者、通勤・通学者が「彫刻・工芸」「絵画」「写真」「書」の四部門に出品し、二十五点が入賞。そのうち、嘉例谷の本多弘子の「雪どけの、アト」が彫刻・工芸部門で北陸中日新聞賞を受賞した。(https://www.chunichi.co.jp/article/711474)
2024年(令和6年)の能登半島地震により、嘉例谷地区で断水。(https://webun.jp/articles/-/530188)
文化
当地方では、土用の三番前後には、各地区で虫送りぼんが行われ、農作物を害虫から守るための祈願が行われる。嘉例谷では、土用の三番の日に虫送りぼんが行われ、晩方に左義長を焼く。(小矢部市史 下巻 517)
神社仏閣・名所
八幡宮
八幡宮は嘉例谷に鎮座する村社。所在地は嘉例谷字大坪1173番地。祭神は誉田別天皇(命)。(小矢部市史 上巻 817)
大正十年(一九二ー)三月に幣帛進神社に指定され、昭和八年には社殿が改築された。(小矢部市風土記 296)
下山神社
下山神社は、八幡宮の境内社。高さ1.3mの砂岩石の大型神像を祀る。元々、石川県境の久利須集落下山に鎮座されていたが、下山の山頂は風霜が厳しいため山裾へ遷御しようとした。しかし、久利須側へは重くて動かず、嘉例谷側へは軽々と動いたため、神像は八幡宮境内に鎮座された。昭和52年(1977年)4月、「下山神社」と称されるようになり、篤志により社殿や鳥居が奉納された。尚、祭りは八幡宮とあわせて行われる。(小矢部市風土記 296)
三国山社
三国山社は、嘉例谷に鎮座する村社である。所在地は嘉例谷字池田893番地に位置する。祭神は贈従二位権大納言菅原朝臣利長である。三国山神社の創建は不明であるが、江戸時代初期以来の堂宮である。藩制時代には越中、加賀、能登の分岐点にあたり、小矢部市と石川県津幡町にまたがる三国山山頂(三二三メートル)に位置している。この三国山神社では、毎年7月15日に祭礼が行われる。三国山神社は三国の領主、前田利長公を祭神としている。祭祀は山龍の三国の村々が共同で毎年交替で奉仕するという、他に類を見ない形式の神社である。加賀からは興津、能登からは下河合、越中からは嘉例谷の集落が参集する出合い祭りとして、国境を越えた交流の場となっている。また、三国山には分水嶺があり、「札配り」の神も祀られている。祭りや社の管理は宮総代が行い、祭りの神事は越中は埴生八幡宮、加賀は白山神社、能登は御山神社が順につかさどる。代表者が順に玉串を捧げ、神事の後には直会を開き、酒を酌み交わしながら一年ぶりの再会を喜ぶ。(小矢部市史 上巻 818)(小矢部市風土記 297)
石仏の神様
石仏の神様は、小字大坪にある五輪等で石龕に収めて祀られている。(小矢部市風土記 292)
敬楽寺支院道場
敬楽寺支院道場は、嘉例谷1185番地に位置し、阿弥陀如来を祀っている。この道場は約500年前に連如上人が北国巡業の際、真言宗から転派して布教を続けてきた。しかし、明治初期に火災により焼失した。その後、嘉例谷の吉田教導が敬楽寺下道場としてこの場所を守っている。(小矢部市風土記 297)
交通
昭和二十八年(1953年)から、石動駅より南谷を経て石川県河合谷村へ加越能バスが運行していた。その後、河合谷行は中止され、バスは嘉例谷までの運行となった。現在、嘉例谷にはメルバスが運行している。メルバスは、石動駅を中心に市内各地域へ放射状に伸びる5路線を敷設しており、全路線が石動駅に接続している。これにより、駅であいの風とやま鉄道や加越能バス、北陸中央病院の送迎バスなど、他の交通機関に乗り換えが可能である。令和5年(2023年)7月からは、休日のメルバスの運行を休止し、AIを活用した区域運行型のオンデマンド交通「チョイソコおやべ」の段階的な実証運行が実施されている。これにより、AIオンデマンド交通を主体とした運行形態への転換が行われている。(小矢部市史 下巻 274-275)(https://www.city.oyabe.toyama.jp/kurashi/1002393/1002395.html)
地内のバス停は以下の通り。
- 嘉例谷口
- 嘉例谷
嘉例谷を通る国道471号は、石川県羽咋市から押水町、小矢部市嘉例谷、津沢を経て、福野町、庄川町から利賀村に入り、岐阜県古川町を通り、神岡上宝線で上宝村に達する総延長148キロメートルの道路である。この国道は平成四年(1992年)三月に「国道471号」として閣議決定され、同年四月に政令が交付され、翌年四月に施行された。(小矢部市 市政40周年 243)
教育
現小矢部市では、1873年(明治6年)4月1日にはじめて、今石動町小学校南校と同北校が設けられ、嘉例谷を含む近村66ヵ村を校下とした。尚、同年7月に広範囲過ぎた通学区域が改められ、嘉例谷村は校下から除かれている。(小矢部市史 下巻 285-286)
明治十五年(1882年)の教育令改正により、就学率および出席率を向上させるため、生徒数の少ない部落や僻地には分数場や巡回授業所が設けられた。当時、石川県令から指定された嘉例谷が属する第3学区には、巡回授業所が4箇所(嘉例谷村、岩尾滝村、谷坪野村、荒間村)設けられ、巡回授業が行われていた。(小矢部市史 下巻 295)
石動第二中学校の本校舎は石動町公民館にあり、植生、南谷、松沢、荒川、子撫、宮島の各小学校区の生徒が通っていたが、嘉例谷を含む千石、荒間、岩尾滝、論田、峠、谷坪野地区の生徒は岩尾滝分校で学んでいた。(小矢部市風土記 142)
産業
林業
嘉例谷の属する南谷地区は、米作に次いで山林の仕事を副業としていた。寛文年間(1661年-1673年)の小物成には山林に関する上納が見られ、「山役」「ろう役」「うるし役」といった税が課せられていた。山林の面積は耕地面積の約三倍強であり、平成5年(1993年)時点での山林面積は133.4ヘクタールであった。森林組合員は22戸であり、この山林面積は南谷地区で一番広かった。(小矢部市風土記 293)
広域基幹林道「能越線」
嘉例谷を起点とする広域基幹林道「能越線」は、小矢部市、福岡町、高岡市、氷見市の三市一町にまたがり、森林資源の開発を目指して開設された。標高150~300メートルの山腹を走るこの林道は、県道福光安楽寺押水線(現 国道471号)の嘉例谷から始まり、小矢部市久利須、福岡町沢川、高岡市勝木原奥山を経て、氷見市坪池で終点となる。幅員は5メートル、延長は22.64キロメートルである。この地域にはこれまで大型林道がなく、主にまきや木炭材としての管理しかできなかったため、造林適地でありながら造林事業が実施できなかった。林道開設により利用できる山林面積は2,436ヘクタールに達し、杉、松、ナラなど23万8千立方メートルの材木が搬出可能となった。また、雑木林約1,012ヘクタールに杉の拡大造林や森林レクリエーションを含む広域的なプロジェクトが実現可能となり、林業労働力の広域活動や広葉樹、用材林の有効活用、地域産業の振興を目指した。昭和五十二年(1977年)、関係四市町で「広域基幹林道能越線建設促進期成同盟会」が発足し、同年六月に嘉例谷で起工式が行われた。昭和五十二年度から六十一年度までの十か年計画で着工し、林道下山線の能越線への編入や新設工事が行われた。昭和五十七年七月には嘉例谷~久利須間の5,005メートルが完工し、昭和六十一年六月には福岡~氷見区間の工事が完成し、幅員5メートルの未舗装林道として全線が開通した。総事業費は15億1,300万円であった。昭和五十七年から舗装、昭和五十九年から斜面の緑化などの改良事業も並行して行われ、平成五年(1993年)十一月にはすべての工事が完成し、全線完工式が氷見市で執り行われた。事業費は国・県が91%、市町村が9%の負担率であった。能越線の完成により、林業生産活動の基盤道路としての活用に加え、四市町を横断する交通体系の整備が進み、山村を結ぶ道路として住民の生活改善と地域活性化に寄与するものとなった。(小矢部市 市政40周年 285)
農業
嘉例谷では、新農業構造改善事業の一環として昭和六十年度(1985年)に構造改善センターが建設された。このセンターは、事業推進会議や研修の場として活用されており、地域の農業発展に寄与している。(小矢部市 市政40周年 269)